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第五章「二人の距離」


 ――その日の夜。また部屋に藤井美咲がやってきた。


任務も仕事も命令もなく、ただぼんやりとテレビを眺めていると、また『ピンポーン』とチャイムが鳴ったので、俺は急いで玄関へと向かった。

「またウチ来ない?」玄関のドアを開けると、ひょいと彼女は笑顔を覗かせた。ニコニコと満面の笑みを浮かべ、『晩ご飯、また一緒に食べようよ』と彼女は笑った。


 「今からですか?」

 「そう今から。あっ、もしかして都合悪い?」

 「あぁいや、全然都合いいです。むしろ暇してたところなんで」

 「だろうと思った」彼女はクスッとおかしそうに微笑むと、俺をスッと見つめた。

 「ちなみに今夜の晩ご飯、何だと思う?」

 「ホワイトシチューとか?」

 「バーカ。2日も連続でホワイトシチューを食べる人がどこに居んのよ? あっ、いやでも居るか……。あっ、居る居る! そういえばウチのおばあちゃんもよく、何日も連続でホワイトシチュー食べてたもん」

 「さっきから一人で何言ってるんですか?」

 俺はクスッと笑うと、静かに彼女を見つめた。

 「独り言よ独り言! 新入り君、何か文句でも?」

 「いや別に文句はないです」俺はそう言ってまたクスッと笑うと、『じゃあ、ちょっと待っててください。部屋の電気消してきますから』と、急いで部屋に戻り、テレビのスイッチを切り、それからリビングの電気を消した。


     *             *             *


 『明日、会社休みになったの』と、彼女はお茶碗にご飯をよそりながら言った。

 「だから久々にどこか出掛けてみようと思って」

 「でも、出掛けるたって何処へ?」棚からグラスを二つ取り出し、俺はそっと彼女を見つめる。「あっ、京都市散策でも?」

 「もうそれはイヤっていうほどやった」

 「じゃあ……」

 「海遊館! 久々に海遊館にでも行こうかな〜って思って」

 「海遊館? ってことは、明日は一人で大阪へ?」

 「バーカ。ひとりな訳ないじゃん。ひとりで海遊館はちょっと寂しすぎるよ」

 彼女はクスッとおかしそうに笑い、それから炊飯器のフタをパチンと閉じた。

 「でも、誰と一緒に大阪に行くんですか? 明日金曜日ですよ? 会社の人とか?」

 「違う違う。新入り君と」

 「ふ〜ん。って、えっ? 俺? 俺ですか?」

 「ん? 何? 何か文句でも?」

 「えっ? あぁいや別に文句はないですけど、その……なんていうか」

 「何〜? もう……新入り君は行くの? それとも行かないの?」

 「そりゃ行きます。海遊館好きですから」

 「即答じゃん!」彼女は俺の返答を聞くなりブッと吹き、アハハハと笑い出した。

 「というより、新入り君も海遊館好きなんだね。何か以外」

 「いやでも、俺もたまには息抜きが必要なんですよ。その、なんていうか、たまには余暇を楽しみたいっていうか、その……まぁだから、たまにはパーッと遊びたいんですよ」

 俺は少し顔を赤めながら、そっとテーブルのイスに腰をかけると、フーッと息を吐いた。

 「余暇って、新入り君いつも休んでるじゃない! 何のん気なこと言ってんのよ」

 彼女は笑ってそう言うと、ギラリと俺を睨んだ。

 「のん気なことって……俺だってちゃんと仕事ぐらいしてますよ!」

 「仕事? 新入り君が? えっ? 仕事って何の仕事?」

 「教えない」

 「えぇ〜っ、何で? 別に教えてくれたっていいじゃん!」彼女はそう言うなり、口をプクッと膨らませる。だが俺はしらを通し、

 「人には言えない秘密ってのがあるんですよ。美咲さんだってそうでしょ?」

 「えっ? う、ううん。別にそんなことないよ。そんなことない」

 「絶対ウソだ」俺は『いただきまーす』と手を合わせ、それから、美味しそうに焼きあがったハンバーグをフォークで突っつく。

「それ絶対ウソだ」

 「ウソじゃないもん!」

 「ホントに?」

 「も〜、だからホントだってば!」彼女はそう言うと、フォークで思い切りハンバーグを突き刺し、それをバクッと無理やり口に押し込んだ。モグモグと無言で口を動かし、それから『うぉい新入り! ビーフ、ビーフ!』と冷蔵庫を指差した。

 「はいはい、ビールですねビール」

 俺は『はいはい』と曖昧な返事を返し、席を立つと、一人キッチンへと向かった。


 ガーッと低い唸り声をあげる冷蔵庫の前に立ち、

 「美咲さん、ビール何本出したらいいんですか?」と、後ろを振り返る。すると彼女は手で『四本! 四本!』と、そう俺に強く主張し、『えっ? 四本も飲むんですか?』という俺の言葉を完全に無視し、『いいから早く持って来―い!』と、彼女は俺に向かって激しく手招きをした。


     *             *             *


 冷えたビールをグラスに注ぎ、彼女はそれを一気にゴクゴクと飲み干す。そして俺は、そんな彼女を横目にただぼうとテレビを眺め、そっとご飯を口へと運ぶ。

 「新入り君って、彼女居るの?」またハンバーグを口に入れた時、突然彼女は言った。

 ビールで顔を赤め、半分寝かかった彼女はどこか悲しげな表情を浮かべている。

 「彼女ですか? あぁ彼女なんて居ないですよ。俺悲しいことに、全然モテないんで」

 「ホントに? 絶対ウソだ」

 「ウソじゃないですよ」

 「じゃあ……新入り君は、今まで何人の人と付き合ったの?」

 「三人」俺は静かに手でスリーピースをつくる。

 「三人? ホントに?」

 「そう三人。中学生の時、同じクラスの子に告白されて付き合った。高校生の時は、同じ塾に通ってた子と仲良くなって、気付いたらいつの間にか付き合ってた。大学生の時は、同じサークルの子と付き合った。でも三人とも、いつしか俺のもとを離れていった」

 「……」

 「まぁその、俺って本当に不器用なんですよね。だからその、女の子の気持ちってのがよく分からなくて……」

 「女の子の気持ちねぇ〜」彼女は曖昧な相づちを打つと、グラスをスッと傾けた。

 「美咲さんは? 美咲さんは今まで何人の人と付き合ったんですか?」

 「私? あぁそうだな〜、もうあんまり詳しくは覚えてないんだけど、だいたい四人くらいかな? たぶんだけど」

 「四人ですか?」

 「うん、そう。ホントにたぶんだけど、だいたいそれぐらい。でもね、全部あまり長続きしなかったの。本当にあっという間の恋だったな。たぶん私もきっと新入り君と一緒なんだと思う。恋に関して凄く不器用だったのよ」

 「そっか……」

 「うん」

 「でも、もう、美咲さんは恋をしないんですか?」

 「ん〜、よくわかんない。今、恋をしたいという気持ちは、たぶん私の心の中にはないんだけど、でも毎日寂しいの。眠れないくらいに寂しい時があるの。だから私はよく、この寂しさを紛らわせてくれるような、そんな人が欲しいって思ってた。でも今は新入り君がこうやってここに居てくれるから、私は幸せ。ホントよ」

 彼女はそう言うと、俺に向かってニコッと優しく微笑んだ。本当に幸せそうな笑顔だ。

 「ホントに? そっか、それは良かった」俺はそっと彼女の澄んだ瞳を見つめると、彼女と同じように、優しくニコッと微笑んだ。

 「でも俺も幸せですよ。美咲さんとこうやって一緒に晩ご飯食べれて」俺は満面の笑みを浮かべると、グラスに残ったビールを全て飲み干した。

 「ホントに?」

 「えぇ」

 「そっか、それはどうもありがとう」彼女はそう言ってテーブルに頬杖をつくと、じっと静かに俺を見つめた。

 「いえいえ」俺は彼女に向かってパチンと手を合わせると、スッと席を立った。キッチンへと向かい、台所に食器を重ねて置き、台所の電気をつけ、それからそっと水道の蛇口をひねる。蛇口をひねると、冷たい冬の水道水がダァァァァッと勢い良く飛び出し、ステンレスに当たって水しぶきをあげた。スポンジに洗剤をかけ、食器をひとつひとつ丁寧に洗っていく。それにしても水が冷たい。すぐに手が赤くなる。

 「食器、別に洗わなくたって良かったのに」リビングの方から彼女の声が聞こえる。

 「いや、一応自分の使ったモノはちゃんと自分で洗っときます」

 「ホントに? ならそう、ありがとう。でも……なんか新入り君って、本当にしっかりしてるのね。いや、というよりしっかりし過ぎじゃない? ホント」

 「いや、別にしっかりはしてないですよ。現に俺の部屋なんて、今本当に凄いことになってますからね。ただ、母がいつも言ってたんです。別に好き放題をしてもいいけど、他人だけには絶対迷惑をかけちゃいけないよって。だから自分がやったことにはちゃんとケジメをつける。責任を持つ。これが俺のモットーなんです」

 「凄い! 新入り君がそんなことを思ってたなんて」彼女がアハハハと笑い声をあげる。

 「でも私ね、本当に新入り君みたいな旦那さんが欲しいなぁって心からそう思ってるの。仕事ばっかりじゃなくて、ちゃんと育児も家事も手伝ってくれる。そんな旦那さんが欲しいなぁって、そう思ってるの」

 「それなら大丈夫ですよ。美咲さんならきっと素敵な旦那さん、見つかりますよ」

 「ホントに?」

 「えぇ、ホントに」

 「ならいいんだけどな」

彼女はそう言って席を立つと、食器を持って俺の隣へとやって来た。

「そうだ、新入り君。明日どうする? 何時にここ出る?」

 「そりゃ早い方が良いんじゃないですか? だから……せめてここを七時か八時くらいには出る感じで」

 「了解。 よしっ、じゃあ明日は朝の八時半にマンション前に集合ってことで!」

 「なんで八時半なんですか?」

 「そんなことはどうでもいいの!」

 彼女はまたプクッと口を膨らませて俺をスッと見つめると、また再びリビングの方へと戻っていった。俺はそっと笑ってそんな彼女の後ろ姿を眺めると、再び食器を洗い出した。二つのグラス。二つのお茶碗。二枚のお皿。二膳のお箸。俺はそれらの食器を洗いながら、『新入り君みたいな旦那さんが欲しいな、か』と小さな声でそう呟き、それから少しニコッと微笑んだ。正直、嬉しかった。俺は食器を全て洗い終えると、台所の窓を少しガララと開けた。満月だった。俺は綺麗な満月を、ただぼうと一人で眺めた。一瞬彼女を呼ぼうかと思ったが、俺はそれを途中でやめた。

冷たい夜風。どこからか漂ってくる夕飯の香り。遠くで明滅するビルの赤い光。街道を走る車やバイクやトラックの音。俺はスーッと静かに深呼吸をすると、フーッとゆっくり息を吐いた。白く染まった息がまるで雲のように、一瞬、月の光を遮る。

 「ねぇ美咲さん」俺は窓を閉め、そっと彼女の名を呼んだ。しかし、リビングの方から彼女の返事は聞こえない。『あれ?』と、リビングの方を覗くと、彼女は空の缶ビールを片手にスースーと小さな寝息をたてていた。

 「なんだ、寝ちゃったのか」

 俺はクスッと笑ってそんな彼女を見つめると、そっとテーブルのイスに腰を下ろした。そしてそれから俺は、そっと彼女の手から缶ビールを離し、ただしばらくぼうと眠る彼女を見つめた。スヤスヤと眠る彼女の横顔。今すぐにでも崩れて、消え去ってしまいそうなその繊細な寝顔を、俺は何か珍しいものでも見るかのように、ただぼうと眺め続けた。

 「ねぇ」俺はそっと彼女の手を取ると言った。

 「知ってる? 俺ね、ホントはもう死んでるんだよ。もうこの世の人じゃないんだよ。だからね、俺はきっと美咲さんのこと、幸せにしてあげられない。だって俺の仕事は、美咲さんを悲しませることだから。俺は美咲さんの涙だから。だから俺は、美咲さんの旦那さんにはなれない。きっと、美咲さんを幸せにしてあげることなんてできない。できるなら、俺も美咲さんと一緒に居たい。ずっと、これからもずっと。死ぬまでずっと、美咲さんの傍に居たい。こうやって一緒に晩ご飯食べて、一緒にたわいのないことで笑い合ったり、話し合ったり、たまにはケンカしたり、そんな人生を、俺はこれからもずっと美咲さんと過ごしたかった。でも、それさえも、俺にはできないんだ。ごめん。ホントに、ホントにごめんね」

 俺はぎゅっと強く彼女の手を握ると、ズッと鼻を啜った。気付かないうちに、俺は泣いていた。涙は止まらなかった。自分でも、もう訳がわからなかった。ただ、ただひたすら俺は悲しかった。だから俺の目からは絶えず涙が溢れて、俺の顔をぐちゃぐちゃにした。彼女をスッと見つめると、彼女もまた涙を流していた。キラリと光る一筋の涙。

 「泣かせちゃってごめんね」

 俺はそっと涙を拭うと、席を立った。それからソファーの毛布を手に取り、俺はそっとそれを彼女にかけてあげた。彼女は、それからもずっと泣き続けた。


     *             *             *


 彼女の部屋を出ると、冷たい十二月の夜風が頬を撫でた。ポケットに手を突っ込み、部屋の鍵を見つけると、俺はそれを207号室の鍵穴へと挿し込んだ。カチャンという低い金属音。冷たく冷え切ったドアノブをひねり、俺はドアを開けた。部屋の電気をつけ、テレビ、電気ストーブ、コタツの順にスイッチを入れる。それからキッチンに戻り、ヤカンに水を入れ、それを火にかけ、棚からコーヒーカップとインスタントコーヒーを取り出す。


 「今日は各地で気温が氷点下を下回り、また日本海側を中心に記録的な豪雪となりました。このうち、新潟県新潟市では……」


 スッとリビングのテレビに目をやると、テレビ画面いっぱいに白銀世界の映像が映っている。 “京都はいつ頃になったら雪が降るんだろう ”なんて、そんなことをふと考えながらテレビをぼうと眺めていると、ピーッとヤカンが鳴った。

 コーヒーカップにコーヒーを淹れ、棚から適当にチョコクッキーやらキャンディーやら何やらを引っつかんでリビングに持って行き、俺はコタツにそっと足を入れた。フーッと深いため息をつき、『あぁ〜明日どうしよう』と唸り声をあげ、そのまま後ろにバタンと倒れ込む。白い天井。長い沈黙。目をつぶり、そっと眠りに落ちようかと思ったその時、その声は突然俺のすぐ傍で聞こえた。


「行けばいいじゃないですか」


 「えっ?」俺は思わず『えっ』と声をあげ、バッと起き上がり、後ろを見た。

 「なっ……」

しかし次の瞬間、俺は思わず声を失ってしまった。というより、その場に凍り付いてしまったのだ。それも仕方ない。何せ俺の視線の先に居たモノ。それは、白いフサフサの毛を蓄えた立派な大人のオオカミだったのだ。

「あぁ、驚かせてしまってごめんなさい。私ですよ。私。小山龍之介です」オオカミはそう言って少し微笑むと、俺のすぐ傍まで歩いてきて、スッと静かにお座りをした。

 「こっ、小山さんなんですか?」俺はゴクリと唾を飲み込むと、オオカミの澄んだ蒼い瞳をじっと見つめた。

 「ええ」

 「でも小山さんって……」

 「これが私の真の姿なんですよ。雨宮さんがいつもご覧になっていたのは私の仮の姿。本当の私は、実はオオカミなんです」

 オオカミはそう言ってまたニコッと微笑むと、長い尻尾をクルンとさせた。

 「そうなんですか……」

俺はぼそっとそう呟くと、そっとコーヒーの入ったカップを手に取った。

 「というより、小山さん。いつからここにいらっしゃったんですか?」

 「今日の夕方です。けど雨宮さん、なかなか気付いてくれなくて……」

 「ゆ、夕方から?」俺は思わず口に入れたコーヒーをブッと噴くと、オオカミを見つめた。夕方って……小山さん、いつからいらっしゃるんですか。俺はゴホゴホと激しく咳き込み、目に大きな涙を浮かべると、『なんか、ホントにすみません』と謝罪した。

 「ここ寒かったでしょ?」

 「いえ、私寒いのには慣れてますから。全然平気でしたよ」

 「ホントですか?」

 「えぇ。ただ、ちょっと孤独でしたが」

 「ホントすみません……」

 「いえいえ」

 「あっ、良かったらコーヒーお飲みになります? ホットコーヒー淹れますよ?」

 「あぁいえ、私ちょっとコーヒーは苦手なものでして。ご親切にどうもありがとうございます」

 「あぁいえいえ、そんな」

 「……」

 「……」

 「あっ、ところで雨宮さん」

 「はい」

 「明日のことなんですか、明日、お仕事お休みです」

 「休み? えっ、明日休みなんですか?」

 「ええ。神様がそう雨宮さんに伝えておいてくれと、そうおっしゃっておられました」

 「相変わらずあの方も気紛れっていうか、本当に気分屋ですよね。ある意味尊敬します」

 俺はそう言って、コーヒーをズズズと啜ると、そっとチョコクッキーを口に入れた。サクッという音と共に、チョコの香ばしい香りと、甘みが口の中いっぱいに広がり、俺は満足げにニコッと微笑んだ。やっぱり、チョコクッキーとコーヒーは良く合う。

 「私も、あの方には頭が上がりませんよ」オオカミはそう言ってクスッと笑うと、そっと俺を見つめた。「兎に角、明日は休みです。どうかゆっくり、思う存分楽しんでくださいとのことでした」

 「どうもわざわざありがとうございます」俺はそう言うと、オオカミに向かって深くお辞儀をした。

「いえいえ」オオカミはそう言ってニコッと微笑むと、ふわぁ〜と大きなアクビをした。

「あっ、あとあの……小山さん」

 「はい、何でしょう」

 「その……藤井美咲のことに関してなんですけど」

 「あぁ、それなら大丈夫ですよ」オオカミは笑った。

 「えっ? だ、大丈夫って?」

 「せめて明日だけは彼女のこと、幸せにしてあげてください。もちろん、雨宮さんがですけど」

 「えっ……」

 「雨宮さん、彼女のこと、好きなんでしょ?」

 「えっ? それは、その」

 「雨宮さんの目を見たら分かりますよ。けど、ちゃんとケジメはつけなきゃダメですよ。彼女のためにも。そして、雨宮さんの未来のためにも」

 「ええ」

 「けど……」

 「け、けど?」

 「別に私は反対しませんよ」

 「反対はしないって?」

 「雨宮さんが彼女を好きになってしまったこと。私は別に反対しません。ただ私はいざという時、雨宮さんのことを助けてあげることができません」

 「……」

 「助けてあげられるのであれば、助けたいです。けれども私が雨宮さんの運命を変えてしまうということは、決してあってはいけないことなのです。雨宮さんには雨宮さんの道がある。地図がある。私は雨宮さんの心の地図を決して見ることはできません。だから私は、ただ雨宮さんのことをじっと見守っているしかないのです。けれども、どうかこれだけは覚えておいてください。私はいつでも雨宮さんの味方です。いつでも、どんな時でも、雨宮さん、あなたの幸せを心から願っています」


     *             *             *


――それから数十分後。


 『それじゃ私は、そろそろこの辺で』と言い、小山さんがマンションの部屋を出て行ってから、俺はただぼうと天井を眺め、しばらく何もない時間を過ごした。

 つけっぱなしのテレビからは、たまにアハハハというけたたましい笑い声が聞こえ、また薄ら寒いバラエティー番組でもやっているんだろうと、俺はフッと鼻で笑った。

 

俺はリモコンを手に取ると、テレビを切った。部屋は急に静寂に包まれた。

 ただ電気ストーブの「ボ〜ッ」というヒーターの音だけが部屋を包んでいて、それ以外、何も聞こえなかったし、街道を走る車やバイクの音も、無論、何も聞こえなかった。

 俺はそっと寝返りをうつと、じっと窓の向こうの景色を眺めた。窓の向こうには、街の明かりが見え、その合い間を電車が軽やかに走り抜けて行くのが見える。

 俺はそんな窓の外の風景をぼんやりと眺めながら、ただ静かに彼女のことを考えた。隣の208号室でスヤスヤと眠る彼女。彼女は今、何を夢見て眠りについているんだろう。彼女は俺のこと、どう想っているんだろう。どう想ってくれているんだろう。


 俺は美咲さんのこと、決して幸せにしてあげることなんてできないのに。美咲さんはバカだよ。本当に大バカだよ。俺は美咲さんの涙なんだよ?

 そんなことを考えると、また自然と目から熱い涙が溢れ、やがて涙は俺の頬を静かにツーッと伝った。


 けれども、本当にどうしようもないじゃないかと、俺は泣いた。

 泣き続けた。本当にもうどうしようもなかった。


 ただただ、時間だけが過ぎていった。



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