序章
背後で怒鳴り声が響いていた。
月明りの届かない暗い森だったが、背後の追手が掲げた松明の明かりが私を探し出そうとしている。光量が足りていないのか私の身体を捉える事は出来ていないようだ。彼らが非科学的な信仰を持つ事にこの時ばかりは感謝せざるを得ない。フラッシュライトを使われていたらもう少し事情は違ったかもしれない。
私は足を負傷している。施設から逃げ出そうとした時に彼らの一人に負傷させられたのだ。止血は済ませていたので流血を頼りに追い付かれることは無いと信じたいがが、身体は重い。このまま小走りに逃げ続けることが現実的でないことは明らかだった。
「埒が明かない!二人戻って犬を連れてこい!奴は危険だ。必ず二で行動しろ!」
追手の取り纏めが怒声を飛ばす。
まだいくらか私と追手の間には距離があったが、追跡用の訓練をされた猟犬が出てきてはすぐに追いつかれる。最早ここまでか。
痛みを通り越し、感覚が無くなりつつある足を抑えて私は蹲った。
「はあ…はあ」
身体が重い。
蹲った状態から再度身体を起こすのは不可能だった。薄れゆく意識の中で頭をよぎったのは後悔と無念さだった。こんな所で死ぬ為に逃げだしてきたのではない。世界はもっと広いはずだ。外の世界を知らない私がそれを知りたりと思ったからこそ行動したのだ。あの施設で一生を終えるなんて心の底から嫌だったのだ。
「ならば…」
止血の際に両手に付着した血は既に乾いている。
濃厚な死の気配は背後に迫りつつあったが、これだけの血があれば媒体としては十分だ。訓練と称してあの施設では随分と無茶をさせられたが、これほどの量の媒体で試した事はなかった。右手に神経を集中させる。
その血管、神経、皮膚、細胞の一つ一つに意識を向けていく。力の通り道が構成されて行使の為の躍動に身体が震える。この感覚、これが最後だ。
直後、私の右手を起点としてテニスボールほどの大きさのブラックホールが形成された。
右手を掲げて、十数メートルまで近づいた彼らへ身体を晒す。
遠くで猟犬の吠える声が響いていた。
「みつけたぞ!半円状に取り囲め!一定の距離を取りながら捕縛し」
命令が最後まで発せられることは無かった。周囲数十メートルに真空が形成されてまず音が消えた。続いて私の右手に形成された黒穴へ向かって全ての物体、生命、空間が吸い込まれていった。私の血液を媒介として成型されたその特異点は私の身体自身をも呑み込み、そして消えた。
追手の21人、追跡用の猟犬6頭、そして逃亡者の私を含めたその場の生命体は一瞬の内に、外なる特異点へと呑み込まれたのだ。どこでもないこの世界の終点へ。
それは死を意味していた。