第5話:踏み抜かれた境界線
堂庵浩二の作品は、ありふれた共感性に満ち、傷ついた者を支配する為の作品とも言える。そして堂庵の罠を感覚で捉え見破った緋音の警告は、徐々に追いやられていったかに見えた。毬奈にとって堂庵の作品は、いつしか心の隙間を埋めてくれる存在となっていたのだ。
しかし個人的な感想や書報、メッセージなどのやり取りが続くようになった中で、堂庵は毬奈のプライベートな情報を巧みに聞き出していった。住んでいる地域、勤務先の業界、よく行く場所……。最初は盲目的な信頼を寄せていた毬奈だったが、これらの情報を何気ない会話の中で開示してしまっていたと気づいた時に、恐怖を覚えた。
毬奈の頭の中で、緋音の言葉が蘇る。堂庵が不誠実な嘘つきだと言う彼女に、あの時は感情的すぎると緋音に対して反発してしまった。今なら理解できた。堂庵の言葉は、その場その場で最も都合の良い解釈をされ、相手に寄り添っているように錯覚させるための空虚な響きだったと知ったから。
「浩二さん‥‥あの人は私の感性を理解してくれると思った。でも⋯⋯」
作品の内容と関係のないメッセージの数々に、毬奈が不安と恐怖を怯えを感じ出した頃。堂庵の扱う創作サイトの一つで、彼の取り巻きの一人である女性創作者が、堂庵との親密なやり取りを匂わせる書き込みをしているのを目撃された。毬奈の心に急速に冷めた感情と理性が芽生える。
「『堂庵さまの言葉にいつも癒されています』……? 私だけに宛てたものじゃないの?」
僕を本当に理解しているのは君だ‥‥そんな読み手を喜ばせるための、キザったらしいセリフを臆面もなく述べるのも、彼流の遊び心と照れ隠しと思っていた。でもミスター・ホロウという仮面の下には、彼自身の作風と共感性を否定するような醜い嘘つきの怪物が潜んでいた。
堂庵は彼の特性でもある「誰にでも優しくする」という態度を、出会う女性──心に闇や隙間のある女性すべてに向けていたのだ。彼の優しさは特定の誰かに向けられたものではなく、無差別にばら撒かれる⋯⋯ただの撒き餌だった。
毬奈は何となく察した。彼は魚が釣れれば誰でも良く、自分の為に大物が釣れれば、釣った魚になど興味を失う。
「僕も辛い経験をしたから、あなたの気持ち痛いほど分かります」
「あなたになら心を許せるかもしれない」
「僕があなたに寄り添い支えますよ」
傷ついた心に寄せられた温かな言葉。堂庵浩二は、妻子ある身で、自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。理性的になると気持ち悪さが先に来る。
毬奈は緋音に忠告されたにも関わらず、思いのほかこうした甘い誘惑の言葉の数々に乗せられていたのだと、ようやく気づいた。思い違いも甚だしい。拒絶とはいかないが、緋音に今更頼ろうとする不誠実な自分に毬奈は嫌気が差し、何も言えなくなった。
その疑念が確信に変わる出来事が起こる。堂庵からの不気味なメッセージが届いた。
「今度、あなたの職場の近くまで行く用事があるんだ。もしよかったら少しだけお茶でもどうかな?」
「確か駅から3分ほど歩いた場所に喫茶店があったよね。ガラスのショーウィンドウがある、少しレトロな店」
迂闊に情報を渡してしまった自分も悪いが、毬奈の生活圏の情報を詳しく知るストーカーのような言葉に震えが止まらない。ミスター・ホロウが、いつやって来て、どこで見ているのかもわからず‥‥毬奈は震えた。
◇
「状況は悪化している。堂庵は次の段階に入ったニャ」
落ち込んでいた緋音のもとに、皆本ララからのメッセージが届く。表立った活動を控え目にしてから、緋音はずっと水面下でララと連携し、堂庵の動向を監視していた。ララはデータ分析の専門家で、感情に流されず客観的な事実だけを追っていた。
二人はミスター・ホロウと対峙するために頻繁にやり取りを行い、顔を合わせる事にする。お互い仕事や家庭の事もあり、人柄を知り、信頼を高めるのが主な目的でもあった。
「彼が『自分が悪い』と言う時、それは常に自分の利益のためになるニャ。調べた限り、ミュンヒハウゼン症候群と言うようニャ」
「でもそれは病気って事でしょう。あいつの言葉はすべて自分に都合良い事しか語らない、または都合良い解釈を行う印象操作よ。あと‥‥何でニャ?」
「それニャ。サイキッカーの先輩からかったら、語尾が猫になる暗示をかけられたニャ。じゃなくて、ホロウは病気ではなくて、育った環境⋯⋯つまり、後天的なものニャ。ソシオパスというそうニャ」
ララの分析は、緋音が直感的に感じていた違和感を裏付けるものだった。堂庵の複数アカウントのアドレスの関連性、投稿時間の異常な同調、そして何よりも彼の「良き夫」としての行事の投稿と、裏でのメッセージ内容におけるタイムスケジュールの矛盾点。
「決定的な証拠はあるの?」
緋音は焦る気持ちを抑えて尋ねた。
「まだ確証はないけれど、パターンは明確ニャ。あいつあが家族サービスをしているはずの時間帯に、不自然なメッセージが送信されている記録がある。あとは、その相手⋯⋯毬奈からの証言が必要だニャ」
証言――それは毬奈からの言葉が必要だということだ。しかし毬奈はまだ堂庵の虜になっているはずだ。緋音が尋ねた所で拒否られ、証拠を消されてしまうかもしれない。
どうすれば彼女の目を覚まさせることができるのか。その他大勢からの悪意よりも、緋音は親友の身に忍び寄る危険に不安を感じていた。
タイミングを計ったように緋音のスマホが鳴った。着信画面には「佐藤毬奈」の文字。
「……もしもし、毬奈?」
「緋音っ……ごめん、なさい……」
電話口からは震える嗚咽混じりの声が聞こえてきた。毬奈は堂庵からの現実世界での接触を示唆するメッセージの内容と、自分が見つけた彼の矛盾について、すべてを打ち明けた。
「緋音、助けて⋯⋯」
毬奈から救援を求めるメッセージがようやく緋音に届く。恥を承知で毬奈は親友に助けを求めたのだ。




