ぼやき事務員9 ぼやき事務員回顧録②
ピカピカだったヒールが、バトルロイヤルを繰り返す内にもはや年季の入った相棒となった社会人二年生目の白幡由紀子。通称「ジーコ」 と呼ばれる地味な会社員だ。
私の朝は、満員電車という名の戦場における、静かな勝利から始まる。毎朝八時八分にホームに滑り込んでくる通勤電車。私は、その三車両目のドア付近に並ぶ。
なぜなら、その位置に並ぶことのできる者だけが、座席の端という一等地のチケットを手にすることができる、という裏技を一年がかりで発見したからだ。
鈴木を避けるために、電車に乗る時間を変更したのが功を奏した。地獄行きの切符が天国行きに変わったようなもの。切符ではなく電子決済だけどね。
「よし、今日もゲットだぜ」
心の中でガッツポーズをしながら、私は座席に腰を下ろす。窓の外を流れる景色を眺めながら、私は自分の世界に浸れる静かな時間を過ごす。この朝の十数分の安らぎが、地味で平凡な一日を支える。私の日常の、ささやかなエネルギー源の一つだった。
会社に着けば私は再び「地味な事務員のジーコ」に戻る。誰の目にも止まらないようにひっそりと、でもミスなく正確に仕事はこなす。頼まれごとはなるべく断らない。しかし、自ら率先して動くことはしない。一歩引いたポジションを徹底する。それが、この一年で身につけた私なりの処世術だった。
そんな私にとって、お昼休みのランチタイムはもう一つのエネルギー源だった。
昼休憩の時間になると、オフィスの至るところから、ワラワラとランチへと向かう人々が湧き出てくる。満員電車のバトルロイヤルほどではないが、人気店の座席争いは時間との戦いもあって、シビアになりがちだった。
私は社外の戦場を避けて、社内食堂へ向かう。混雑を避けるためだ。十数分遅れて食堂に到着すると、すでにピークは過ぎ、空席が目立ち始める。
私はいつも窓際の隅の席を選ぶ。そこは二人掛けで他の席より狭くて誰にも邪魔されない私だけの専用席だ。席が空いていなければ、お弁当にして持ってゆく手段があるのが我が社の食堂の良い所だ。私は席が空いているのを確認し、確保してからランチトレーを取りに行く。
今日のランチは、鶏の唐揚げ定食。サクサクの衣をまとったジューシーな唐揚げを一口頬張ると、私の顔が綻ぶ。
「うまっ⋯⋯」
誰に聞かれるわけでもなく、小声で呟く。ジュワッと溶け出すモモ肉の脂。衣厚めのムネ肉。ビールが欲しくなる塩ッ気。この瞬間、私は「地味な事務員のジーコ」ではなく、ただの唐揚げを愛する一人の女性に戻る。
窓の外には、都会の喧騒が広がっている。ランチタイムの幸せな時間を、忙しそうに歩く人々、信号待ちの車。そんな景色をぼんやりと眺めながら、私は唐揚げをパクパクと頬張る。
「ジーコ、相変わらず地味なランチだな」
突然、背後から声をかけられ、私は唐揚げが喉につまりかけ咽る。振り向くと、そこには相変わらずのチャラい笑顔を浮かべた、営業部の鈴木が立っていた。こいつも唐揚げ定食だよ。
「す、鈴木くん⋯⋯」
私は唐揚げを飲み込み、慌ててテラッテラの口元を拭く。
「なんだよ、せっかく声をかけてやったのに、そんなに驚かなくてもいいだろ?」
鈴木は無遠慮に私の向かいの席に座る。おいっ、勝手に座るな──私の心のぼやきが叫ぶ。どこに座ろうが自由な社員食堂、止める権利は私にはないのだが、目立つんだよ、この鈴木。
「いや、別に驚いてないけど⋯⋯」
私は鈴木から視線をそらす。私の心臓は、電車で席を争奪する時とは違う種類の鼓動を刻んでいた。地味なはずなのに、何故か彼は見つけ出す。これってさ私の事を⋯⋯⋯⋯いや、ないわ。鈴木はそういう時は気持ちをはっきり言うと思う。
「ジーコ、今日仕事後に飲みに行こうぜ」
だから鈴木の突然の誘いに、私はビクつく。唐揚げをつまむ箸の動きが止まり、唐揚げから滑り落ちた。地味な私のささやかな日常は、思いがけない方向に舵を切り始めた。唐揚げ定食は、まだ半分も残っているのに、喉だけではなく、胸が詰まる。
果たして私──由紀子は、この新たに始まってしまった「バトルロイヤル」にどう立ち向かうのか。地味なジーコとして控えに過ごして来た日常は、少しだけ色づき始めたのかもしれない。
大学は別だが同じ高校出身、会社の同期である鈴木の軽い言葉遣いは、悪気はないのだろう。
顔を合わせる度に、挨拶のように持ちかけられる飲みの誘いに、正直困惑していた。
「ないわ〜〜〜〜」
⋯⋯と、心の中で密かに呟く日々だ。私は会社では、ただ静かに仕事をこなしたいだけなのに、鈴木の存在はどうにも目立ってしまう。それは同期だけでなく、先輩社員からのやっかみを生む原因にもなりかねない。私は波風立てずにいたいと願っていた。
ある日の昼休み、社員食堂でたまたま鈴木と一緒になり、またしても飲みに誘われた。オススメが唐揚げ定食の日だ。こいつも唐揚げ好きなのか。
「今日、帰り空いてるか? ちょっとさ、飲みにでも行かね?」
鈴木のいつもの調子だった。何度断ってもめげない、というか挨拶だから忘れているんだろう。私は、またかと思いながらも、角を立てないように断った。
「あ、ごめん。今日はちょっと早く帰りたいんだ」
「なんだよ。それならまた誘うから、たまには付き合えよな」
忘れていたわけではないようだ。三歩歩けば挨拶したことも忘れてそうだが、鳥頭ではなかったよ。そして私はまたもフリーズした。何なのよ、鈴木。思わせぶりな事を言わないで、いつものように無神経にハッキリ言ってほしい。
私が柄にもなくオタオタする様子を、近くの席にいた同僚や先輩社員たちがチラチラと見ているのが分かった。みんな唐揚げ好きなんかい⋯⋯それはまあ仕方ない。
私と鈴木を見る殺意まじりの目、特に女性の先輩たちの視線が痛い。私はため息をつきたくなるのを必死にこらえた。鈴木絡みのやっかみの対象になりたくないのに、完全に目をつけられたのがわかったからだ。
仕事に戻ってからも、私の頭の中はぐるぐると回っていた。どうすれば、鈴木の誘いをうまく断りつつ、周囲との関係も悪化させずに済むのだろうか。
頭を抱える私に、先輩社員の京子さんが、コーヒーを淹れながら話しかけてきた。
「ねえ、由紀子ちゃん。鈴木君とよく話してるみたいだけど、もしかして仲良いの?」
京子さんの声は穏やかだが、どこか探るような響きがあった。私になど興味なかったからか、猫撫声が怖い。
「いえ、そんなことないです!同じ高校出身の同期で、たまたま話しかけられることが多くて⋯⋯」
私は慌てて否定した。京子さんは切り込み隊長みたいなもので、背後には独身フリーランスを構えた兵隊が視える。本来のフリーランスの意味とは違うけどね。
「ふーん。まあ鈴木君はああ見えて仕事できるからね。地道に仕事していても色々と見ているからね」
私の容姿を上から下まで一瞥した後、地味と言わず地道と言葉を選んで意味深なことを言った。私は気にしていなかったせいで気づかない何かを彼女たちは見てきていたから知っている⋯⋯そんな含みが感じられた。
「うぅっ⋯⋯」
私は、胃が痛くなる思いだった。鈴木のチャラいと言われる言動は彼なりのコミュニケーションの取り方なのだが⋯⋯それが周囲に誤解を生み、やっかみの種になっている。
可哀想な同期を構ってやろうとする、鈴木の気まぐれに、私自身も巻き込まれてしまう可能性があるのだ。
終業後、私は寄り道もせずにまっすぐ家に帰ることにした。鈴木の誘いは断ったのに、憎悪のこもった視線を感じたからだ。私を監視するよりも、鈴木にモーションかければいいのに。
駅までの道を歩きながら、今日の出来事をもう一度反芻する。鈴木の言葉遣いや態度に戸惑う気持ちもあるが、彼が悪気なく接してきているのも事実だ。問題はそれを受け止める周囲の目や、それにどう対処すればいいか分からない私自身にあるのかもしれない。
私は明日からのことを考えた。鈴木が覚えている以上、誘いを何度も完全に無視するのは難しいだろう。はっきり断っても、何を言われるかわからないのが面倒だ。周囲のやっかみを避けるためには、彼との距離感を考えなければならない。
家に帰ると私は盛大なため息をついた。職場という場所は、仕事内容だけでなく、人間関係も複雑だ。静かに仕事をしたいという願いは、どうやら簡単なことではないらしい。
明日からは職場の人間関係という名の荒波を慎重に泳いで渡っていかなければならない。そう思うと私はひたすら憂鬱な気分になった⋯⋯。
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