ぼやき事務員9 ぼやき事務員回顧録①
ピカピカの真新しい黒色のチャンキーヒールが、アスファルトやコンクリートに固められた道路を歩く度にコツコツカツカツと音を鳴らす。
私の名前は白幡 由紀子社会人生活一年生。要するに新入社員生活の始まったばかりなわけだ。地味な見た目と控えめな性格ゆえに、学生時代から地味女子「ジーコ」という、サッカーの神様らしいあだ名で呼ばれていた。
「女子につける名前じゃないよね⋯⋯」
私は慣れないヒールで歩きながらぼやく。あだ名は表向きは禁止されている。まあ守るやつは少ないのが子供世界の実情だよね。地味な学生生活とあだ名を卒業し、華やかな社会人生活を送るべく、私は意気揚々と駅の改札をくぐった。
私の前に立ちはだかったのは、社会人の洗礼とも言える朝の洗礼。ほろ苦い青春を過ごした改札の先にある駅のホーム。学生時代は時間がズレていたので知らなかった、漆黒の地獄。
午前八時十五分⋯⋯通勤通学ラッシュのピークタイムだ。ホームには人々がひしめき合い、電車が到着するのを今か今かと待ち構えている。まるで獲物を狙う肉食獣の群れだ。その中心に立つ私の心臓は、まるで恐怖に怯える子鹿のように震える。
「次の電車が来るわ」
「席は拙者がいただくでござる」
「ヒヨッコどもが!」
耳元で、奇妙な幻聴が聞こえたような気がした。私のぼやきも誰かの幻聴になっているのかも。声に出していないよね⋯⋯?
「──電車が止まります。白線の内側まで下がってお待ち下さい──」
構内アナウンスの後、メラッと闘志が湧いた。満員電車の椅子取りゲームは熾烈だ。力があれば勝つわけでもなく素早ければ勝つものでもない。押し合う人々の隙間を縫い歩く技術と、タイミングが重要なのだ。
────プシュー⋯⋯
電車が到着した。次の瞬間、電車のドアが開くと同時に、周囲の通勤客たちが一斉に動き出した。早い。それはまさに仁義なき戦いか。否、バトルロイヤルだった。肩と肩がぶつかり、背中と背中が押し合い、無言の圧力が非力で無力な私を襲う。
私は人波に揉まれ、まるで洗濯機の中に入っているかのように翻弄される。新卒の初々しいリクルートスーツは、ヨレヨレになり、髪もボサボサになってしまった。ふと、目の前に空席を見つけた。しかし、そこはまさに戦場のど真ん中。私はその席を狙うべく、顔の見えない猛者たちと対峙する。
「────この席は、私がいただく!」
心の中で叫びながら、私は一歩を踏み出す。この時間、この駅ではめったにない降車客の温もりが残る特等席だ。
もらった!────そう思った時だ。足元に、何かが引っかかった。それは中年のサラリーマンの草臥れた革靴だった。慣れないヒールの私はバランスを崩し、見事に転倒し、別のおじさんにぶつかる。謝りつつ私が顔を上げた時には、すでに席は別の女性会社員に奪われていた。
勝ち誇る女性。私は悔しくて唇を噛み締めた。社会の厳しさを痛感した瞬間だった。
電車が発進する。まだ終わったわけではない。停車駅はまだある。でも⋯⋯私は満員電車の中でひっそりと涙を流す。あと一歩、その一歩が遠い。、新入社員生活が始まって、毎日その一歩が届かないのを痛感するからだ。
しかし、そんな私に追い打ちをかけるように、背後から無遠慮な声が聞こえてきた。
「ジーコ、早く席を確保しろよ!」
振り返ると人混みの対面側の席にそこ高校時代の同級生、鈴木が座っていた。彼はサッカー部のエースで、私を「ジーコ」と命名し、あだ名で呼ぶ張本人だった。
自分の隣の空いた席をバシバシ叩いてアピールする鈴木。ガタイの良いスーツ姿の鈴木の無邪気さに、歴戦の猛者達も引き気味だ。気持ち他より空間が広い。私は顔を真っ赤にして、恥ずかしさのあまり小さくなる。
「なんで鈴木くんがここに…」
「俺、浦山物産の営業部だぜ。ジーコ、お前も同じ会社だったよな」
「う、うん⋯⋯」
「お前、本当に地味だな。もう少し派手な服着たらどうだ?」
鈴木の心ない言葉に、私の心は深く傷ついた。社会人になったら、ジーコというあだ名も卒業できると思っていたのに⋯⋯。あと何故そんなに目ざといんだろうかこのイケメン。
「はぁ⋯⋯」
椅子取りゲームよりも疲れた。プライベート丸出しの鈴木の声がサッカーボールのように脳内でバウンドする。初めて取れた特等席は赤っ恥の地獄だった。
私はこの過酷なバトルロイヤルを生き抜き、華やかな社会人生活を送ることができるのだろうか不安になる。私の新社会人としての日常は、まだ始まったばかりだったというのに⋯⋯。
お読みいただきありがとうございます。ジーコこと白幡由紀子の新入社員時代を書いてみました。
回顧録が思ったより長くなってしまったので、シーンを分けて三話投稿予定です。




