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第一章 皇帝の代弁者

 冷たい空気が張り詰める宮殿。その中にある皇帝の執務室で、山積みの書類に向かっている宦官がいた。

 小柄でうつくしい顔つきの宦官は、元老院や官僚から回されてきた書類に黙々と葦ペンを走らせる。

 朝からずっとこれを続けている。単調な作業は、朝が早い宦官のまぶたをどんどんと重くしていった。

 このところ、とにかくやることが多い。眠気と疲れでついにまぶたを閉じてうとうとしはじめた。

 半分夢の中にいる宦官の頭に浮かぶのは、赤いマントを羽織り、立派な馬に乗って都に凱旋する皇帝の凜々しい姿。

 皇帝は遠征でこの都、コンスタンティノープルを留守にしがちだ。けれども、修道士のように清廉で、それでいて勇ましく、遠征のたびに必ずといっていいほど戦功を上げてくる皇帝はやはり素晴らしい方だと、半ば夢の中にいる宦官はうっとりとする。

 そこに突然、おそろしい声が響いた。

「ハンニバルが来るぞ!」

 その言葉に恐れをなした宦官は、目を覚まして机の下に隠れる。

「うう……ハンニバルが来るなんて……」

 机の下で膝を抱えて怯える宦官に、いつの間にか執務室の中に入っていた長身の男が笑いながら声をかける。

「ははは、マルムスは相変わらず大げさだな。冗談だって、ハンニバルは来ないよ。

 もうずっと昔に死んでるだろう」

「それはそうなのですが……」

 マルムスと呼ばれた宦官は、驚かされたことを不満に思っているのか、むすっとした顔で机の下から出て椅子に座り直す。

 それから、側に立っている長身の男に問いかける。

「ところで、サラディンはなんの用でここに?」

 その問いに、サラディンと呼ばれた長身の男が、机の上に積まれた書類を見てニヤニヤしながらこう返す。

「いや、元老院を黙らせるための書類はもうできあがってるのかなと思って」

 サラディンの言葉に、マルムスは机の上の書類を見て、転がった葦ペンを見て、胸に右手を当てて微笑む。

「進捗ダメです」

 少しの間マルムスとサラディンで笑みを交わし合ってから、サラディンがため息をついて言う。

「お前さぁ、プライポシトスなんだからしっかりしてくれよほんとに」

「す、すいません。最近やることが多くて疲れていて」

「それはわかるけど」

 プライポシトス。それは皇帝の従者であり代弁者。皇帝に忠実な宦官だけが任される重要な役職だ。

 自分が重大な責任を負っているという自覚はマルムスには当然ある。しかし、それはそれとして人の身である以上、いろいろと限界はあるし眠いときは眠い。

 ふと、マルムスの目の下にクマができているのに気づいたサラディンがこう訊ねた。

「よく見ると顔色が悪いな。そんなに疲れてるのか?」

 心配そうな言葉をかけられたマルムスはこのところのことを思い出して、ため息をつきながら答える。

「そうですね、先々週の日曜礼拝から今まで、とにかく元老院や軍事貴族に詰められているので」

 額を押さえるマルムスに、サラディンが渋い顔をしてまた訊ねる。

「詰められてるってどれくらい来るんだ?」

 その問いに、マルムスは苛ただしそうに手を振りながら返す。

「ほぼ毎日ですよ。昨日も、皇帝に便宜を図れだとか、皇帝のいないうちにうまくやってくれだとか、何人も来てるんですから。

 賄賂を断ればそれはそれであしらうのが面倒だし」

「すぐに賄賂出すのはやめて欲しいよなマジで」

 マルムスの言葉にサラディンは納得したように頷く。その表情にはどこか同情めいたものもある。きっとなにか身に覚えでもあるのだろう。

「それはそれとして」

 仕切り直すようにサラディンが言う。

「その面倒なやつらを黙らせるための書類だろ?

 気をしっかり持ってやっつけな」

 気合いを入れられるようなサラディンの言葉に、マルムスはぎゅっと拳を握って返す。

「次に聖餅を食べるまでにはやっつけます」

「よし、その意気だ」

 にっと笑ったサラディンが、元気づけるようにマルムスの肩を叩く。

 そこで、サラディンは思い出したようにこう訊ねた。

「そういえば、宦官ってのは俺たちとは体のつくりが違うのか?」

 予想もしなかった質問に、マルムスは思わずきょとんとする。

「え? なんでですか?」

「いや、俺よりお前の方がずいぶんと疲れやすいように見えるからさ」

「ああ、なるほど」

 サラディンの言葉に納得したマルムスは、斜め上を見ながらこう返答する。

「たしかに私たち宦官は去勢されていますが、その点以外で男とどう違う部分があるのかはわかりません。これは医者あたりに訊いた方がいいかもしれませんね」

 そう、実際に去勢された身であるマルムスにも、宦官と男の体の違いはよくわからない。

 なぜなら、去勢されたのが少年の頃だったので、去勢されていない成人男性の体というのを体験したことがないからだ。

 マルムスの率直な言葉に、サラディンは顎に手をやりながらつぶやく。

「なるほど。それじゃあ、あとでアスケノスにでも訊いてみるか」

「それがいいですね」

 アスケノスというのは、マルムスとサラディンの友人で、この宮殿に常駐している医者だ。好奇心が強く、年齢のわりに博識なので兵士だけでなく官僚や女官からの評判も良い。

 サラディンの疑問はアスケノスに投げるということにして、マルムスは改めてサラディンに訊ねる。

「それで、具体的にどんな用事で来たんですか?」

 その質問に、サラディンは肩の辺りで手をひらひらさせながら答える。

「ああ、元老院から早く書類とって来いって言われた」

「あんのクソオヤジども! むちゃくちゃ言って書類かさませてるのはあいつらだろ!」

「ステイステイ」

 机の上に積まれた書類を拳で叩いて怒りをあらわにするマルムスを、サラディンはとりあえず軽くたしなめる。

 ここしばらくの元老院の無茶ぶりを思い出して、思わず書類に怒りをぶつけそうになったマルムスだけれども、自分はプライポシトスなのだからそれにふさわしい振る舞いをしなければと思い直し、なんとか落ち着く。

「すいません、取り乱しました」

「まぁ、わからんでもないけどな」

 反省してうつむくマルムスの頭をサラディンが苦笑いしながら撫でる。

 それから、マルムスの頭をぽんぽんと叩いてこう言った。

「とりあえず、早めに書類を仕上げて寝な。

 そのようすだと、このところよく寝られてないんだろ」

「お察しの通りです」

 体調が万全の時ならば、元老院や官僚の無茶ぶりを受けてもここまで苛立ったりしないという自負がマルムスにはある。それにもかかわらずここまで感情を出してしまったのは、サラディンの言うとおり、近頃眠れていなくて疲れているせいだろう。そのことはサラディンも見抜いている。

 少し落ち着いたマルムスに、サラディンがにやりと笑う。

「いつまでも疲れてると、疲れを取るためにってアスケノスにいろいろと薬や食べ物を試されるぞ」

「なんとしてでもそれは避けなくては」

 一刻も早く目の前の書類をやっつけようとマルムスが机に向き直ると、ドアをノックする音が聞こえた。なにかと思ったら、女官が昼食を持ってきたようだった。

「マルムス様、昼食のお時間です」

「ああ、えーっと……」

 食事を机の上に置いてもらうにも書類が散乱している。マルムスは慌てて書類を積み直して置き場を作り、女官に食事を置かせる。

 その様を見ていたサラディンが笑って言う。

「ドラコーネーが食事を持ってきたってことは、俺もそろそろ飯時だな。それじゃあ失礼するよ」

 すると、ドラコーネーと呼ばれた女官が頭を下げて言う。

「サラディン様の分もすぐにご用意いたしますので」

「わかったわかった。俺も持ち場に戻るよ」

 そのやりとりの後、サラディンとドラコーネーは執務室を出て行った。

 残されたマルムスは、改めて書類を見てため息をついた。

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