死んだ男と死にかけたお姫さま
嘗て、俺は地球と云う星の日本と云う島国で生を受けた日本人だった。
その半生は、全く面白みに欠けるものだった。
成績そこそこ、糸目で出っ歯気味、ヒョロっと背だけは高いがいつも猫背な俺は、地味で根暗な男として、特段脚光を浴びる事もなく、平々凡々に日常を過ごしていた。
目立たず騒がずをモットーに、しかし虐めは怖いから趣味の合う仲間と集まってひっそりジメジメと過ごすのが日常だった。
俺の趣味は、アニメ・ゲーム・ライトノベル・漫画と言う、昨今ではあちこちに居るらしいオタク的なものだった。
中高時代、周りが――恋愛やらスポ根やらといった――普通の青春をする傍ら、俺と友人たちは二次元に愛と時間と情熱と金を注ぎ込んだ。
そんな中でも、俺はキャラクター萌えタイプのオタクだった。つまり、ストーリー等は割とどうでも良い、と言う原作好きな奴らからは嫌われ易いタイプ。
一度、それが理由で原作好きである友人に物凄く叱られてしまい、以来そういう奴に対してはあまり深く話さないようにしている。
しかし、それ故にハマりやすいという利点もある。
「これ、○○好きそうじゃん?」
合言葉のように、毎回その言葉で見せられるキャラクターに、単純な俺は容易く興奮してハマった。
腰まで伸びた髪、優しげな眼差し、口元には絶えず笑みを浮かべた美少女。周囲から絶大な信頼を得ており、多くに慕われる聖母のような存在。
母性を示すような豊かな胸。しかし弛んだ性格ではない事を指し示す、キュッと引き締まった体躯。
これらが、俺が萌えるキャラクターの絶対条件である。
どれも譲れない。
特に胸については、憧れが高かった。
ささやかなモノを否定するわけではないし、現実そんな理想的な胸は商売でしかなり得ないものだと認識している。寧ろ、この認識に誤りがあるなら教えて欲しかったと思う。
……ともかく、二次元にはそんな俺の希望を魅せてくれる夢があり、いつかそのたっぷりとしたモノに挟まれてみたいと夢見ていた。
何を挟むか?
それは紳士的にはこの場で言えない。ご想像にお任せする。
そんな願望が強過ぎて、大学の頃はバイトと勉強とパン教室通いに日々明け暮れていた。パン種がその感触に似てるらしいと噂で聞いた為だが、邪な思いとは裏腹にかなりハマった。
そんな俺だったが、大学三年生――そろそろ就職とか考えにゃならん時期だなぁ――と溜め息吐いていた頃、俺は死んだ。
某所でお宝と言う名の漫画やらゲームやら円盤を買いに行こうとした矢先、無差別殺人犯によって刃物で腹部を深く刺されて死亡した。
巫山戯んな。
来週発売予定のフィギュアも漫画も円盤も、こないだ漸く目当てのSRRキャラが出たスマホゲームも。
全てが水の泡。
ぶくぶくぶく……――。
そしてパッと目を開いたら、何か全然知らない場所に居た。
(……いえ、よくよく思い出したら自分――私の部屋だわ。……先程のは夢?)
ベッドで寝ているらしい。綴じられたカーテンからは、僅かな光が溢れている。
(眠りに就いた覚えがないわ……。いつから眠っていたのかしら)
状況を把握しようと身体を起こそうとした矢先、腹部に死ぬほどヤバい痛みが走った。
(……ヤバい、って何だったかしら?)
痛みの余りに再び身体をベッドに沈ませた。ぼふん、と身体を包み込むような感覚に、再び違和感を覚えた。
(安いパイプベッドでこの柔らかさは無かったなぁ……? パイプ?)
ぼんやりとした頭で、次々沸き起こる違和感を考えていると、部屋の外から話し声が聞こえた。
「エミーは、まだ眠ったままか?」
「はい……。医師のギルバート先生が仰るには、昨日山場を越えたので、直に目覚めると……」
話し声が大きくなり、扉が開かれた事を理解した。
扉へ視線を向けると、そこには見覚えのある男の姿と若い女が居た。
「おと……さま……」
その男を、いつもそう呼んでいる。
だからそう呼んだ。
しかし、やはり違和感を覚えた。
「エミー!!!!!」
微かな私の声を聞きつけた男――父が私の元へ駆け寄った。
ベッドの傍らに膝をつき、投げ出された私の小さな手を、その大きく温かな手で優しく包み込む。
「エミー、今起きたのかい?」
カーテンで窓を遮られたこの部屋は、今薄暗いのだが、それでも父の目尻にある光るものを見過ごさなかった。
「はい……。私は……」
「今は、何も考えなくて良い。まだ身体も辛いだろう。治るまではゆっくりお休み、我が愛しのエミー」
「はい……ありがとうございます、お父さま」
そう返して、目蓋を閉じる。
再び眠気がもったりと脳を支配した。
「少し……寝ます……」
それだけ言い残し、私は再び意識を手放した。
そして次に覚醒したその時、目の前には母が居た。
綺麗に結われたプラチナブロンドの髪、アメジストの優しげな瞳、優しげな口元は今は震えている。
そして更にその下へ視線をやると、柔らかそうな胸があった。
ただの胸じゃない。グラビアアイドルも真っ青な巨乳である。
母はどうやら、昨日父がそうした様にベッドの傍らにしゃがんでいたらしく、私の顔を覗き込む際にその豊かな胸をベッドに乗せたらしい。
いや、そんなことはどうでも……良くないかど、いや……しかし、これは……。
「エミー……」
見馴れた筈の母の体躯に、何故か私はドキドキと胸を高鳴らせていた。
そんな私の事など知らず、母は安堵したように、その小さな口からホッと息が吐かれたと同時に、その瞳が潤み、ぽたりぽたりと雫を落とした。
母の細く華奢な手は、私の頭を優しく撫でた。
「あぁ、エミー。良かった……、生きててくれて、本当に良かった……」
「お母さま……、おはようございます。……ご心配をお掛けしたのですね。申し訳ありません」
「申し訳なくないわ。貴女は頑張って死と戦い勝ったのよ。頑張ったわね、本当に……っ」
母は顔を伏せ、嗚咽を漏らし始めた。
近くに居た女が静かに母の元へ近寄り、ハンカチを手渡す。
その女の格好に、私は何故だが驚きを禁じ得なかった。
首元から膝下までの真っ黒なシャツワンピースに真っ白なエプロンドレス。髪を纏めてシニョンにした頭には、メイドキャップが被されている。
それは正に、俺が二次元で良く見たメイドの姿だった。
(私、今何て……)
俺。
確かに私は、そう自分のことを自称した。何かがおかしい。
知らない記憶同士が混ざり合ってる感じだ。
ツキリ、と頭が痛くなり、思わず「ウッ……」と呻いた。
「お嬢さま?」
別のメイドが私の異変に気付いたらしく、ベッドへ近寄った。その様子に、母は泣き腫らした表情のまま再び不安の色を滲ませた。
「大丈夫よ……。私、もう少しお休みするわ。一人にさせて貰えますか?」
「そ、そうね……。分かったわ。また後で顔を見に来るわね。愛してるわ、エミー」
泣き腫らした表情で笑顔を見せ、母は私の頬にチュとキスを落とした。
鼻孔を擽る母の香りが、やけに胸を高鳴らせた。
「お嬢さま、何かございましたら、ベルでお呼びくださいませ」
ベッドサイドテーブルに置かれたベルを指し示し、先程母にハンカチを渡したメイドがそう言い残す。
私は頷き、彼らが居なくなるのを見送った。
足音が遠ざかるのを確認し、私はいそいそとベッドから抜け出した。と言っても、お腹に攣るような痛みがあるので素早い動きは出来ない。この間置いてもらったばかりのライティングビューローに座り、羽ペンとインクと紙を取り出す。
そこに……私は見慣れない文字である“日本語”で“私”の名前や誕生日や家族構成、そして“俺”の名前や誕生日や家族構成等を書き連ねた。
“俺”の知識が言うには、“私”は“俺”の異世界転生した存在なのだと言う。
異世界という言葉は初めて聞いたが、つまりこの世界ではない世界の存在が、何故だがこの世界に転生したのだそうだ。
そして、私が五歳になった今、“俺”だった頃の記憶が喚び起こされた。
エミーことエメルディアは、死の淵を彷徨う程の大怪我を負った。本来、そこでエメルディアは死ぬ筈だったのかも知れない。しかし、エメルディアの死にたくないと願った強い思いが“俺”という記憶を喚び醒まし、死の淵から脱したのではないか。
と言う、よく分からない考えを“俺”は閃いた。
あまり釈然としないが、それしか今は思い当たる事もない。
“俺”のことはともかく、今を生きるのは“私”だ。
エメルディア・アディンソンはアディンソン公爵の一人娘。つまり公爵令嬢である。
父は、現国王の父親の弟の子なのだと云う。
あまりに身分が高くて、我ながら驚く。
今まではあまり気にしていなかったが、“俺”の知識が入ると新鮮味がある。それに、自分の事を第三者的な立ち位置から見ることが出来る。
エメルディアは、現在五歳。
先日五歳になったばかりだが、その誕生日に知らない男の人に刺されたのだ。
今振り返って周囲の会話を思い出すと、あれはどうやら昔伯爵令嬢だった母を陰湿にストーカーしていた別の伯爵家の者らしい。
あれの顔を思い出すと“私”は少し怖かった。
しかし、恐らく既に逮捕されたのだろう。そうでなければ、父も母も私を一人になどさせるわけがない。だから大丈夫だ、と“俺”が言う。
今までのエメルディアなら、怖くてベッドから離れる事も、一人になることも出来なかっただろう。
しかし、変わった。
エメルディアは一人で、“私”だが、“俺”でもある。
それが、今までのエメルディアをより強くさせてくれていた。
それはそうと、と両親の姿を思い出し、私は書いた物を鍵付きの引き出しへ仕舞うと、クロゼットの方にある姿見の前に立った。
“俺”が言う。
エメルディアは美少女である。しかも、将来有望な美少女である、と。
“私”にはまだよく分からないが、それが父と母に由来するものだと分かり、とても誇らしい。
髪は母から受け継いだプラチナブロンド。今は三つ編みに結っているが、普段は下ろしている。少し癖があるが、それが愛らしさを増しているのだと云う。
瞳はサファイアブルー。これは父から受け継いだ色だ。父の瞳より少し濃いが、海のように深い良い色だと云う。海はまだ見たことないけれど、素敵な場所だと聞いているので、そんな色だと聞いて嬉しさが増す。
鼻筋の整った顔立ちに、唇はぷるんとさくらんぼのよう。
紛れもなく、美少女である。“俺”がそう断言した。
そして、将来有望というのが、母の存在だ。
“俺”の好みを見事パーフェクトにクリアしたその存在。エメルディアも努力すれば、必ず母の様に、否、母よりも素晴らしい女になれると云う。
“私”は嬉しくなった。
“私”にとって、母は憧れである。
優しくて、抱きしめられると温かくて柔らかくて、いつも良い香りがしている。
“私”も母のようになりたい、と願わずにはいられない。
そんな母に“私”もなれるかも知れない。それ以上、と言うのはまだピンと来てないけれど。
“私”は“俺”に知識を乞うた。
どうすれば母のようになれるのか、と。
その時、“私”と“俺”は確かに一人のエメルディアとなった。
文章に一部違和感があったため修正しました。内容に変更はありません。
お読みいただき、ありがとうございました。