第十四章 神現祭の夜
身を切るほど寒い冬の日。日も暮れた頃にマルムスは皇帝と共に教会へと向かっていた。
皇帝が従えているのはマルムスだけではない。世話役の他の宦官に、近しい官僚や軍事貴族、それと元老院もだ。
壮麗な作りの教会の門をくぐると、そこには数多もの蝋燭で照らされたモザイクが輝いている。聖堂には信徒のために用意された長椅子が並び、入り口から祭壇までの道を赤い絨毯が覆っている。皇帝は毛足の長い絨毯の上をゆっくりと歩き、司祭に案内されて特別席に座る。付き従っている宦官や、官僚に軍事貴族、元老院も長椅子に座る。
マルムスは立場上、皇帝の隣で立っているけれど、他の宦官は後ろの方の席にいる。
一通り定位置についたところで、祭壇の前に見覚えのある神父が立って口を開く。
「神慮めでたく」
そう言ったヨハネス神父に続き、皇帝以下信徒達も同じ言葉を返す。そうして、神現祭の礼拝ははじまった。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
ヨハネス神父が祈りの言葉を上げ、それと共に信徒達も祈りを上げる。そのさまを、マルムスは目だけを動かしてうかがっている。
後ろにいる宦官達のようすは、距離があってうかがい知れない。その手前にいる軍事貴族や官僚達は、一見熱心に祈りを上げているようにも見えるけれども、よく見ると船をこいでいる者もいる。さらに手前にいる元老院は、ヨハネス神父や司祭からよく見える位置にいるからだろうか、少なくとも体裁は繕えている。
そして隣にいる皇帝は、真剣な表情で目を伏せ、祈りを上げている。この姿を見てしまうと、皇帝の信心深さを改めて実感する。正直言えば、皇帝という立場にいるよりも修道院に入った方がしあわせなのではないかと思ってしまうほどだ。
けれども、皇帝は皇帝であることを選んだ。信心深く清廉な皇帝を国に頂いていることは幸福なことだし、皇帝であることと信心深いことは両立できる。しかし、皇帝が皇帝であるのなら、信心深すぎて嫁を取ろうとしないのは困ってしまう。
自分にはどうしようもないことだとはわかっているけれども、皇帝にはもう少し世継ぎのことなどを考えて欲しい。そんなことを思いながら、皇帝にふさわしい妻が現れるようマルムスは祈る。
神現祭の礼拝で、こんな俗人的なことを祈ったら呆れられるかもしれないけれど。
礼拝が終わり、聖堂の中にいたヨハネス神父とアンドロニコス神父、それに司祭達が修道士からイコンと大きな十字架と蝋燭を受け取り、列をなして入り口へと向かっていく。その列に皇帝も続き、皇帝に付き従うマルムス、元老院、官僚や軍事貴族、それに宦官もついて行く。列の後部には修道士達も並んだ。
聖堂から外に出た一行は、教会の周りを歩いて行く。灯りは、聖堂を出るときに手渡された蝋燭だけ。蝋燭の火がゆらゆらと揺れ、川のように流れていく。列後方からは今宵誕生した神の子を称える歌が聞こえてくる。それを彩るように、華やかな教会の鐘が鳴っている。
たしかに今夜は、神現祭にふさわしい夜だ。
一年が終わり、一年がはじまる。そのすがすがしさをマルムスは全身で感じる。一年間、いろいろなことがあった。元老院が総入れ替えになったりなどあったけれども、今このとき、自分の少し前を皇帝が歩いている。この地に健在でいる。そのことにひどく安心した。
神現祭の行列が終わり、マルムスと皇帝、それと世話係の宦官は宮廷に戻ってきていた。
神聖ですがすがしい儀式とはいえ、それはそれとして身体は冷える。マルムスは皇帝の肩に毛布を掛け、アスケノスに温かいワインを用意させているところだった。
「陛下、他になにかお望みのものはありますか?」
温かいワインが来るまでの間、マルムスが皇帝にそう訊ねると、皇帝は肩にかけた毛布をつかんでこう返す。
「お前の分も毛布があればなおよかったな」
その言葉にマルムスは苦笑いをする。皇帝が小柄な自分の身を気遣ってくれているのはわかるのだけれども、側仕えをするものとして皇帝と同じように毛布にくるまっているわけにはいかない。もし命令だったとしても、毛布にくるまるのは気が引けるのだ。
そんなことをしていると、部屋の外からちいさな足音が聞こえてきた。ドアを叩く音がする。
「あたたかいワインをお持ちしました」
「ああ、アスケノスですか。入ってください」
マルムスの声かけにドアを開けたのは、湯気の立つ広口の器と杯、それになにかの乗った皿を持ったアスケノスだ。
皇帝が座っている椅子の近くにちいさなテーブルを移動させ、アスケノスから器と杯、それに皿を受け取って乗せる。そのまま器から杯へとワインを注ぎ入れ、マルムスは皇帝に湯気の立つ杯を渡した。
皇帝がひとくちワインを飲んでからアスケノスに訊ねる。
「その皿に乗っているものはなんだ」
そういえば、ワインの付け合わせにしても余り見かけないものだなとマルムスも思う。
対して、アスケノスの返答はこうだった。
「ナツメでございます。神現祭の行列で身体が冷えているかと思いまして。
ナツメは身体をあたためる作用がありますから、どうぞお召し上がりください」
にっこりと笑って、お召し上がりください。と丁寧に言ってはいるけれど、口調の端々から食べないなどということは許さない。といった気持ちがうかがえる。ここがアスケノスの医者たるゆえんだろう。
アスケノスの気迫に苦笑いしながら皇帝がマルムスに言う。
「マルムス、毒味をしろ」
「え? まさかアスケノスを疑っておいでで?」
突然のことにマルムスがおどろいていると、アスケノスもあっけからんと言う。
「そうですね。マルムスに毒味をしてもらった方がいいです」
急にどうしたのだろうと思いながらもマルムスはナツメに手を伸ばす。すると、手がかじかんでうまくナツメをつまめない。なんとか一粒つまんで口に放り込むと、だいぶ歯ごたえがあるけれど爽やかな甘さだ。かじっているうちになんとなく身体があたたまるような気もする。
そこではたと気づいた。皇帝もアスケノスも、毒味という建前を使って、身体をあたためるというナツメをマルムスに食べさせようとしたのだ。おそらく、ひどく冷えていることを察して。
してやられた。と、つい苦笑いをする。しかし、気遣ってもらえること自体はありがたいものだ。
「どうやら毒は入っていないようです。安心してお召し上がりください」
あくまでも毒味のテイを保ったまま、マルムスは皇帝にそう告げる。皇帝もナツメを口に入れた。
ナツメをかじり、ワインを口に含む皇帝。その様を、マルムスとアスケノスが見守る。
ふと、皇帝が口を開いた。
「今頃は、後宮も冷えているだろうか」
「後宮ですか? そうですね……」
突然の疑問にマルムスは頭を働かせる。後宮も、宮廷と同じように石造りだ。きっと同じように冷えているだろう。神現祭の行列で、きっと皇帝も身体が冷えているのだろう。それなら、ここと同じように寒い後宮にいる皇母や妹、それに姪のゾエの身体を気遣っても不思議はない。
「きっと後宮もここと同じように冷えているでしょう。特に今夜は、寒いですから。
皇母様達にも、身体をあたためるものをご用意しますか?」
マルムスの返答に、皇帝は目を閉じて少し考える素振りをしてからこう答える。
「そうするように。
そう、給仕の女官も、あたたかいものを口にすることを許そう」
女官にもあたたかいものを与えるなんて、ずいぶんと寛大なことを言うなとマルムスは少しおどろく。しかしそれはそれとして、皇帝の命令を伝えてこなければ。
「では、あたたかいワインを用意するよう、女官に伝えて参ります」
「ああ、急ぐように」
余程皇母達のことが心配なのだろうか、皇帝がこうやってマルムスのことを急かすのは珍しい。
マルムスが部屋を出ようとすると、アスケノスも皇帝にこう告げる。
「では、僕もワインの用意に立ち会いますので、いったん失礼いたします」
それから、マルムスと一緒に部屋を出て廊下を歩きはじめた。
「マルムスは、このまま後宮に行きますか?」
アスケノスがそう訊ねるので、マルムスはすぐに返す。
「はい。このまま女官に指示を出します」
すると、アスケノスが服の中からなにかを出してマルムスに握らせる。
「それじゃあ、これをドラコーネーに渡しておいてください」
そして、アスケノスは厨房の方へと向かう。
握らされたのは、一粒のナツメだった。




