驕るのもいい加減になさいませ
誤字報告ありがとうございます!
この国の王子様は、よっぽど私のことが嫌いらしい。
ローズマリー・メイフィールド公爵令嬢は、無表情を保ちながらも内心で悪態をつく。閉じた扇子を口元に当てて、目をすがめて目の前の男女を見据えた。
王立学園卒業式後のダンスパーティー、ダンスホールのど真ん中、この国の第一王子であるアーロン・エドワーズは「ローズマリー、貴様に話がある!!」と大声を張り上げて会場の視線を集めてから、「貴様との婚約を破棄する!」と高らかに宣言した。
視界の端で、他の卒業生や教師陣、父兄の貴族たちが顔を寄せてひそひそと会話をしている姿が映る。
派閥の者は心配そうな表情を浮かべているが、敵対派閥の家や関係性の薄い者などは、いい気味だとばかりにニヤつきが抑えられていない。彼らにとっては良い余興だろう、こちらはとんだ晒し者だが。
婚約者であったアーロンは、最近何かと噂をよく聞く男爵令嬢を抱き寄せながら、剣呑な視線をローズマリーに向けている。桃色の髪と蜂蜜色の瞳の令嬢は、アーロンの腕に絡みながら、勝ち誇った笑みを浮かべていた。
アーロンは意気揚々と、ローズマリーを指差して宣言する。
「ローズマリー、貴様は公爵令嬢という身分を良いことに、このか弱いリリアに卑劣な嫌がらせをしたようだな! 品性下劣な女など、この俺の婚約者には相応しくない!! 膝をついて頭を下げて、リリアに詫びるがいい!!」
——公爵家令嬢に対する、証拠もなき断罪。
品性下劣? 膝をついて? 頭を下げて?
公爵家の者が、男爵家の者に許しを乞えと?
自分がどれほど公爵家を侮辱する発言をしているか、アーロンは理解しているのだろうか。
ローズマリーをやり込めたい、屈辱的な目に遭わせたいという感情が根幹にあるとしたら、王族にあるまじき器の小ささと性格の悪さである。ローズマリーは、呆れてため息をつきたくなるのをぐっとこらえた。アーロンの心情を逆撫でするだけであることは、目に見えている。
「恐れながら殿下。嫌がらせなど、まったく身に覚えがございませんわ。そもそも、その御令嬢とは一度もお会いしたことがないのですけれど」
ローズマリーは表情を殺してアーロンに反駁する。
努めて冷静に返したが、瞬間的にアーロンは激昂した。
——きっと、何を言っても無駄だったのだろう。
「不敬だぞローズマリー!王太子である俺の言葉が間違っているとでもいうのか!!」
「不敬だなんてお言葉は、そう軽々しく使って良いものではありませんわ。仮に王太子であったとしても、その言葉が常に真実とは限りません。むしろ、王族だからすべてを肯定せよというのは、独裁国家を生みかねない、いささか危険すぎる思想です。正しさを主張されたいのなら、証拠を示してくださいませ。身に覚えのない罪で責め立てられれば、反論するのは当然のことですわ」
「それが不敬だというのだ!」
不敬としか言わない、証拠を出してこないアーロンに、ローズマリーは眉をひそめた。
仮にも冤罪で人を貶めるのなら、それ相応の準備をするものではないか。
「まさかとは思いますが、殿下。証拠もなく、私を断罪しようとしたのですか?」
「こっ、ここにいるリリアが、貴様にいじめられたと言っていたんだ! 可憐な淑女であるリリアが、嘘をついているとでもいうのか!?」
「本当のことを言っている証拠がない、と申し上げているんです」
いったい、どこに勝機があると思って仕掛けてきたのだか。
おおよそ「自分は王族だから無茶を押し通せる」と思っていたのだろうが……呆れる感情を流石に抑えきることができず、小さなため息が漏れてしまった。
蔑む感情に気づいたアーロンは、膨れ上がる憤りを発散するためか、片足で強く床を踏みつけた。
ダン! と床の鳴る音が威嚇するようにダンスホールに響く。
憎々しげにローズマリーを睨むアーロンは、隣に佇むリリアの腰をぐっと引き寄せた。
近づく距離に、男爵令嬢の口元がニヤリと釣り上がる——品性下劣のお手本のような表情だわ、とローズマリーは白けた目線を向けた。
アーロンの表情に刺々しさが増す。
「そうやって貴様はいつも小馬鹿にした態度をとって……! 女のくせに、たかだか公爵家の人間のくせに、いちいち言い返してきて……あぁ腹立たしい!! 少しは男を立てて、殊勝な態度をとってみたらどうだ? 家柄と才能にあぐらをかいて、完璧令嬢と呼ばれて調子に乗っているのかもしれないが、リリアのような可憐で守ってあげたくなるような令嬢こそ、淑女の鑑というものだ!」
『たかだか公爵家の人間』
この言葉に、聡い者たちは眉根を寄せた。
公爵家を蔑むということは、ほぼすべての貴族に対して同様の感情を抱いているということになる。
横暴な君主を崇め続けるほど、この国の貴族は王家に対して盲信的ではない。
周囲から向けられる視線の変化に気づかないアーロンは、表情を一転させて、うっとりとリリアを見つめた。リリアは先ほどまでローズマリーに向けていた下卑た笑みを隠して、眉尻を下げてうるうると涙の溜まった瞳をアーロンへ向ける。
「リリアのためにありがとうございます、殿下」
「あぁリリア、どうして泣いているんだい」
アーロンの指がゆっくりと、リリアの目元を拭う。
その仕草に酔うかのように、リリアはアーロンにしなだれかかった。
「だって、すごく嬉しいのに、ローズマリー様がやっぱり怖くて……でも、それ以上に殿下のことを思うとつらくなってしまって……。ローズマリー様はきっと、身分が高いから無意識のうちに高慢になってしまっているのですわ。男爵令嬢なんかの私にはそのお気持ちはわからないけれど、でも、婚約者として殿下を愛しているのなら、こんなに偉そうにしないはずだもの。殿下は王太子様なのに……こんな態度を取られるだなんて……殿下がお可哀想……私なら殿下のことをもっと尊重するのに……くすん」
「自分もローズマリーにいじめられていたというのに僕のことを思いやってくれるだなんて、君はなんて優しい女の子なんだ。自分が優秀なのを鼻にかけて、男を立てることを知らない高慢で身の程知らずな女とは大違いだな」
アーロンはリリアの額に口付ける。そして、優しげな視線を引っ込めて、憎々しげにローズマリーを睨みつけた。
——とんだ茶番だわ。
ローズマリーは、冷めた目で二人を見据えた。
家柄と才能にあぐらをかいている?
高慢で身分が高いだけの公爵令嬢?
メイフィールド公爵家は、この国の筆頭公爵家である。
『名は血よりも重い』を家訓とし、名誉が傷つけられることよりも死を選び、何よりも誇りを優先とする。
「婚約者様に言われたから謂れなき罪に頭を下げます」だなんて、そんなことをする者はただの腑抜けだ。
筆頭公爵家の名に恥じず、ローズマリーは完璧な令嬢だった。歴史も語学も文学もマナーも幼いうちから修め、王太子妃教育もすでに終えている。とはいえこれは、もともとの優秀さに加えて努力を重ねた結果である。才能にあぐらをかいているなど、よく言えたものだ。幼いころから厳しい教育に耐えてきたローズマリーの姿を、婚約者として隣に立つアーロンはきっと目にしていたはずなのに。
アーロンは幼いころから、ローズマリーのことを快く思っていなかった。
メイフィールド家が代々受け継いできた、白金の髪と、薄い青色の瞳。
神聖さを感じさせる佇まいと隙のない頭脳を併せ持つローズマリーはまさしく「完璧な公爵令嬢」で、無意識に人の上に立ちたがるアーロンにとっては、煩わしい存在であったのだろう。
ローズマリーとの婚約をきっかけにアーロンが王太子に内定したことも、彼のプライドを傷つけた。
アーロンは学園の成績は悪い方ではないが、ずば抜けて優秀というわけではない。
血統は良いのだから地頭も悪くないはずなのだが、プライドの高さゆえか、自身を天才気質と思い込んでいる節があった。少しでも窘めると激昂し、衝動的に解雇を宣告する。教育係は「アーロンへの進言の仕方」をまず引き継がれるほどであった。
『婚約者のローズマリー様も、殿下のお嫁様になるために王太子妃教育をあんなに頑張っていらっしゃるのだから、殿下も将来素敵な王様になるために、もう少し励みましょう』
いつだったか、教育係の言葉に対して、アーロンは顔を真っ赤にして不敬だ解雇しろとがなり散らした。
それだけでは溜飲が下がらなかったのか、その者の家を取り潰しにしろと騒ぎたてて、貴族院で問題になったことがある。もちろんそんな馬鹿げた要求が通るわけはなく、アーロンの立太子を疑問視する勢力が拡大しただけの結果に終わったが。
「努力を求めることは自分の才能に疑問をもつ不敬だ」と捉えるアーロンと、日々研鑽に励んでいたローズマリーとではどうしたって差が出てくる。
アーロンにとって、彼のプライドを少しでも傷つける言動は不敬に値した。
彼よりも優秀な者は不興を買うことを恐れてアーロンの側から離れたが、婚約者であるローズマリーはそうするわけにもいかなかった。いつの間にか自分よりも少し劣った者に囲まれるようになったアーロンは、自分の劣等感を刺激する唯一の存在であるローズマリーを、殊更敵視するようになった。
『女のくせに』『少しは男を立てたらどうだ』
学園に入学し、アーロンとローズマリーが同世代の貴族令息や令嬢から「見られる」ようになると、アーロンの態度はなおのこと頑なになり、あからさまな態度でローズマリーをなじるようになった。
幸い、父親のメイフィールド公爵やアーロンの両親である国王夫妻はローズマリーの味方であったため、ローズマリーは気に病むことなくアーロンからの暴言を受け流していたのだが、アーロンの側近が段々と、ローズマリーに対して増長するような態度を取り始めた。
アーロンひとりの暴言であれば、ただの愚かな王子の癇癪で済む話だが、公爵家が下位貴族に侮られるとなっては話が変わってくる。
リリアが編入してアーロンと出会ったのは、ローズマリーが父親と両陛下と共に最終的な解決に向けた話し合いを始めた頃のことである。
リリアは可憐で愛らしい顔の持ち主で、小柄な身長に華奢な肢体、花のような色合いの髪と瞳も相まって、まさに妖精のような見目の令嬢だった。お金で爵位を買ったデラニー男爵家の庶子で、母親は「宿場町の給仕」だったらしい。
デラニー男爵の前妻が亡くなってすぐに、リリアとその母親はデラニー男爵に引き取られた。そのあまりの気持ちの切り替えの早さに、デラニー男爵は今の夫人と元々不倫関係にあったのだろうと、もっぱら噂されている。
ローズマリーはリリアとは直接会ったことはないが、学園での彼女の振る舞いは耳に入っていた。
淑女教育もろくに施されないまま入学してきた彼女は、貴族としての常識を持たず、マナーや貴族同士の距離感や上下関係というものを理解していなかった。
最近爵位をもらったばかりのデラニー家は男爵位の中でも下に位置するのだが、リリアはまるで対等な存在であるかのように上位貴族にも気さくな調子で話しかけ、令嬢たちの不興を買っていた。臆することのない彼女の態度は、「身分を弁えない図々しい女」と評価された。また、彼女は男好きの性格のようで、見目が良かったり家柄が良い令息であれば婚約者がいようと構わず近づいたため、婚約者である令嬢から叱責されたり窘められることも多かったという。
令嬢たちのコミュニティに馴染めなかったリリアは、見返すかのように、ことさら婚約者のいる令息ばかりに近づき、周囲に侍らすようになった。「そういう仕事」をしていた母親譲りか、リリアは異性に取り入るのが上手かった。
『私、貴族になったばかりで全然馴染めなくて。女の子たちはすました顔をしているけど、私が近づくと怖い顔で睨んできて……』
涙で目をうるうるさせながらリリアが見つめると、大抵の男は悪い気はしない。
男爵令嬢という下位の存在で、胸が大きくて男の欲望を満たしてくれそうな可愛らしい都合の良い女の子が、蜂蜜のように甘えてきてくれる。
普段とりすました令嬢たちを相手にしている令息たちは、下心を庇護欲という大義名分で包んで「自分が守ってあげるよ」とリリアを甘やかした。そこには「所詮は男爵令嬢だから、飽きたり問題になったりすれば、捨ててしまって構わない」という侮りがあるのだが、貴族の機微に疎いリリアが気付くことはなかった。身分が低いだけで、女としては私の方が魅力的なのねと、いつしか自分以外の令嬢たちを見下すようになっていた。
私より女として劣っているくせに、すました顔して偉そうに私に注意してきてなんだかむかつく。
令息とある程度仲良くなると、落ち込むそぶりをして彼の婚約者の悪口を吹き込むのがリリアの常套手段だった。
『実は、×××様の婚約者にいじめられているの』
『きっと、嫉妬しているんだわ。婚約者でもない私がそばにいるから』
『×××様は、男爵令嬢になったばかりの私を気にかけてくださっているだけなのに』
『いじわるされてつらいけれど、×××様がおそばにいてくださるから……私は、我慢できるけれど、それよりも、婚約者様への愛を信じてもらえていない×××様が可哀想……』
そして令息が「可憐な少女に慕われている自分」と「婚約者に嫉妬してもらえる自分」に気持ちよくなりながら正義を盾に自身の婚約者を叱責するのを見て、優越感に浸るのである。
私をバカにしたあなたの男は、私の味方なのよ、とばかりに。
アーロンも、まんまとその手管に引っかかった。
ローズマリーとリリアにはまったく接点はなかったが、リリアにとってローズマリーは「お高くとまった御令嬢」の筆頭で、しかも婚約者はこの国の第一王子。アーロンの心を奪えば、名実共に自分が「この国で一番魅力的で偉い女性」になれるのだという野心もあった。
アーロンはローズマリーに劣等感を抱いていたところ、リリアという「分かりやすく男のプライドを満たしてくれる」存在に出会ったことで、ローズマリーの存在が我慢ならなくなってしまったのだろう。見せつけるかのようにリリアを寵愛し、ローズマリーを貶めた。リリアもそんなアーロンに自尊心を満たされて、優越感に満ちた笑みをローズマリーに向けるのだった——まさに、今のように。
「さて……この場ではどこからどこまで話しましょうか……」
うっとりとお互いを見つめ合い、二人だけの世界に耽っているアーロンとリリアを前に、ローズマリーは思案する。
この問題の「最終的な解決」について、すべてを説明したときに恥をかくのはアーロンである。
アーロンのことを思えば、王家とメイフィールド公爵とローズマリーだけが集まる場で話すべき内容になってしまうが、アーロンは、メイフィールド家の敵対派閥の貴族も少なくないこの会場で、悪意を持ってローズマリーを——ひいては、メイフィールド家を貶めようとした。
公爵家の名誉を守るために、ある程度の事情はこの場にいる者たちに知らしめておく必要があるだろう。
「そうですわねぇ……順番に話していきましょうか。まず、婚約解消は承りました」
ローズマリーはゆっくりと優雅に、カーテシーを披露する。この国で最も厳しいと言われるマナー講師に完璧と言わしめた、優雅で隙のない礼である。
「ふん、やっと頭を下げたか」
アーロンは満足げににやりと口元を歪め、リリアも優越感に満ちた笑みを浮かべた。
儀礼的な礼と従属の礼の区別もつかないのか——と、ローズマリーは言い返す気にもならない。貴族的な儀礼がわかっている人間ならば、きっと同じことを思っている。アーロンの浅慮さが浮き彫りになっただけで、公爵家の名誉はまったく傷つかない。
アーロンは、意気揚々とローズマリーを指差した。
「そうやって素直に従順な態度を取り続けるのならば、側妃として召し抱えてやっても良い。表舞台はリリアのものだが、貴様にはリリアの代わりに働く名誉を与えてやる。外交や書類作業は貴様の仕事とする。今までの王太子妃教育で得た知識を以て、リリアに奉仕するが良い」
公爵家が男爵家に「奉仕」する「名誉」と。
ローズマリーは無表情こそ保っていたが、怒りが貫くように全身を冷やすのを感じた。
先ほどの『膝をついて頭を下げて詫びろ』という発言は、怒りに任せたゆえの言葉のあやと受け流すことができたが、これは完全に公爵家への侮辱である。
側妃に召し抱えてやっても良い?
プライドが高いばかりの、娼婦崩れの男爵令嬢の色仕掛けに陥落するような男の側妃になることに、いったいどれほどの価値があると思っているのか。
ローズマリーは扇子を広げ、口元を隠した。
口角を吊り上げて、温度のない笑みを浮かべる。
容赦など、まったくしないことに決めた。
「側妃? リリアさんに奉仕? ……殿下ったら、何か勘違いされていませんこと?」
余裕の表情と氷のような冷たさの双眸に、アーロンが気圧されたのがわかった。
ローズマリーが、ここまで意図的にアーロンへ敵意を滲ませたのは、これが初めてのことだった。
今までローズマリーには、内心馬鹿にされていると思っていた。でもそれは勘違いで、今こそが本当に馬鹿にされているのではないか。今までは、情けをかけられていたのではないだろうか。
では、今は……?
よぎる不安に、アーロンはわずかに怖気付く。
彼を支えたのは、隣にいる男爵令嬢にみっともないところを見せたくないというちっぽけなプライドだった。
「……勘違い? どういう意味だ、」
「殿下、私には、『お馬鹿のふりをして、殿下を持ち上げて、それとなく正しい方向へ誘導して差し上げる』という選択肢もあったのですわ」
言外に「お前だけでは片手落ちだ」と言われ、アーロンの頬がかっと朱に染まる。
「淑女たるもの、自分は前に出ずに殿方を立たせることになんの抵抗もありませんわ。でも、私はそうしなかった。なぜだかわかりますか?」
「淑女というのは嘘っぱちで、お前が、高慢でプライドの塊だからに決まっているだろう!」
「……ふふっ」
——ローズマリーは、明確に馬鹿にした調子で、小さく笑った。アーロンは動揺し、わずかに身を揺らした。
「プライドの塊なのは、殿下の方ではないですか。自分より有能な者を見ると『馬鹿にしているのか』と目の敵にして、進言してくれる教師や部下は不敬だと騒ぎ立てて更迭し、自分よりも劣った者で周りを固めて安心して。——学園での側近やご友人がパッとしない者だらけの殿下を見て、陛下は嘆いていらっしゃったのですよ?」
悪意のある言い回しを選ぶのは、明確な攻撃の意図である。
アーロンの現在の側近や友人も一緒に貶める発言であったが、アーロンがローズマリーを攻撃するのに感化されてローズマリーを蔑ろにする態度をとってきた者たちなので、意に介すつもりはない。それに、能力や為人ではなく、自身のプライドを刺激しない人間ばかりをアーロンが選んでいることを、国王夫妻が問題視していたのは事実だった。
「こんな調子のアーロン殿下に国を任せて良いものかと、陛下は悩まれていたのです。殿下の学園での振る舞いが、王としてふさわしいものなのか……陛下はずっと、見守られていたのですよ」
——学園に入学する前、ローズマリーは内密で国王夫妻に呼び出された。
国王夫妻は並んで玉座に座り、その表情には、諦めと呆れが混ざっていた。
『ローズマリー、そなたがアーロンの足りないところを補ってやれば、きっとこの国は大丈夫だ。しかしあの子は、自分一人の力ではなく、婚約者に支えられているのだと気付いたら、きっと機嫌を損ねるだろう』
ローズマリーは、真っ直ぐな視線を国王へ向けた。
家臣としてあるべき答えは一つしかない。
『陛下、私はアーロン様の婚約者として……未来の国王を支える国母として、殿下のことを陰ながら支え、殿下の名誉の一助となるよう、この身と頭脳を捧げるつもりでございます』
もちろんこれは、本心であった。
ローズマリーは、それが与えられた役割であるのならば、アーロンを有るべき方向へと誘導し、表立っての名声や功績も全て彼に与えてしまっても構わないと思っていた。その役割を完璧に遂行することを、ローズマリーの矜持として。
王は悩ましげに、長く息を吐いた。
『あぁきっと、そなたならそう言ってくれるであろうと思っていた。そして、きっとそうしてくれるのだろう。——だがな、そこまでお膳立てをしてまで、アーロンを王にしたい訳ではないのだ。この国の王子は、一人ではないのだから』
ローズマリーは、今日この場に自身を呼び出した、王の意図を察した。
脳裏には、アーロンより5つ年下の、レナード第二王子の顔が思い浮かんだ。彼は素直で、活発で、能力も申し分なく……率直にいうと、アーロンよりも見込みがあった。母親が側妃だということを除いては、何に於いてもレナードの方が優れていた。
王の横に座る王妃は、静かに口を開いた。
『有能な者に嫉妬し、耳触りのよくない進言は排除する。その上、自分を支えてくれる婚約者ですら攻撃するような器の人間に、この国の民たちの命は預かれないわ。将来玉座に座りたいのであれば、あの子は精神的に未熟なところを治さないといけない。傲慢さを捨てて自分自身を正しく捉えるように、私はあの子の母親として、散々言ってきたわ。これから数年間の学園生活は、視野を広げて自分自身を見つめる良い機会になるでしょう。それで治らないのなら、……もうあの子には、見込みがないということになる』
王妃はここで言葉を区切り、じっとローズマリーを見つめた。沈痛な面持ちだが、その瞳にはこの国にとって最善の選択をするために我が子を切り捨てることを覚悟した、強い光が宿っていた。
『学園生活の中で、あの子は王としての器を試されることになる。だからローズマリー、あなたはあの子を、そっと見守ってあげて。あの子を立てるために気を回したり、裏で立ち回ったりする必要はないわ』
『……承知いたしました、王妃陛下』
ローズマリーは深々と頭を下げた。
お膳立てされて体裁を保つような王は不要。それを見極めるために、手出しはするな。
王妃が言ったのは、つまりはそういうことだった。
——そして母の嘆きも虚しく、アーロンは改善の見込みなしと見限られた。
それだけならまだしも、男爵令嬢の甘言に絆されてこのような醜態を晒す始末である。
きっと、王太子から廃されるだけでは済まないだろう。
「この国有数の教育機関である王立学園には、高名な家門の優秀な子息子女が集まっていますわ。この学園での生活は、彼らと交流を深められる絶好の機会でございましたが……殿下は政治的なことは何も考えず、ご自分が気持ちよくなれる人を周りに囲んで、気に食わない者を不敬と攻撃して、排除していらっしゃいましたね。
有能な人間を遠ざけ、凡庸な人間で周りを固めて自らの自尊心を満たして満足するような器の人間に、果たしてこの国が背負えるのでしょうか……あぁ、失礼いたしました。私には出過ぎた心配でございましたね。すべては陛下がご判断されることですわ。とはいえ、殿下の振る舞いは目に余るものがありましたので、問題の解決に向けて両陛下とメイフィールド家で話し合いの場を設けておりました」
「話し合いの場だと? そんなものは俺は知らない!」
「殿下がいても話にならないでしょうから、陛下のご判断で殿下は呼ばれませんでした」
ローズマリーは、淡々と言葉を続ける。
「——まず一つ目の結論を申し上げると、殿下と私の婚約は解消されました。殿下は先ほど『破棄する』とおっしゃいましたけど、もうすでに、私と殿下は婚約関係ではないのです。いささか出遅れた宣言でございましたわね」
ローズマリーはいかにも面白そうに、くすりと笑みを浮かべた。
対してアーロンは、憎らしげに顔を歪めた。嫌がらせのために仕掛けた婚約破棄が全く効いていないどころか、当事者であるはずの自分が蚊帳の外であったことをバラされて、プライドが逆撫でされる。だが、怒りよりも動揺が走った——自分の両親であるはずの国王と王妃が、ローズマリーの側についている。
「でっ、でまかせを言うな! 俺はそんなこと、一言も聞いていない!!」
「陛下は、『卒業間際にそんなことを知らされては可哀想だろう』とおっしゃっておられました。このパーティーが終わった後、殿下にお伝えになる予定でしたわ。『ローズマリー・ベラ・メイフィールドとの婚約を解消し、それに伴い廃太子とし、レナード第二王子を新たに王太子に任命する』と。——あぁそうそう、私との婚約解消を以って、殿下は王太子から廃されたというのが、二つ目の結論です」
ローズマリーの放った二つ目の爆弾に、周囲がざわりとどよめいた。
驚く者も多かったが、納得する者も多かった。未来の国王としては片手落ちだったアーロンだが、ローズマリーが婚約者であったからこそ、王太子として認められていたようなものである。それを自ら手放し、悪評高く有能なわけでもない娼婦崩れの男爵令嬢に盲目になり、他の出席者の迷惑も顧みずに卒業パーティーを台無しにする体たらくである。第二王子の方がこの国を治めるにふさわしいと考える者は少なくなかった。
ローズマリーは、さっと周囲に目を配る。
聡い者は「やはり」という表情を浮かべ、短慮な者はゴシップに胸を躍らせる顔をする。この反応を見るだけで、将来味方にするべき有能な者が自ずとわかるというものだ——この王立学園はそういう視点を養う絶好の機会でもあり、国王夫妻はそれをアーロンに望んでいたというのに。
「——そっ、そんな馬鹿馬鹿しい話があるかっ!!」
「そうよ! 何言ってんのこの女、アーロン様はこの国の王様になるのよ!? だって、第一王子なのよ!? レナード様はアーロン様の弟だし、側妃の子どもじゃない! 二番目のくせに弟が兄を差し置いて王様になるだなんて、そんな図々しい話があるわけないわ!!」
アーロンは叫んだ。
その横で、先ほどまで余裕の笑みを浮かべていた男爵令嬢が、顔を歪めて金切り声を上げた。
「馬鹿馬鹿しいお話なんかではありませんわ。誰が国王にふさわしいかは、陛下がお決めになることです」
激昂する二人に対して淡々と返す様は、メイフィールド家特有の容姿と相まって、まさに「氷の女王」と呼ぶにふさわしい冷徹な威厳を感じさせる。リリアが、気圧されたように数歩退いた。冷や汗が流れる二人に、ローズマリーは淡々と諭す。
「玉座というのは、一番最初に生まれたから問答無用で座れるような、そんな生易しいものではありませんわ。アーロン様よりも、レナード様の方が玉座にふさわしいと陛下がご判断された。ただ、それだけのことです。この場で申し上げるのはいささか不憫ではございましたが、このままではメイフィールド家の名誉に傷がつきかねなかったため、皆さまの前で真相をお話しさせていただきました。恨むなら、わざわざ衆目を集めて私にありもしない罪をなすりつけようとした、ご自身の悪辣な性根を恨んでくださいまし」
アーロンは怒りのためか混乱のためか、口をはくはくとさせて、言い返す言葉を見つけるのに時間がかかっているようだった。それを待つことなく、もう用はないとばかりにローズマリーはアーロンから視線を外した。アイスブルーの視線は、隣にいるリリアに向けられる。
「さて……リリア様、と言いましたか。あなたと顔を合わせるのは今日が初めてかと思いますが、先ほど殿下がおっしゃっていた"卑劣な嫌がらせ"とは果たして何のことでしょうか」
ローズマリーに見据えられたリリアは、隣で狼狽してばかりのアーロンを横目にし、脳内で計算を走らせた。
——今まさに腕を絡めているこの国の王子は、目の前で廃太子を宣言され、それに対抗もできずに混乱して狼狽えているばかりである。今までアーロンが自信満々に傍若無人な態度を取れていたのは、「自分が王太子だ」という自負があったからだ。この断罪劇が始まる直前までは、多少無茶な言いがかりをしてもアーロンが強引にでも押し通してくれるだろうと思っていた。しかし、今この男にそこまでの発言力は期待できないだろう。
「未来の国王」という肩書きを失ったこの男は、リリアを守れるほどの器を持っていない。
先ほどまで、絶対的な強者であるアーロンが味方だからと強気でいたが……勝ち目がない。
アーロンの体たらくを見て、リリアは悟った——おそらくローズマリーの言う廃太子の話は真実で、国王陛下を相手にそれをひっくり返すことは難しいのだろう。この男は、切り捨てないといけない。
「あ、えっと……もしかすると、誤解があったのかも。私が偉い令嬢にいじめられていると言ったら、アーロン様が、きっとローズマリー様が悪いんだろうって。アーロン様の勘違いだから、私は悪くないわ! 勘違いしたアーロン様と、私をいじめていたどっかの令嬢が悪いの! 私も被害者なのよ? だから、私のことを怒るのはおかしいわ!」
「な、何を言って……リリア!!?」
アーロンは目を見開いて、リリアの両肩を掴んだ。
「リリア、どういうつもりだ、勘違いだなんてっ、僕一人を悪者にするつもりか?! 君はローズマリーに嫌がらせをされていると、相手は筆頭公爵家だから対抗できなくて辛いと、そう言って泣いていたじゃないか……!」
「うるさい! そんなの知らないわ、あなたが勝手に勘違いしたのよ! 王太子だっていうから近づいたのに、一番偉い男だと思っていたのに、王太子じゃなくなって、この女にも勝てないし、期待はずれだわ!」
「な……」
アーロンは呆然として、怒りを感じる余裕すらないようだった。
「僕といると安心できる、新興男爵家の出身だから身分のことはよくわからないと、王太子だからじゃなくて、僕という人間だから好ましく思っているのだと、そう言っていたじゃないか、リリア……」
「そんなの知らないわ! そういうわけだから、ローズマリー様、私に逆恨みするのはやめてくださいね?」
アーロンから逃れて、リリアはローズマリーに向き直った。
まるで母親が子どもに言い含めるような、身分をはき違えた物言いに、周囲の貴族が嫌悪感を顕にする気配を感じる。ローズマリーは冷めた視線のまま、淡々と告げた。
「——————あら、そう」
はなから、男爵令嬢風情はメイフィールド公爵家の相手ではない。
他の貴族家からしてみても、筆頭公爵家に喧嘩を売った、土地を持っている訳でもない、金で爵位を購入しただけの歴史の浅い男爵家に、わざわざ親睦を深める価値はない。その上、リリアはあまりにも多く敵を作りすぎた。学園を卒業してから待っているのは、厳格な身分社会だ。
ほぼ確実に、デラニー男爵家は落ちぶれるだろう。困窮した家門が持参金目当てに近づいて、デラニー家は貴族家とのパイプを手に入れるかもしれないが……そんなものはメイフィールド家の脅威ではない。
もはや相手にする価値もないと、ローズマリーはリリアから視線を外した。
男を奪って女としての魅力に勝ったつもりでいた。しかし、そもそも相手にされていなかった。
悔しさと恥ずかしさでリリアの頬がカッと熱くなったが、ローズマリーに届くことはなかった。
——もう、こんなところにいたくない。
リリアはローズマリーと、役に立たないアーロンを睨みつけてから、カツカツとヒールの音を響かせながら大股で去っていった。クスクスと忍び笑いに包まれながら、リリアの姿が扉に消える。アーロンは呆然と、遠くなるリリアの背中を見つめていた。ローズマリーはどうでも良さげに、一瞥をくれるだけだった。
「さて、殿下」
出入り口を守っていた騎士が扉を静かに閉めた音を確認して、ローズマリーはアーロンに向き直った。
貴族たちのクスクス笑いが収まり、「次はこちらだ」と視線が集まるのを感じる。第二王子派閥に属していた貴族からの「やっぱりな」という蔑みと、第一王子派閥に属していた貴族からの「お前のせいで」という恨み。
次期国王という肩書きを心の拠り所にしていたアーロンは、その肩書きを失った今、貴族たちからの容赦ない視線をかわす術を持っていなかった。両親以外の人間は自分より下だと思っていた、だからどんな命令も聞かせられるし、周りの貴族連中は当然自分を敬っていると思っていた。でも今の自分は王太子ではない……そんな自分を、周りの貴族連中はどう見ているのか。
ダンスホールのど真ん中、悪意を持ってローズマリーを貶めようとしたアーロンに、ローズマリーは最後のとどめを刺す。
「殿下のご一声でこの茶番が始まったわけですけれど、この場を収める技量が、あなたにありまして?」
——どうせ、あるわけがないだろう。
ローズマリーの突き放した態度に、ついにアーロンは完全に折られた。走って逃げ出したくなったが、リリアのときのように忍び笑いに包まれることを考えると、足がすくんだ。あれ、こういうときは、どうすれば。周りに助けを求める? 不敬だと叱る? 王太子でない自分の言葉に、周りの人間は従ってくれるのか?
立っていることすらままならなくなり、アーロンはがっくりと膝をついた。
ローズマリーはくすりと笑った。
「あらあら。みっともないですわよ、殿下。……私は、ちょっと気分が悪くなりましたので、この場をお暇いたしますね。パーティーにご出席の皆様がた、お騒がせして大変失礼いたしました」
地面を見つめるアーロンに近づくこともなく、ローズマリーは出席者に向けて優雅なカーテシーを披露してから、ゆっくりと会場を後にした。羞恥心に焼かれる地獄と未来を失った絶望を感じながら、アーロンは、しばらく顔を上げることができなかった。
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