1章-1
私の特異な能力が発露したのはまだ小学校へ入学する前の事である。私の周囲の小物が度々無くなることを不思議に思った両親が、私の就寝中にカメラで撮影を行った。深い眠りについた私の右手に生成された極小の特異点がぬいぐるみを呑み込んだ事をきっかけとして、両親は私が自分達の手に負えないことを理解したらしい。どこからか私の特異さを嗅ぎつけた施設の人間によって生家を離れることになったからだ。両親と離れることを嫌がる私を軽々と説き伏せて、ガスマスクをつけた施設の人間が私の後頭部を強く殴った。
薄れゆく意識の中で、心底気味の悪い物を見る目で両親がこちらを見ていた。それが私が感じた初めての喪失感である。以来、私の心の穴は塞がれることなく、寧ろ広がり続けている。
広がり続けた私の空虚な人生もようやく終わるのだと思っていた。
あの特異点はそれだけのインパクトがあり、実際、あれは周囲の何もかもを呑み込んだ。空気、物質、生命、空間、それら有象無象を呑み込んでようやく次元の狭間へと消えたのだ。しかし私は生きている。クレーターのように周囲数十メートルが穿たれた中心点で私は空を見つめていた。視界が開けたが空は暗いままだ。時間はそれほど立っていないらしい。
どういう理屈だか知らないが、私を呑み込んだ特異点は私を見逃す事にしたらしい。私自身の異能の特質なのか、それとも事象の気紛れなのか。漠然とした情報だけでは判断はつかない。ひとまずは生き延びた事を喜ぶとしよう。
クレーターから這い出してそのまま歩を進めた。追手は消えたが、追撃が更にやってこないとも限らない。戻りがない事を不信に思った施設が更に追手を寄越すことが最大の懸念である。今の内に更に遠くへと逃げなくてはならない。
それでも私に行く当てはない。親元を離れて数年過ごしたが、誰かが私を訪ねてくることはなかったしそもそも私の生存が知られているかも微妙な所である。両親は私が死んだ事として親戚に告げているのかもしれないのだ。葬式を済ませた亡者が親戚を頼ってきたなんて事が両親に知られればすぐに施設へと逆戻りだ。
故に私に行く当てはない。
孤独な逃避行だ。
夜が明けた。
喉が渇いていたが都合よく水源を見つけることは出来なかった。日本は水が豊かな国だというが、子供一人の喉を潤す事も出来ないのか。子供の歩幅ではそう遠くに逃げることはできない。実際、あのクレーターから数キロも離れてはいないだろう。夜通しで歩き続けていたが更なる追手の気配は今の所なかった。諦めたか。それとも…
思考はそこで止まった。
ちろちろ…
微かに水が流れる音がした。
耳を澄まさなければ聞き逃してしまう程の大きさだ。
それでも私は聞き逃さなかった。生への執着がそうさせたのか、喉の渇きが神経を研ぎ澄ませたのか。木々の間を縫うようにして、水流と呼ぶにはあまりにも小さすぎる水滴の流れを見つけた。考えるよりも身体が先に動き、水滴が流れる落ち葉の隙間へと頭を押し付けた。
ちろちろと流れているのですぐに喉を潤すことは出来なかった。それでも極度に乾燥していた喉に染みるように水滴がとめどなく落ちていった。じっくりと時間を掛けて。
逃げなくてはならないという当初の行動を思い出したのは十分に時間が経ってからだった。
「辿ってみよう…」
よく見るとその湧き水は落ち葉や木々の根の合間を縫ってずっと先へと続いているようだ。その先を辿っていけば小川に繋がるかもしれない。
夜の内であれば気付くことが出来なかったかもしれない。幸運だ。
夜を通して歩き続けた身体は既に限界を迎えいたが、身体に鞭を打って先へと進む。時には見失いかけた水流を探して地べたを這いづくばった。既に身体中擦り傷や打ち身塗れだったが、より一層泥だらけになって私はそれを探した。
夜になった。
休めば動けなくなると思っていたが、身体がそれを拒絶した。水分が身体に入った事で身体にも余裕が少しは出来た。そう信じて私は腰を下ろした。身体を下ろしてすぐに眠りにつくかと思ったが、そうはならなかった。
色々な事が頭をよぎる。
私を気味悪がった両親の事。
施設で見た私と同様に異能に目覚めた少年少女達の事。
言う事を聞かない私を嬲った施設の人間の事。
ろくでもない事ばかりが頭をよぎる。そのろくでもない事から逃げるためにこの場にいるのに、どうしてそんな事ばかり思い出してしまうのか。
「そうか…」
私の人生の大変が、そのろくでもない事に塗れているからか。
両頬に流れた涙が、私が辿ってきた水流へと合流していく。意識する事もなく、声を押し殺した泣き声が漏れた。大声で泣けば殴られる、あの施設で学習した唯一まともな処世術だ。
朝はまだ来ない。
ろくでもない過去と向き合うには十分過ぎる時間だ。
目が覚めてからはひたすらに水流を追って歩いた。それしか今の私には残されていない。それでも絶望しなかったのは右手に宿る異能の力が私を守ってくれるという自負があったからに他ならない。今まで私自身を呑み込むことはなかったが、媒体となる血液があれほど多ければ私自身を消し去ってしまう事が分かった。
それでも生き延びたのだ。この能力さえあればどんな事があっても生き延びれる。
そのような自惚れにも近い自負が私の活力になっていた。
小川を見つけた。水流を辿っているうちにより大きなせせらぎが聞こえてきたのだ。はやる気持ちを抑えて私はそれを見つけた。決して大きな川ではなかったが、ごつごした岩場から溢れている水がずっと下の方へと流れている。私がずっと辿ってきた水流はその流れに合流していた。
この流れをずっと下へ辿っていけば人里に辿り着くだろうか。それとも海へと続いているだろうか。ここが何県なのか分からない以上、行ってみなければ分からないという答えに行く着くのだが。だとしても私はようやく二つの選択肢を得る事が出来たのだ。
・川を辿って人里へと助けを求める。もし海に出たら海岸線を辿って人のいる所まで行く。
・この場に残って森の中で生き抜く。私が逃げ延びたことを施設の人間も既に把握しているに違いない。周辺の村や町に監視を差し向けているかもしれない。しばらくここに潜伏してほとぼりが冷めるのを待つ。
「さて…」
私の脳裏によぎったのは両親の顔。決して優しい両親とは言えなかったが、まさか私を捨てるとは思わなかった。最後に私を見たあの歪んだ顔が脳裏をよぎった。
誰かを頼る事は出来ない。
人里に降りる勇気は今の私には無かった。
疲れ切った私はそこで思考を手放し、電池が切れたようにその場で眠りについた。
最初から選択肢はなかったようなものだ。