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討幕の時代

  怒涛編








     第11話




 朝、別れの時は来た。


生まれたばかりの日の光を浴び、


お里の顔が輝いて見える。




昨晩の涙は尾を引かず、


今まで見た事の無い笑顔。


退助は今まで見た中で一番美しいと思った。




 「どうかご無事で。」


「里も達者で暮らせ。


・・・母を頼む。」




 年老いた母が気がかりだが


江戸と藩と日本の将来に通じる


明日のため、歩むしかない。




 家を守るお里を残し


退助は再び江戸を目指し旅立った。












 船旅と徒歩で10日の旅。




 江戸の土佐藩邸に辿り着く。




 退助の役職は江戸留守居役兼軍備御用。




 彼の役目を具体的に言うと、


失脚、蟄居し、隠居中の豊信公に代わって


江戸の動静探査と、


軍事増強のための渡りをつけるため


人脈強化にあった。




 この時退助は幕府側重鎮、


咸臨丸の渡米から帰国したばかりの


勝麟太郎や小栗上野介と会見、


軍艦の操練技術の習得方法や


土佐藩の発言力強化の下地作りに着手している。




 また彼らが主張する公儀政体論


(諸侯の政治参加を呼びかけ、


幕府と共同で政治を行う主張)


に触れ、自ら傾倒する尊王攘夷論との議論を交わした。






 一方土佐に残った後藤象二郎は、


万延元年(1860年9月)大阪にて土佐藩邸建築のため


普請奉行に任命され、翌文久元年(1861年8月)


御近習目付となっていた。


 退助より出世は早く、


退助の祝言の頃は藩政の中枢にいたことになる。




 実はその頃の退助と象二郎、


ふたりの運命の歯車を狂わす大事件と対峙していた。




 それは土佐藩内に蠢うごめく


尊王攘夷派の存在であった。


以前の回で前述したとおり、


土佐藩は上士と下士(郷士)の身分差別などにより、


武士階級の間に深い溝が存在した。




 上士と郷士の中間の身分である白札郷士(上士の末席身分)、


武市半平太(瑞山)が『土佐勤皇党』を結成。


その数200名とも500名とも云われる


多くの郷士を取りまとめた。




 彼は1861年まで江戸に滞在。


それまでの間、桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作らと交流。


この交流を通じ、彼自身、


尊王攘夷土佐藩代表として名乗りを上げる。




 そして武市が江戸滞在中


彼の命により土佐藩領内に於いて


彼が組織した


『土佐勤皇党』が結成されたのであった。




 退助はその武市半平太の動向を探るのも


任務のひとつであったが、


どうやら一足先に土佐に帰国した半平太とは


行き違いになったようである。




 藩内の不満分子と勤皇の志をもった


志士の集まりである勤皇党は、


盟主武市半平太の帰国に伴い、


ついに本格的活動を始めた。




 後藤象二郎も彼らの動向からは目を離さずにいたが、


勤皇党一派は土佐、京都などで天誅と称し


反対勢力を次々と粛清、


ついに文久2年4月8日(5月6日)吉田東洋が


彼らによって暗殺された。


 もう勢いは止まらない。


 東洋の暗殺を契機に、


一気に藩政を掌握するに至った。




 後ろ盾を失った象二郎は失脚。


その分退助が豊信公を補佐する重責が増した。




 退助は同じ尊王攘夷派としての立場から


国許で動揺する役人たちを叱り、


鼓舞する内容の書簡を送っている。




 曰く、


「国体(天下)を改めるとき


変事が生じることぐらい覚悟すべきである。


賊徒の首を切って人々へ示す事により、


かえって国が安定する事もある。」




 藩の役人たちに「オタオタするな!」


と言っているのだ。




 そして文久2年6月(1862年7月、


小笠原唯八、佐々木高行らと肝胆相照し、ともに


勤王に盡忠することを誓う。




 その時交わした江戸の誓いは


その後の退助の行動指針となった。


このころ退助はすでに土佐勤皇党の重鎮である


間埼哲馬と好誼を結んでいた。




 間埼とは土佐藩・田野学館で教鞭をとり、


のち高知城下の江ノ口村に私塾を構えた博学の士である。


 彼と交わした書簡で


勤王派の重要人物から


何らかの機密事項が退助のもとへ直接送られた。




 日増しに重要な立場に押し流される退助。


とうとう彼は藩主の父であり


実質的家督の実権を握る


豊信公に1862年9月側用人として呼び戻される。




 家を離れ9カ月以上経過。


お里は長期出張から帰還した退助を


人目も憚らず、満面の笑みと


歓迎の涙で迎えた。




 その晩は不在だった退助のその後の家の出来事を、


弾丸トークでまくし立てる。




 退助の母が、


老いから同じ事を呪文のように繰り返す様子や、


最近、鯵や鯖が不漁で手に入りにくくなってきた事。


お里の実家の兄が病に伏せた事など、


お里の世界の一大事を


まるでこの世の終わりのように聞かせる妻。




 退助は自分が今背負う国の重責を思い、


自分の妻が心より愛おしく、


家に帰った実感が沸々と湧いた。




 妻は聞く。


「旦那様、またお痩せになりました?」


「いや、特にそんな事はない。」


「江戸では『江戸患わずらいという病


(脚気かっけ)が


はびこっていると聞きました。




 *注 当時江戸では精米技術の発達に伴い、


玄米から白米が主食となる。


白米は玄米に含まれるビタミンB群をそぎ落とすため


栄養不足から脚気が流行った)




 旦那様は私がいないと切れた凧の様に


フラフラと悪行三枚に溺れて、


身体に悪い物ばかり食していたのではないかと


里は毎日心配しておりました。」


 少しムッとした退助は返す。


「・・・悪行?私がそんな男に見えるか?」




 すかさずお里。「見えます!!」




 めげずに退助は冗談で、


「江戸でした事と云えば、


褌ふんどしも絞めず、夜道で行き交う人の中、


着物の両裾を開き


「な?」って言った事が三回あっただけだぞ。」


 な?大したことはないだろう?」


「旦那様、それは立派な犯罪でございます。」


お里は軽蔑の眼差しでキッパリ言った。




 妻に犯罪者の烙印を押され、翌日登城した退助は


事もあろうに、豊信公の側用人として抜擢された。




 そして翌年の1863年江戸藩邸総裁に任命され、


豊重公に従い上京する事となる。






 またも家を離れる退助。


お里もついて行くと駄々をこねるが、


当然退助に一喝される。


「江戸中で私が所かまわず、夜な夜な


『な?」』と言っているところを見たいか?」




 全力で冠かむりを振るお里であった。












    第12話 8月18日の政変










 藩主の父豊信公の側用人として


江戸藩邸総裁を命ぜられた退助は


1863年(文久3年)豊信公に付き従い


江戸へと旅立った。




 江戸に到着すると退助は精力的に動く。


まず薩摩藩の重鎮大久保一蔵と接見、


豊重公との会見の橋渡しを果たす。




 その結果、豊信公は薩摩藩国父である島津久光との


交渉ルートを確保、


福井藩松平春嶽、薩摩藩島津久光と共に


佐幕派代表としての活動の足掛かりを築いた。


 早速豊重は京に上洛、


容堂、春嶽、久光の三者会談を行う。




 その年、京では歴史を揺るがす政変が起きた。




 8月18日の政変である。






 我が者顔で京の都を席巻してきた長州。


それを会津藩と薩摩藩が結託し


武力を背景に長州追い落としを実行した。


 長州側が一触即発の事態を回避したため


長州を中心とした討幕派が後退、


佐幕派(幕府協力派)


が勢いを盛り返した。




 これにより、有力な佐幕派の豊信公は


安政の大獄以降続いた謹慎が解かれ、


藩政の実権を再び握る。








 早速藩に戻り、体制を立て直す豊信公。


自ら藩主の父として


実質的権力を掌握。




 まず吉田東洋暗殺の報復に


再び攘夷派の弾圧を始めた。


土佐勤王党大粛清である。




 直前に急進的な勤王党と袂たもとを別った


坂本龍馬と中岡慎太郎は幸か不幸か難を逃れる。






 豊信公と逆に尊王攘夷・討幕派として失脚し


帰藩した退助。




 そこで家の変化に遭遇する。




 妻のお里の実家である林家の跡継ぎ問題が発生。


兄の政護(益之丞)が病により早世したのだった。




 嫡男を失い、家と道場を継ぐ者がいない。




 林家は遠回しに、唯一の実子である里を


実家に戻して欲しいとの要望を


遠慮がちに乾家に伝えてきた。




 一度他家に嫁した娘を返せとは


いくら何でも厚かましい。




 しかし、家と道場を守るには、


娘お里を林家に戻し、


養子をとって存続させる以外ない。




 乾家の退助の母賢貞(幸子)は


どう思っていたのか?




 彼女は未だ子を成さぬお里を


あまり快く思っていない。




 退助に対する、


ズケズケと遠慮ない物言いや、


乾家の家風に合わない切り盛りに


不満を持っていた。




 藩の要職を渡り歩く退助は


不在がちであり、


当然子などできる筈もない。




 しかも、お里に頭が上がらない退助が、


お家の家風に合わせるよう説得したり


従わせるなど論外であった。




 かくして林家と母賢貞(幸子)の利害は一致。


まだ若く、子を成さぬうちにお里を離縁させ、


林家に婿養子を迎える算段はついた。






 退助が家に戻ると、


顔面蒼白で精気を失ったお里が


今にも倒れそうに退助を迎えた。




 退助を見るなり、自然に涙を流すお里。


その只ならぬ様子に退助が


「如何した?」声をかけると


お里はついにその場に泣き崩れた。




 事の次第を聴き退助は


怒りに震えた。




 しかし泣き続けるお里をあやすうち、


冷静になって考える。




 一体誰を責めようぞ?


誰が悪いというのか?


母を責めれらるか?


それとも「それはお里の実家の問題であって


夫である私は知らん!」


と突っぱねる事ができようか?




 林家の道場は退助にとっても大切な場所。


青春時代の全てを道場で過ごし、


大変なご恩のある林家に報いる時ではないのか?






 退助にとって大切な女性を失うのは


これでふたり目。




 初恋のお菊を失い、


次はお里。


 退助の意思とは関わりなく


去ってゆくのを、成す術もなく見過ごすのは


あまりに辛い。






 離縁し、実家に帰るお里には、


もう婿養子の相手が決まっているという。




 何と云う残酷!


無常・無情とはこのことであろう。




 お里につられ、退助も人知れず涙を流した。




 そうしてお里が家を出る日、


今度は退助がお里を見送る。




 去り際、最後に見せたお里の笑顔は、


やはり美しかった。




 両手の拳こぶしから血が滲む程握りしめ、


唇を小刻みに震わす退助。




 お里の姿が見えなくなっても、


暫くはその場を離れられなかった。




 もしその場から一歩でも動き


家の中に帰ろうとしたら、


その瞬間から


お里との別れの時間が終わってしまい、


永久にふたりの縁を葬り去る事になる。


 心の中に孤独と空洞の世界が始まり、


悲しい戦いが待っている事を知っていたから。






 別れは人を成長させる。




 別れは人に痛みを教え、


優しくさせる。




 お里を失い、氷のように心を閉ざし、


その逆に哀れなる人に施しを贈る。




 退助は氷の心で思想に立ち向かい、


尊王攘夷の志を先鋭化させる。




 その一方で領内の民や


不遇の郷士により一層近づき、


温かみの増した接し方で向かい合った。


傷心の退助のそばにはいつも象二郎がいた。




 象二郎は退助とは逆の立場(佐幕派)として


殿を支えるべく謹慎から復活、復帰した。




 即ち大監察、参政として藩政に返り咲いたのだった。




 退助の帰還と離縁を耳にした象二郎は


まるで何事もなかったかのように、


獲れたてのカツオを持参して


「よぉ!退ちゃん!!久しぶり!!」


と屈託のない笑顔で勝手知ったる玄関の敷居を跨いだ。




 象二郎の退助に見せる人懐っこさは、


おおよそ大監察様、参政様の威厳はない。




 退助は象二郎の来訪を心から喜んだ。




 有難かった。


離婚した後の弱り切った女々しさは


他人には見せられない。


幼馴染で普段通りの象二郎が


退助に僅かながら笑いをもたらせた。




 「退ちゃん、覚えちょるか?


ふたりで昔通った居酒屋「平助」の看板娘を。」


「おう、よく覚えちょる。


 あのひと際ベッピンなお千代坊の事であろう?」


「この前、忍びで久しぶりにひとりで行ってのう。


 驚いたことに、お千代坊は嫁にも行かず


まだ居ったんじゃ。」


「何と!まだ居ったんか!!


しっかしおまんも好きよのう。


酒も飲まんと何しに行ったんじゃ?


まさかお千代坊に逢うためでもあるまい?


その頃はまだ蟄居中じゃったんじゃろ?」


「蟄居も糞もあるかい!!


わしゃ飲みたいときに番茶も飲むし、


喰いたいときに串焼きイワシも喰うわい。


納得せん仕置きに従う程、やわじゃないきに。


たまたま気晴らしにいったんじゃ。」


「ほお、そうかい?


気晴らしのぅ・・・。」


「何じゃその疑いの目は?」


「わしゃいつも感じておったんじゃ、


おはんがお千代坊に気があるんじゃないか?


と云う事を。


・・・で?」


「で?って何じゃ?」


「おはんが持ち出した話題じゃろ?


当然お千代坊との事じゃろが?」


「・・・・実はそうなんじゃ。」


 少々恥ずかし気に、気まずそうに象二郎は話しだす。




「お千代坊がまだ嫁に行ってないのに驚いて、


思わず「まだ嫁に行ってないんか!」


と大声で聞いてしまっての。」


「そりゃまずいわ、象二郎!


おまんにはデリカシィと云うものは無いんか?」


「やかましいわ!おまんにデリカシィの事で


指摘されとうないわい!


所でデリカシィって何じゃ?」








 *時代考証上ありえない会話だがお許しを。


この後の会話は現代風に意訳したと思ってください。








「そんでもって、お千代坊に聞いたんじゃ。


『お千代、おまんの好いた男はどんなタイプか?』っての。


そしたらお千代坊、


『そりゃ勿論顔のいい男に決まってます。』


それじゃ、三浦春馬のような顔したいい男だが


足がダックスフント並みの短足で貧しい男と、


赤塚不二夫の人気キャラ(?)


『ドブスの牛次郎』みたいな顔だが、


石原裕次郎みたいな足長でスラッとして


カッコよく、大金持ちの男とどっちが良い?」


「・・・・そりゃぁ、そりゃぁ・・・


いい男でカッコよく、お金持ちが良いに決まってます。」


「ブッブー!!反則の答えは一点減点!!」






「おまんらは何ちゅう会話しとんねん?


大体、男の好みの選択肢の中に


志こころざしとか、優しさとか、趣味とか、


相性とかは無いんか?


情け無か~!!


おまん達、ほんまに土佐人か?」


「良くいうわ!


それと同じ会話を


退ちゃんは江戸の店でしておったじゃろ?


チャンと同行した同僚からの報告は


耳に入っておるんじゃゾ!」




 退助は目をあっちゃに逸らし、


「何の事やら、知らぬ、存ぜぬ!


クワバラ、クワバラ!」


「このシラきり退チャンが!!」




 ふたりは笑い合い、夜が更けていく。










 数日後、少し元気を取り戻した退助は


自宅を訪ねて来た中岡慎太郎と会った。




 中岡は象二郎とは小林塾仲間で


深い関りがあったが、


入塾を固辞した退助には良い印象は無い。




 しかも少年時代、退助が福岡孝弟との対決時、


象二郎と慎太郎は福岡孝弟側に居た。


 その時から慎太郎は退助を良く思っていなかった。


同じ上士でも、象二郎は仲間意識があったが、


退助は敵対する存在にしか見てはいなかったのだ。


 そんな中岡がやってきた。


 当然退助は構える。


中岡に問う。


「君がここに来たのは失脚した私を見に来たのか?


私が何を考えているのか見極めるためであろう?


だがその前に・・・。


以前京都で君は私の暗殺を企てたであろう?」


直球で質した。中岡は、


「滅相もありません!」


大声でシラを切った。


 鋭い眼差しで退助はすかさず、


「いや、天下の事を考えればこそ、


あるいは斬ろうとする。


 あるいは共に協力しようとする。


その肚はらがあるのが真の男だ。


中岡慎太郎は男であろう?」


 退助は迫る。




 逃げ場のない中岡は開き直り


「いかにも!


・・・あなたを斬ろうとした」


と堂々と正直に打ち明けた。




 退助は正直で信用のおける男を好む。


 しかも豪放無比で、かつての敵でも


自分と気が合うと認めると、とことん認める。




 退助は慎太郎の度胸と器量を気に入り、


「それでこそ、天下国家の話が出来る!!」


と互いに忌憚ない話ができる仲となった。




 その時から下からの活動を中岡が、


上からの活動を退助が行う役割分担が成立。




 その後中岡は脱藩し長州に渡る。


64年(元治元年)、薩摩の島津久光暗殺に失敗、


禁門の変、下関戦争に参加する。


 そして坂本龍馬と共に


土佐と薩摩、長州の大同盟を仲介した。




 退助は上からの活動を行うため、


11月14日、要職の深尾丹波組・御馬廻組頭に復帰。


 64年(元治元年)、高地城下町奉行、


大監察に就任した。














    第13話  男 中岡慎太郎










 中岡慎太郎は1838年(天保9)年


4月13日(新暦5月6日)生まれ。


後藤象二郎年3月19日(同4月13日)とは同い年であり、


小林塾のクラスメートでもある。




 別の回でも紹介したが、


その身分は中岡家は名字帯刀を許された大庄屋であり、


上士の一番下位の身分である。


 上士と云っても、郷士に近く、


郷士出身の武市半平太の道場にて剣を極め、


坂本龍馬との親交も厚かった。




 1861年(文久元)武市が創設した土佐勤王党に加盟、


志士としての活動を始める。








   彼の評価




 尾崎旦爾 (熊吉) にして


「才略と胆力と人格を有し、


而して彼の如く刻苦し、彼の如く忍従し、克く結び、克く尽し、


回天の大業を空挙に築き、維新の元勲として功績最も多く、


稀世の英傑なり」と言わしめる。




 また板垣退助 は


「中岡慎太郎という男は本当に立派で西郷、


木戸らと肩を並べて参議になるだけの智略と人格を備えていた」


と評している。




 1862年(文久2)中岡慎太郎が長州の久坂玄瑞と


佐久間象山を訪ねていた頃、


退助は勤王に忠することを誓い、


豊信公に尊王攘夷を唱えている。




 退助が失脚し慎太郎が退助宅を訪ねた会見で、


象二郎に次いで得た力強い親友=同士を得た退助は、


それぞれの役割分担を強く意識した。




 即ち、退助が失脚したら象二郎にが復活、


藩政を各々が信じる方法(退助=尊王攘夷、倒幕。


象二郎=佐幕、雄藩による幕府との政治連合形成)で改革。


 近代化と富国強兵、


日本国内での発言力強化に努めた。




 対して、中岡慎太郎とは


退助が藩政を上から支え、


慎太郎が下から諸国を跨ぎ


人脈形成と薩摩・長州の同盟形成に寄与する活動を成した。




 退助邸での盟約の後、慎太郎は素早く動く。




 9月に脱藩、長州に身を寄せる。


その後島津久光暗殺計画に参加。


失敗に終わると、禁門の変、下関戦争に参加する。


 その積極さは鬼神を思わせる奮闘ぶりであった。






 その頃土佐では尊王攘夷派の粛清が始まる。


武市半平太が捕縛され


勤王党メンバーたちが一斉に捕らえられた。


 昨日の権力を一瞬にして失い、


一転罪人の烙印を押される。




 勤王党が弾圧を受けると


志が近い退助が動く。




 すぐさま藩政に復帰、


高知城下町奉行に就任。


大監察(大目付)を兼任、


武市半平太、勤王党関係者を擁護する姿勢を見せ、


弾圧を是とする藩庁と対立した。


 しかし藩庁側の逆襲により、


2月9日大監察(大目付)・軍備御用兼帯を解任され再び失脚。


 結果、武市半平太は


慶応元年閏5月11日切腹と相成った。


 半平太を筆頭に次々と処刑され


土佐藩内に於ける勤王党は壊滅状態になった。


 このことが後の維新後の政局に大きく影響される事となる。




 土佐勤王党とは日本全国を見渡しても


有数の尊王派一大軍事組織であり、


もし戊辰戦争等で組織が健在のまま参加できていたら、


土佐は薩長と同等の立場で政局を運営できていた筈と


弾圧を主導した張本人である山内豊信公が


薩長の後塵を拝する結果を招いた事実を見て、


後に後悔し、嘆いている。




 勤王党弾圧の直前に目指す路線の違いから


袂を別った中岡慎太郎と坂本龍馬は、


まるで退助と象二郎のように役割分担を徹底した。




 退助と慎太郎は尊王討幕に、


象二郎と竜馬は雄藩連合に、精力的に働いた。




 1866年(慶応2)、それぞれの立場と思惑から


慎太郎と竜馬が共同作業で3月7日薩長同盟を仲介成立させる。


 1867(慶応3)その功績により慎太郎・竜馬の両名は


脱藩の罪を許され藩籍復帰。


その後ふたり各々別々に動く。






 その頃退助は1865(慶応元)4月25日謹慎を解かれ


兵学修行(洋式騎兵術)の命が下る。


 翌66年になっても藩庁より引き続き学問、騎兵修行のため


江戸滞留の許可が下りた。


 要するにまだ帰って来るなとの命だった。




 この修行は藩庁にとって目障りな退助を遠ざけ、


その間に藩の実権を固める意図が見えてくる。






 目前に迫る倒幕の嵐の前夜、


江戸の町には退助にとって運命の出会いが待ち受けていた。




 薩摩藩士の英傑との会食で


たまたま入った料亭で思わぬ人に出会ったのだ。




 「・・・!!  お菊・・・。何故おまんが?」


「退助様!!! お懐かしゅうございます。」


大そう驚いた様子のお菊であったが、


「ご活躍は私の耳にも入っております。


 もしかして、いつかこの日がやってくるやも?と


少し期待もしておりました。」


「和主わぬしはここで一体何をしておる?」


「今、私はここの女将を務めております。


ここでは何ですので、後で落ち着いたら


場所を改め、お話させていただきとうございます。」


「ふむ、分かった。では後程。」


 そう言って別れたが、その後の会食での会話の内容は


退助にしては珍しく


『心ここに無し』の状態がありありだった。


そんな様子に訝しがる大久保一蔵(利通)が、


「退助どんどないした?」


他の側近の藩士たちが調子にのり、


「腹痛でごわすか?」


「何を呆けちょる?」


など散々な言われようであった。




「やかましか!!」


鼻の頭を真っ赤にして退助は狸寝入りを決め込んだ。




 その日の会食は早々にお開きとなり、


面々が帰った後、ひとりになった退助は


お菊が別に設けた部屋に移動する。




 接客がひと段落したお菊がやって来たのは


小半時程過ぎた頃だった。
















    第14話  女将お菊










 退助にとって、お菊を待つ時間は永遠に思えた。


別れてから気が遠くなるような時間を耐えたのだ。


途中、お里と暮らした時間も存在してはいたが、


どんな時も頭の隅にはお菊がいた。




 自分の手の届かないところに行ったお菊を


忘れられるはずはない。


 離別したお里には悪いが、


退助の心にはお里の部屋とお菊の部屋が存在する。


 男は記憶の上書きはできない。




 では女は?




よく耳にするのは、


「女は恋をする度、上書きする」との言葉。




 では本当に、それまで経験した本気の恋まで


新たな恋に上書きされてしまうのか?


完全に過去の記憶を消し去ってしまうのか?




 そんなことはあり得ない。




 男脳と女脳の違いはあるだろう。


でも大切な人の記憶を完全に消すなど、


男にも女にも絶対に無いと信じる。




 今こうして同じ建物の、


すぐそばにお菊が存在する。


もうすぐ自分に逢いに来る。


 夢にまで見た再会の喜びと緊張が


退助の座る座布団に伝わり、


お菊を引き寄せる見えない力となって


引き寄せられるお菊であった。




 「失礼します。」


お菊の声と共に襖ふすまが静かに開く。


 「お久ししゅうございます。」


「おお、お菊も息災でなにより。」


「退助坊ちゃまは大そうご出世なさり、


ご立派な殿方におなり遊ばされました。


 菊は嬉しゅうございます。」


「まだ坊ちゃまと呼ぶか。


ワシももう三十ぞ(満29歳)。


それに今は失脚中で果てない江戸修行の身。


 何度出世してもいつも振り出しに戻る


へぼ双六のような人生じゃ。


 どうじゃ、情けなかろう?」


退助は努めて明るく笑いながら言う。




 「退助様の噂は逐一菊の耳に入っております。


だから御身の浮き沈みの様もよく存じております。」


 菊の言葉に、


退助は積もりに積もったお菊の情報を欲しがった。


 「ソチのその後を知りたい。


順を追って申してみよ。」




 菊は居住まいを正し、


「あれからお屋敷を出た私は、


御親戚であらせられる北川郷の前野様宅にて


高知のお城に上がるための修行のため


半年ばかり御厄介になり、


その後、お城へ2年ご奉公させていただきました。




 宿下がりのおり、身元保証をしてくださった前野様より、


良きご縁談を紹介していただきました。




 それが今の亭主の定七でございます。


定七はカツオ漁網元の次男で、


獲れた海産物の販路拡大を当主である親に訴え、


江戸にある海産物問屋と


ここ日本橋の小料理屋を買収し、


江戸進出を果たしました。


 それが今から10年前の事でございます。


それから私は女将として小料理屋の采配を任され、


土佐のカツオで御店たなを大きくし、


今ではこの料亭に姿を変えております。


 だから国許からの退助様に関わる情報は


他の情報と合わせ、


船で行き来する家人から得ていたのでございます。」


「そうであったか。


 ワシはそなたのその後の消息を殆ど知らなかった。


 唯一そなたが何処ぞの者と


祝言を上げるらしいと云う噂を最後に


一切聞いておらぬ。」


「私は手に取るように退助様の事は


全部承知しておりました。


 退助様が道場の娘様と祝言をあげた事も。」


「あれはソチがワシを待てず


知らぬ者との祝言の話を聞いたからじゃ。


それに今は離縁してひとりぞ。」


「そうでございましたか?


それは存じませんでした。


 どうして再婚なさいませぬ?」


「それは・・・、暫くは考えとうないからじゃ。


 婚姻は疲れる。


 和主わぬしと引き離され、


妻だった里と引き離され


ワシは疲れた。分かってくれるじゃろ?


 離縁後いくつも縁談はあったが、


ワシが総て断っておる。」




「それでは私がいつまでも独り身を通していたら、


お迎えに来てくださったと云うのですか?」


「勿論じゃ!別れの時、そう言うたじゃろ?」


「そんな事、無理に決まっています!


私と退助様では身分が違います。


そんな事、そんな事!!・・・・。」


 お菊は涙声になった。




 退助はそっと抱きしめたい衝動に駆られた。




「お菊、よく聞け。


ワシが今必死で働いているのは、


ワシとお菊のような身分違いでも


祝言を上げられるような


世の中にしたいからじゃ。


 今はまた失脚してしまったが、


近日中に必ず復活する。




 地位や名誉や金のためではない。


お菊に約束した思いを果たすためじゃ。




 お菊と添う事は出来なくなったが、


あの時の約束は必ず守る。


 身分違いから、悲しい思いをさせた菊への


せめてもの誠意と思ってくれ。




 そして明日のワシの出陣を見守ってくれ。」




 お菊はこのまま退助について行きたい


と心の中で強く思った。


 でもそこはお菊の生まれ持った性格が


邪魔をする。




 再会しても添う事の出来ない現実が


お菊の心を悪魔にする。




「退助様を見守るのは大そう骨が折れます。


 だっていつも浮いたり沈んだり。


 見ている方も疲れますのよ。


 まるで小さい頃から喧嘩で勝ったり


負けたり、負けたり、負けたり。


 あの時と全く変わっていませんもの。」


「何じゃ、その勝ったり、負けたり、負けたり


負けたりとは?


やけに負けが多いではないか!


ワシはそんなに負けておらんぞ!」


「あら、私が知る限りでも


蛇に加勢してもらい、


ようやく勝てた事がございましたが?」




 退助は思い出した。


11歳の時、福岡孝弟たかちかとの喧嘩で


負けた時の事を。


 退助は顔を真っ赤にして


「あれ一回だけではないか。


 その後は一度も負けておらんぞ!」


「あら、お殿様には何度も打ち据えられていると


ご城内ではもっぱらの評判でしたのよ。」


「おまんらはご奉公中に、


なんちゅうくだらん噂話に花を咲かせておるんじゃ?


情けんなかぁ~!」




 しかしお菊の情け容赦ない追及は続く。


 「それに退助様は妙な変態めいた剣で


お殿様に立ち向かったと。


 ご城内の女子の間では、


退助様はご変態であらせれれると。」


「あんなぁ、おまん・・・。もうそのことは忘れよ!!


 良いな、今すぐ忘れろ!」


「ハイハイ、忘れるよう努力いたします。


 退助坊ちゃま。」


「坊ちゃまと呼ぶな!」




 いつの間にやら昔に戻っているふたりであった。




 その日を契機に、


江戸滞在中はもとより、


東京と地名が変わっても


日本橋にほど近いこのお菊の料亭に


足繁く通う退助であった。








 お菊との再会は、戊辰戦争前夜の退助にとって


歴史的に驚異の働きを見せる原動力となった。










 退助の決意が


象二郎と慎太郎、竜馬の動きを加速させる。












   第15話 お菊の想いと倒幕への道










 退助はお菊の強い勧めにより


再婚する意思を固めた。




 次に縁談の話が出た時には


前向きに検討すると、国許の年老いた母に書にて告げる。




 母は歓喜し、すぐに次の縁談を用意すると伝えてきた。


母は強引に離縁させたことを


死ぬほど悔いていたのだった。




 いくらふたりの間にいつまでも子ができぬからと言って、


お里が乾家の家風に合わないからと言って、


離縁後退助が再婚を頑なに拒むとは考えていなかった。








 再会後退助は、お菊の料亭『土佐の里』に通う。




 多忙な女将の菊が


いつも時間を割けるとは限らないが、


退助と逢えるのを一番の喜びと考え、


大切にしていた。




 退助は菊に告げた。


「先日母からの返事が届いた。


 すぐにでも再婚相手を探すので、


早く国許に戻ってこいとな。


 藩庁からの帰還命令が来次第


多分見合いをすることになろう。


菊、本当にそれで良いのか?」




 菊が頷く。


「私も退助様の世継ぎを早く見とうございます。


 もし会う機会があればの話ですが。


 もしこのまま独身の退助様と頻回に会っていたら、


誤解を招きます。


 夫の定七の前では退助様との関係を


勘ぐられることなく堂々としていたいので、


是非身を固めていて欲しく存じます。」




「そうか、では話を進めよう。


本当に良いのだな?・・・な?・・な?」


「退助様、未練がましいですよ!


いつまでも私は退助坊ちゃまの


恋人や姉上の替わりではないし、


お世話係でもいられませんのですからね。」


「別に未練から云うておるのではない。


ワシは菊の気持ちを慮ってだなぁ・・・」


「ああ、そうですか!私のことはどうぞご心配なく。


それより、見合い相手に軽蔑されたり、


馬鹿にされないようにお気をつけなさいませ。」


「何故ワシが馬鹿にされる?」


「あなた様は、どうもここぞという場面で、


信じられないような奇行に走る傾向があるからです。


私は幾度もそういう場面に遭遇しておりますので。」


「ワシが馬鹿や間抜けと申すか?」


「いいえ、そうではありません。


そう云う状況に陥りやすい性格をしていると


申し上げたいのです。」


「全然フォローになっておらぬな。


馬鹿と呼ばれるのと大して変わらぬと思うぞ。」


「何をおっしゃる!!


これから大成しようという


立派な土佐男と思えぬ、何と云う細かさ!!


そう云うのどうかと思いますよ。」




「・・・・。」




 いつも菊に丸め込まれてしまう退助であった。








    倒幕の道筋








 ここからは退助にとって


怒涛の活躍が始まる。


その間、再婚という大きな出来事もあるが、


この回は倒幕の動きに絞り、時系列を追って紹介したい。


再婚話の詳細は次回に持ち越す。










 1866年(慶応2)3月7日


坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介により


薩長同盟が成立した。




 その年を境に倒幕・佐幕の面々の活動が活発化し


日本史上稀に見る激動の流れが押し迫る。


その目まぐるしい動きは実にややこしいが


どうかついてきて欲しい。










 薩長同盟成立の頃、


後藤象二郎は藩命により薩摩・長州に出張、


その後上海を視察し海外貿易を研究し


坂本龍馬と交わっていた。


 当然薩長同盟の仲介時期と重なり、


佐幕派でありながら時節柄


倒幕勢力結集の様を目の当たりにしている。




 7月18日,第2次長州征伐が始まる。


しかし7月20日将軍家茂急死により


幕府側は腰砕けになり、掃討は中止となった。




 その事が幕府の威信低下に拍車をかけ


一気に倒幕の機運が増した。




 一方薩長同盟締結仲介の功により、


中岡慎太郎、坂本龍馬の両名の脱藩の罪を免ぜられる。


藩籍復帰した両名は、


薩摩藩と土佐藩の武力討幕の密約を


藩外の土佐勤王党残党に知らせた。




 一方退助は11月5日騎兵修行の命を解かれる。


12月に入り薩摩藩士吉月友実と会見、


薩摩藩の動向を確認、


1月には水戸藩急進派浪士を


独断で江戸の土佐藩邸に匿った。




 井伊大老暗殺以降、


水戸藩内での藩士の跳ね上がった行動を


厳しく取り締まる風潮から


行き場を失った志士を守るための


やむを得ぬ行動だった。




 退助にとってそれは死を賭けた


博打である。




 もう後戻りはできない。




 実質的藩主である豊信公に知れたら


切腹ものの越権行為であり、


藩そのものの存続を脅かす危険な行動だったから。




 当の豊信公は5月、薩摩主導の四候会議に出席、


薩土密約を締結する。


 しかし約束した舌の根も乾かぬうちに


別の盟約に翻弄される。




 即ちその動きとは・・・、




 退助は6月20日、


脱藩を許された中岡慎太郎の手紙を受け取り


急ぎ上洛し、中岡と会見した。


 その場で倒幕を議し、西郷と会見。


退助は「戦となれば藩論の如何にかかわらず、


30日以内に必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」


と約束。


 更に同行した慎太郎は、


自らその人質となり


薩藩邸に籠ると決意を述べた。


しかし西郷は「それには及ばず(信頼する)」


との言葉を得て、


薩土討幕の密約を結んだ。




 実は西郷自身、この時点では


まだ倒幕と列藩会議による主導との間で


揺れ動いていたのだが、


土佐との盟約も絶対必要な条件だった。


 それ故「それに及ばず。」との答えになったとは


退助、慎太郎は知る由もない。




 6月23日慎太郎の仲介にて


豊信公を西郷隆盛に会わせるための書簡を発し、


6月24日退助、豊信公に拝謁、


1月の水戸藩浪士の独断での藩邸匿いの行為を


正直に詫びを入れた。


 更に薩摩藩との倒幕の密約締結を報告し


了承を求める。






 豊信公は眉間にしわを寄せ、


「困った奴よのう。


どうしてお前はそういつも過激に先走るのじゃ?


少しは余を立てて自重したらどうじゃ?」


「殿、世は風雲急を要しております。


 時節はもう倒幕に急加速で走り出しました。


 私は殿と我が藩をその時流に


乗り遅らせる訳にはまいらぬと考えます。


 何としても殿が先頭を切って藩内を結束させ、


我が藩がこの国の行方を先導すべき時と思います。


 新しい世を作り出さねばならぬのです。


殿の了承を得ぬまま


勝手な行動をしでかしたことをお詫びいたします。


 殿から死を賜りますれば、


見事腹を掻っ捌く所存でございます。


 しかし私が死を賭してでも


成すべき事を殿に承知していただき、


我が屍を乗り越えてゆく志士たちの先頭には


常に殿がいて欲しく思います。






 殿、ご決断を!!」




 豊信公は深く考え込むのだった。


 そして「ふむ。」と頷き、


退助を許した。


 豊信公は先に列藩四公会議にて約束を取り交わした手前、


自分の考えと退助の行動は異なり矛盾が生じるが、


さりとて退助という人材をを失うつもりもない。


 今こそ退助が活躍しべき時であるとも確信していた。








 密約に基づき退助は谷千城、中岡慎太郎に


当時の最新鋭アルミニー銃300挺購入を命じ、


その後も揺れ動き、煮え切らないままの豊信公は


退助と共に土佐帰国。




 そして事態は更に動く。


7月23日、京都三本木料亭「吉田屋」において、


薩摩の小松帯刀、大久保一蔵(利通)、西郷吉之助、


土佐の日野春章、後藤象二郎、福岡孝弟、


中岡慎太郎、坂本龍馬との間で、


大政奉還の策を進めるため、薩土盟約が締結された。




 薩摩・土佐間の倒幕の密約、


同じ藩同士の別の勢力による大政奉還の密約と盟約。




 実に複雑で分かりにくいが、


同じ年に同じ藩の別勢力によるベクトルの異なる


約束が交わされた。




 倒幕派と佐幕派のせめぎ合いが、


土佐藩内でも活発化する。




 その結果、9月17日土佐藩論は大政奉還に決す。


(11月9日大政奉還成る)




 そんな流れの中、遅ればせながら


退助の水戸藩浪士を匿う越権行為の情報を掴んだ


国家老などの守旧派は、


倒幕論者退助の完全追い落としを図る。


 即ち7月3日、国許に帰国したばかりの豊信公に


退助の越権行為を告げ口し、処罰を求めたのだ。


 その時豊信公は、


「その件はすでに承知しておる。


しかし退助は暴激の擧きょ多けれど、


毫すこしも邪心なく私事の爲に動かず、


群下みなが假令たとへ之これを争ふも


余は退助を殺すに忍びず。」


と擁護した。




 退助は命拾いし豊信公の命により公に復権した。




 7月14日大監察(藩内大目付)となる。




 7/17、町人袴着用免許以上の者に


砲術修行允可の令を布告。


8/16銃隊設置の令を発す。


 8/21、古式ゆかしい北條流弓隊は


儀礼的であり実戦には不向きとして廃止。


 8/23、参政(仕置役)へ昇進し


軍備御用兼帯・藩校致道館掛を兼職。


 銃隊を主軸とする士格別撰隊を組織し


兵制改革・近代式練兵を行った(迅衝隊の前身)。


9月3日 退助、東西兵学研究と騎兵修行創始の令を布告。




 9月17日、退助、土佐藩より


アメリカ合衆国派遣の内命を受ける。


しかし後に中止となる。


 9月18日乾退助、守旧派の圧力により、


再び土佐藩軍備用兼帯致道館掛を解任される。


 10月3日、大監察に復職。


退助は薩土討幕の密約をもとに


藩内で武力討幕論を推し進め、


佐々木高行らと藩庁を動かし、


土佐勤王党弾圧で投獄されていた


島村寿之助、安岡覚之助ら


旧土佐勤王党員らを釈放させる。


これにより、諸国に散らばっていた勤王党の志士たちは


土佐七郡(全土)に集結した。


そして勤王党の幹部らが議し、


退助を盟主として討幕挙兵の実行を決断。


武市瑞山が起こした土佐勤王党を、


乾退助が事実上引き継ぐこととなる。




 ここに退助による土佐藩の軍事力結集が成った。




 ついに鳥羽伏見に続く武力討幕の道筋が整う。












     第16話 見合い












 退助が土佐に帰国すると


年老いた母幸子が待ち構えていた。




 退助の顔を見るなり、


「お帰り。」も


「息災であったか?」の言葉も無しに


見合いの話を持ち出す。




「退助、ソチの見合い相手が決まった。


明日、勘定方勤番、中山弥平治の娘と会いなさい。


既に手筈は整っておる。」




「はぁ?明日ですか?


旅の疲れもとれぬと・・・」


 まだ言い終わらぬうちに


「良い娘です。


 会ったらたら旅の疲れなど吹き飛びましょう。


四の五の言わずに身支度を整えておきなさい。」


そう言って敷居の奥に下がってしまった。




「相変わらず無茶苦茶な母よ。」


控える下男に旅の荷物を渡し、


草鞋を脱ぎ、足を注ぐ退助であった。




 その日の夕餉もそこそこに


床に就くが、「良く眠れぬ。」


身体は疲れているのに、寝不足のまま朝を迎えた。


心のどこかで、


新たに会う娘に期待する自分がいたのだろう。




(良い娘?


母は良い娘とは云ったが、


美人とも可愛いとも言っておらなかった。


その辺がどうも怪しい。)




 しかし、昼過ぎに城下の


しかるべき料亭で逢ってみると、


慎ましく俯うつむく姿が楚々とし、


面を上げた顔は、


あたりをほんのり明るく照らすようであり、


退助は唖然とした表情のまま


暫しその場に言葉なく固まってしまった。




 「お初にお目にかかります。


展子ひろこと申します。」


 コロコロとした音色の口笛のような美しい声が


瞬く間に退助の後頭部の


頭蓋骨内部の隙間に響きわたり、


埋められてしまった。




 一瞬にして心を奪われた?




 しかし、そんなイメージを打ち壊す会話に移る。










「退助様って思った通りのお方。


展子は安心しました。」


「思った通り?


ソチはワシをどのように思っていたのか?」


「最初、このお話をいただいたとき、


『怖い』と思いました。


第一線でご活躍される殿方と聞き、


私などのような不束者が務まるのかと


不安だったのでございます。」


「そうか、第一線とはいっても


ワシは浮き沈みの激しい男じゃが。


 沈んだ時は恐ろしく暇人ぞ。


まあ、不安な気持ちは理解できるが。


 では何故考えが変わった?」


「それは、退助様の風評を耳にしたからでございます。」


「風評?(嫌な予感がする)


誰から何を聞いたのか?」


「それはもう、退助様を知る者にいとまはございません。


 退助様とは如何なる吾人か?と問うと、


誰も皆、一を聞くと十の答えが返ってきます。


話したくて仕方無くなるほど


話題性の豊富な方と分かりました。」


 思わず気まずい顔になった退助は、


「ウォッホン!」と咳ばらいをし、


「如何なる話題か申せ。


いや、申すな。


どんな話が出たか想像できる。」


 身から出た錆と埃だらけの日頃の行いを思い出し、


たじろぐ退助であった。


「あら、そんな悪い噂ばかりではありませんでしたのよ。


少しは良い噂も。」


「悪い噂ばかりではない?


少しは?と云う事は


殆ど悪い噂と云う事であろう。」


「勿論それはご自身が一番存じていらっしゃる事。


貴方様の武勇伝については


今更私の口からは申しません。


 でも、こうも言われています。


『退助様は義のお方。


強きを挫き、弱きを助ける心優しいお方。


 日頃の行いや言動に似合わず、高い志をお持ちで、


決して不正や理不尽に屈しない。


 私心無く、高潔なお方である。』


 それらの意見を聞き、


退助様は全体としてギリギリ立派なお方と


お見受けいたしました。」


「全体として・・・、ギリギリ?・・・かぁ。


 不満は残るが、まあ良い。


都合の悪い臭い物には蓋をしておこう。


 悪い評価は聞かない事にする。」


「これで私の退助様の感想は


お分かりいただけたでしょう?


 それでは退助様は私をどうご覧になりました?


第一印象で結構です。


 忌憚ない感想をお聞かせください。


前の奥様と比べて、私は合格?不合格?」


「前の奥のことは口にするな。


 ワシも和主とお里を比べたりせぬ。


ワシはどうやら明るく気の強い女に縁があるようじゃ。


 それだけは言っておく。」


「ご感想はそれだけ?


それではあんまりです。


 可愛いとか、美しいとか、非の打ち所がないとか、


もっと突っ込んだご意見を。」


「何じゃ、見かけによらず図々しい要求じゃな。


和主はそういう甘い言葉が欲しいと申すか?


しかしワシはあまり調子に乗ってしゃべると、


いつも墓穴を掘るから


たいがいにしておけと言われておるでの。」


「あら、どなたに?」


女の勘とは恐ろしいもの。


 お菊のアドバイスを鋭く感じ取った展子であった。


退助は「しまった!」と思った。


 まだ未練を残してはいるが、


やましい事はしていない。


でも展子には、お菊の事も触れられたくない。


 今は知られたくない。


「ワシを知る者からじゃ。


どうもワシはいざという時、


気まずい仕儀に陥る傾向があるそうじゃ。」


 追及を煙に巻かれた展子は


「私もそのような場面を見とうございます。


 尚一層の親近感が持てると思いますので。


 きっと退助様にアドバイスしたお方は


余程退助様の事を良く知ってらっしゃり、


お好きなのでしょうね。」


 (危ない、危ない。


この女子には下手なことは口に出せんな。)


ボーっと考えていたら、


「あら、退助様ったら!


今何をお考えだったのですか?」


「何って、・・・・日本の将来・・・。」




「嘘つき!」




 有無を言わさず、一月後


内輪だけの祝言が挙げられた。












  第17話 鳥羽伏見の戦い前夜










 再婚の退助に対し、


初婚の展子は家の体面もあり、


内輪だけでも婚儀をとの希望もあり、


ささやかな式が執り行われた。




「これで退助がフラフラする事はもうあるまい。


カッ、カッ、カッ!」


再び身を固めた事を媒酌人の叔父・平井政実は


上機嫌で大変喜んだ。




「叔父上!」


退助は眉間にしわを寄せ、


小声でそれ以上余計なことを喋るなと


目で合図した。




 鋭い展子はすかさず


「あら、退助様、


今までフラフラなさっていたのですか?


どうフラフラされていたのでしょう?」


 こちらも小声で


ひな壇の隣にいる退助に聞いてきた。


 退助の過去の評判を知るにつけ


聞きたくなるのは当然である。




 それに対し、脛に傷持つ退助は当然とぼけて


「ワシがフラフラなどするはずはあるまい。


 あくまで独り身男の一般論として言ってみただけじゃろ。」


「そうかしら?怪しい・・・。


叔父上様ァ~!」


 展子は叔父に向かって問い詰めようとするが


慌てた退助が遮る。


 「叔父上、ご多忙の中、


本日は大酌人の大任、お引き受けくださり


新妻の展子共々、心から感謝申し上げます。


 私は明日には登城の上、


直ぐに喫緊の仕事に取りかからねばなりません。


 つきましては別途ご相談したき儀がございますので、


後程お付き合い願いとうございますが、如何?」


「フム、そうか?あい分かった。」




 本当は相談など無かった。


退助は目配せで政実叔父の昔話を封じた。


 「時に叔父上、云々・・・・・。」


話題を変える事に成功した退助を横目で見る展子は、


大そう不満げであったのは勿論である。


 (もっと退助様の事を知りたいのに・・・恨めしや。


今夜は質問攻めにしてあげましょうぞ。)


 この時展子による退助への尋問の刑が確定した。


 その日の夜、退助にとって防戦一方の


最も過酷な一夜になったのは言うまでもない。












 「新婚初夜だというのに、可哀そうに。 




 チ〜〜ン!!」




(・・・・作者の独り言です)












 翌日、またしてもいつぞやの時と同様に


寝不足となった退助は、


言葉通り久しぶりに登城した。








 ここで土佐藩を巡る情勢を


若干おさらいしたい。










 列藩による四候会議は失敗に終わり、


政権内部での主導権争いに敗れた諸侯、


とりわけ薩摩藩の西郷隆盛は、


幕府を交えた列藩連合政権に見切りをつけ、


倒幕に大きく舵を切る決意をした。




 倒幕実行の機運の高まりと西郷との密約実行要請を受け、


ベルギー製最新鋭銃


『アルミニー銃』300丁を手に入れた退助は、


それまでの弓隊を銃撃隊に組織を改編、


土佐勤王党残党、下士や郷士を加え、武力討幕部隊として


後の迅衝隊(隊員数600名)を組織した。


 ここで注目すべきなのは、


町人袴着用免許以上の者に


砲術修行允可の令を布告したこと。


 武士以外に門戸を広げ、兵制改革、近代式練兵を行うなど


明治維新に繋がる先進的・画期的改変を実行したのである。




(これとは別に、


上士で構成し鳥羽伏見の戦いに参戦した(後に登場する)


『胡蝶隊』という部隊も存在した。)




 しかし7月8日京都から帰藩した後藤象二郎が


坂本龍馬と共に起こした策『大政奉還論』を豊信公に献策。


 藩論は振り子のように大きく動く。




 大政奉還が成されると、倒幕の大義名分が無くなる。


それでも退助はあくまで武力討幕を主張。




「大成返上の事、その名は美なるも是れ空名のみ。


徳川氏、馬上に天下を取れり。


然らば馬上に於いて之これを復して


王廷に奉ずるにあらずんば、


いかで能よく三百年の覇政を滅するを得んや。


 無名の師は王者のくみせざる所なれど、


今や幕府の罪悪は天下に盈みつ。


此時に際して断乎たる討幕の計に出でず、


徒いたずらに言論ののみを以って


将軍職を退かしめんとすは、迂闊を極まれり。」




(大政奉還論など空名無実である。


徳川300年の幕藩体制は


あくまで武力によって作られた社会秩序ではないか。


 であるならば、武力によってしか覆すことはできない。


なあなあの話合いなどで将軍を退任させようなどと、


そんな生易しい策では


早々に破綻するのは必定である。)




 大政奉還論を全否定した退助は、


全役職を解任され再び失脚した。








 呆れ返る展子。






 しかし何故か笑顔を見せてこう言った。


「見合いの席での『度々失脚』のお言葉は


本当だったのですね。」




 その内心は、新婚早々多忙を極めた退助が


「恐ろしく暇になる。」と云った


退助の言葉を思い出し、


是非そうなって欲しいと願ったからである。


 ようやく水入らずの


落ち着きある新婚生活ができると


喜ぶ展子であった。




 しかし・・・・・


それはつかの間の糠喜びだった。






 全役職を解任された退助は平然とし、


少しもしょげ返ってはいなかった。




 即ち京都で合戦が勃発すれば、


薩土討幕の密約に基づき、


同士と共に脱藩、


武力討幕に加わるつもりでいたからである。






 1867年(慶応3)11月9日


大政奉還成る。




 1868年1月(太陰暦 慶応3年12月)


失脚中の退助を残し、土佐藩兵(胡蝶隊等)上洛。


 伏見の警護に着任。


 薩摩藩西郷隆盛、薩土密約に基づき、


乾退助を大将として国許の藩兵を上洛・参戦を


求めてきた。




 1月27日鳥羽伏見にて開戦勃発。


土佐の山田隊、吉松隊ら


藩命を待たず薩土密約履行のため参戦する。


情勢が想定外に大きく変化した事に慌てた藩庁は、


2月2日退助の失脚を急遽解く。


更に迅衝隊の大隊司令として出陣、


戊辰戦争に参戦すべしとの命が下る。


 これにより退助の脱藩計画は消滅する。


 大手を振って参戦できるのだ。




 展子の願望はあっけなく砕け散り、


退助の出征を見送る事となった。




 最後の夜。




 真冬の澄んだ夜空に浮かぶ月が


ふたりの姿を映し出す。




 展子は退助の胸の中で呟く。


「浮気しないで帰ってきて。」


 退助は展子の顔を覗き込み、


「どうかご無事で、とかの言葉は無いんか?」


展子が顔を上げ、退助を見据えて言う。


「あなたが無事でお帰りになるのは


間違いないと信じております。


 ただ、私わたくしの見て居らぬところで


何をされるのか、


そちらの方が心配です。


ほら、ご媒酌の叔父上様も


言っていらしたじゃないですか。


『独身時代、フラフラしていた』と。」


「だからあれは一般論であると申したであろうが。」


「この私にそんな言葉を信じろと?


・・・無理!!」




 翌朝、やはり涙の出征見送りとなった。








 3月11日退助率いる迅衝隊が美濃大垣に到着。






 しかしその3日前の


1868年(慶応4)3月8日和泉の国、堺港で


世間を揺るがす大事件が起きた。
















※ 今回の物語には、一部切腹の描写があります。


 残酷・グロテスクと感じる場合がありますので、


 苦手な方は読まれるのを控えていたくか、閲覧注意の上ご覧ください。










    第18話  堺事件










 1868年(慶応4)2月6日深尾成質総督、


乾退助大隊司令率いる迅衝隊が土佐を出陣した。


 そこに丸亀藩、多度津藩が参集、


讃岐の国高松藩(旧幕府方)に進軍した。


鳥羽伏見での幕府方の敗退に衝撃を受け、


丸亀藩、多度津藩の寝がえりに、


もはやこれまでと家老二名が切腹、降伏した。


 残る伊予松山藩も2月27日も無血開城。


 四国全土の無血統一を果たした。






 退助らが率いる迅衝隊が


美濃大垣に到着したのは3月11日。


 しかしその3日前の1868年(慶応4)3月8日、


和泉の国、堺の港でフランス水兵と土佐藩士による


殺傷事件が起きた。


 それは迅衝隊の進軍経路上でもあり、


ひとつ間違えば迅衝隊が事件の当事者になる筈の


極めて危険なニアミスだった。




 事件の概要はこうである。




 鳥羽伏見の戦いを皮切りに始まった戊辰戦争。


幕府方の敗走により一時無政府状態となった堺を


土佐藩兵が臨時警備を担当する事となる。


 戦乱と共に、攘夷の機運も未だ衰えぬ中


(この年、畿内だけで三度の外国人殺傷事件が起きている。


即ち、神戸事件(2月4日)、堺事件(3月8日)、


パークス英国公使襲撃事件(3月23日)である。)


 午後3時頃、フランス海軍コルベット艦


デュプレクスが、


フランスの神戸事件の後処理に出向いた


領事と艦隊司令官らを迎えるため、


日本国内を当然のように無許可で入港した。




 堺入港と同時に港内の測量と、


水兵の上陸を勝手に行う。




 その上、上陸した下士官以下数十名の水兵が


市街にて、したい放題の乱暴狼藉を働いた。


 神社仏閣に無遠慮に立ち入る。


 勝手に人家に上がり込む。


 婦女子を執拗にからかう。


などである。


 当時列強の圧力によって開港された港の中に


堺港は入っておらず、


町人たちは外国人に慣れていない。


 結果、傍若無人なフランス水兵たちに恐れおののき、


逃げ惑い、戸を閉め籠る者たちが続出し、


警護に当たった土佐藩兵に助けを求めた。






 フランスを含め、


当時の白人たちは偏見と優越感の塊りであった。


(今でもさほど変わらないが)


彼らにとって日本人も他のアジア人同様、


サルに等しい劣等種族に過ぎない。


 何をしようと自分たち優秀な白色民族の勝手であり、


お前たちサルの指図を受ける筋合いなど無い。




 それ故、丁寧に注意の『お声かけ』をする


土佐藩兵に対し、口笛を吹いて挑発、


からかい、罵倒した。


 云う事を聞かない彼らを藩兵隊はやむなく逮捕、


連行しようとした。


 しかし突然、水兵のひとりが藩兵の隊旗を奪い取り、


逃亡する暴挙に出た。




 隊士たちにとって旗を奪われると云う事は、


死を以って償わなければならぬほどの大失態である。


当然、『えらいこっちゃ!!』である。




 当時土佐藩兵の中には、鳶とび職人も存在した。


(注:退助が町人袴着用免許以上の者に


砲術修行允可の令を布告している。第17話参照)


隊旗を取り戻すため、


 梅吉というひと際足の速い鳶頭が必死で駆け、


隊旗を奪い逃亡するフランス兵に追いついた。


隊旗の取り合いが始まり、


悪ふざけの極みから、


返す意思を見せない犯人に対し、


やむなく手に持った鳶口で応戦、


はずみで水兵の脳天に打ち降ろしてしまった。


 水兵は断末魔の叫びをあげ倒れ即死。


梅吉は隊旗を取り戻す。


これを見た水兵が、


いきり立ち、復讐に燃え上がる。




 短銃で一斉に反撃の報復射撃を始めた。




 それに反応し藩兵隊の箕浦、西村両隊長が


咄嗟に「撃て」の号令を発する。


隊員たちは70丁の銃口から


一斉射撃を開始、11名の水兵が死亡、


その中には下士官もいた。




 この事件はまかり間違えば


戦争に発展するほどの


大事件である。


どれくらい深刻な事態だったか。




 事件を知った現地の幕府側敗残兵が


「どうぞ私たちが設置した砲台を使ってください。


この後報復攻撃のため、攻めてくるであろう


フランス艦隊に応戦するときの


お役に立ててください。」


昨日まで敵側だった幕府方藩士に


そう言わしめさせたほどの


極めて危険な状況に陥っていたのであった。




 この事件はどう見ても


非はフランス側にある。


 しかし、彼らは自分の非を棚に上げ、


日本人をサルと見下し、


土佐藩士が自軍の兵士を殺害した罪のみを


厳しく追及してきた。


 しかしさすがに戦争まで事を荒立てるつもりはない。


当時のヨーロッパ情勢は


微妙なパワーバランスの上の


薄氷を踏むような平和の中にあった。


 フランスもその例外になく、


いつ本国が隣国から攻め込まれるか知れないのに、


こんな極東の地で兵力の迂闊な浪費はしたくない。




 結局フランス側駐日公使レオン・ロッシュは


解決条件として武力ではなく、


交渉による妥協の道を選んだ。


その要求は


・下手人たる土佐藩隊長以下隊員を


 暴行の場所に於いて、日仏両国検使立会の上、


 斬刑に処する事。


・賠償として、土佐藩主は15万ドルを支払う事。


・外国事務に対応可能な親王がフランス軍艦に出向き


 謝罪の意を表す事。


・土佐藩主もフランス側に出向き謝罪する事。


・土佐藩士が兵器を携えて


開港場に出入りする事を厳禁する事。




の五ヵ条の抗議書を日本側に提示した。




 当時列強各国公使、及び艦隊は、


神戸事件の絡みから大阪湾に集結、


一方、明治政府側の主力兵力は


戊辰戦争の真っ最中と云う事もあり、


関東に集結していた。


 この状況で戦端が開かれれば、


日本の敗北は間違いない。


 2月22日、やむなく賠償金15万ドルの支払い、


発砲した者の処刑など、すべての主張を呑んだ。


武力の差は歴然としており、


無念極まりない要求だが


受け入れざるを得ない。




 土佐藩は警備隊長箕浦、


西村以下全員を吟味したところ、


隊士29名が発砲を認めた。


3月16日大阪裁判所の宣告により


摂津国堺材木寺町の妙国寺で


土佐藩士隊長以下20人の刑の執行が


行われる事となった。




 「非はフランスにあり。


しかし今、日本は建国の大事な時期であり、


外国と争っている時ではない。


申しわけないが日本のために死んでくれ。」


生みの苦しみにあえぐ日本政府は、


土佐藩士20名に申し渡した。




 藩士たちは皆、快く承諾する。




 そしてフランス公使ロッシュ立会のもと


刑の執行が執り行われる時が来た。


即ち切腹である。




 この時点でロッシュは


刑の執行=銃殺くらいに軽く考えていた。


しかし切腹が始まるとたちまち青ざめた。




 まず箕浦猪之吉元章隊長(25歳)。


箕浦隊長はロッシュを睨みこう言い放つ。


「よいか!よく聞け!!自分は死ぬが


それはお前たちのためではない!


お国の為だ!われら武士の最後をよく御覧じろ!」


彼は迷うことなく、見事な割腹を果たした。


 割腹とはただ腹を切り裂くだけではない。


作法により、十字に切り裂く方法、


二字に切り裂く方法等があるが、


切り裂いた後でもまだ死なない。


 その後の痛みに消えゆく意識を乗り越え、


内臓を自ら取り出し、切り刻むのだ。


そこまでして初めて介錯人が太刀を振り下ろす。




 検分役を自ら買って出たはずのロッシュは


恐れおののいた。おろおろと慌てふためき、


吐き気を催した。


 次に西村佐平次隊長(24歳)。


西村隊長は余裕の表情を見せ


ロッシュから視線を離さず、


薄笑いを浮かべながら割腹した。




 こうして淡々と切腹は続き、


3人、4人、5人・・・。


10人まで執り行われた時、


ロッシュは気分の悪さが限界を超え


とうとうその場から逃げ出そうとした。




 しかし日本側立会人が言う。


「卑怯なり!お主たちの要求であろうが!


この場を逃げ去るとは何事ぞ!


最後まで見届けんかい!!


立会人が居らぬと刑の執行は成り立たんじゃろ!」


やむなくロッシュは席に戻る。




 しかし次の執行が終わると


もう我慢できない。


ロッシュは


「もういい、残りの者たちは助けてやってくれ。


我が方の被害は11人、そちらも11人。


これで痛み分けと云う事で手を打とう。」


何とも身勝手な主張をしながら


船に逃げ帰ってしまった。




 こうして残り9人の命は助けられた。










 この知らせを後日戦場で受けた退助。


目に涙を溜め、夕日をいつまでも眺めていたという。




 明治新政府の使命は


幕府が結んだ不平等条約の改正など、


国際社会に於ける対等な立場の確立にあったが、


常に強い危機感と緊張感に晒されていた。




 その決意を一番強く持ったのが


退助であったと私は思う。




 「この世は強き者が正義で、


弱きものは、常に従属か死しかない。


 正義を貫きたいなら、力を持つことだ。


 ワシは正義の人でありたい。」




 その強い意志を戦場で如実に表す機会が


すぐそこにあった。




 甲州勝沼の戦いである














   第19話 板垣退助 参上












 1868年(慶応4)1月27日(旧暦1月3日)


鳥羽伏見の戦いが始まり、


3日後の30日新政府軍側に


錦の御旗が掲げられると、


あくまでこの戦は徳川と薩摩の私闘であるとの認識で


朝廷や諸外国に説明していた


徳川慶喜の考えるスタンスが崩れた。


ここにきて総大将の慶喜は戦意を失い、


多数の兵を残しながら大阪城から逃亡、


江戸にもどってしまう。




 やがて江戸を目指し


進軍してくるであろう新政府軍を、


どこかで食い止めなければならない。


 朝廷に恭順したい慶喜の意を汲み、


勝海舟が急進的徹底抗戦派の


新選組組長近藤勇に対し、


出撃命令を下す。


 近藤が江戸にいては、


何かと邪魔と考えた勝は、


近藤に幕府直轄領である甲府を


新政府に先んじて掌握し


甲府城を拠点に迎え撃てとの沙汰を出す。


 近藤を遠ざける目的と、


時間稼ぎのためでもあった。




 


 自分もやっと城持ち大名になれると


喜び勇んだ近藤。


 新選組70と浅草弾左衛門率いる


被差別民200にて混成部隊を結成、


途中日野にて春日隊40を加え、


甲陽鎮撫隊と名を改めた。




 大砲6門、ミニエー銃など洋式装備で身を固め


3月24日江戸を出陣、


甲府街道を進軍する。






 一方退助率いる迅衝隊は


京都で先の鳥羽伏見の戦いに参加した土佐藩士と合流、


部隊を再編成した。


 江戸留学時代まで軍事知識を学んだ退助は


軍事の第一人者として大隊司令兼総督となり、


更に朝廷より東山道先鋒総督府参謀に任ぜられる。


 そして3月9日(旧暦2月14日)


東山道を進軍する。


 この日は乾退助の12代前の先祖


板垣信方の320回忌にあたる。


 板垣信方は武田信玄家臣・二十四将のひとりであり、


四天王のひとりでもある、


甲斐の国でひと際人気の高い武将であった。




 退助は命日を進軍中の美濃で


武運長久を祈念する。




 その際、岩倉具視から


「甲斐源氏武田氏の家臣板垣氏の末裔である事を


アピールし、甲斐民衆の支持を得よ。」


との助言から、板垣氏に姓を復した事を


高らかに宣言した。








 乾退助改め、『板垣退助』の誕生である。








 近藤勇の甲陽鎮撫隊が出陣した3月24日同日、


板垣の東山道先鋒総督府軍は、


下諏訪で二手に分かれる。


 本隊を伊地知正治が率い中山道を進み、


板垣の迅衝隊は別動隊として、


鳥取藩兵と共に


高島藩一個小隊を案内役に甲州街道を進撃、


幕府天領の甲府を目指した。






 この時点で近藤率いる旧幕府軍と


退助率いる迅衝隊は大きく明暗を分けた。




 退助は自軍の隊規を厳しくし、


飲酒は厳禁、隠れ飲む者は斬首された。




 酒豪の多い土佐藩兵。


元々郷士・下士とは言え


武士階級出身者が多数を占める部隊であり、


酒豪と云っても


そこは武士としての躾が身に沁みている集団。


 規律を忠実に守り、悪天候の中、


足を取られながら駆け足で必死の行軍を貫徹した。


 彼らは来るべき戦闘に備え、


軍事教練を重ねた精鋭部隊だった。








 近藤の一方甲陽鎮撫隊。




 代々被差別民として虐げられてきた者たちを


「武士にしてやる」と甘い言葉で募り、


俄か仕立てで結成した集団である。




 近代兵器に不慣れで士気も高くない。


元々志こころざしなど無く、


社会に対する不満の塊りだった。


 鬼の戒律を誇った新選組組長近藤でも


ご機嫌取りをしなければついてこぬほどの


体たらくぶりである。


 幕府から支給された軍資金5000両で


大名行列さながらに夜ごと豪遊宴会を開き


不満を宥めるしかない。






 でもちょっと待って欲しい。


被差別民とは何か?




 徳川幕府により形成された身分差別、


士農工商の『士』以下の身分の農工商以下。


 要するに『平民』より更に下の身分である。




 能力や人格、性格や性別、嗜好、思想に関わらず、


生まれながらに全ての階層から


いわれのない差別を受けるよう定められているのだ。




 職業選択の自由も、婚姻の自由も、転出の自由も無い。


どんな夢を持っていようと、


どれだけ実力を持っていようと、


どれだけ強い意志を持っていようと、


どれだけ強い愛を持っていようと、


どれだけ涙を流そうと、


どれだけ大地に向かって叫ぼうと、


総て砕かれ、抹殺される階層なのだ。




 もしあなたが被差別民だったなら・・・。


想像してみて欲しい。






 もし、あなたの好きな人が平民だったら


結婚できない。




 もし、あなたが医者や弁護士や


人気声優やアイドルになりたくても、


 その入り口は初めから閉ざされているのだ。




 もしあなたが北海道や沖縄や


シアトルに棲みたいと思っても


 生まれた被差別部落から逃れられない。




 いつも侮蔑され、貧しく、惨めで


 悲しく、悲惨な生活を強いられるのだ。




 あなたならそれでも朗らかに、明るく、楽しく


幸せに生きられますか?




 近藤勇はそういう人たちをスカウトしたのです。




 彼らは果たして江戸幕府を


命がけで守ろうとするかしら?




 自分を差別地獄に落とした元凶の徳川幕府。


それなのに何故近藤勇の誘いに乗ったのか?




 その答えは、誘ったのが近藤勇だったから。


有無を言わさず、人を引き付け、


ついて行かざるを得ないと思わせる


『新選組局長 近藤勇』だったから。




 彼は一対一の剣術には秀でていたが、


悲しい事に、生まれは武士の身分に非ず。


 それに近代的様式戦術の知識に暗かった。


 それが彼のこの戦に於ける悲劇である。




 多分、剣術の実力は、


退助より上であったろう。




 しかし退助は


土佐藩に於ける近代兵法の第一人者で、


全ての士分を束ねる身分的立場にいた。




 それに対し、近藤勇は、


武士の生まれではないため、


数多くの辛酸を舐めている。




 今回も士分出身者は


誰も加勢しようとしなかった。




 武士は非士分出身の近藤に


協力しようとは思わない。


 今まさに自分の身分を保証する


江戸幕府が倒されようとしているのにだ!




 近藤は新選組に於いて


鉄壁の規律で隊員を縛ることができた。


 だから破竹の活躍が可能だった。


 でも、今回はスカウトした相手が悪い。


 そんな事は百も承知の近藤でも、


他についてくる者を募ることができなかったのだ。




 その時点で勝敗は決まっていたはずだが、


近藤は諦めていない。


 不撓不屈の人である。




「俺は必ず勝てる。」と信じていた。




 退助も近藤も「甲府城を先に制した方が


勝敗を決するから急げ!」


と言われていた。






 退助は移動距離で圧倒的不利である。


しかも目的地が近づくにつれ、悪天候に悩まされる。




 兵力差退助の迅衝隊400に対し、近藤の鎮撫隊310。


鎮撫隊の方が兵力差で不利に思えるが、


鎮撫隊は甲府城兵力360と、


土方歳三が援軍要請に向かった神奈川の旗本部隊


『菜葉隊』の500を加えれば、


圧倒的に迅衝隊を上回ることができるとの算段があった。








 結果、不眠不休で駆け抜けた迅衝隊が


一日早く到着。甲府城を掌握した。




 それに対し、鎮撫隊は悪天候の中


やむなく大砲6門のうち、


4門を進軍途上打ち捨て、


何とか駒を進めるが、


それででも迅衝隊の後塵を拝してしまった。




 しかも一日遅れたことで、


目論んでいた甲府城兵の加入も、


勿論初めから旗本の部隊である


菜葉隊の援軍など得られる筈はない。


 甲陽鎮撫隊は止む無く


甲州街道と青梅街道の分岐点に布陣。


 その時点で310名の兵が次々脱走、逃亡し


121名まで兵力が減少した。






 官軍の行進の笛の音を聴き、


眩いばかりにさっそうとした


凱旋を目の当たりにした領民たちは、


武田の遺臣、板垣の姓を拝した退助を


歓呼を以って歓迎した。




 対して幕府天領の重税に喘あえぎ、


恨み深い旧幕府軍たる甲陽鎮撫隊。


一目で寄せ集めと分かる統率の無い集団。


 ここでも大きな差ができていた。




 そして1868年(慶応4)3月29日


山梨郡一町田中村・歌田にて


戦闘が開始される。




 寄せ集めの鎮撫隊は大砲を全く扱えず、


砲弾を逆さに込めて砲撃。


飛距離が伸びず、狙う正確な方角へ


砲弾が飛ばなかった。




 対して迅衝隊は十分な訓練の成果を如何なく発揮、


戦況を圧倒、正確な砲撃で敵の大砲も破壊、壊滅させた。




 更に退助の敷いた布陣。


一糸乱れぬ命令に忠実な戦闘。


 戦の天才、板垣退助の実力を


面白い程見せつける戦となった。




 味方の犠牲を最小限に、


敵の犠牲を最大限に。




 天才板垣退助の名を轟かす最初の戦いとなった。




 無念の思いを抱え近藤は勝沼へ後退、


抗戦を続けるが、兵の逃亡は続く。


 とうとう鎮撫隊は八王子に退却後解散、


江戸に敗走した。






 町人の家に生まれ、


誰よりも武士の身分に憧れ、


誰よりも努力した男。


もう少しで願いに手が届いたのに、


掴み損ねた男、




 近藤勇。




 上級武士の家に生まれながら、


誰よりも自由と平等の実現を願い、


自ら不平等を嫌い、理不尽を嫌い、


その元凶、


武士階級を無くするために戦う男、




 板垣退助。






 その勝敗は


将の能力というより、時代が決めた。






 明日は目指す権力の権化、


もはや死体の江戸のお城が目前にある。




 江戸城無血開城か、決戦か?














   第20話 五箇条の御誓文












 1868年(慶応4)3月29日


甲州勝沼の戦いにて


近藤勇率いる甲陽鎮撫隊に勝利した退助は、


多くの領民に歓呼を以って迎えられた。




 それまで天領として重い年貢の取り立てや


代官の圧政に苦しめられ、


当然幕府軍(甲陽鎮撫隊)を良く思う筈は無い。


 戦いが始まって僅か一刻(2時間)で勝敗が決した。


 圧倒的で鮮やかな戦いを指揮したのが、


板垣信方の子孫であると知り


「さすが武田二十四将板垣駿河守の名に恥じない


鮮やかな戦いぶり!


 武田家遺臣が帰ってきた!!」


と沸き上がった。


 更に領内の旧武田遺臣の子孫で


様々な階層に散っていた浪人や百姓たちが


板垣の官軍への協力を自ら進んで志願した。


 これらの志願者を結集させ、


その後の戦いで活躍する


『断金隊』や『護国隊』を結成させる。




 このように退助の板垣復姓は効果絶大で、


甲州勝沼の戦いの後、江戸に進軍する過程にて、


八王子を通過する際も同様の歓迎を受けた。


 八王子という地は武田の遺臣たちが存在し、


『八王子千人同心』を結成、


板垣退助率いる迅衝隊に協力する事となる。


八王子はいわば、


第二の旧武田家ホームグラウンドだったのだ。




 脱走兵が相次ぎ、


どこからも加勢を得られないまま


敗北を招いた近藤の甲陽鎮撫隊とは対照的に、


心理戦でも大勝利を収めた退助だった。










  江戸城攻撃中止始末










 退助の大勝利と凱旋の知らせを聞き


西郷隆盛はわざわざ手紙を送ってきている。


「先の戦、大手柄でありました由を受け賜りまして、


嬉しく思い、


官軍の勇気も余程増しまして、大慶に存じます。


 恐惶謹言。


慶応4年3月12日 西郷吉之助(隆盛)


乾退助様」


との内容で、今で云う祝電をくれた。




 しかしその後日の1868年(慶応4)4月4日、


江戸総攻撃最終通告の下準備として、


山岡鉄舟、西郷隆盛の交渉が成功、


翌5日新政府側代表西郷隆盛と


旧幕府側代表陸軍総裁勝海舟が会談し、


5月3日の江戸城無血開城を決定、


江戸総攻撃が回避された。




 知らせを聞いた退助は、


総攻撃予定だった日の前日である5月2日、


西郷の元に訪れる。


強硬論者である退助は西郷に、


「何を以て明日の攻撃を止めた乎!」


と、抗議した。




 実は江戸城無血開城にあたり、


西郷達官軍側は旧幕府側に対し、


7ヵ条の条件を突き付けている。


即ち、


一、 徳川慶喜の身柄を備前藩に預ける事。


二、 江戸城を明け渡す事。


三、 軍艦を総て引き渡す事。


四、 武器を総て引き渡す事。


五、 城内の家臣は向島に移って謹慎する事。


六、 徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、


  処罰する事。


七、 暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧する事






しかしその要求条件は呑まれず、


旧幕府側代表陸軍総裁勝海舟の回答は、


一、 徳川慶喜は水戸藩(元々の出身藩)にて謹慎。


二、 慶喜を補佐した諸侯は


  寛容にして、命に関わる処分者を出さない。


三、 武器・軍艦についてはとりまとめ、


  寛典の処分が下された後に差し渡す。


四、 城内居住の家臣は、城外に移り謹慎。


五、 江戸城を明け渡しの手続き終了後、


  即刻田安家へ返却を願う。


六、 士民(強硬派旧幕府家臣)


  の暴発鎮定は可能な限り努力する。




 事実上の骨抜き回答である。






 それでも譲歩し総攻撃を中止したのは、


イギリス公使、パークスの意向が


強く働いたとの説がある。




 幕府に泣きつかれたパークスは


「恭順する者を極刑に処すは、


国際法上許されぬ。


速やかに総攻撃の命令を取り下げよ。」


と執とり成してきたのだ。




 江戸を火の海にすると


諸外国の干渉が強まり、


独立が危ぶまれる恐れが懸念される。


そう考えた西郷はやむを得ず


自身の強硬路線を


変更する事にした。




 そのような事情から、西郷は退助を説得する。


察した退助は


「どうも之れに対しては仕方がない。


なる程仕方がない、


それなら異存をいうこともない、


それでは明日の攻撃は止めましょう。」


と言ってあっさり帰った。










    五箇条の御誓文




 退助にとっても重要な思惑があった。


そのきっかけは、






 1868年(明治元)4月6日


明治天皇が天地神明に誓約する形式にのっとり、


公卿、諸侯に新政府の基本方針を


天下に発した。


 これは同年1月福井藩出身参与 由利公正が


「議事之体大意 五箇条」を起案、


土佐藩の制度取調参与福岡孝弟が修正、


長州藩出身参与木戸孝允が加筆、


議定兼副総裁岩倉具視に提出されたものであった。






 読者の皆さんはまだ記憶しておられるだろうか?


福岡孝弟たかちか。


彼こそは退助がまだ子供のみぎり、


喧嘩をした宿敵であった事を。(第3話参照)




 彼はその直後から勉学に励み、


吉田東洋の私塾、小林塾に後藤象二郎、


岩崎弥太郎らと共に学んだ。




 少年時代は退助との交わりは薄く、


要職に着くころから


次第に接触する機会が増えた間柄だった。




その福岡が作った御誓文。


その後内容は変更につぐ変更となり


変遷を重ねたが、基本理念は変わらない。




 退助は昔、喧嘩仲間だったとはいえ、


同郷の知り合いが造った条文に


偉く感動を覚えた。




 あの孝弟が造ったのだ。


あの喧嘩の遺恨など、とっくに無い。


ただただ嬉しく思う退助だった。




 『五箇条の御誓文』


の発布を受けて、同年6月11日には


新政府の政治体制を定めた『政体書』を公布する。


冒頭で「大いに斯国是を定め


制度規律を建てるは御誓文を以て目的とす。」


とし、その後に御誓文の五箇条全文を引用した。




 『政体書』はアメリカの法律体系の影響を受け、


三権分立、官職の互選、


藩代表議会の設置や、


地方諸藩に対し、


「御誓文を体すべし」とし、


「御誓文の趣旨に沿って


古い因習にとらわれず、


人材登用などの改革を推進すべし。」とした。






 その五箇条の御誓文の全文。




一、 広く会議を興し、万機公論に決すべし。




   (府藩県にわたり人々の意見を広く集め、


    何処でも会議を興すべし。)




一、上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。




   (身分に関わらず心をひとつにして


    経済を振興すべし。)






一、官武一途庶民に至るまで、各々その志を遂げ、


  人心をして倦まざらしめんことを要す。




   (官武一途即ち朝廷と諸侯が一体となって


    庶民の社会生活を充足させよ。)






一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。




   (打破すべき封建性・閉鎖性を破り


    普遍的な宇宙の摂理である人の道に基づくべし。)






一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。




   (智識を世界万国に取り、


    国を治める基礎を集めて大成すべし。)










 退助はその条文を初めて読んだ時、


見る見るうちに希望が湧き、


思わず天を仰いだ。




 「私の目指した道は間違っていなかった。」




 世間の誰しもが、自分の意見を言える。


 世間の誰しもが、自分の出目に関わらず、


努力次第で夢を叶える事を約束される。


 世間の誰しもが、


暗く閉鎖的で理不尽だった因習を


積極的に破り、


新しい制度改革に全力で取り組める。


 世間の誰しもが、


新しい国造りに励むことができる。








 自分たちは蚊帳の外ではない、


主役となって活躍できる存在なのだ。






 五箇条の御誓文という国の方針は


国民に対し、「励め!」と言っている。






 もちろんこのご誓文の文面を詳しく読み取ると、


民主憲法下の現在の内容と比べ、


まだまだ不完全と云わざるを得ない。


 しかし徳川260年の間に培ってきた


厳しい身分制度と因習から、


全く新しい発想での民主的成文法作成には限界がある。




 しかも明治維新とは先のフランス市民革命や


後のロシア革命と決定的とは違う性質のものである。


 維新とは革命というより、下層武士階級主体の


政権を担っていた幕府に対する


クーデターとしての性格を帯びている。


 単なる一般的なクーデターと違うのは、


その後の政策が大規模な


革命的政治刷新にあったから。




 明治維新の限界は、


武力維新を決行した主体が


下層階級とは云え、武士という支配階層を形成した


一員であった事。


 そこに市民階級や平民層は参加していないのだ。


だから彼ら多くの民間層の


意思を反映した政権とは言えず、


 その意思決定の過程と実行には自ずと限界が生じる。


 それ故、


退助の自由と平等と人権に対する戦いは、


戊辰戦争が終結した後、


維新が実現しても、まだ途上にあると云えた。


 それでもしかし、目指すゴールが見えた。


 今まで漠然としていた目標が


確信へと変わった。




 「あくまで江戸総攻撃を!!」との主張を


あっさり取り下げたのは、


 無益な破壊を避け、


一刻も早く、見えてきた理想の


国造りに取りかかりたいとの


強い思いが湧いてきたからであった。




 「お菊・・・。


ソチとの約束を果たせる日は近い。


 ソチが他人の嫁となった


今となってはもう遅いが、


身分の差に泣かされない、


好いたもの同士が自由に結ばれる世を


もうすぐ造れる。


 そんな新しい社会制度を


ワシは必ず造って見せる。


お菊、見ておれ!」




 お菊の住む江戸はもう目前に迫っている。














     第21話 刺客












 話を八王子まで戻す。


(度々話を戻し、なかなか前へ進めない事をお詫びします。


今後の物語の構成上、必要な回となっておりますので


平にご容赦ください。)






 甲州勝沼の戦い後、


退助率いる迅衝隊は、


地元に散らばる志願した武田遺臣の子孫たちを


兵に加え、


甲州鎮撫隊の敗残兵を追って八王子に入る。


更に4月3日八王子千人同心をも加え、


1500を超える兵力に膨れ上がったことは前述のとおり。




 それに対し甲陽鎮撫隊は、その八王子にて


解散、大きく明暗を分けていた。






 先鋒総督兼鎮撫使から大総督府へ編入・改編


された新政府軍に合流すべく


退助は進軍準備に入った。


 しかし、元々ある迅衝隊の他、


武田遺臣の子孫を断金隊、護国隊として組織化、


膨れ上がった兵員の軍紀浸透の徹底、


即席ではあるが、近代戦法訓練等、


進軍前にやらなければならない事案が山積し、


予定より進軍行程が大幅に遅れる事となる。




 江戸城総攻撃に間に合わせるため、


退助は必死だった。




 暫くは八王子の地に


軍を留めおかなければならないが、


次の戦に間に絶対合わせなければならない。


 時間との戦いである。


 しかし、それだけの大人数を


数日間も泊めておける宿泊施設は無い。


 また八王子城は遥か昔の家康時代に


廃城処分となっており、


城としての機能を有しない。


 やむなく、兵を寺や比較的大きな旅籠、


大庄屋宅などに分散宿泊させることにした。




 それぞれの宿泊拠点に対し、


伝令網を構築、統率の重要な手段とするため、


時に最重要の伝令には、退助も自ら出向き、


それぞれの隊の様子観察を兼ね、


指揮命令の維持を図っていた。






 ただ、八王子は少し前に


甲陽鎮撫隊が解散したばかり。


解散したと云っても、


まだ残党がそこいらに潜伏している可能性がある。




 市中を廻るのは危険を伴う賭けであった。




 それでも退助は怯まず


少人数の供を連れ、拠点を廻る。




 八王子に入って4日目。


夜間、護国隊への伝達へ急ぐ退助の前に、


異常なまでの殺気を帯びた人影が待ち受けていた。




 鎮撫隊の残党であろうか?


殺気の鋭さから、相当武術の心得のある者であろう。


 人影は3人、


物陰にひとり・・ふたり・・・三人・・・。


 合わせて6人か?




 明らかに自分たちを襲おうとしている。




 こちらは退助の他2人の供とも。






 先頭の相手3人がはじめゆっくり、


次第に足を速め「ウォ~!」と叫び、


太刀を抜き、上段に構えながら


勢いよく駆けてくる。




 すかさず退助の供ともふたりが退助の前に立ち、


防戦の態勢に入る。




 最初の刺客が右、左と太刀を揮うと、


瞬く間に前の供ふたりが斬られ、


その場に倒れた。






 「ぬ!!」


退助は相手の相当な腕前に、


(こ奴らは小慣れた人斬り集団だな。


さては新選組残党?)




 退助は後悔した。




 部下二人を失い、自分の身に危険が迫ったからではない。


 大切な部下を自分の油断から


殺されてしまった事態に対する激しい後悔である。


 自分が部隊間を移動するとき、


腕に覚えのある者を、多人数そろえておけば、


或いは襲われずに済んだかもしれない。


 例え襲われても、大人数なら強力な反撃ができ、


やおら若い隊員を死なせず済んだかもしれない。






 でも後悔している場合ではない。


退助は自らの太刀の柄つかを右手の


親指と人差し指の股で鍔つばいっぱいに握り、


(フ!!これぞ本当の切羽せっぱ詰まった状態よ!)


などと自嘲しながら、


幼い頃から喧嘩慣れした退助特有の


闘争状態に見せる


居合の達人としての余裕を感じていた。




 注:柄とは日本刀の部位のひとつ。


   刀身の手で持つ部分。


   切羽とは刃と柄を隔てる鍔つばを固定する部品。




 退助は鞘さやに剣を収めたまま、


襲い掛かる刺客の一いちの太刀を待ち受ける。


 急な展開に心乱さず、


明鏡止水の境地を求め一呼吸入れた。






 『全集中‼️』






 相手は6人。


こちらは自分ひとり。


 太刀は一本。


小太刀もあるが、ここでは考えまい。


 太刀で斬れるのは


精々2~3人。


 それ以降血のりを大量に吸った刃では


上手く切れない。




 (刀に限らず包丁など刃物は、


肉を切ると切れ味が鈍くなり、


次第に刃がたたなくなるのだ。)




 退助は腹を決めた。




 襲い来る一番手。


振り下げてくる刃先に尋常ならざる鋭さを見た。


(早い!!切り口に吸い込まれそうだ!!


手練れの剣は巧妙に相手を操り、


自ら剣に吸い込まれると


聞いた事がある。)




 退助は刺客が放つ太刀筋の流れに沿うように


皮一枚、居合術「影抜き」でかわし、


同時に鞘から剣を抜き振り上げる。


まさに冷や汗の一撃を見せた。




 相手の左二の腕から先が身から離れ、


数歩後方まで駆けた後、「ウッ!」と呻き、


ズシリと倒れた。




 その声と音を背にしたが


確かめる暇はない。


二番手、三番手がすかさず


左右から駆け足で襲い掛かる。




かわす場所がない!




 相手が一斉に太刀を振り下ろす一瞬、


退助は正面を向いたまま


前ではなく、右横に倒れ込むように


器用にも、回転レシーブのような動きを見せた。




 勢いあまって通り過ぎるふたりの刺客。




 二の太刀を揮うためこちらに向き直るが、


 一瞬退助の方が体制を立て直すのが早かった。


刺客を追い、相手が構える前に


右、左に太刀を振り、腕を斬り落とした。




 それを見た後方に控えていた3人が


同時に駆けてくる。




 退助は右に走り、通りの脇に立つ樹木に向かう。


さすがに3人同時攻撃はかわせない。


 木を盾にひとりずつ仕留める事にした。




 しかしもうこの太刀では斬れない。


小太刀を使うか?


 でも3人相手では通用しまい。




 迫りくる刺客の一人目を


木陰から迎え撃つ。


 相手が予想していない角度から、


思い切り突きを見舞わせる。


 退助の太刀が相手の首元に突き刺さり


素早く抜き去る。




 怯む残り二人。




退助が再び構えると


ヤケクソのようにひとりが


上段のまま駆け迫る。


 退助は瞬間太刀を捨て、


グーの構えで相手のみぞおちにヒットさせた。




 男の足が止まる。


すかさず背後から男の右腕を取り、


真っ直ぐ伸ばしたままで


思い切り時計と反対廻りに捻った。


 男は「ギャー!」と悲鳴を上げ、


ボキリと音がした。




 その様子を見た残りのひとりが


後ずさりし、その場から無言で逃げ去る。




 新選組の残党は最初のひとりだけか。


残りは素人らしい。


 退助は命拾いをした。




 間もなく異変に気付いた


護国隊士らが駆け付け、


 味方ふたりを失いながらも、


退助の身は無事だったことに安堵した。






 退助の大隊の体制が整い、


5月2日になって、


ようやく総攻撃を控えた大総督府の元に


駆け参じることができた。




 しかし江戸城総攻撃は中止。


その代わり、上野戦争が待っていた。


間もなく彰義隊との死闘が始まる。




 退助は拾った命を


お菊の居る江戸の地で、


再び戦に捧げる覚悟をしていた。








   つづく







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