第九章「二人、街灯の下で」
――それから約数時間後。
話が一通り済み、グーッと背伸びをして、大きなアクビをついていると、『ちょっと外でも歩かへんか?』と、黒猫が急にそう言い出した。
俺は『あぁそうだな』と笑って応えると、ソファーからスッと立ち上がり、クローゼットから黒いコートと、茶色のマフラーを取り出して、それからそのマフラーをそっと黒猫の首にかけてやった。
すると黒猫は『えっ?』と驚き、『何コレ?』と言って、俺を見上げる。
「『何コレ?』って、マフラーだけど?」
「いや、そんなことはわかっとるって」俺の返答を聞き、思わずブッと吹く黒猫。
「そういうこと聞いたんちゃうやん」
「えっ?」
「まぁええわ、その……さっき俺が寒いって言うたから、気遣ってくれたんやろ?」
「えっ? あぁうん。まぁそんなところかな」
「まぁとにかく、その、あれや、どうもおおきに。一応感謝するわ」
「一応感謝って……なんだよそれ?」
「感謝は感謝や! いらんとこ突っ込まんでええから!」
「なんだよそれ?」黒猫の返答に、思わず俺もブッと吹く。
「まぁとにかく、さっさと外行こうや。ほら、はよ!」
黒猫はフッと笑って俺の顔を見つめると、『ほら、はよ支度せぇや!』と言い、玄関の方へタタタタとひとり、歩いていった。
俺は笑って『仕方ないなぁ』と呟くと、コートを身にまとって、黒猫の後を追った。
* * *
靴を履き、玄関のドアを開けると、既に外は真っ暗だった。襲いかかる十二月の夜風は、相変わらず体が凍えてしまいそうなほど寒く、俺は思わずブルルルと体を震わせた。
玄関のドアの鍵を閉め、黒猫と共にマンションの階段を下り、マンション前の大通りに出る。マンション前の大通りは、何故かいつもより人が多く、にぎやかで、あちこちの店からはいい匂いが漂い始めていた。
「お好み焼きやな」
黒猫はスッとその場に立ち止まると、小さくて可愛らしい鼻をクンクンとさせた。
「なに? 食べたいわけ?」
「おぉ、よぉわかったな兄ちゃん」
「はぁ!? おいおい、お前さん! それマジで言ってる?」
「あぁマジやけど、何か文句でも?」
「文句ありありだっつうの! いいか? 誰がその金を払うんだよ? なぁ!」
「え? そりゃ兄ちゃんしかおらんやろ」
「バカ。何で俺がわざわざ、お前さんのために金を払わなきゃなんないんだよ?」
「なぁにゴチャゴチャせこいこと言うとるんや兄ちゃんは! ええやんかぁ、別にお好み焼き一枚ぐらいおごってくれたって」
「甘いな。俺にお好み焼きをおごってもらおうだなんて、そんな話……」
「ふーん、ほな、コッチにも考えがあんで」
「なんだよ考えって? 言ってみろよ、ほら早く」
「藤井美咲」
「は? ちょっ、ちょっと待て! おい! 何でお前さんがその名前を知ってんだよ?」
「さぁ〜な」
「おいマジで頼むよ! 頼むから教えろって! なぁ!」
「ふーん、ほなぁ……」
「なっ、何だよ?」
「あそこ」
黒猫はニコッと笑って俺を見つめると、スッと車道の向こうに視線を向けた。
バッと急いで黒猫の視線を追うと、そこには一軒のお好み焼き屋さんが。しかも、ここらじゃかなり有名な、最も人気のあるお好み焼き屋さんだ。
「あぁ……そういうこと」
俺はハハハと苦笑いをすると、『仕方ねぇなぁ……』と、財布の中の小銭をジャラジャラとさせた。全く……金欠だというのに、この猫は。
* * *
「いらっしゃい!」
横断歩道を渡り、店の中を覗き込むと、店のおばちゃんがニコニコ顔で俺たちを迎えてくれた。
「お兄ちゃん、お持ち帰りかい?」
元気が良く、威勢のいいおばちゃんの声に、俺は思わず笑顔になる。
「はい、持ち帰りで」
「一人前で良かったかい?」
「あっ、いえ、コイツの分もお願いします」
俺はそう言うと、慌てて足元の黒猫をグッと抱きかかえ、それをおばちゃんに見せた。
「あらっ、可愛い猫ちゃんだね。お兄ちゃんが飼ってるの?」
「えっ? あぁまぁ、はい、そうです。でも、かなりやんちゃなヤツなんで、ホント困ってるんですよ」
「あらそうなの? そりゃ困った猫ちゃんだね。だけど、お兄ちゃんがちゃんとしつけてあげなきゃダメよ? 大丈夫?」
おばちゃんはそう言うと、何故かとても楽しそうにクスクスと笑った。
「あぁところで、具はどうする? イカ玉? ぶた玉? それとも牛肉玉? 猫ちゃんはどうする? なに食べる?」
「おい、どうすんだよ?」俺はツンツンと黒猫の頬を突っ突く。
「痛い痛い! アホかお前! 急に何すんねん? ……ったく! あぁ、あんな、おばちゃん! 俺はでけたら『いか・ぶた玉』が欲しいんやけどなぁ。そんなんここにあるんやろか? あっ、あとトッピングは『ねぎかけ』に『餅混ぜ』でお願いしたいんやけど!」
「は?」
「ん? 猫ちゃんなんて?」
「えっ? あぁいや、その……いか・ぶた玉が欲しいとか、何とかって」
「あぁ? それだけちゃうやろっ!」すかさず黒猫が叫ぶ。
「あっ、あの、あと! トッピングはねぎかけと餅混ぜでお願いします」
「はいよ。で? お兄ちゃんは?」
「あぁ僕は、ぶた玉でお願いします」
「ぶた玉ね? どうもおぉきに。それじゃあ、ちょっと待っててね。すぐ準備するから」
おばちゃんはニコッと優しく微笑んで、俺と黒猫にそう告げると、サッと店の奥へと入っていった。俺はスッとポケットから携帯電話を取り出すと、現在時刻を確認した。
時刻はちょうど七時を過ぎたところだった。
* * *
誰も居ない夜の公園のベンチに腰を掛け、黒猫と共に、出来立てほやほやのお好み焼きを口いっぱいに頬張る。
黒猫は余程お好み焼きが好きだったのか、もしくは大好物だったのか、ガツガツと物凄い勢いでお好み焼きにがっついている。
確か猫は、熱いモノが苦手だったんじゃ……
なんて、そんなことを考えながら、俺も黒猫と同様、ガツガツと物凄い勢いでお好み焼きにがっつき、『まぁコイツも元々は人間だったしな』と、勝手にそう解釈した。
すると突然、黒猫が『なぁ』と、口を開いた。俺は『なに?』と言って、静かに黒猫を見つめる。
「なにって、約束の話や」
黒猫は、おいおいと笑って俺を見つめる。
「約束の話? あぁそういや、約束してたんだったな。悪い悪い、すっかり忘れてたよ。それで? 何でお前さんが美咲さんのことを知ってるわけ? 一体、彼女とはどういう関係なんだよ?」
俺はフーッと深く深呼吸をして、黒猫を真剣な眼差しで見つめる。
すると黒猫は、ニコーッと不気味に微笑み、そっと俺を見つめ返す。
「それはやな」
「あぁ、なんだよ?」俺はゴクリと唾を飲み込む。
――と、次の瞬間。
「……新入り君?」
不意にベンチの後ろ側から声がした。かすれた、透き通るようなハースキーボイス。
こ、この声は……
俺は思わずビクッとして、後ろを振り向き、それから『あっ』と声をあげた。
振り向いたその先に、藤井美咲が立っていた。
* * *
「新入り君……だよね? こんなところで、何してるの?」
彼女はそう言って、そっと俺と黒豆の元へと近付くと、何を思ったのか、急に『あっ』と声をあげて、その場に立ち止まった。
俺は『ん? なに? どうかした?』と言って、静かに彼女を見つめる。
すると彼女は、かすれた小さな声で『黒豆』と、ボソッと呟いた。
「黒豆?」
俺は彼女の発したその一言を聞いて、思わず『えっ?』と声をあげる。
「黒豆って?」
「新入り君の隣に居る黒猫の名前」
「えっ? この黒猫の名前、黒豆っていうの? えっ、でもなんで美咲さんがそれを?」
「なんでって、黒豆は私が飼ってるのよ? 黒豆は私の飼い猫なの」
「えっ!? か、飼い猫? 黒豆が? 美咲さんの飼い猫? えっ、ホントに?」
「ウソじゃないわ。ホントよ。黒豆はちゃんとした私の飼い猫なんだから」
彼女はそう言うと、何故か少しおかしそうにクスクスと微笑んだ。「けど、この子、ホントにやんちゃっていうか、だからあんまり家に帰って来ないの。お腹空かしたらちゃんとご飯食べに帰ってくるんだけどね。ホント困ったさんなの」
その瞬間、俺は慌ててくるっと黒豆の方へと視線を変えると、『一体どういうこと?』と、小声でそう囁いた。すると黒豆はニコッと微笑み、『まぁつまりそういうことや』と言った。
「『そういうことや』って、だから一体どういうことなんだよ!?」
俺はその瞬間、思わず黒豆の顔をムギュッと握り、
『そうならそうと早く言えよ!』と言った。
やがて、八時を告げる鐘がゴーンゴーンと鳴った。
* * *
近くの自販機でホットの缶コーヒーを二本買い、そしてその一本を彼女に『どうぞ』と手渡し、俺はそっと静かにベンチに腰掛ける。彼女も俺に続いて、そっとベンチに腰掛ける。黒豆はというと、俺と彼女の前にドスンと偉そうに座り込んで、相変わらずお好み焼きをガツガツと美味しそうにがっついていて、『なんだか気がひけるなぁ』と、心の中でそう思いつつも、俺はそっと優しく微笑んで、『まぁいいか』と小さく呟き、缶コーヒーのフタをカチッと開けた。そして、それと同時に、ホットコーヒーの香ばしい香りが辺り一帯にスーッと広がり、俺は思わずそっと夜空を見上げた。しかし、そこに星の姿は無かった。
「今夜も相変わらず寒いね」
俺は缶コーヒーをそっと口に運ぶと、静かに彼女の横顔を見つめた。
しかし彼女は、ただ黙って缶コーヒーをギュッと強く握り締めているだけで、何も喋ろうとはしない。
――会社で何かあったんだろうか?
俺は何だか急に不安になって、彼女をじっと真剣な眼差しで見つめた。
「ごめん。俺、その、物凄く鈍感で。その……会社で何かあったの? トラブルとか?」
しかし、相変わらず彼女は口を閉じたままで、何も喋らない。
――どうしよう。
今度は俺までもが口を開けなくなってしまった。
俺は会話を続けようと、適当な言葉を必死に頭の中で拾い集めてはみたが、結局俺はそれを口にすることができなかった。
ただ痛くて冷たい沈黙が、俺と彼女の間を流れる。
しかし、しばらくしてから、ようやく彼女はその重い口をそっと開いた。
深いため息をつき、呆れ返ったように薄ら笑いを浮かべ、そしてまた再び悲しげな表情を浮かべて、彼女は言った。
「ねぇ……新入り君」
「えっ?」
俺は驚いて彼女を見つめる。
「今からね、すっごく面白い話、新入り君に聞かせてあげよっか?」
ニコッと微笑み、そっと夜空を見上げ、彼女は言う。しかし、そんな彼女の声は小さく、弱弱しく、そしてかすかに震えているように、俺は聞こえた。
「私ね! 今日、会社クビになっちゃったの。『もう明日から君、会社来なくていいから』って、会社の上の人にそう言われちゃってさ」
彼女はそう言うと、何故かそっと微かに微笑んで、それから俺を見つめた。
「く、クビって会社を?」
俺は驚いて、思わず『えっ?』と声を張り上げる。
「そう、会社クビになっちゃったの。ほら、今からちょうど一週間ぐらい前に私、会社で大失敗をしでかしちゃったって、新入り君にそう言ってたよね? なんか、やっぱりアレがダメだったみたい。でもどう思う? ウチの会社の人もひどいと思わない? まったく何年、会社のために私が今まで頑張ってきたか、きっと会社の上の人達は知らないのよ」
「うん……」
「でもね! 私はこれで本当に良かったんだって、そう思ってるの。あんな会社、本当はずっとずっと前から辞めてやりたかったし、逆になんかセーセーしたっていうか、その、なんていうのかな。その……」
彼女はそこまで言って、急に口をクッとつぐむと、またギュッと強く缶コーヒーを握りしめた。彼女の横顔をスッと静かに見つめると、うっすらとではあったが、彼女のその眼に、キラリと光るものがあった。
――涙だ。
俺はその瞬間、彼女になんと言えば良いのか、わからなかった。ただ、目に涙を浮かべる彼女の横顔を俺は放っておくことができなかった。
俺はそっと静かに、彼女を抱きしめた。
ギュッと強く、そしてそっと彼女を包み込むように。
彼女は何も言わなかった。ただ、彼女の震える小さな泣き声だけが、俺の心を切なく、そして悲しくさせた。
「よく、頑張ったよ。美咲さんは」
俺はそう言って、そっと彼女の頭を撫でてあげると、『今までよく頑張ったよ』と、優しくそうボソッと呟いた。
彼女は相変わらず何も言わなかった。
俺はそっと目を閉じて、ただギュッと彼女を抱きしめた。彼女のつける香水の甘い香りがより一層と強くなる。
俺はその瞬間、ふと無性に泣きたくなった。
思い切り声を張り上げて、大声をあげて、狂ったように泣きたくなった。理由なんてわからない。俺はただ無性に泣きたくなったのだ。
そして俺は、胸の奥から何か熱いものが、グーッと上に向かって込み上げてくるのを感じた。俺は思わず、くっと歯を食いしばった。喉の奥がグッと押され、目と鼻が熱くなるのがわかった。やがて、俺の目にスーッと熱い涙が溢れ、そして目から溢れた涙は、大粒の涙となって、俺の頬を静かに伝った。
涙は止まらなかった。こぼれ落ちる涙。とめどなく溢れる涙。俺は必死に歯を食いしばりながら泣いた。彼女をギュッと強く抱きしめ、俺は泣いた。訳もわからずに泣いた。
ただひたすら泣いた。涙で顔がむちゃくちゃになった。泣きすぎて声が嗄れた。鼻が詰まって息が荒くなった。それでも俺は泣いた。懸命に歯を食いしばりながら、俺は泣いた。
やがて、ポツリポツリと雨が降り出した。冷たい冷たい夜の雨だ。
冷たい夜の雨は、灰色の街を、公園を、俺と彼女を、黒豆を、そっと静かに包み込んでいった。俺と彼女はただ泣き続けた。
降りやまない雨。踏切の音。近くを走る電車の音。風の唸り声。そして、肩を寄せ合いながら涙する二人。ひとつになった黒く長い影。
俺は悲しいのかどうかさえ、もうわからなかった。
ただ俺の目からは絶えず涙が溢れた。涙はいつになっても止まらなかった。俺は彼女を抱き締め続けた。力の限り、俺は彼女を抱き締めた。強く彼女を抱き締める度に、ポツリポツリと目から熱い涙がこぼれ落ちた。
きっと、彼女の変わりに俺は泣いているんだ。今まで彼女が流すはずだった涙。彼女が流さなければならなかった涙。けどそれを今、俺が流している。『彼女を泣かせたくない』『彼女を幸せにしてあげたい』『彼女の笑顔を見たい』きっとそんな想いが、俺にこういう行動を起こさせたんだ。俺はその時、思った。
――すると、
「どこにも行かないでね」
突然、風が吹いて、消えかけた炭がそっと明るむように彼女は言った。
俺はかすれた小さな声で『うん』と返事を返すと、『どこにも行かないよ』と言った。
それから結局、雨は振り続け、決して止むことはなかった。
彼女の小さなかすれた泣き声だけが、ただ夜の公園に小さく響き渡っていた。
灰色の街は、やがて、ザアアァァという雨の音で満たされた。
やがて、彼女の小さなかすれた泣き声も、その雨の音にかき消されてしまった。
「もう帰ろう、風邪ひいちゃうよ」俺はそっと彼女の髪を撫でると言った。
彼女は静かに『うん』と頷くと、そっと俺の顔を見つめ、それから優しくニッコリと微笑むと、『そうだね』と言った。「風邪ひいちゃうね」
――だが、次の瞬間。
気が付けば俺は、そっと彼女にキスをしていた。それは自分でも全く予期せぬ出来事だった。地上から、世界から、一斉に音が、色が消えた。まるで時間が止まったように思えた。ただ俺は心から悲しく、切なく、そしてただ彼女のことが愛しかった。
俺たちは、ずっと一緒には居られない。
もう、別れがすぐ傍まで近付いて来ていることを、俺はふと確信した。
俺はたまらなく悲しかった。彼女のことをこれからもずっと守りたかった。守り続けたかった。彼女の笑顔を、ただ横から眺めていたかった。彼女と一緒に、笑い合って生きていきたかった。彼女と寄り添い合いながら、これからも先、ずっと生きていきたかった。
だから、ただひたすら目からは熱い涙が溢れた。
そして俺はただ、彼女のことを強く抱き締め続けた。彼女は何も言わなかった。
もう彼女を離したくはなかった。ずっとずっとこのままでいたかった。
けど、そんなことはできないのだという事実を、真実を、俺は心のどこかで悟っていたのかもしれない。俺はこの道を、たったひとりで歩いていかなくてはならない。彼女と手を繋いで同じ道を歩くなんて、そんなことは決してできないのだと、俺はそうどこかで感じていたのかもしれない。
とにかく俺は悲しく、そしてたまらなく切なかった。
だから訳もわからない程に、目からは熱い大粒の涙が溢れた。
俺たちはただ雨に打たれ続けた。