第十章 レバンタ
ある日曜日、教会での礼拝が終わったあと、マルムスは皇帝の言葉を携えて後宮へと向かっていた。
日曜の今日は、さすがに官僚達も宴を控えている。おそらく、まだ宴を続ける気はあるのだろうけれども、日曜はあくまでも祈りの日なのだ。その祈りの日に、皇帝はようやくひとりになることができている。ほんとうの休息時間をやっと得られたのだ。
そうであるなら、皇母に言葉を伝えるという雑事は自分が勤めるべきだろうとマルムスは思ったのだ。
後宮の回廊を歩いていると何人もの宦官や女官とすれ違う。その度に軽く挨拶をして通り過ぎた。
ふと、回廊が囲む庭から泣き声が聞こえてきた。この声は皇帝の姪、ゾエだ。
「ゾエ様、どうなさいました」
庭に出たマルムスがそう声をかけて見渡すと、レバンタの植え込みの側でおろおろしているドラコーネーと、彼女の前でうつむいて泣いている、背が高くてふっくらとした娘がいた。この泣いている娘が皇帝の姪のゾエだ。
マルムスはドラコーネーに視線を送る。すると、ドラコーネーは明らかに困惑した視線を返してきた。
ドラコーネーがなにかやらかしたのだろうか。そう思いながらそっとゾエに近づくと、マルムスの足音に気づいたゾエが振り返って、しゃくり上げながらこう言った。
「私、ドラコーネーが飼っていた小鳥を逃がしてしまったの」
「小鳥を、ですか?」
ドラコーネーが小鳥を飼っていたという話ははじめて聞いたので、思わずおどろく。
そうしていると、ゾエは泣きながら言葉を続ける。
「私、小鳥に触りたくて籠を開けたの。そうしたら、小鳥がどこかに飛んでいってしまって……」
ゾエはドラコーネーに向き直って謝罪を口にする。
「ごめんなさい、お姉様……あんなにかわいがってお世話していた小鳥を逃がしてしまって……私……」
「ああ、ゾエ様、そんなに泣かないでくださいまし」
ゾエがドラコーネーのことをお姉様と呼ぶのは今にはじまったことではない。ゾエが幼い頃から側に仕えているドラコーネーのことを姉と慕ってもふしぎではないとマルムスは思っている。
そんな姉のようなドラコーネーを傷つけてしまったのが悲しいのだろう、ずっと泣いているゾエの手をドラコーネーがやさしく取る。
「元々あの小鳥は、成鳥になったら空に放すつもりでした。あの小鳥が飛んでいったということは、あの子が独り立ちできるほど大きくなった証です。ですから、ゾエ様がそのように私に謝る必要はないのですよ」
普段よりも柔らかい口調のドラコーネーの言葉を聞いても、ゾエは泣き止まない。どうしたものかとマルムスが思っていると、ドラコーネーが片手をレバンタの葉に伸ばし、一枚摘み取る。それから、その葉を少し無骨な指で揉んでゾエの顔に近づけた。
「レバンタの香りをどうぞ。
心を落ち着かせてくれる香りですから」
マルムスの元まで届くレバンタの甘く清々しい香り。それを嗅いだゾエは、ドラコーネーの服をつかんで抱きつき、ようやく泣き止んだ。
ドラコーネーにやさしく背中を叩かれているゾエを見て、マルムスは思わず微笑ましくなる。
「ほんとうにゾエ様は、ドラコーネーのことがお気に入りなのですね」
仲がいいのはいいことだといったようすのマルムスの言葉に、ゾエはちらりとマルムスの方を見てから言う。
「だって、ドラコーネーはいつも私を守ってくれるもの」
「ふふっ、そうですね。たしかにドラコーネーは頼りになります」
ゾエの言葉に、マルムスはこのところ毎日続けている踊りの練習を思い出す。いまだに踊りこなすことのできないマルムスを指導する時の、ドラコーネーの優雅な動き。あのように体を動かす筋力があるのだから、もしかしたらドラコーネーは、ほんとうに戦ってもそれなりなのかもしれないと思った。
ふと、ドラコーネーがゾエの肩越しにマルムスに声をかける。
「ところでマルムス様、後宮にいるということはなにか用事があるのかと思うのですが」
ドラコーネーの言葉に、マルムスは思わずはっとする。皇帝から預かっている言葉を、皇母に伝えなくてはいけないのを忘れるところだった。
「そうでした。ご指摘ありがとうございます。
では、私はこれでお暇しますね。
ドラコーネー、くれぐれもゾエ様のことをお願いします」
「はい、かしこまりました」
マルムスの言葉にドラコーネーは簡潔に返し、目礼をする。それを見届けてから、マルムスは回廊に戻った。
急いで皇母の所へ向かわないとと思いながら回廊に入ったマルムスに、突然声がかかる。
「どうやら道草を食っていたようだな」
「あっ! へ、陛下、申し訳ございません」
皇帝の言葉を皇母に伝える役目を自ら名乗り出たのにもかかわらず、それを遂行できていないことを素直に謝罪する。もちろん、ゾエの話はしない。
皇帝もさすがに呆れているだろうかと思いながら表情を伺うと、皇帝はマルムスが先ほどまでいた庭の方に視線を送っている。
「陛下はなぜこちらへ?」
ようやく私室で休めていたはずの皇帝にそう訊ねると、皇帝は庭を見たまま答える。
「なんとなく、ゾエが泣いている気がしてな」
「ああ、なるほど」
実際にゾエは泣いていたわけだけれど、宮廷はおろか後宮中に響くような声で泣いていたわけではない。それにもかかわらず、直感的にそのことを察知してやってくるあたり、皇帝はほんとうに姪であるゾエのことをかわいがっているのだなとマルムスは思う。
「あの女官は、いつもゾエの面倒を見ている者だったか」
皇帝の問いに、マルムスもちらりと庭に視線をやって答える。
「はい。ゾエ様のお世話をしている女官のうちのひとりです」
「そうか」
マルムスの言葉に皇帝は納得したように頷いて、少し苦々しい口調でこうこぼす。
「面倒を見ている女官になついてしまうのもわかるが、あまり甘えすぎるのは考え物だな」
もしやドラコーネーが皇帝の不興を買ったのか。そう思ったマルムスが慌てて皇帝の顔を見ると、怒りや不満の表情ではなく、どちらかというとすねたような顔をしていた。
これは。と直感的に感じながらマルムスはこう訊ねる。
「下々の者と親しくするのは良くないとお考えですか?」
その問いに皇帝は答える。
「下々の者をないがしろにする気は無い。だが、ゾエももう子供ではないのだ。ああやって甘えてばかりでは困る」
相変わらず苦々しさを装っている言葉を聞いて、マルムスは確信する。皇帝はまさにすねているのだ。
皇帝は、姪のゾエが生まれたときいたくよろこんでいたと旧臣から聞かされている。
けれども、皇帝はゾエを甘やかすようなこともなく、常に威厳を持って接している。そうせざるを得ないのだ。それはつまりどういうことかというと、ほんとうは皇帝自身もゾエのことをたくさん甘やかしたいのに、皇帝という立場にいる以上そうすることができない。だから、ゾエを自分で甘やかすことができないのが不満ですねているのだ。
皇帝もこういうところがあるから放っておけないのだよな。とマルムスは思う。
ふと、皇帝が真面目な顔をしてマルムスに訊ねる。
「ところで、あの女官は信用がおけるのか?」
マルムスはドラコーネーに視線を送ってから、皇帝の顔を見て微笑む。
「彼女は私の給仕もしている女官です。ですので、少なくともようすを見ることはできます」
「ゾエの世話をして、お前達の給仕までやるのは仕事が多すぎないか?」
「……そうですね」
そのことには思い至らなかった。今度皇母と掛け合ってみようかとマルムスが思っていると、皇帝がさらに訊ねてくる。
「私には、お前があの女官を信頼しているように見えるが」
その言葉に、マルムスは困ったように笑う。
「そうですね、信頼はしています。
実は、陛下に披露する踊りを彼女と一緒に練習していまして」
「もしかして、お前と一緒に披露するつもりか?」
「その通りです」
マルムスの言葉を聞いて、皇帝はおかしそうに苦笑いする。
「プライポシトスまで巻き込んで、大事だな」
それから、一緒に皇母の所まで来るようにと命じられる。
そう、マルムスは皇帝の言葉を預かったままなのだ。




