お姉さん
初めて見たとき、彼女はふわふわと浮いていた。比喩ではない。線路の上から、私の横に降りてきたのだ。誰も居ない夕暮れの駅に木枯らしが吹き、彼女の長い黒髪がたなびいた。駅のホームに降り立った彼女は、呆然とする私をよそに、何食わぬ顔で話しかけてきた。
「横、大丈夫?」
「あ、はい」
あ、はいとしか答えられない。温泉街として知られていたこの町には、駅のホームに足湯がある。とはいえ紅葉狩りには遅すぎるこの時期、駅には私たちの他には誰もいなかった。空から降りて来た彼女は、そっと足湯に白い足を入れた。
「どうしたの?ゆかりちゃん。きょとんとして」
名前を呼ばれて狼狽える。なぜ彼女は、私の名前を知っているのだろう。
「ゆかりちゃん今いくつ?高校生?」
「あ、いや。大学生です。一年」
「そっか。早いねえ」
一瞬、遠い親戚かなにかかと考える。あり得ない。私の親戚には、空を飛べる人なんて居ない。
お姉さんが、お湯の中の足をバタつかせる。チャポンという音が、閑散とした駅に響いた。
「あのすみません。どこかでお会いしましたっけ」
ずいぶん馬鹿な質問をしてしまった気がする。
「あらあ、ゆかりちゃん覚えてないの。酷いわあ」
お姉さんが長い髪をさらりと撫でる。
「そういえば、随分長い時間が立ったのかしら。つい最近のことだと思ってたのだけど。そうねえ、震災の前だものね」
震災。八年前に、私たちの町を襲った大震災。八年前から今に到るまで、町から震災の影が晴れた日はない。私にとっても、町にとっても、時間は「震災前」と「震災後」に別れている。私とお姉さんは、震災前に会っているらしい。八年前だから、十歳になる前の話だ。
「あなた、よく私の家に来てたじゃない。ほら、博物館に行った帰りに」
博物館。私がよく行っていた博物館と言えば、町の外れにある博物館だ。恐竜の化石や、昔の町の様子が保存してある。町の様子には興味がなかったけれど、恐竜の化石は私を熱狂させた。博物館に置いてある恐竜は、全てが町から出土したものだ。恐竜コーナーに入った瞬間、そのスケールに圧倒される。これほど大きい生き物が、私たちの町に住んでいたのだ。幼い私には、どうしてもそれが信じられなかった。お小遣いをもらっては、一人で博物館に行っていたものだった。仲のいいおじさんが入場係のときは、こっそりとタダで入れてもらったりもした。
「博物館の帰り」
ふと思い当たった。博物館に行った帰り、私はよく神社へ行っていた。町を見下ろす位置にある小さな神社。私たちの町が炭鉱として栄えていた頃から、町の守り神を祀っている。その神社の縁側に座り、よくお饅頭を食べたものだった。
「山上の神社ですか?」
彼女の顔が華やいだ。
「そうそう。そこでゆかりちゃん、よく恐竜について教えてくれたじゃない」
「あ、あの時のお姉さん」
思い出した。神社にいつも居て、私をもてなしてくれたお姉さん。いつも真っ白な着物を着て、綺麗な長い髪をたなびかせていた。私が行くと決まって神社の縁側でお茶を飲んでいた。
「思い出してくれてよかった。空を飛んでたらたまたまゆかりちゃんを見つけて、最近どうしてるのかなあって。あんなこともあったから、心配してたんだよ」
「あんなこと?」
「地震だよ。君も町を出て行っちゃったと思ってた。でも、残ってくれたんだね」
「あ、はい。親は出ようとしてたんですけど」
おかしなところを流しながら、会話を続ける。お姉さんは時折、チャポチャポと足湯を波立たせた。美人な大人の女性の、子どもっぽい仕草が少しおかしい。
「なんで出て行かなかったの?」
「私が出たくないって行ったんです。友達もいたし、この町が好きだったし。結局友達の半分くらいは外行っちゃいましたけど」
「そっかあ」
ありがとね。お姉さんは水面に顔を落としながら、小さい声で呟いた。
「お姉さん、空を飛べるんですか」
とても間抜けな質問をした気がする。
「うん。飛べるよ」
誰も居ない駅に、再び沈黙が流れる。私が知りたかったのは、「何故お姉さんが空を飛べるか」ということなのだが、当の本人はその話題に興味がないようだった。
「ねえゆかりちゃん、ゆかりちゃんの家に行っていい?私は透明になるから」
「透明になるんですか」
透明になるんですか。さっきから間抜けな質問ばかりだ。
「お願いゆかりちゃん!」
「透明にならなくてもいいですよ。妹と二人暮しですから」
「都ちゃんは大丈夫なの?」
「あの子、私の言うことなら大体聞きます」
彼女はさらりと妹の名を呼んだ。
「でもいいの?私、怪しくない?」
「そりゃ怪しいですけど……」
不安そうな瞳をこちらに向ける。うるうるとしていて、黒目が大きい。お姉さんは、綺麗で可愛い。
「私、お姉さんのこと好きでしたから」
忘れていたくせに、よく言ったものだと思う。でも、それは本当のことだった。お姉さんのことをはっきりと思い出せる訳ではない。それでも私の体は、お姉さんへの信頼を覚えていた。それに後になって思うと、このときの私は精神的にとても疲れていて、話し相手になってくれるなら誰でもよかったのだと思う。
「ありがとね」
そういうと、彼女は透明になった。透明になれるものなのだなあという気持ちが湧いてきた。お湯から足を抜き、鞄の中からタオルを取り出す。この町の温泉で配っている、特製タオルだ。震災の前、家族みんなで地元の温泉に泊まった。遠出した感じはなかったけれど、少し小高い場所にある旅館からみた私たちの町は、それはそれでよいものだった。
そうやって、お姉さんは私たちの家にくることになった。