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最終章「君の傍で、ずっと」


あれからいったいどれくらいの時間が経ったんだろう。

彼女を彼女の自室まで送り、俺はそれからそっと自室の玄関のドアを開けた。


部屋は当然のこと、真っ暗だった。だが、俺は電気のスイッチを探すわけでもなく、そっと静かに、カチャリと玄関のドアを閉めた。


――再び暗闇に包まれる部屋。


俺はハァーッと深いため息をついて、玄関のドアにもたれかかり、それからそのままズルズルとその場に崩れ落ちた。


――もうダメだ。


俺はその時、心の奥からそう思った。いや、もうこれ以上無理だと、俺は思ったのだ。

俺は彼女の涙だから、俺は彼女の悲しみだから、俺が彼女を幸せにしてあげることなんて、絶対に出来ないんだ。俺は彼女と一緒に居ちゃいけない。

俺が彼女の傍に居る限り、彼女はきっと悲しみ、苦しみ、きっと涙するから。

俺が居るから、彼女は幸せになれない。きっと、きっとそうなんだ。


そう思うと、また自然と目から熱い涙が溢れた。

切なさと、愛おしさと、悲しみが、深い感情となって涙になり、涙はツーッと静かに俺の頬を伝った。俺はクッと歯を食いしばり、服の袖で涙を拭った。


――チク、チク、チク、とリビングの方から響いてくる時計の針の音。


俺はその時計の針の音を静かに聞きながら、ただぼんやりと彼女のことを考えた。

そして、もう彼女には会えないと、その時、俺は思った。


俺はそっと目を閉じた。


目を閉じた瞬間、目からまた熱い涙が溢れた。それは、深い悲しみの涙だった。

やがて、俺は深い深い眠りに落ちた。いっそこのまま消えてしまいたい。

俺はそっと頭を抱えたまま、深い深い眠りに落ちたのだ。


    *             *             *


ふと目を覚ますと、部屋は淡いオレンジ色の光に包まれていた。

気付かぬうちに夜が明け、朝がやってきて、そして太陽は長い長い旅を終え、今、遥か地平線の向こう側へと沈もうとしている。

あれから一体どれくらいの時間が経ったんだろう。俺はあれからずっとここで眠り込んでしまったんだろうか。

俺はゆっくりとその場から立ち上がると、靴を脱ぎ、よたよたとよろめきながらリビングの方へと歩いてゆき、それから、リビングのボロボロ窓をガラッと開けた。


太陽は沈みかけていた。


夕陽のオレンジと夕闇の紫が辺りをそっと包み込んでいて、街のあちこちで、ポツリポツリと家々の明かりが灯り始めていくのが見えた。


俺はスーッと深い深呼吸をついて、そっと目をつむった。

瞼を閉じても、オレンジ色のその光は、瞼を透かして淡く輝いて見えた。


やがて太陽は、完全に地平線の向こう側へと沈み、街はそっと闇に包まれた。

俺はそっと窓を閉めて、ハァーッと深いため息をついた。


――もう、行かなきゃ。


俺はよろよろとよろめきながら再び玄関の方へと向かい、靴を履き、ドアノブに手をかけ、そしてそれからそっとリビングの方を振り向いた。

部屋は日が暮れたせいで、少し薄暗く、そして少し物悲しく感じられた。

俺はそれからしばらくただぼんやりと、そんな部屋を眺めた。短い間だったけど、それなりにお世話になった部屋だ。本当に短い間だったけれど、何だか何十年もここで暮らしていたような、そんな気がしてたまらない。


“だけど、確かに充実した時間を、俺はここで過ごしたのだ。 ”


俺は視線をスッとドアの方へと戻すと、ガチャリとドアを開けた。

そして、ドアを開けたその先に、黒い小動物が立っていた。その黒い小動物は、黄色く鋭い目をギラリと不気味に光らせ、俺の顔をじっと見つめた。

やがてドアがガチャリと閉まった。

黒い小動物が『よぉ』と言った。俺は『おう』と返事を返した。


    *             *             *


夕闇に包まれた京都の街並みをぼんやりと眺めながら、『もう行っちまうのか?』と黒い小動物は言った。俺は『あぁ』と静かに返事を返し、部屋の鍵を閉めた。


――カチャン。


俺は部屋の鍵をズボンのポケットの中にギュッと強く押しこむと、またハーッと深いため息をついた。

スーッと淡い白色に変わるため息。俺はそっとドアから離れ、スッと黒豆の方に視線を移し、『で? 黒豆はどうすんだよ?』と言った。

すると黒豆は、フワァ〜と大きなアクビをつき、『どうするって、俺はなんもせぇへんで? いつものまんまや』といつもながらの間抜けな声で、そう返事を返した。


「いつものまんまか……」

俺は低い小さな声でそうボソッと呟くと、廊下の手すりに手をかけ、それからそっと眼下に見える京都の街並みをぼんやりと眺めた。


夕闇に包まれた京都の街並み。燃え尽きて、灰色になった空。吹き抜ける冷たい十二月の風。そして、その風に紛れて微かに匂う、焼き魚の匂い。ボーンという寺の鐘の音。


いつしか俺は、また涙を流していた。

俺はぐっと歯を食いしばり、『ホント黒豆は羨ましいよ』と呟いた。


「羨ましいって、何が?」

「ずっと美咲さんの傍に居られるだろ」

「え? あぁ、まぁ、そりゃそうやけど……」

「そうやけど……何?」

「彼女、しばらく泣き続けるやろな、兄ちゃんのこと想うて」

「バカ、別れ際にそういうこと言うんじゃねぇよ。行きづらくなんだろ」


俺は『バカ野郎〜』と言って、黒豆の頭をクシャクシャに撫でてやると、『とにかく元気でな』と言った。「もう行くよ」


「おう、それじゃ、兄ちゃんこそ元気でな」

黒豆は俺に向かってニコッと優しく微笑むと、長い尻尾をプイプイと左右に振った。

俺も黒豆につられて思わずニコッと微笑むと、『それじゃ』と手を振った。


    *             *             *


マンション前の大通りに出て、俺はふと夜空を見上げた。

見上げた夜空には星が無く、ついさっきまでそこにポッカリと浮かんでいたはずのあの大きな満月も、やがて黒い大きな雲の向こうに隠れてしまった。

俺は地上にふと視線を下ろすと、そっと再び歩みを始めた。


ひゅるりと頬を撫でる、冷たい冬の夜風。コートやマフラーを身につけた大勢の人々が家路を急ぐ中、俺はたったひとり、行く宛てもなく、ただ途方に暮れながら、冷たい夜の街を彷徨い続けた。


そして、やがてポツリポツリと雨が降り出した。雨は一分も経たないうちにその雨脚を強め、街はザアアァァという、雨がアスファルトや家々の屋根を打つ音で満ちた。


突然の雨に、慌てて走り出す人々。ゴロゴロという雷の音。


俺はそんな中でひとり、ただ呆然とその場に立ち尽くし、やがてポケットの中から一台の携帯電話を取り出した。アドレス帳を開き、『は行』までピピピとページを送り、そして俺は不意にその手を止める。


携帯電話の液晶画面に映し出された〈藤井美咲〉という名前。


俺は、彼女のその名前をしばらく何も考えずにただぼんやりと眺め、それから約数十分ほど経ったとき、俺はようやく彼女の部屋の電話に、電話をかけた。


長い長いコールのあと、やがて彼女の部屋の電話は留守番サービスへと切り替わる。

「只今留守にしております。ご用件のある方は、ピーという発信音のあとに、お名前とご用件をお話しください」


俺はそっと深呼吸をつくと、静かに口を開いた。


「もしもし、美咲さん? その、あの……俺です。雨宮大翔です。隣の207号室の、雨宮です。その、美咲さんに直接伝えたいことがあったのですが、ご留守のようなので、留守電にメッセージを残しておきたいと思います。その……伝えたいことを、ちゃんと美咲さんに伝えることができるのか、正直言って不安です。言葉の少ない俺だから、ホントにちゃんと美咲さんに伝えたいこと全てを伝えることができるのか、正直わかりませんが、けれども、頑張ってこの想いを今、美咲さんに伝えようと思います。

だから、どうか最後まで、ちゃんと聞いてやってください。よろしくお願いします。


えっと、それじゃまずは、感謝の気持ちから、美咲さんに伝えたいと思います。その……ありがとう。今まで本当にありがとう! とにかくこれが今、俺が美咲さんに伝えたい、一番の言葉です。本当に短い間だったけど、楽しい時間をありがとう。幸せな時間をありがとう。あの日、俺に美味しいホワイトシチューを食べさせてくれて本当にありがとう。いつも、俺を笑わせてくれてありがとう。いろんな心配をしてくれて、本当にありがとう。いつもいつも、こんな俺と仲良くしてくれてありがとう。とにかく、本当にありがとう。


俺、本当は、ずっとずっと美咲さんの傍に居たかった。美咲さんとずっとずっと一緒に生きていきたかった。だけど、もう俺は行かなくてはいけません。


実は俺、もうこの世の人じゃないんです。本当にこんな話、話しても全然信じてもらえないかもしれないけど、俺、今からちょうど三年前に、バイクで事故って一度死んだんです。だけど、俺はもう一度、この世に戻ってきた。人間としてではなく、神の使いとして。そして俺は美咲さんの涙になった。美咲さんの涙、すなわち悲しみに。そして俺は美咲さんに恋をしたんです。『神の使者は人間に恋をしてはいけない』という重大な約束を破り、俺は美咲さんに恋をしたんです。


だけど約束を、契約を破ってしまった以上、俺は犯罪者です。

ずっとずっと、これからもずっと、俺は法を犯した犯罪者として、神から追放されます。けれども、俺のこの気持ちは、想いは、決して変わりません。


俺……美咲さんのことが好きです。というより、ずっとずっと前から、初めて美咲さんと出会った頃から、好きでした。


たまに変なことや、訳のわからないことを言って、俺を笑わせてくれた、そんな美咲のことが、俺は大好きです。

大げさなことを言えば、俺は美咲さんの全てが大好きです。美咲さんの長い綺麗な髪も、美咲さんのつける甘い香水の香りも、美咲さんの口癖も、美咲さんの綺麗な横顔も。

とにかく俺は、美咲さんの全てが好きでした。本当に美咲さんのことが大好きでした。

きっと、俺はこれからもずっと、美咲さんのことを好きでいると思います。

きっと、美咲さんのことは一生、何があっても忘れないと思います。


だからとは言わないけど、美咲さんも、たまには俺のことも思い出してくださいね。『あぁそういや昔、変なヤツが隣に居たな』ってぐらいで良いんで、どうか記憶の片隅にでも残しておいてください。


それじゃ、さようなら。

俺……美咲さんと出会えて本当に良かった。俺は幸せ者です。たぶん、世界で一番幸せ者だと思います。本当に心からそう思います。だから本当にもう、何も悔いはありません。


美咲さん、俺、本当に幸せでした。美咲さんと一緒に同じ時間を過ごすことができて、本当に良かった。本当に、本当に幸せでした。


さようなら。どうか、お元気で」


俺は目に大粒の涙を浮かべながら、必死に涙をこらえながら、携帯電話を耳からそっと離すと、静かに携帯電話をパチンと閉じた。


そして、俺はスッと頭上を見上げる。

ザアアァァという強い雨。

俺の頬を涙だか雨粒だかわからない滴が、ツーと静かに伝う。


――そして次の瞬間。


俺はその場にドシャリと崩れ落ちる。もう、立っている気力も体力も無い。

ただ冷たくて、ただ悲しくて、ただ彼女に逢いたくて、ただ訳もわからずに涙が溢れ、そして、ただ残酷に過ぎゆく時間が、俺の体温を、体力を、気力を、どんどんと奪い去ってゆく。


朦朧とする意識の中、俺はただひたすら彼女の名を呼んだ。

もう逢うことはないであろう彼女の名を、俺はただひたすら呼び続けた。


そして、やがて俺は気を失った。


――雨は深夜を過ぎた頃から雪になった。

雪は静かに街を覆い尽くしていった。冷たい灰色の街を、静かに覆い尽くしていった。


    *             *             *


――あれから一体どれくらいの時間が経ったんだろう。

大翔! 大翔! という、誰かが俺の名を呼ぶのが、ふと微かに聞こえ、俺はそっと瞼を開けた。

そっと瞼を開けると、誰かが俺の顔を覗き込んでいるのがふと目に入った。

その誰かは、雪が降っているというのに、傘もささず、ただ俺の肩を必死に揺すって、目に大粒の涙を浮かべて、俺に向かって何か必死に叫んでいる。


「……大翔! 大翔!」


雪でぐっしょりと濡れた淡い茶色の長い髪に、長いスカート。白色のセーター。


――美咲さんだ。


「美咲さん……」俺の頬を大粒の涙が伝う。

「来てくれたの?」


俺の問い掛けに『うんうん』と涙を浮かべながら、必死に頷く彼女。彼女は、俺の冷え切った両手をそっと手にとると、『死んじゃダメ。死なないで』と、かすれた小さな声でそう呟いた。俺はニコッと微笑んで、『ありがとう』と言い、それから『だけど、もう行かなきゃ』と続けた。


「俺なら大丈夫。だから、どうか泣かないで」

俺は優しくニコッと微笑むと、彼女の小さな手をギュッと握った。


だけど、彼女の目からは絶えず大粒の涙が溢れた。俺はそっと彼女の頬に手を触れると、スッと彼女の涙を拭った。

「俺……美咲さんのこと、これからもずっとずっと守っていきたかった。だけど守れなかった。強くなりたいって、初めて思った。美咲さんに会うまで、こんな気持ち知らなかった。例え、俺が犠牲になってもいい。美咲さんのこと、ずっとずっと守りたかった。

俺……美咲さんの傍にずっと寄り添っていたかった。これからもずっとずっと一緒に居たかった。輝かしい時が永遠だって信じて、疑いすらしなかったんだ。

いつかね、色褪せて、夢を見たような感覚に陥るんだ。でも、もうあの頃には戻れない。そして、いつしか美咲さんも、俺みたいにこの世から居なくなる。あぁやっぱり全ては夢だったのかなって、そんな風に思うんだ。

だけどね、俺は確かに美咲さんのこと、大好きだったよ。本当に心から大好きだったよ。

美咲さん、本当にありがとう。そして、さようなら。それから、ごめんね。

ずっと一緒に居れなくて、本当にごめんね。だけど、どうか泣かないで。どうか笑って。美咲さんは、やっぱり笑顔が一番だよ」


俺はそう言って優しくニコッと微笑むと、そっと静かに瞼を閉じた。

そしてそれと同時に、またスーッと意識が遠のいてゆくのを、俺は感じた。


「一緒に海遊館へ行った、あの日を覚えてる?」俺はそう、かすれた小さな声で言う。

「大きな大きな水槽の中を、たくさんの魚達が泳ぎ回っててさ、本当に綺麗だったな。けど、美咲さんがいきなり魚を見て『美味しそう』って言ったのにはホントに驚いた。だけど、あの時は本当に楽しかったよね。また二人で一緒に海遊館、行けるかな。行けるならもう一度だけでいいからさ、行きたいな……海遊館」

すると彼女は『うん、またいつかきっと、二人で一緒に行こう』と、かすれた小さな声でそう返事を返す。しかし彼女の声は震えていて、彼女の目からは絶えず大粒の涙がこぼれ落ち、とても喋れるようには見えなかったが、けれども彼女は必死に笑顔を作り、

「大丈夫だよ。きっと行けるよ。また一緒に行こう。海遊館。またジンベエザメとかクラゲとか見ようよ。一緒に笑おうよ」と言った。


「そうだね。いつかきっとまた、一緒に海遊館行こうね」

「うん」

「……ねぇ」

「ん?」

「美咲さん。どうか俺のこと、忘れないでね」


俺はそう言うと、そっと静かに彼女の手を手にとり、『でも悲しまないでね』と続けた。

「 “死 ”は存在しない。ただ生きる世界が変わるだけだから。本当にそれだけだから」


彼女はもう、何も言わなかった。もう逝ってしまうんだと、俺は思った。


俺の頬を、大粒の涙が伝った。


俺の頭の中に、彼女と過ごした様々な思い出や情景が、モノクロ映像となって甦る。

一緒にホワイトシチューを食べたあの夜。彼女の部屋で交わしたたわいのないような話。『新入り君みたいな旦那さんが欲しいな』という彼女の言葉。彼女と出掛けた海遊館。大きな水槽の中を泳ぎ回るジンベエザメやイトマキエイ。夕暮れ時の大阪港で、彼女と肩を寄せ合ったこと。『ふと永遠を信じたくなるよね』という彼女の言葉。彼女の寝言。彼女の綺麗な寝顔。彼女を背負って歩いた夜の街。見上げた夜空に浮かぶ月。天から舞い降りる白い雪。公園のベンチ。彼女のつける甘い香水の香り。彼女の幸せそうなニコニコ顔。それから、彼女の『バーカ』という無邪気な笑顔。


そしてやがて俺は、スーッと静かに、意識を失った。

俺の目からは絶えず熱い涙が溢れた。


そして、彼女と出会えて本当に良かったと、最後にそう俺は思ったのだ。


    *             *             *


――4月。


京都の街は桜に彩られていた。

街の公園には、満開の桜が数えきれないくらいに並んでいて、大気を無数の花びらが音もなく舞っていて、ただ鳥の嬉しそうな鳴き声が、公園を満たしていた。


そんな満開の桜を、藤井美咲はマンションの自室のベランダから、ただぼうと眺め、そして、ある一人の青年のことを懐かしげにふと思い返していた。


彼は突然、彼女の前に現れ、そして突然、彼は彼女の前からその姿を消した。


“彼は自分の涙だった ”


あれから約四か月ほど経った今でも、彼女はそれをあまり理解できずにいた。


“彼は神の使者で、彼は自分の涙だった ”


何だか、分かるようで分からない、そのもどかしさが、彼女を少し憂鬱にさせた。

だから彼女は彼宛てに手紙を書いた。届くはずもない彼のもとへ、彼女は手紙を書いた。


可愛らしいピンク色の便箋に書いた手紙を、彼女は隣の207号室のポストへ入れた。表札がはがされ、『入居者募集』という貼り紙が貼られた207号室のポストへ、彼女は手紙を入れた。


ポストへ手紙を入れた瞬間、『コトン』という心地のよい音が、何故か彼女を少し悲しくさせた。彼女はスッと上を向いた。また涙がこぼれそうになったのだ。


「ねぇ新入り君」


彼女はうっすらと目に浮かんだ涙を、グッと服の袖で拭うと、ニコッと優しく微笑んだ。

「またいつかきっと、一緒に晩ご飯食べようね」


彼女は207号室の扉に向かって『じゃあね』と手を振ると、静かに自室の鍵を閉め、そっと階段を下りていった。


マンションは再び静寂に包まれた。


暖かい日差しの中、時折、ふわぁと柔らかな風が吹いて、桜の花びらがひらひらと宙を舞う。空気は暖かで、辺りは春独特の、甘い花々の匂いで満ちている。



〈 拝啓 可愛い可愛い新入り君へ 〉


新入り君、お元気ですか? 私は相変わらず、なんやかんやと忙しい毎日を送っています。新しい仕事先も見つかりました。とにかく! 私は元気でやっています。


そう言えば、もう春ですね。

そちらに桜の木はありますか? こちらの桜は、今がちょうど見ごろで、マンション前の公園は、花見客や観光客でとにかく物凄いことになっています。

でも、本当に桜が綺麗で、仕事をしていても、ついつい手を止めて桜に見入ってしまいます。新入り君は、今、どのようにお過ごしですか? 私は出来たら、新入り君と一緒にお花見でもしたかったんだけどな〜。ホントは。へへへ、なんちゃって。


あっ、そう言えば昨夜、こんな夢を見ました。

新入り君と手を繋いで旅に出る。そんな夢でした。


静まり返った早朝の街並み。冷たい風。温かい新入り君の大きな手。

行く先は決めてないけど、不思議と二人の行くべき場所は決まっているように思えました。だから夢から覚めた時、もう逢えないはずの新入り君の手の温もりを感じて、私の目から涙が溢れたけど、何故か寂しくはなかったです。


私はあれから何回か、涙を流して泣いたことがあります。

そして私はいつも涙を流すとき、必ず新入り君のことを思い出すんです。


凄く悲しい気持ちなのに、新入り君はもうここには居ないとわかっているのに、私はニコッと微笑んで新入り君の名前を呼ぶ。すると、何故か新入り君が私の前に現われて、そっと優しく微笑んでくれる。私は今でも、新入り君が私のすぐ傍に居て、初めて私たちが出会ったあの頃みたいに、ニコニコと優しく微笑んでくれているように思えて仕方がないのです。


あとあの日、私に本当の気持ちを伝えてくれてありがとう。

すごく嬉しかったです。


私も、新入り君のことが好きです。私も、心から新入り君のことを愛しています。


『愛してる』


この言葉はきっと多分、新入り君のためにあるモノだと私はそう思うのです。


さようなら。

歳をとって、お婆ちゃんになっても私はきっと新入り君のことを想い続けます。

新入り君、さようなら。また、どこかで偶然、逢えるといいね。


                             敬具

                                 藤井美咲 〉


    *             *             *


――よく晴れた日曜の午後。


人通りの少ない大通りに、一匹の灰色の猫がヒョイと華麗に躍り出た。


その猫はピンと尻尾を立て、威風堂々と大通りを歩いてゆき、そしてやがて、とあるマンションの前まで来て、ピタリとその足を止めた。


マンションをじっと儚げに見上げ、そしてミャーと悲しげに泣き声をあげる。


と、そんなマンションの中からやがて、とあるひとりの女性が現れた。

白い長いスカートに、すらっとした背丈。淡い茶色のロングヘアに、透きとおるような白い肌。奇麗な手。彼女はそっとその猫を抱きかかえると、


『なに? どうしたの? 道に迷ったの?』と、優しく微笑んだ。


するとその猫は、心底嬉しそうに『ニャー』と鳴き、それから尻尾をプイプイと左右に振った。そして、『そうかそうか、道に迷っちゃったのか』と彼女は笑った。


ふわぁと柔らかな風が吹き、桜の花びらがひらひらと宙を舞う。

空気はあたたかで、辺りは春独特の、甘い花々の匂いで満ちている。


彼女はそっと満開の桜を見上げ、それから訳もなくクスッと笑うと、猫の頭をポンポンと優しく撫でてやった。


「それじゃあ、お花見にでも行きますか? 新入り君!」






                                      完 


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