第四章「心の隙間に」
深い深い眠りの中、『ピンポーン、ピンポーン』と、誰かが呼び鈴を押す音が聞こえる。
「ん〜」と低い唸り声をあげ、俺はまるでブルドックのような、ヒドイしわくちゃな顔をして、『ふぁ〜い』と、情けない弱弱しい返事を返し、ソファーからズルリと床に転げ落ちる。
――と、次の瞬間。
ゴンッ!
「痛っ!」
床にズルリと勢いよく転がり落ちた際に、俺は思い切り頭を床に強打し、『う〜』と、また低い唸り声をあげた。
「くそ〜……誰だよ、人がせっかく気持ちよく寝てるってのに……って! なんだなんだ!? もう真っ暗じゃねぇか!」
目を覚ました俺は、周りがもう既に真っ暗なのに思わずビックリして、『マジかよ〜』と声を漏らし、それから『はいはい、今行きまーす』と言って、ヨロヨロとよろめきながら、玄関へと向かった。
「はい」と言って、ガチャッと扉を開けると、そこには二十代前後の若いひとりの女性が立っていた。
淡い茶色のロングヘアに、スラッとした背丈。細くて綺麗な手。透き通るような白い肌。長いスカートに白いセーターを着た彼女はまるで、天国から舞い降りてきた天使のようだった。
だが、俺は彼女のことを知っている。
何を隠そう。目の前に居る彼女こそが、隣の208号室に住む、今回の新しい契約者、
“藤井美咲 ”その人なのだ。
「どうも、こんばんは」
「……こ、こんばんは」
「ん? あれっ? 部屋の中、真っ暗だけど……何? どうしたの? 何かあったの?」
「え? あぁいやいや、違いますよ。その……ちょっとさっきまで寝ちゃってたんです。疲れてたのか、何なのか……気が付いたらもうこんな時間になってしまってた……みたいな、そんな感じです」
「なるほどなるほど。だけどまぁきっと疲れてるのよ。だって、顔にもそう書いてあるし」
「え? ホントですか?」
「ホントホント。『僕もうダメです』って、そう書いてある」そういうと彼女は、俺のおでこをスッと指差して、クスッとおかしそうに微笑んだ。
「あっ、それよりもね、その……今日、北海道の実家からたくさんジャガイモが届いたの。だけど、私ひとりじゃ多すぎて食べきれないから、良かったらジャガイモ食べてくれないかなぁって思って、いっぱいジャガイモ持ってきちゃいました」
彼女はそう言ってまたニコッと微笑むと、ジャガイモでパンパンになった買い物袋を、ヒョイと俺に持ち上げてみせた。
「あっ、というより新入り君、もしかして今暇だったりする?」
「えっ? あぁはい。一応暇ですけど……何か?」
「そう。じゃあ、良かったら今からウチ来ない?」
「えっ? 今からですか?」
「うん。今から」
「えっと……その、何をしに?」
「あぁごめんごめん。その……ジャガイモを使ってホワイトシチューを作ったんだけど、ちょっとたくさん作り過ぎちゃったの。だから良かったら一緒に食べてくれないかなぁって思って」
「はぁ……」
「言っとくけど! 私の作ったホワイトシチューを食べることができるなんて、そうめったに体験できることなんかじゃないんだからね!」
彼女は得意気にそう言い張って、ニコニコと微笑むと、突然、手で拳銃の形を作り、そしてその銃口をそっと俺の方へと向けた。
「バーン」
彼女はニコッと微笑むとそう言った。俺は静かに胸をおさえた。彼女が撃ちはなった “何か ”は、俺の心臓を完全に貫いて、俺は思わずヨロッとよろめいた。
これは重傷だなと、俺はその時思った。
* * *
彼女の部屋は、とても綺麗に片付けられていた。
中は石油ストーブの熱でほんわかと暖かく、またオレンジ色の優しい電球の明かりが、部屋の隅々までもをそっと優しく包み込んでいて、また、床にはふかふかの白い絨毯が一面に敷かれていて、キッチンでは、ホワイトシチューの入った鍋が、コトコトと心地の良い音をたてていた。
まるで自分の部屋とは別世界だなと、俺はその時思った。
「あっ、そういや新入り君、私の部屋に来たのって、これが初めてだっけ?」
食器棚からお皿を取り出し、彼女は言った。
「えっ!? あぁはい、そうです。なにせ、このマンションに引っ越してきてから、まだ一週間も経ってないですしね」
俺はアハハハと、完全に呆れかえった笑い声をあげ、そっと彼女を見つめた。
「えっ? まだ一週間も経ってないの? ホントに?」
「はい。まだ三、四日ぐらいしか経ってないです」
「絶対ウソだ」
「ウソじゃないですよ」
「だって、新入り君、半年ぐらい前から隣に居たような気がするもん」
「と、言われても、俺がココに来たのは確かに数日前なんです」
「ホント? それか、ただ新入り君が勘違いをしてるだけとか?」
「残念ですけど、絶対違いますね」
「ふーん。じゃあ……それこそ私の勘違いだってこと? 新入り君」
「はい」
「えぇ〜、あっ、いやっ、違うな。やっぱり新入り君の間違いだ。絶対」
「なんでそうなるんですか」
「う〜ん……なんとなく、かな?」
「なんとなくって……」
「まぁとにかく! ホワイトシチュー食べましょっ! 新入り君もお腹減ったでしょ? 私はもう、お腹ペコペコ! さっきからお腹がグーグーなって仕方がないの」
彼女はそう言って、えへへへと笑うと、お腹をポンポンと叩いた。
「そうですね、食べますか」
彼女の無邪気な笑顔につられ、俺は思わずニコッと微笑むと、
『じゃあ、俺は何をしたらいいですかね?』と言った。
「じゃあ……棚からグラス出してくれる? 私のと、新入り君のと。あっ、というより新入り君は、お酒飲める? 大丈夫?」
テレビの電源を入れ、ふわぁ〜と大きなあくびをつくと、彼女は言った。
「えっ? あぁはい。全然大丈夫です。ビールでも、ワインでも、焼酎でも、何でも」
「へぇ〜そうなんだ。なんか以外だな」
「以外って?」
「だって新入り君、なんかちょっとお酒弱そうに見えるもん」
「えっ? あぁそうなんですか? でもホントにお酒は全然大丈夫ですよ」
「ふ〜ん。なに? 昔から飲んでたとか?」
「あぁ、はい。小学校の頃からずっと飲んでました。何せ家が酒屋だったもんで」
「へぇ〜小学校の頃から? でも家が酒屋って、なんかかっこいいね」
「そうですか? ウチの酒屋なんて、酔っ払った近所のおじさん達の溜まり場になってただけでしたよ。俺はそのせいで小学校の頃からその近所のおじさん達に『ほら飲め飲め!』って酒を勧められて、結局俺は小学校高学年あたりでもう既にアル中になってて、ホント、何回学校の健康診断の時、二次検査に引っ掛かったことか……」
「へぇ〜、なんか全然想像できないな」
彼女はそう言うと、アハハハと大声をあげて、心底楽しそうに笑った。
「新事実発覚! 新入り君は実は非行少年だった!」
「そんな楽しげに言わないでくださいよ」
「だって楽しいモノは楽しいんだもん。わかってないなぁ〜新入り君は」
へへへと、おかしそうに、心底楽しそうに、笑う彼女。それから「全然わかんないですよ!」と言いながらも、彼女と同じく、心底楽しげにクスクスと笑う自分。
そして、その時俺は、あぁ今この瞬間が、これからもずっとずっと永遠に続けばいいのになと、そう心から強く思った。
俺は『さぁ、早く食べましょう!』と、調子に乗って声を張り上げると、彼女に向かって、ニコッと満足げに微笑んだ。すると彼女は『うるさいなぁ』と、苦笑いを浮かべて、『それよりも早くグラス持ってきてよ〜』と言った。俺は『はいはい』と生意気な返事を返すと、ひとりキッチンへと向かった。
* * *
彼女の作ったホワイトシチューは恐らく、俺が今まで食べてきたホワイトシチューの中で、最も美味しいホワイトシチューだった。
彼女の実家から送ってきたというジャガイモは、ホクホクとして柔らかく、またその他のタマネギやニンジンなどといった野菜もとても柔らかく、またほんわかと甘く、風味も良く、シチューの味付け具合もこれまたパーフェクトで、俺はいつしか我を忘れて、ご飯をガガガとがっついていた。
「美味しいでしょ? 私の作ったホワイトシチュー」
「えっ? あぁはい! そりゃもう、カップラーメンとはホント全然比べ物にならないです! いやホント! めちゃくちゃ美味しいです」
「ちょっ、ちょっと待った少年! カップラーメンとホワイトシチューを比べてどうすんの!? 比べる物、絶対間違ってるからっ!」
「えっ? そうですか?」
「も〜! 『そうですか?』じゃないっ! 何? 新入り君、私を舐めてるわけ!?」
「あぁいや、俺はその、ただ……」
「ただ!? ただ何!?」
「美咲さんって、案外料理上手なんだなぁって思って」
「……」
「……」
「やーだ。そんなことないってばっ!」
彼女はそう言ってガハハハと大声をあげて笑うと、ヨロヨロとよろめきながらキッチンへと向かい、バンッと冷蔵庫の扉を乱暴にこじ開け、冷蔵庫の中から缶ビールを一本取り出して、しまいにはそれをその場で開けて、立ったまんまで缶ビールをがぶ飲みし始めた。ゴクゴクと、凄い勢いで缶ビールを飲み始める彼女。俺はその瞬間、思わず言葉を無くし、ただ黙ってそんな彼女を眺めた。
さっきから変だ変だと思っていたら、既にお酒を飲んでいたのか、この人は。
俺はアハハハと完全に呆れ返って薄ら笑いを浮かべると、スプーンでシチューをスッとすくった。まぁ、とにかく今はシチューを思う存分に味わおう。
俺は訳も無くクスクスと笑うと、シチューをそっと口へと運んだ。
* * *
――午後十一時半。
会社の上司は毎日毎日いちいちうるさいだとか、今の日本経済は全然ダメだとか、この間デパ地下で安いバックを見つけたんだけど、もう友人が同じやつを使ってたとか、そんなことを二時間、三時間と散々喋りまくって、散々俺を困らせた彼女は、急に電池を抜き取られたおもちゃのように、ピタッと見事に動かなくなり、これまた可愛いことに、彼女はグースカ、グースカとイビキをかいて眠り始めた。
俺はその時、そのまま自室に帰ってやろうかと思ったが、今日はわざわざ俺に手作りホワイトシチューを食べさせてくれた訳だし、それにもし、このまま彼女を放って自室に帰れば、明日彼女に何を言われるか分からないし、無論何をされるかも予測不可能なので、俺は仕方なしに彼女を背負って、リビングの隅に置かれたベッドまで歩いていき、彼女をそっと寝かしつけてあげた。
そして当然、彼女の目からは熱い、大粒の涙が溢れた。
それはもちろん、俺を中心とした半径一メートルの円内に彼女が居るからであって、俺は『ごめん』と小さな声で彼女に向かってそう謝ると、彼女の元からそっと離れた。
俺と彼女の距離は一メートルと十センチ。だが、彼女の涙は、いつになっても止まらなかった。
――彼女は今、一体何を思って涙しているのだろう。
俺はそっと静かに、切なげに、彼女の泣き顔を見つめた。
そして、いつしかそんな俺の頬を、ツーと伝う一筋の涙。
あぁ俺もちゃんと泣くんだなと、そうその時、俺は思った。
* * *
――次の日の朝。
目覚めて、朝刊を取ろうと新聞受けを覗くと、可愛らしい花柄の手紙が一通、新聞と一緒に入っていた。リビングに戻り、新聞を机の上にドサッと置いて、手紙の封を切る。
俺は最初からだいたい見当がついていた。この手紙は隣の208号室に住む、藤井美咲が俺宛てに書いたもので、それは恐らくきっと昨日のお礼だろうと。
俺はふわぁ〜と大きなアクビをつくと、ゆっくりとその手紙を読み始めた。
〈拝啓 隣に住む可愛い可愛い新入り君へ〉という言葉で、その手紙は始まっていた。
すらっとした、綺麗な文字だ。
おはよう新入り君。昨日はぐっすり眠れましたか? ちなみに私は、久々にぐっすりと眠れました。気が付いたらもう朝になっていて、ホントにびっくりです。
それに机を見たら、食器も鍋もグラスもお箸もちゃんと片付けてあるし、なおさら驚きました(もしかして、新入り君は私の召使いだったの? なんちゃって。うそうそ)。
とにかく! 昨日はいろいろとありがとうございました。また良かったらウチに遊びにきてくださいね。あっ、あと、新入り君は案外イジリ甲斐があって、物凄く面白かったので、また今度でもイジらせて頂きます!
それじゃあ、私はそろそろ会社へ行ってきます。あ〜ぁ。ホント新入り君は気楽でイイなぁ〜。ホントむかつく! なんちゃって。
それじゃまたね! 可愛い可愛い新入り君。
敬具
藤井 美咲
俺は手紙を読み終えると、スッと椅子から立ち上がって、リビングのボロボロ窓を開けた。窓を開けると、ひゅるりと部屋の中に冷たい冬の風が入り込んできた。
風はふわりとカーテンを揺らし、それから俺の吐く息を少し、白くさせた。
――風はどこか春の匂いがした。
俺はそっと彼女の手紙を胸ポケットに入れると、ぼうと街を眺めた。街は静かだった。
灰色の雲に覆われた空の中を、一匹の小さな鳥が気持ち良さそうにスイーッと静かに飛んでゆく。『あぁ俺もあの鳥みたいに空を飛べたらな……』なんて思いながら、俺は静かにその小さな鳥を眺め、それから俺は静かに窓を閉めた。
――さて、朝食でも取るとするか……。
俺は食器棚からお皿とコップを取り出すと、トースターにパンをひょいと投げ込んだ。しばらくして、朝の十時を告げる鐘が鳴った。俺はまた、ふわぁ〜と大きなアクビをついて、目に大きな涙を浮かべた。
なかなか良い朝だ。