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4.5.必要としているのは久遠

この話はオリジナルの外伝となっております(新人賞には未投稿)

具体的には、第4話の後日談を久遠 葵の視点にて書いたものです

 開けられた窓から入ってくる、じわりとした生暖かい空気。

 外は暗く小雨が降っている。本来であれば眼下に広がっている住宅の屋根も、走っていく乗用車も、低く飛んでいく鳥も灰色のフィルターを通したように色あせて見えた。

 ここ静岡の地もじめじめとした梅雨に入ろうとしている。どこからともなく、湿った雨の匂いが漂ってきた。

 今日の雨も夜まで降り続きそうね。

 私の前にはトランプのカードが三枚。一つは伏せられていて、残り二つは部室のLED蛍光灯に照らし出されている。ダイヤの七とクラブの五、外が暗いせいかいつもよりはっきりと見えた。

 その横には積まれたチップ。カジノで見かけるような木製のメダルみたいなものだ。

 白、黄色、赤、緑、青、黒。私の手元にはすべての種類がそろっている。

 別にディーラーをやっているわけではない。勝てば場に出したチップをすべて獲得できるというルール上、勝負を重ねるごとにチップが集まってきてしまうのだ。

「西ヶ谷よ」

「わかってる」

 正面では西ヶ谷が一枚の手札をにらみつけていた。

 その前にあるのは表にされたカード、種類はスペードのキング。上下どちらからでも同じように見える絵柄は、見るたびによく考えついたものだと感心させられる。

 やがて西ヶ谷は意を決したように声を絞り出す。

「もう……一枚」

 私は持っていた山札からカードを一枚とり、西ヶ谷の前にあるスペードのキングに添えるようにして置いた。

 表向きにされたカード。ハートの三だった。

「うっ……」

 困ったような顔をする西ヶ谷。

 お目当てのカードではなかったみたいね。トランプでほしい数字を引くことのできる確率は十三分の一。場に出ているカードもあるから正確な数値ではないけれど、そう簡単にあてられる確率ではないわ。

 少し考えた後、覚悟したように顔を上げる西ヶ谷。

「これでいい」

「そう。じゃあ私はベットするわ」

 赤いチップ十枚を手札の前に置いた。

「た、頼むぞ……」

 西ヶ谷も祈りながら赤いチップを九枚、そして横へ黄色いチップを二枚置いた。

 あれは西ヶ谷の持っている全チップ。これで私が勝てば、西ヶ谷はゲームを続けることができなくなる。

「それじゃあ、ショーダウンね」

 ごくりと西ヶ谷がつばを飲み込む音が聞こえた。

 ゲームの――ブラックジャックの勝負が決定する瞬間だ。手札のカードをすべて足し、二十一に近いほうが勝ち。ただし二十一を超えれば問答無用で負けてしまう。

 ポーカーのように役を覚える必要のない簡単なゲームだ。しかしその単純さゆえ、追加カードを引くか引かないかの判断一つで勝ちをとりこぼすことが多い。

 まあ二人では読みあいをしているという実感がわかないのだけど。

「じゅ、十九だ……」

 最初から見えていたスペードのキングと追加したハートの三、そこへ表向きにされたスペードの六が合流した。

 ブラックジャックでは絵柄がすべて十として扱われる。つまり数値としての十を引く確率が、他の数値に比べ相対的に高いのだ。ジャックとクイーンとキングに数字の十、引いてくるカードの三分の一近くが十としてカウントされる。

 二十一を超えればゲームオーバーとなるブラックジャックで、十もの数値は重い。西ヶ谷はそれを覚悟してカードを追加したのだろう。

 厳しい顔を見せる西ヶ谷。

 私は伏せていた自分の手札を表向きにした。

 光の下にさらされたカードは、スペードの九。先に引いていたダイヤの七とクラブの五をあわせ、合計は二十一だ。

「二十一。私の勝ちね」

「これで何敗目だよ……」

 パイプ椅子の背もたれに身を放り出した西ヶ谷。ギィッという軋む音が聞こえた。

 遠くチャイムが聞こえた。本来ここは倉庫、放送設備などがないのでチャイムや校内放送は廊下から聞こえてくるものを自らの耳で拾うしかないのだ。

 チャイムが鳴り終わると活動時間の終了を知らせる放送が聞こえてきた。

「今日はこれで帰りましょう」

 机の上に散らばった数枚のカードをまとめ、山札に加え輪ゴムでとめた。正面ではジャラジャラという音とともに西ヶ谷がチップを整とんしている。

 西ヶ谷の表情は読みやすい。手札がよければうれしそうな顔を見せるし、悪ければ露骨に嫌そうな顔をする。チップを賭けるときも、その枚数が多いほど緊張した表情を見せてくれるのだ。

 ブラフをかけられないタイプね、西ヶ谷は。

 ゲームの片付けを終えると、私は戸棚にたてかけておいた傘を手に持った。

 雑務部の活動時間は厳密に決まっているわけではない。誰かが相談にでも訪れないかぎり、極端にいえば気が向いた時間に帰るのだ。私がゲームをやめるか、西ヶ谷が席から立ち上がるか。

 先に西ヶ谷を部室から出し、スライド式のドアを閉じて鍵をかけた。

「それじゃあ、私は鍵を返してくるから」

 私の発したこの言葉が終了のあいさつとなっていた。

 何の表情もしていないであろう私に対し、明るい照明に照らされた廊下で笑顔を見せる西ヶ谷。

「ああ。また月曜日な」

 そう、今日は金曜日だ。雑務部員という接点以外で関わりのない私と西ヶ谷は月曜日まで会うこともない。

 軽く手を振りつつ東側の階段に歩いていく西ヶ谷。

 その姿が見えなくなると、私は大きなため息を漏らした。

「はぁ……」

 今日は相談がきたわけでもないし、雑務部の「本業」である先生の手伝いがあったわけでもない。

 最近――剣道部の一件を処理した後から出るようになってきたのだ。何に対してのため息なのか、自分にもわからない。勉強についていけないだとか、交友関係に悩んでいるだとか、そういった思春期の女子高生が持つような悩みはない。

 疲れているのかしら。

 わかりやすい肉体的な疲れはともかく、精神的な疲れは他人からいわれないと気づかないのかもしれないわね。

 しかし「疲れているね」といってくるような友達は……。先生に聞けるようなことではないし、注意すれば自分で気づけるようなことでもない。

 疲れるようなことがあったのかしら。

 最近の出来事を思い返しつつ、西側の階段を下り職員室へと向かった。

「失礼します。雑務部長の久遠です。佐々木先生はいらっしゃいますか?」

 校則に従い、名前と役職を告げて一礼する。新たに入学してきた一年生ですら「失礼します」の一言でどんどん入っていくから、このルールもあってないようなものになっていた。

 私の声に、ノートパソコンを開いていた佐々木先生が振り向いた。私の会釈に笑顔で返しながら立ち上がると、職員室の入り口へと歩いてくる。

「ご苦労さん」

 雑務部室を使っているのは私たちだけだ。だから部室の鍵は雑務部の顧問である佐々木先生が管理している。

 銀色の鍵とリングでつながれているネームプレートを渡した。

「では私は失礼します」

 両手をスカートの前であわせて一礼し、職員室のドアを丁寧に閉めた。壁際に置いた鞄を持ち上げる。

 私も帰りましょうか。

 玄関ホールは多くの生徒でにぎわっていた。よく見るとほとんどが女子生徒であり、両手で抱えるほどの大きな入れ物を持っている。きっと吹奏楽部員が楽器を持ち帰っているのだろう。

 私はにぎやかな雰囲気が好きではない。周囲からわけのわからない会話が聞こえてきて、言葉の通じない外国へきたような感覚になるからだ。

 でも吹奏楽部の下校時間と重なってしまった以上、我慢して帰るしかなかった。

 南城高校の通学手段は大きく分けて三つある。一つ目は徒歩、これは自宅から学校への距離が近い人だ。二つ目は自転車、市内に住む生徒の大半は登下校に自転車を使っている。

 三つ目は電車やバスといった公共交通機関だ。主に市外へと住んでいる生徒の通学手段で、私はこれを利用している。

 理由は自転車を買うお金がないから。バス通学であれば交通費として高校側から奨学金が出る。もっといえば私立である南城高校に進学したのも、授業料などを奨学金でまかなえるためだ。

 つくづく人生はお金だと思いつつ、私は吹奏楽部員に囲まれて駅への道を歩きはじめた。

 部活の終了から長い時間がたっていないのに、外は夜中のように暗い。住宅の窓からはカーテン越しに光が漏れており、静かに降ってくる雨が街灯の下で小さな水たまりを作っていた。

 通称「かるがもロード」と呼ばれる歩車完全分離の道。歩道が比較的広いのが特徴だが、人数の多さに生徒が車道へとあふれかけている。

『ねえねえ知ってる? みーちゃんて宇治原くんのことが好きなんだって!』

『ホントに? 私は三ツ橋が好きって聞いたけど』

『これはもしかして二股?』

 隣の女子グループから聞こえてくる恋愛の話。

 後ろのグループは駅前にできたらしいカフェの話で盛り上がっていた。どこに耳を傾けても女子高生らしい会話が聞こえる。

 この当たり前が私は嫌いだ。

 みんなが幼く見える。他人の恋愛感情を鼻で笑ったり、食べたこともないケーキの味を他人から聞いただけでおいしいと信じ込んだり、周囲にあわせるために勉強なんかしていないよとごまかしたり……

 でも本当は違うのだろう。

 仲間に加えてもらえないのを、私はひがんでいるだけ。私は恋愛やケーキの味の前に、他人との付きあい方を知らない。幼いのは私なのだろう。

 歩くスピードの差で間隔が開き始めると、私は手元の傘を広げた。

 雨の降り方は弱いし雨粒も小さい。それでも傘を差したのは、周囲との間をとりたかったからだ。同じ女子高生とは思われたくないために。

 迷惑そうな目も気にせず、私は傘を片手にかるがもロードを歩いていった。

 大通りの歩道橋を渡り、公園を避けるようにして路地を進む。駅の南にあるホテルと、それに続く高架をくぐれば国道だ。目の前にある広い横断歩道は渡らずに、左に向かって歩いていけば静岡駅のバスロータリーが見えてくる。

 小雨ながらも降り続いているせいなのか、普段よりも人が多くいるように感じた。ICカードを片手に持ちながら待っている人々。信号が青になった瞬間、交差点で待っていたらしいバスが次々とロータリーに姿を現す。

 私は九番の停留所に作られている列に並んだ。傘を閉じてまわりを見渡す。

 スーツ姿のサラリーマン、ベージュの鞄を肩にかけた清楚な女性、地下へ続く階段の前に群がる中学生の集団……。多くの人が構内へと駆け込み、そして停留所で乗るべきバスを待っていた。

 自分のような女子高生もちらほらいる。きっと北部にある県立高校の女子生徒だろう。下校時間が重なっているから、特に珍しいことではない。

 上を見上げれば、黒と灰色の中間色みたいな暗い空。そこから静かに降ってくる雨。車道にも歩道にも作られた水たまりがライトの光を反射し、下からも照らし出されているようだった。

 視野の隅にあった信号が青になる。エンジンの音を発しながら近づいてくるバス。前部にある降車用の扉が開かれると、乗客たちがなだれのように降りていった。

 車内の空間に余裕ができると、ようやく乗車用の扉が開かれる。私は思い出したように鞄からICカードを出し、右側にあるカードリーダーへとかざした。ピッという電子音を聞きつつ、車内を奥へと進む。

『左前よし、右よし、車内よし。発車します』

 走ってきた男性が駆け込んだのを確認し、乗車用の扉が閉められた。動きはじめ揺れる車内。

 湿気や混雑のせいだろう、むわっとした熱気を感じた。

 手元の携帯電話やスマートフォンの画面をにらみつけている人、ポケットから出ているイヤホンで音楽を聴いている人、大きな車窓から外を見つめている人。みんな思い思いの方法で目的地までの時間を潰している。

 私は外を見ていた。温かみを感じる街灯に照らされ、車道の水たまりがオレンジ色に輝いている。遅いバスを追い越していく乗用車。疲れた顔でハンドルを握っている運転手は家のことを考えているのだろうか。

 こうして暗い中でバスに乗ると、あの日のことを思い出してしまう。

 いつのことであったか正確に覚えていないが、西ヶ谷が自分を追って静清ホームまできたときのことだ。

 おそらく、この路線のバスに乗ってくる南城高校の生徒は私以外にいないだろう。だから通学途中で誰かと会うこともないし、会いたいとも思わない。

 それなのに西ヶ谷が同じバスに乗っているとわかったとき、私は説明のできない不思議な感覚を覚えたのだ。むずがゆいというか、じれったいというか、そのときの状況にはあわないような感覚だった。

 ふと視線を右に向け、車内の後方を見てしまう。

 そう感じた日は、いるはずのない西ヶ谷を探してしまうのだ。自分の中に渦巻いているおかしな感情をまぎらわすように。

 当然、いるはずもなかった。

 私はなにを考えているのだろう。

 視線を車窓に戻しながら、自分のした奇妙な行動に対し恥ずかしさを感じた。意味のない行動を自分からとるなんて……

 そんな自分との会話を重ねている間に、バスは静清ホーム近くの停留所へと到着した。

 前方にある降車専用のドアから和菓子店の前に降り、頑丈そうなアーケードの下で傘を差す。すぐ前の角にある電器店が赤や青、緑といったあざやかなイルミネーションを発していた。

 雨はしとしとと降り続いていた。横にある住宅の軒下からは、ときどき思い出したように滴が落ちていく。

 嫌なことがあったわけでもないのに、心が重く感じる。

 見るものすべてが画像のようだ。動画や風景ではなく画像。固定され変化のない現実。その中へたった一人で閉じ込められたように感じる。

 そんな画像のように固まった空間を、私はなにも考えないようにして歩いていく。

 横断歩道を渡り、すぐ近くにある静清ホームへ。夕方までは預かっている幼児や児童の声が聞こえてくるここも、今の時間では廃墟にきたように感じるほど静かだ。奥にある山の暗い影、白く光る街灯、それに照らされている建物の壁。

 私は左手にある建物の玄関へと進んだ。傘をたたみながら窓口で帰ってきたことを告げる。

 ずっと暗い夜道を歩いてきたせいか、廊下にある申し訳ない程度の蛍光灯がやけに明るく思えた。左側に一定間隔で並んでいるいくつものドア。ガスメーターや電力計があれば団地にも見える。

 廊下を真ん中ほどまで歩くと、私はドアの一つを開けた。ギィーというきしむ音。

 このあたりは静清ホームの高校生居住区だ。とはいうものの、すべての区域がそうだというわけではないため一人あたりのスペースは非常に狭い。

 私の部屋も畳み二枚分のフローリングとクローゼット、そしてベッドという刑務所のような場所だ。しかしこの部屋は本来二人部屋、一人で使っている私はまだ恵まれている方だろう。

 狭いゆえに置いてあるものもない。折りたたみ式の机と教科書などをしまっておく小さな本棚があるくらいだ。

 その本棚の横へと鞄をかけ、木目のあるクローゼットを左右に開けた。

 私服をとり出しながら、いっこうに心から離れてくれないモヤモヤ感はなんなのかと考えていた。

 学校で西ヶ谷と別れてから、ずっと残っている奇妙な感覚。

 心にぽっかりと穴が開いたというか、いるはずの人間がいなくなったというか、満たされていない感じがするのだ。

 私を襲うこの欲求は一体なんなのだろう。

 なにかしたいわけでもなく、なにかがほしいわけでもない。

 ただ静かな不安が私を襲ってくるのだ。

 自慢ではないが成績は上位グループにいるし、つい一ヶ月に行われた体力テストの結果だって悪くなかった。

 クラスメートとはまったく話さないが、逆に言えばいざこざが起きているわけでもない。

 さらに言えば雑務部だって平和なのだ。剣道部の一件だって、最終的には西ヶ谷が……

「西ヶ谷……か」

 ふと疑問に思うことがある。

 なぜ西ヶ谷は私を信頼し続けるのであろうか?

 冷静な判断と適切な指示、そしてそれを裏付ける結果……。考えうる最高の手段でここまでの相談をクリアしてきた。

 しかし、それは私の主観的な意見でしかない。

 西ヶ谷からすれば、詳細な説明もないまま危険な行動を強制されているようにしか思えないはず。つまり自分は使われていると考えるのが普通だろう。

 使うだけ使われ、いらなくなれば捨てられるかもしれない駒。

 そう受け取られていてもおかしくないのに、西ヶ谷は素直に従ってきたのだ。

 ここまで私を信頼してくれる人物が他にいたであろうか?

 お兄さんの遺言があるから? もともと西ヶ谷はお兄さんの遺言で雑務部を知り、入部を希望してきた。お兄さんの顔に泥をぬるわけにはいかないという使命感からなのだろうか?

 いいえ、それは違う気がする。

 西ヶ谷がお兄さんの名前を使ったのは最初だけだ。少なくともお兄さんのために部活を続けているようには思えない。

 では、自分が力不足だと思っているから?

 これも違うだろう。

 入部して二ヶ月が経っている。西ヶ谷なりにいじめに対する信念や対処の方法が固まってきているはずだ。その気になれば単独でもやっていけるし、モチベーションは私よりも高いくらいだろう。

 いちいち私の指示を待つ必要はない。

 では――なぜ?

「……」

 ここまで考えて、心の中で自分をあざ笑う。

 一体なにを考えているのかしら。たがか一部員でしかない、西ヶ谷のことなんか考えちゃって。

 西ヶ谷には西ヶ谷なりの考えがあるのだろう。どんな理由であれ、私がそれへと口をはさむ権利などないわ。どんな理由であれ雑務部に私を信頼してくれる人物がいる、それで十分なのだから。

 おかしな私ね。

 クローゼットを閉めると、私は部屋のドアを開けた。


 視界が白く、ゆらゆらと揺れている。

 感覚も鈍い。なんだかふらふらする。

 私はどこにいるのだろう? 今までなにをしていたのだろう? これからなにをするべきなのだろう?

 思い出せない。まったく頭が働いてくれないのだ。

 私は……

 次から次へとわいてくる疑問。

 それを解き明かすかのように、揺れていた視界に色と輪郭りんかくが付け足されていく。

 ああ――私は下を向いているんだ。

 明るい茶色の床、ここはフローリングだ。そして私はそこに座っている。ぺたんとお尻をつき、両足を曲げた状態で。

 右を見ればタンスがあった。六段の大きなタンス。上にはこけし人形や置時計、何枚かの写真が写真立てで飾られている。残念ながら、時計の指している時刻と写真に写っているのが誰なのかまではわからなかった。

 それにしても、周囲にあるものがやけに大きく感じる。

 座っているとはいえ、私ってこんなに小さかったかしら?

『ふざけんな!』

 突然響き渡った怒号。

 はっとして声のした方向、自分の正面へと顔を向けた。

 短い線で吊り下げられた蛍光灯。天井はまぶしく、それ自体が白い光を放っているかのようだ。

 その白い天井を背景に、男が仁王立ちをしている。地上から見上げる摩天楼まてんろうのように背が高い。震える声と荒い息の音から、顔が見えなくても煮えたぎるような怒りだけはつたわってきた。

 なにを怒っているのかわからない。私はこの男を怒らせるようなことをしたのだろうか?

『ごめんなさいっ! 許して……!』

 次に聞こえてきたのは、女性の弱々しい涙声。

 すぐ横で、若い女の人が必死に頭を下げていた。下げているというより土下座をしたままだ。顔を上げるのもはばかられるように、ただただ頭を下げたまま謝罪の言葉を連呼している。

 長い髪の毛に黄色っぽいワンピース。決して派手な服装ではない。髪で顔が見えないが、この人はどこかで見たことがあるような気がした。

 静清ホームの管理人、担任の先生……。思うように働いてくれない頭の中からできる限りの記憶を引っ張り出してみたが、誰も目の前にいる人物と一致しない。

 その女の人へと近づいた男は……右足を振り上げ下げている頭を蹴りだした。

 男は蹴り続ける。右足を後ろへと振り上げたり、上から落とすようにしたりして蹴り続ける。頭だけでなく背中、腰、腹……。場所を問わず蹴り続ける。手加減などしていない。自らが持っているすべての力で蹴り続ける。

 蹴られるたびにうめき声を上げる女の人。重苦しい音が響いてくる。

 しかし抵抗はしなかった。蹴られる、うめき声を上げる、次に蹴られるまでのわずかな間で必死に謝り続けているのだ。手をつきひざをつき、頭をフローリングにこすりつけて「ごめんなさい」を連呼している。

 それでも男は攻撃を緩めなかった。謝罪の言葉に耳を傾けることなく、女の人を罵倒ばとうしながら弱々しい身体を太い足で蹴り続ける。

 あまりにもむごい光景。

 なぜ男は蹴り続けるのか。この女の人は必死に謝っているし、抵抗するような素振りも見せていない。複数の人数がいるわけでもなければ、強そうなわけでもない。細く華奢な身体つきだ。

 女の人の反応が鈍くなっていく。うめき声が小さくなり、頭は下げているというより落ちているようにすら見えた。

 この女の人、死んでしまうのか。

 と、男の怒り狂った視線がこちらに向いた。

 顔は見えない。ぼやけていてわからないのだ。ただ背筋が凍るような視線だけが痛いほど刺さってくる。

 身の危険を感じた。思わず目を固く閉じた。

 なんで暴力を振るうの? なんで抵抗もしない人をいじめるの? なんでやめようとしないの?

 恐怖心が心を満たしていく。両腕を抱え込み、私はじっと固まった。

 私も蹴られるだろう。怒りの矛先は女の人から私へと変わり、今度は罵詈雑言が自分へと飛んでくる番だ。なにを言われるのか見当もつかないが、理性を失っているであろう相手に話しあいは効果がない。

 身体が動かなかった。ただ蹴られるのを待つしかない自分。

 あれ……?

 蹴られない。怒号も聞こえてこなくなった。

 目を開けると今度は別の景色が見えた。白くぼやけた空がどこまでも続いており、下には住宅街が広がっている。屋根の色はみんな白く、黒く塗りつぶされたような影の部分がコントラストを生み出していた。

 世界がモノクロになっている。色がなくなった世界はこんなにシンプルなのね。

 そういえば私はいつの間にか立っている。さっきまでは両腕を抱えて座り込んでいたはずなのに。目線も高く、男や女の人もいない。

 無意識に視線が下りた。見えたのは自分の両足、糸を通され結び目のつけられた白いスニーカーを履いている。買った覚えはないしもらった覚えもない。そもそも靴なんていつ履いたのだろうか。

 そのスニーカーのすぐ前に道路が見えた。細い道路だ。小人が通るような……

 違う、小人に見えたのは普通の通行人だ。それに道路が細いのではない。私が高い場所から道路を見下ろしているからだ。それも足のすくむような場所から。

 と、急に視線が落ちはじめた。下りた、ではない。落ちはじめたのだ。

 フワッという浮遊感か身体を包み込む。景色が横へと流れ出していく。細い道路が太くなっていき、小人が大きくなっていく――

 音もなく風を切り裂きながら、私は落ちていった。脱力した手足は伸びきり、背筋を真っ直ぐにして。今この瞬間を受け入れていく。必要以上に探ることもなく、現状に抗うこともなく。

 ぐんぐんと近づいてくるアスファルト。白線で書かれた「とまれ」の文字がフォントの設定を間違えたかのように大きく映った。

 死にたくない――

 背筋に冷たいものが走る。同時に心臓を強く握られたかのような圧迫感を覚えた。目の前に迫ってくる真っ黒なアスファルトに対し、今更ながら恐怖心がわき起こってきたのだろう。

 でももう避けることはできない。

 私は力の限り悲鳴を上げた。でも声は聞こえなかった。モノクロの世界は同時に無音であるらしい。

 世界にかき消された悲鳴を上げながら、私はアスファルトの闇へと飲み込まれていった――


「きゃあああっ!」

 ハッと意識が戻り、力の限りの悲鳴とともに飛び起きた。

「はぁ……はぁ……」

 布団を両手できつく握り締め、心臓が早鐘のように脈を打っている。口の中は乾ききっていてひりひりしている。砂漠を歩いてきたかのようだ。

 肩を上下させて息をしながら、左にある小窓へと視線を移した。牢獄ろうごくにも似たこの部屋にある唯一ゆいいつの窓。雲間からかろうじて姿の見える月が、私をいやしてくれる数少ない情景となっていた。

 私は時計代わりにしている携帯電話を開いた。パッと明るくなる画面に目を細めつつ、面白みもない画像を背景に表示された時刻を読みとる。

 午前三時。まだ夜中といってもいい時間だ。

 なにか背中をつたっていくものを感じた。ようやくわかったが私は汗びっしょりだ。背中や胸、腕、手足、顔にまでべたついた汗が流れている。

「……」

 汗をぬぐった手が月の光を反射しているのを見ながら、またやってしまったのかと思った。

 一歩一歩、足下を確かめるようにゆっくりとベッドから下りる。

 冷たいフローリングに足が触れる。一息つき、暗闇に慣れてきた目でドアを開けた。部屋は狭いが無駄なものは一切置いていないので、こういった足下が見えづらいときでも足をぶつけてしまうことはない。

 屋内用のスリッパをはき、ドアを手前に開ける。足を踏み入れた廊下は静まり返っていた。等間隔に設けられている蛍光灯もすべて消されていたが、代わりに窓から入ってくる街灯の光が青白い道を作り出している。

 時間が時間だし、当然よね。

 青白い光を放っている廊下にぺたぺたというスリッパの音を響かせながら、私は廊下の端にある共同の洗面所へと向かった。

 朝にはタイミングを見計らわなければならないほど混雑する洗面所も、この時間はひっそりとしている。右には各自の歯ブラシやコップといった洗面用具の入れられたラック。左には青いラインが一本だけ入った白いタオルがだらしなくぶら下がっていた。

 右手でスイッチを押しライトをつける。パッと上から光が降ってきた。赤と青のマークがついた蛇口や、白く大きな洗面台がその光を反射してくる。

 私は右手で青いマークのある蛇口をひねった。

「ぷはっ!」

 シャーッと勢いよく出てきた水を両手ですくい、汗でべたべたの顔にかけた。ちくちくと顔の神経を刺激してくる冷水。

 もう一度、顔に水をかけた。そして、もう一度。なにかを忘れるようにして、なにかから逃れるようにして水の冷たい感触を顔に受け続けた。冷水によって洗い流されることを期待しながら。

「……はぁ」

 五回か六回、顔を洗って蛇口を閉じる。キュッという音、ゴボボ……と水が排水口へと流れていく音、ポタポタという水滴が洗面台に落ちる音。

 タオルをとろうと顔を上げる。

 正面にある鏡。映っていたのはやつれた自分の姿だった。ぬれた前髪の下にはくまのできた目、死んだ魚のように生気のない目だった。鼻も口もどこか力を感じられない。ほほをつたって落ちた滴のあとは泣いたあとにも見える。

 ごしごしとタオルで顔をふきながら、やはり洗い流されてはくれないのかと思った。

 夢となり、たびたびよみがえってくる幼いころの記憶。

 優しかった母を責め立てる身勝手な父。

 永遠とも思えるほど蹴り続けていた男だ。覚えてこそいるが、その名前を出すのも汚らわしい。自己中心的で横暴な父親。

 そしてそれに続く――飛び降り自殺の想像。

 タオルを洗濯用のバケツへと放り込み、ライトを消して自分の部屋へと向かった。

 明るさに慣れきった目が廊下を暗闇に見せている。そして顔を流れていた汗は消えても、思い出された嫌な記憶と背筋の凍る想像は消えなかった。

 剣道部の一件で西ヶ谷を脅した私の過去。

 あれは小学生……いや、もっと前だったかもしれない。正確に覚えていないが、それほど幼いころのできごとだ。

 私は母が大好きだった。優しくて、ときに厳しくて、でも最後には笑ってくれる。料理が得意だけど、ちょっと不器用。それでも一度はじめたことは最後までやり通す。そんな尊敬できる私のお母さん。

 そんな母が殺された。憎き父親の手によって。

 小雨の降っていたあの日のことは今でも覚えている。母の子守唄こもりうたで夢の世界へと落ちていた私は、強烈な父親の怒号で現実へと引き戻された。

 起き上がった私の目に飛び込んできたのは、目の前で母が蹴られている場面。

 遅く帰ってきた父親に夕飯の用意がないことが怒りの理由だった。必死に謝る母を罵倒ばとうし、殴り、蹴り続けた父親。

 最後には抵抗が弱々しくなった母をテーブルへと投げつけたのだ。突き飛ばしたとか、そんな優しいものではない。躊躇いなく、加減せず、まるで死体を扱うかのように頭をつかんで投げ捨てた。

 テーブルの角へ勢いよく叩きつけられた母。それが母の最期だった。

 目を閉じてピクリとも動かない母。その身体をつたって床へと流れていく深紅の流血。赤みのあったほほは見る間に青白くなっていった。

 そんな母を横目に、罪悪感の欠片もなさそうに冷蔵庫からビールを取り出す父親。

 いったい、いつまで呼び続けただろうか。

 お母さん! お母さん! と。

 そこからはほとんど覚えていない。力の限り母を呼び続け、両手で揺すり続け、あふれてくる涙をぬぐうことなく泣き続け――

 その日を境に私の世界は変わってしまった。慎ましくも幸せだった母との生活はなくなり、父親は犯罪者として刑務所へと送られ、誰にも引きとられることなく孤児として静清ホームに収められた私。

 でも生活環境の変化など、我慢できればどうでもよかった。

 心にポッカリと開いた穴。私にとって母を失った痛みの方がはるかに大きかったのだ。

 なにを見ても面白いと思わない。

 なにを聞いても悲しいと思わない。

 なにをされてもうれしいと思わない。

 まるで暗い闇が私の心を食い潰してしまったかのように、感情そのものが失われたようだった。

 代わりに芽生えてきたのは、強烈な自己否定と激しい自殺願望。

 いくら父親を嫌悪けんおしても、私がその父親の子供なのだという事実は否定できない。それが憎く感じた。私は身勝手な父親の子供。私は自己中心的な父親の娘。私は母を殺した殺人鬼の子……

 自分が憎くて仕方ない。自分なんか死んでしまえばいい。今すぐにナイフで八つ裂きにしたい。金属バットで殴り殺したい。高層ビルの屋上から、アスファルトめがけて突き落としたい――

 私なんかいなくていい。私なんかいらない。私なんか死んでしまえばいいんだ。

 怖かった。私は私自身に殺されてしまうのか。死ぬのは嫌だ、死ぬのは痛くて怖い。

 なぜ私は死ななければいけないの? 私は誰も殺してもいないし、殺すつもりだってない。死ぬのは痛いし苦しいし、なにより今いる世界からなにがあるのかもわからない死後の世界へと連れていかれるのが怖かった。

 まるで心の中で二人の自分が戦っているようだ。一人は自分を嫌っている憎しみそのもの、もう一人は生きていたいという自分自身。

 感情を押し殺すように、私は無言で部屋のドアを押し開いた。


 ピピピッという携帯電話から聞こえるアラームの音。耳障りな音源を手でとめると、私はゆっくりとベッドから起き上がった。

 土曜日の午前六時。私の所属する理数科は土曜講座があるから、今日もいつも通り登校しなければならない。静清ホームにいてもやることがあるわけではないから、土曜登校を苦に思ったことはないのだけど。

 洗面所で手早く顔を洗い、髪をとかしたり歯みがきをして身支度を整える。

 時間ギリギリというわけではない。最悪でも七時四十二分のバスに乗れれば間にあう。ただやるべきことはすぐに処理しておきたい性格なのだ。別に誰かからこうした方がいいと教えられたわけでもないけど。

 私ってせっかちなのかしら。

 いや、本当は静清ホームという閉ざされた空間から一刻も早く出たいがためだろう。

 制服に着替えたら、昨日放り出したままとなっている鞄をつかんで部屋を出る。寮や下宿というわけではないから鍵はかけなくてもいい。

 静清ホームの門を自分で押し広げると、私の歩みはようやく落ち着いたものになった。

 まぶしい太陽が街灯に長い影を作り出している。綺麗きれいな青空だ。浮かんでいる雲は小さく白くて少ない。アスファルトへ思い出したように溜まっている水たまりと、途中の草木にくっついている水滴が昨日の雨を思い出させてくれた。

 朝早いバス停の周囲は静かだ。リードを握って犬の散歩をさせる女性、シャツと短パン姿でジョギングをする年配の男性。ときどき片側二車線の車道を白い軽トラックがエンジン音を響かせながら走っていく。

 変わらない土曜日の朝。この辺に大きな鉄道の駅があるわけでもないし、高校や大学があるわけでもない。あるのは小山と土手、少し歩いたところの銭湯くらいだ。

 私はこういう落ち着いた雰囲気が好きだった。

 この世界が自分のものになったような気がするから。誰にも気にされることなく、また誰にも気をつかう必要がない。

 たまに流れてくる、ほどよく冷たくて気持ちいい風。必要以上に光を押しつけてはこない高度の低い太陽。学校や静清ホームといった人の多い場所で過ごしている私にとって、こういった空気はとても新鮮に感じるのだ。

 しばらくしてバスはやってきた。キーという甲高いブレーキ音を立てて私の前にとまる。

『左前よし、右よし、車内よし。はい発車』

 この路線は利用する人が多い。ほんの数秒前にいた静かなバス停を惜しみつつ、私は混雑している車内の吊り輪を握った。

 エンジン音をうならせながら、駅への道を走っていく路線バス。一本、また一本と道路が合流するたびに周囲の車が増えていく。車窓から見えるコンパクトカーやミニバン。運転している人は眠そうにあくびをしながらバスを追い抜いていく。

 いつもより五分ほど遅く静岡駅へと到着した。

 国道一号線は土曜日だというのに、いや土曜日だからこそ車の通りが激しい。背の低い乗用車の間をすり抜けるようにして、バスは駅前のロータリーへと入っていく。

 ここからは徒歩だ。広く整備された歩道を少し進んだ場所にある交差点。向こう側の歩道には営業の準備をしているガソリンスタンドが見え、上には角のまるっこいビルが高くそびえたっている。正面には駅ビル用の立体駐車場。ビルとは対照的に背の低いそこは表示板で「空車」の表示を出していた。

 乗用車にまじり、道路の凹凸おうとつでボディを上下に揺らしながら路線バスが向かってくる。

 ふと、私の頭にとあるシーンが浮かんできた。

 ロータリーに入ろうと、左ウィンカーを出しながら走ってくる路線バス。

 その前へとタイミングを狙って飛び込む。

 けたたましいクラクション。

 甲高いブレーキの音。

 同時に自分の身体を襲う強烈な痛み。

 地面が上になり、空が下へと落ちてくる。

 動かない手、何も感じない足。

 遠くから悲鳴や怒号が聞こえる。

 飛び降りてくるバスの運転手。

 そして、それらを最後に意識が失われていく――

「はぁ……」

 思わずため息が漏れた。

 私はなにを考えているのだろう。自分が自殺するシーンを想像するなんて。それもここまで鮮明に。

 昨日見た夢の後遺症だ。

 昔の記憶を思い出した次の日は、必ずといっていいほど朝から気分がうつになる。ちょっとしたことから自分への憎しみを思い出し、すぐ後には強力な自殺願望がわき上がってくるのだ。

 しかもなかなか消えてくれない。それどころか増大されていくのだ。最終的にはなにをしても悪い想像しかできなくなってしまう。

 まるで内側から自分が崩壊しはじめているようだ。

 私は走った、全力ではなく早足くらいで。朝からランニングなんてしたくはないが、このモヤモヤしたというか黒い影のような感情を捨て去りたいと思ったからだった。

 鞄の持ち手を右手で握り締め、髪が乱れるのも構わずに高架下を小走りでくぐった。ゴトンゴトンという列車が頭上を通過する音。太陽の光とともに周囲の話し声や車の走行音までがかき消された。

 昨日帰った道をそのまま逆走していく。

 高架下の後にある、この狭い道を行けば公園が見える。その正面にある幹線道路を渡り「かるがもロード」をひたすら進めばすぐに学校だ。

 歩道橋を渡り切った後の「かるがもロード」は閑散としていた。いつもなら朝練のある南城高校の運動部員が、大きなスポーツバッグを肩にかけながら気のあう友人と言葉をかわしつつ歩いていることだろう。

 ところが今日は休日練習がないのか、高校生はおろか誰も歩いていない。自分だけが赤茶色の道で歩みを進めている。

 他人に干渉されないという意味での孤独感を覚えながら、私は小走りをやめ学校へと歩いていった。


 普通科のやっている土曜講座といえば予習授業がメインだが、ここ理数科においては日々の確認テストが主になっている。

 特に四月、二年生となってからは大学受験を見据えての模試がちょくちょく入ってくるようになっていた。英語、現代文、数学Ⅱ、物理……。日を追うごとに教科の種類が追加されていく。

 今日は一時限目が現代文で三時限目が物理。二時限目と四時限目はそれぞれの答えあわせの時間に割りあてられていた。

 ホワイトボードの右横にかけられているデジタル時計は十二時を表示している。

 私は三時限目に受けた物理の採点をしていた。すぐ横に置いた模範解答と自分の答案用紙の解答を見比べながら赤ペンを加えていく。

 同じように試験の採点をしているクラスメートたち。しかしときどき笑い声が聞こえたり、低い点数に同情するような言葉が聞こえてくる。担当の先生が席を外しているため、完全な自習状態になっていた。

 私はフラストレーションが溜まっていた。しかし原因はこの騒がしい教室ではない。

 試験をやってきて苦手だと思った教科はなく、実際に十分な成績を収めている。理系科目なら学校の上位をキープしているし、文系科目でもクラス平均を下回ったことは一度としてない。

 この前に行われたマーク模試での偏差値は六十前半だった。もっとも、個人的に答えやすい問題ばかりが出た記憶があるけれど。

 自慢ではないが優秀な成績だと自負している。

 それが今日はどうしたのだろうか。

 自分の解答用紙には予想以上にレ点がついている。他人の解答用紙と間違えたようにすら思えるほどだ。

 結果は百点満点中の五十三点。決して難しい試験内容ではない気がするのに。

 見返してみると、単純というか妙なミスが目立つ。回答欄をずらしてしまったり、漢字を書き間違えたり、問題文を見落としていたり。

 現代文のときもこんな感じだったわね……

 模試の問題が全然頭へと入ってくれないのだ。しっかりと読んでいるつもりでも、キーワードを飛ばしていたり最後まで読み切っていなかったり。大問をまるまる一問、飛ばした場所さえあった。

 読んでいる最中に頭がボーっとしてくる。急に酸欠になったかのように。

 代わりに入ってくるのは西ヶ谷のこと。

 西ヶ谷のことが浮かんでは消えていく。そしてまた浮かんでくる。そんなことが試験中に続いていた。

 理由はわからない。なぜ西ヶ谷のことが頭に浮かんでくるのか、心あたりがなかった。普通科の土曜講座は隔週で今日はないはずだし、当然だが部活動の予定もない。そもそも西ヶ谷はこの学校にいないのだ。

 それなのに会えるかもしれないという期待感がわき上がってくる。

 おかしな私……

 採点を終えて問題と解答用紙をトントンと整とんしていると、担任の先生が教室へと入ってきた。理数科の担任でもある女性の先生だ。同時に終了のチャイムが鳴り響いた。

『それでは、本日はここまでにします』

 簡単なあいさつで土曜講座はお開きとなり、私はプリントとペンケースを鞄へと滑り込ませた。

 自主的に勉強をしていきたい、あるいは解答について質問のある生徒は残ってもいいというルールのある土曜講座。別に勉強なら静清ホームでもできるし、今回は自分のミスが原因での落ち込みなので質問したいこともない。

 私は鞄を持って立ち上がった。

 ロッカーでスリッパをはき替え、西側の階段を使って一階に下り、人のいない静かな玄関ホールから外へと出る。

 運動場では多くの運動部員が練習に汗を流していた。パスを要求するサッカー部員の声や野球部の甲高い金属バットの打音、テニス部が打ち返しているボールが跳ねる音。そんな運動部の活動音が束となって耳に届いてくる。

『集合!』

 遅いお昼にするのだろうか。部員たちがキャプテンらしき人物の周囲へと集まっていくのを見ながら、私は学校を後にした。

 長い「かるがもロード」にあった水たまりは、高度が上がるごとに強さを増してきた太陽によって姿を消している。残っているのはわずかに湿り色の濃くなったあと。それらも一時間後には綺麗きれいになくなっているのだろう。そんなことを思いながら、少し速めの足どりで歩いていった。

 歩道橋を渡って公園の横を通っている道を通り、狭い道から高架下をくぐる。国道に出たら横断歩道を渡らずに左へ。独特のカラーリングをした高速バスがロータリーへ入っていくのを目で追いながら――

「あっ……」

 思わず声が漏れた。

 静岡駅の北口は中央が総合案内所、左右が常時開放の出入り口になっている。

 そこから出てくる若い男。長袖ながそでで白いシャツに黒色のズボンというコントラストのきいた服を着ている彼は、間違いなく西ヶ谷だった。

 そしてその横、手をつないでいるのは……ツインテールが目立つ女の子。

 さんさんと太陽の光が降り注いでいる真昼の駅前を、さらに照らし出すかのような明るい笑顔を見せている彼女。黄色っぽい髪をたなびかせ、両手で西ヶ谷の右腕を掴みながら地下へのエスカレーターに歩いていく。

 西ヶ谷もうれしそうに笑みをこぼしていた。

 あの子は……誰?

 地下道へエスカレーターを使って降りていく西ヶ谷と、それにちょこちょことくっついている彼女。いつの間にか私はそのあとを追っていた。歩みを速めて二人に近づき、しかし気づかれないよう一定の距離を保って追跡をはじめる。

 ついこの前、自分への尾行をストーカー呼ばわりしておきながら……

 罪悪感を覚えつつ、彼女の正体や西ヶ谷との関係を知りたいという感情を抑えきれずに後を追っていく。

 地下道で国道の反対側へと出た二人は、そのままデパート横の細い歩道を歩いていく。ここは大型の路線バスがよく通り、歩道も白線で区切られているだけなので非常に歩きにくい道だ。にもかかわらず、二人は歩きなれたように細い歩道をゆずりあって進んでいく。

 通行人を数人はさんで追跡しつつ、私は彼女が誰なのかを考えていた。

 西ヶ谷の妹さん? いや、彼に妹はおろか姉すらもいなかったはず。それはしばらく前にかわした雑談で確認しているし、兄弟関係で西ヶ谷がうそをつくとは思えない。

 じゃあクラスメート? 先輩か後輩? 小学校や中学校時代の同級生?

 どれも考えにくい。そもそも西ヶ谷が女子と二人っきりで出かけている時点で不自然なのだ。学校の中では異性間の交流が盛んだといわれている理数科でさえ、男女二人で遊びにいくケースは聞いたことがない。

 そうなると、残った選択肢は……

 まさか?

 西ヶ谷の――恋人?

 そんなはずはない。そんなことはありえない。そんなことは考えにくい。

 西ヶ谷は見知らぬ女子が一発でれるほどイケメンじゃないだろうし、特別優しいとか会話が面白いとか性格がいいわけじゃないだろうし、成績だって毎回上位にいるような優秀者じゃないだろうし……

 ちょっと正義感が強くって、ちょっと他人に気をつかうことができて、……ちょっとは頼りになると思える程度なんだから。

 本人が聞いたら怒りそうな言葉を頭の中に並べていると、二人は正面にあるガラスの自動ドアを開け建物内へと入っていった。

 ここは私鉄の終着駅にある大型商業施設。十年くらい前にリニューアルオープンして九階建ての駅ビルとなっており、地下にある広面積のスーパーから家電量販店、最上階には映画館まで入っている。よほど専門的なものでなければ買い物に困ることはない。

 施設内のエスカレーターを昇っていく二人。移動中にも明るい笑顔と楽しそうな会話が絶えることはなかった。

 三階に着くと、二人はエスカレーターからフロアーへと歩き出す。ここは主にファッションストアや雑貨店が入っており、東側には多くの店舗が軒を連ねているフードコートがあるフロアーだ。

 非常用の防火扉で右向きにターンし、緑地の看板が特徴的な店舗スペースへと入っていく。このフロアーでも特に大規模な雑貨店だ。店内には多くのお客が歩き回り、ところせましと並べられている日用雑貨や文房具などを吟味ぎんみしていた。

 あまり近づくわけにもいかず、遠巻きに様子を見ようと商品棚に隠れるようにして二人を見つめはじめる私。

 生活雑貨の置いてあるコーナーで、ツインテールの彼女が足をとめた。つられて西ヶ谷も足をとめる。

『ねえ見て見て! これ面白そう!』

『ただのコップじゃないか。どこが面白いんだ?』

『だってお湯入れたら絵が出てくるんだってよ!? 面白くない?』

『いや冬ぐらいしか見れないだろ……』

 白い無地のコップを手にとり、笑いながら西ヶ谷へと見せつけてくる。西ヶ谷も言葉でこそあきれてはいるものの、仕方ないなぁと笑いを浮かべていた。

 どうやら無理に同行させられているわけではないみたい。

 それにしても楽しそうだ。彼女がカラフルな色をしたフォークやあざやかな色彩のクロスを見せつければ、西ヶ谷がそれを「家で使うのかよー」なとど冗談まじりに笑ったりしている。

 なんだかじれったい気持ちになってきた。急いでほしいと思っているわけではない。それなのに身体がうずいてくるのだ。

 西ヶ谷が笑顔を見せながら彼女の肩をポンポンと叩く。

『ほら、見にきたのはこれじゃないだろ?』

 三角形や四角形が中心となってデザインされているグラスを、彼女は名残惜しそうにゆっくりと商品棚に戻した。そしてパタパタっと靴音をたて、少し離れた西ヶ谷の横へと戻っていく。

 店の奥へと入っていく二人。今度は文房具を見にいくようだ。

 正面から見て左、大小さまざまな手帳や多彩なカラーリングのメモ帳などが目立つコーナー。決して広くないスペースに、下手な文具店よりも多くの文房具が場所を争うようにして置かれている。

 西ヶ谷が正面の棚からペンを一つとり、右手の親指でカチッと芯を出した。赤から紅へのグラデーションが特徴的で、中央がわずかに細くなっているシンプルな形のボールペン。

『これなんかどう?』

 先端を持って彼女に渡した。

 しかし彼女には気に入ってもらえなかったらしい。両端をつまみながらくるくると回した後、

『うーん……もっと派手なやつがいいよ』

 返品されてきたシンプルな形のボールペンを受けとりながら、じゃあ……と別のペンを探し出す西ヶ谷。

 視線が商品棚の上から下へ、右から左へと流れていく。同時に右手も人差し指と親指でものをつまむような形のまま、ボールペンやシャープペンが並んでいる商品棚の前を漂流していた。

 しばらく商品棚と向きあったあと、最上段から明るい色のペンをとる西ヶ谷。

『これは?』

 さきほどとは逆に本体中央が太い形だ。オレンジとシアンが交互に重なったストライプが本体にくるくると巻きついていて、後ろの部分はまるい球の形をしている。さらにそこからキーホルダーのように四角いシルバーのアクセサリーまでついていた。

 いわれた通りに派手なペンを選んだ西ヶ谷。

 今度は彼女も興味を持ったらしい。上下を引っくり返してはしげしげと眺め、白く健康的な親指でカチカチと芯を出し入れしていた。

『うん。これにしようかな』

 どうやら納得したみたいだ。

 だがその目はすでに別の文房具へと向いている。飽きっぽい性格なのか新しいもの好きなのか、「新製品!」とカードの出ているボールペンへと珍しそうな視線を注いでいた。

『それもほしいのか。家がボールペンだらけになるぞ?』

『やっ、こ……これは面白そうだなって思っただけ!』

 顔を若干赤くして恥ずかしそうにしながら、胸の前で手を小さく振る彼女。それを少し意地悪そうな目で見る西ヶ谷。言葉をかわしつつ買い物を楽しむその姿は、いかにも高校生のカップルという感じだった。

 やっぱり彼女は――。違う、そんなはずはない。しかし……

 心の中で二人の自分が戦っていた。視覚や聴覚から得たものを情報源ソースに西ヶ谷と彼女は恋人の関係にあるという判断をした冷静な自分と、西ヶ谷に限ってそれはないと否定する感情的な自分。

 いつもならば、どちらが正しいのかを即座に決定していただろう。

 だが今日はそれができなかった。自ら得た情報からの冷静な判断こそが正確だと信頼しきれないのだ。いや、信頼したくないといった方が正しいだろう。

 なぜ私はこんなにも迷っているの?

 頭が混乱する中、飛び出して問い詰めたい衝動を崩れそうな理性で抑えつける。

 西ヶ谷の選んだものと自分で選んだペン、二種類のボールペンを握り締めて西ヶ谷の横に並ぶ彼女。

『あれ? 一樹くんも買うものあったの?』

 完全にレジを通る気でいたようだが、隣の西ヶ谷があっさりとスルーしたために戸惑いを見せる彼女。

『うん。さっき思い出したから』

 そういって反対側のコーナーへと向かっていく西ヶ谷と、不思議そうな顔をして追う彼女。私も離れてしまった距離を縮めるかのように、西ヶ谷と彼女を視界に捉えながら同じ方向へ歩き出す。

 西ヶ谷が足をとめたのはアクセサリーのコーナーだった。ペンダントやネックレス、細いリストバンドにキーホルダー……

 左手を軽く握った状態で口元にあて、並んでいる商品に右手を出そうとしては首を振りつつ引っ込めている。さっきまでとは打って変わり、見定めるような真剣な顔と鋭い目つきだ。

 一体、なにを探しているのかしら。

『一体、なにを探しているの?』

 西ヶ谷の横にいた彼女が代弁するかのように、私の意思と一字一句違たがわぬ言葉で聞いた。

 ようやく納得できるアクセサリーが見つかったらしい。満足げな笑顔を見せる西ヶ谷。

 そしてくるりと振り向くと、少し目線を落としながら彼女へと口を開いた。

『これは、…………』

 口元こそ動いているが、その声は私の耳へと入ってきてくれない。喧騒けんそうの中でかき消される西ヶ谷の声。

 それはなんなの? なんのために?

 情報がまったく入ってこない。見つかるかもしれないリスクを犯してでも、二人に近づいておくべきだった。

 でももう動くことはできない。

 西ヶ谷の言葉が終わると、彼女はうれしそうな笑顔を見せた。そして「早くいこう」といいたそうに西ヶ谷の左腕を掴み、並んでいる人が少ない端のレジへぐいぐいと引いていく。

 西ヶ谷の選んだストライプのボールペン。彼女が興味本位で手にとった虹色グラデーションのボールペン。彼女から西ヶ谷の手に渡り、そして会計をする店員の手へと移っていく。

 そして西ヶ谷がアクセサリーコーナーで選んだ商品――蜜柑みかん色の短いヘアピンも店員の手へと渡った。

 ヘアピンということは女性に渡すのよね? 西ヶ谷の周囲にいる女性といえば……

 とりあえず母親だろう。ほかにはクラスメート。中学校からの同級生あたりもありえるのだろうか。

 いや――違う。

 さっきから私は一つの結論を避けている。

 あれは彼女へのプレゼントではないだろうか。買ったばかりのボールペンを話題に、笑顔で言葉をかわす隣の彼女。

 私が自分で出したはずの結論を自ら避けるなんて……

 二人は雑貨店を出ると、ふたたび昇りのエスカレーターへと乗った。四階には家電量販店、五階には本屋がある。

 そしてその上、駐車場である六階から八階をはさんだ最上階にあるのは――映画館。

 高校生のデートコースとしては申し分ない。

「あっ……」

 そう思っていると、二人はあっさりと五階で降りた。そして後ろにある本屋へは向かわず、正面にあるレストランコーナーへと向かっていく。

 そうね、考えればお昼の時間だわ。

 すぐ近くにあるレストランへと入っていく二人。彼女の手を引く西ヶ谷の横顔はやはり笑っていた。それも一度として見たことのない満面の笑顔で。

「はぁ……」

 これ以上は――追うことができない。

 重い荷物を下ろしたように、私は大きなため息をついた。緊張していた肩が耐え切れないとばかりに落ちてくる。

 昼食の時間から一時間以上経っているというのに、レストランコーナーにある店舗先で順番を待つ人は多く見られた。騒がしくもなく、かといって静かでもない空間。各々の飲食店舗からおいしそうな料理の匂いが漂ってくる。

 そんな昼下がりの落ち着いた雰囲気の中、私だけがピリピリとした緊張感を持っていた。

 西ヶ谷の隣にいた彼女は、やっぱり恋人?

 楽しそうに笑い、うれしそうに会話し、ごく自然に彼女をエスコートしていた西ヶ谷。隣にいた彼女もそれを拒むことなく、しかし彼女自らの意志を曲げることなく西ヶ谷についていた。

 私が意識しすぎなのだろうか。

 自分へ向けた「隣にいたのは西ヶ谷の恋人なのか」という問い。それに対して肯定も否定もできず、ただただ二人の入っていったレストランを見つめるしかなかった。


 自分の目に焼きつけられた西ヶ谷の笑顔。私が今までに一度として見たことのなかった、心から笑っている顔。

 日曜日の午後、私はそれを思い出しながら学校の問題集を片付けていた。

 小窓からは太陽の光が漏れてきているが、それを嫌うかのように室内は薄暗い。天井の蛍光灯も消されていて監獄のようだ。

 静清ホームは節電にうるさいが、なにも使っている部屋の蛍光灯まで消せといわれたことはない。手元さえ見えれば不便ではないし、やや暗いほうが気持ちが落ち着いてやることに集中できるからだった。

 狭い部屋にカリカリというシャープペンの筆記音が小さく響いている。

 提出期限は一学期中――つまり七月末までだから一ヶ月以上もあるし、問題も復習の範囲なのでたいしたことはない。

 ところが今日は焦るくらい進まない。長くもない問題文で混乱したり、いつもならパッと出てくるはずの公式に悩んだり、小学校レベルの単純な計算を間違えたり……。おかげで普段の数倍は時間をかけている。

 じれったいわね……

 そう思いつつ次の問題に目を移すのだが、また問題文が頭に入ってこない。なにを聞かれていたのかを忘れ、ふたたび最初から読み直す。そんなことが続いていた。

 そうした違和感の中、思考の間隙かんげきをついて思い出される昨日のこと。

 あれは誰なのだろうか?

 なぜ隣にいるのだろうか?

 どうして西ヶ谷はうれしそうなのか?

 いや……もっと問題なことがある。表向きなことを並べ、私自身が必死になって隠そうとしている本当の悩み。

 なぜ――私はそこまで考え込むの?

 今までに他人の行動が気になったことなど、片手で数えられるほどしかない。それも自分の身に危険が及ばぬようにという警戒心からだ。

 しかし今回はそういった身の危険など存在しないし考えられもしない。自分を攻撃しようという企てているわけでもなければ、隣にいた彼女が西ヶ谷へ危害を加えようとしているわけでもないのだ。

 それなのに西ヶ谷の行動が気になる。

 気がつけばシャープペンを持つ手はとまっていた。問題を解く気にもなれず、ころんと白いシャープペンを机の上へと放り出す。

「はぁ……」

 薄暗い天井を見上げ、ため息を一つ。

 心の中で二つの感情がぐるぐると回っている。

 彼女の方へと西ヶ谷が離れていってしまうという孤独感と、私だけが仲間外れにされているという疎外感。

 いずれも覚えたことのない感覚だ。孤独であってもそれが嫌だと思ったことはない。疎外であってもそれを抵抗と感じたことはない。それなのに今回は激しいくらいの抵抗感を覚えるのだ。

 西ヶ谷が雑務部を離れることなど、自分を無視していることなどありえない。西ヶ谷はそんな人間ではない。

 そんなことはわかっているのに、強烈な不安を感じるのだ。

 ひょっとして私は――捨てられてしまうのかな。

 突然浮かんできた考えに、一番驚いたのは自分だった。

 そんなはずはない。ありえない。一パーセントの可能性だってない。

 そもそも拾われてすらいないのだから。仮に捨てられたとしても、今まで一人で生きてきた私が困ることなんてない。

 必死に否定するが、一度浮かんできた大きな不安は消えてくれなかった。むしろ心の奥底から不安が押し寄せてくるような感覚だ。

 仮に西ヶ谷の隣にいた彼女が恋人であったとしても、彼が雑務部を退部したり目をあわせてもくれなくなるわけではない。放課後になればいつも通り部室へと姿を現し、いつも通り私の正面に座り、いつも通り帰っていくだろう。

 それのどこが不満なのだろうか。

 いや、そんなレベルのことではない。

 私は嫉妬しっとをしているのだろう。あるいは限りなくそれに近い状態なのかもしれない。隣にいた彼女があまりにも親密そうな振るまいを見せるあまり、私は西ヶ谷をとられるのではないかと思ったのだ。

 認めたくない。この私が他人へ嫉妬しっとしているなど。

 でも認めなければならない。気づいてしまったことに対し、気づいていない振りをするのは自分が苦しい思いをするだけだ。

 なぜ私は嫉妬しっとなどしているの?

 なぜ私は西ヶ谷をとられたくないと思っているの?

 なぜ私は西ヶ谷が離れていくことに不満を感じているの?

 疑問ばかりが浮かんでくる。それなのに答えは一つも出てこないし、出してくれるような人だって思いつかない。

 ここまで一人で生きてきたのに、急に人が恋しくなるなんて。自らの考えていることがまったく読めない。片方の自分が探っている一方で、もう片方の自分がそれを必死に隠そうとしているみたいだ。

 一体、私はどうしてしまったのだろう。

「はぁ……」

 私はふたたびため息をついた。少しでも問題集を進めようと、転がっていた白いシャープペンを右手で握り締める。

 やるべきことをやっていれば、こんな雑念はそのうちに忘れるだろう。

 そんな淡い期待で右手を動かし続けた。


 日曜日が終われば月曜日がやってくる。

 人によっては時が経つのを気にする必要のない自由な休日から、一転して時間に追われながら眠気と戦い続けなければならない一日へと引き戻される過酷な曜日が。

 それを表現するかのように、ドアの向こうにある廊下からは忙しそうな足音が休むことなく往復していた。それに重なって聞こえてくる、洗面所で水を流す音や「いってきます」という声。音すら珍しかった昨日の朝とは大違いだ。

 少し開けられた部屋の小窓からは、近くの幹線道路を走っていく車の音が聞こえてくる。乗用車から路線バス、今のは大型トラックみたいだ。短い間隔で入ってくる走行音がとまったのは赤信号のせいだろう。

 そんな朝の音とともに入ってくる肌色の朝日。やわらかな光は暗い私の部屋をほんのりと薄く照らしていた。

 中央で広げられたままになっている折りたたみ式の机。その上にある途中で断念した問題集。放り出されたように転がっている白いシャープペン。机の横にある中身の少ないペンケース。乱雑に倒されている通学用の黒い鞄。

 まるで昨日から時間がとまっているみたいだ。いや、実際それらは昨日の夜からまったく動かされてはいない。

「はぁ……」

 もう時刻は午前八時をまわっているだろう。いつもなら理数科の教室で朝のSHRがはじまるのをボヤーッと待っているころだ。あるいは朝講習で演習プリントと向きあっている時間かもしれない。

 すでに学校の教室にいるはずの時間。しかし今の私は静清ホームの部屋にいた。それもベッドの上で着替えることなく天井を見上げながら。

 静かな部屋にピピピッと電子音が響いた。くぐもったその音を頼りに左わきをまさぐり、細長い体温計をとり出す。

「三十八度六分……」

 昨日の夜は遅かった。思った以上に問題集が進まず、日付が変わるころまでシャープペンを走らせていたせいで風邪をひいてしまったらしい。こんな簡単にひくものなのかと思ったが、疲れていて小窓を閉め忘れたのが原因かもしれない。

 頭が締め上げられているようにジンジンと痛い。厚めの布団をしっかりとかけているのに激しい悪寒がする。

 最初は無理をしてでも登校するつもりでいたが、こんな状態では登校中に倒れても不思議ではない。面倒なことになるのも嫌だったので、今日はおとなしく部屋で寝ていることにした。

 体温計を四角いケースに滑り込ませてから枕元へと置き、そのまますぐ近くで充電器に差されていた携帯電話をとる。

 開いたのは電話帳。スクロールして目的の番号を探す必要もないほど件数の少ない電話帳だ。高校生になってから連絡用に渡された携帯電話だから、ネットや通話は制限されているし必要以上の番号を登録することもできない。

 それに不便を感じたことはなかった。連絡先を交換するような友達もいなかったし、ほしいとも思ったこともない。そういった輪の中に入りたくないとすら思っていた。

 メールという無機質な文章のやりとり。カラフルな絵文字で着飾っても、たくさんの顔文字を入れても、その本質は文字でしかない。自分の持っている感情や本音を押し殺し、いつわりのメッセージを送ることができるのだ。

 そんな表面上のみでのつながりは友達といえるのだろうか。

 うそやいつわりを交えなければ成立せず、自らの本音を語ることがタブーとされ、相手のほしがっている綺麗な言葉を並べるのが当然だと思われている関係。それも、ときには自分が嫌いな相手にさえもだ。

 私はほしいとは思わない。昔あった言語統制のように、本音の一つすらいうことのできない関係なら望んだりはしない。

 文字列では伝わらない感情や顔をあわせるからこそ見えてくる本音。そういった心からのメッセージをやりとりするのが本来あるべき友達という関係ではないのだろうか。気をつかう必要のない自由な関係――

 それとも……それは私の妄想に過ぎないのだろうか?

 横を向き小窓から入ってくる太陽の光を無心で見つめながら、通話相手が出てくるのを静かに待つ。プルルル……という呼び出し音がしばらく響いた後、高い女性の声が聞こえてきた。

『はーいもしもしー?』

「み、三沢先生ですか? 理数科二年の久遠です」

 頭をひっかき回されるような頭痛に耐えながら自分の科と名前を伝えた。通話相手の三沢先生は理数科二年くらいしか担当していないから、名前だけでも私だとわかるかもしれないけど。

「体調を崩してしまいまして、本日は欠席します」

『はーい、了解でーす』

 とても先生とは思えない言葉づかいを耳にしつつ、用件を伝えて電話を切った。

 三沢先生は職員の中で最年少だった気がする。だから先生というよりは私たち生徒に近いのかもしれない。

 携帯電話を枕元に置いてから布団の中でもぞもぞと身体を回し、あお向けになって目の前の天井へ視線を移した。上までは光が届かないせいか、天井の白色と影の黒色が混ざり薄くなった灰色が視界を満たしている。

 高校生になってから初めての欠席。理数科は授業の進行が速く、人によっては真剣に受けていても追いつけないほどだ。欠席したことがないため、出なかった分の内容をどうやって把握しようか……

 そういえば進路調査票も今日が提出期限だったはず。静清ホームの管理人と面談して決めるつもりでいたが、問題集を進めるのに必死ですっかり忘れていた。三沢先生に電話したときに伝えておくべきだったかもしれない。

 いくつかの不安が浮かんでは消えていく。そんな中、一つだけが残像のように残り頭から離れてくれない。

 雑務部は……西ヶ谷は大丈夫だろうか?

 初めてとなる私のいない雑務部。部長としての心配なのか、たった一人でいつものパイプ椅子に座っている西ヶ谷の姿ばかりが思い浮かんでくる。

 何をすればいいのか困っていないだろうか?

 相談を受けることができているだろうか?

 依頼されたからといって無茶をしていないだろうか?

 不安を振り払うかのように目をゆっくりと閉じた。下がってきたまぶたで目に潤いが戻り、じわーっと瞳にしみる感覚が両目を覆っていく。

 私は一体なにを心配しているのだろう。

 西ヶ谷は幼い子どもではない。私と同じくらいの人生経験を歩んできた一人の男子高校生だ。全国大会を狙っているわけでもない文化部の活動くらい単独で決められるだろう。

 部室での過ごし方など自分で考えると思うし、聞き上手ではないけれど生徒からの相談を受けるくらいならなんとかなる。依頼は私から指示を受けてからでも遅くはないと判断するだろうし。

 そもそも雑務部が毎日のように相談を受けているわけでもない。基本的に放課後の時間を部室で過ごすのが活動内容みたいな部活なのだ。

 不安になるようなことではない。なぜ私はそんなに西ヶ谷が心配なのだろう。

 変な私……

 目を閉じて視界を遮っているせいか、外からの音がいつもより大きくはっきりと聞こえてくる。

 ヒューと吹き抜けていく風の音。その風でザザザ……と裏の山にある木々が揺れる音。タタタ……という保育所の運動場から聞こえてくる園児の足音。それをパタパタとスリッパで追いかける職員の足音。

 耳から伝わってくるのは、いつもと変わることのない静清ホームの日常だった。ここだけではない。南城高校の教室や物理室、玄関ホールやグラウンドでもいつも通りの時間が流れていることだろう。

 私がいなくても滞りなく流れていく時間――

 静清ホームでも理数科でも、私は必ず必要な人間ではない。休んでも影響はなく、代わりとなる人物もいる。そもそも重要な役割や高い能力を持っているわけではない。

 それは――雑務部でも。

 二人しかいない文化部では部長の肩書きも重要な役割とはいえないし、学校で起こるすべてのいじめを解決できるような高い能力を持っているわけでもない。

 本音や本性を隠して、できる人間であると思わせているだけだ。

 サッカー部のいじめでも剣道部の一件でも、私は雑務部らしいことを一つもできていない。いじめをした者に怒りの鉄槌を喰らわせる、そんな一番重要な場面ですら西ヶ谷に舞台を整えてもらったのだ。

 自分勝手に行動し、他人の意見に耳を貸そうともせず、それでもサポートしてくれた人に礼の一つすらいえない。

 もしかしたら、西ヶ谷はそんな私に失望してしまったのかもしれない。

 やる気になって入部届けを出してきた西ヶ谷を軽くあしらい、まるでお情けのように入部させ、そうかと思えば脇役のようなことばかりやらされ、ようやく上げた戦果を部長だという理由でかすめとられる。

 西ヶ谷は私を見切ったのだ。久遠は部長としてはおろか、人間としても信頼できないと。部員として、友達として付きあっていけないと判断したのかもしれない。

 土曜日に見たツインテールの彼女は、西ヶ谷の意思そのものだったのだろうか。

 やっぱり私は捨てられた。自分の性格と行動のせいで。

 やっと見つけた西ヶ谷を自らの手で突き放したようなもの。

 冷静な状態の私ならば即座に否定するような理論だったのだろう。短絡的かつ自意識過剰な穴だらけの理論。そもそもこんな理論自体が出てこないかもしれない。

 しかし風邪によって弱っている私の脳は、次々とあふれ出てくる自己否定を抑えることができなかった。

 そして自己否定の後にくるのは――強烈な自殺願望。

 自分が死ぬ時の想像だ。

 もしこの風邪がずっと治らなかったら……

 熱が下がらなかったら……

 薬も飲み物もない私は衰弱していくだろう。

 風邪は悪化し、私をさらなる病に誘い込む。

 やがて起き上がることもできなくなるだろう。

 最終的には静かに死を迎えるのだ。

 誰にも発見されることなく、その存在すら忘れかけられたころに。

 自身の想像に耐えかねて目をゆっくり開けると、灰色の天井がぼやけて見えた。雨にぬれた教室の窓みたいに。

 私は声を上げることなく泣いていた。

 悲しい。

 私はいつも一人だった。昼も夜も、平日でも休日でも。

 私はどこでも一人だった。小学校でも、中学校でも、南城高校の理数科でも。静清ホームでも、通学路でも。

 だから一人になるのは慣れている。むしろ一人でいるのが心地よいとすら思っていた。誰にも干渉されることなく、誰かに気をつかうこともなく、本音と建前を使い分ける必要もない。

 そうしていつもは一人を好む私。

 どうしてこういう時には一人が悲しく、そして怖くなるのだろうか。

 西ヶ谷に会いたい。他の誰でもなく西ヶ谷に。

 なぜかと問われてもわからない。授業のことが心配ならば理数科のクラスメートか三沢先生、部活なら佐々木先生でもいいはずなのだ。

 でも嫌だった。誰にも会いたくない。私を知る誰にも会いたくない。

 たった一人、西ヶ谷だけに会いたい――


 耳の奥へと響いてくるような鐘の音が聞こえてきた。大きくなってくるその音とともに、私の意識も少しずつ覚醒かくせいしていく。

 静岡市に午後五時を伝える鐘の音。小さいころは鐘が鳴ったら家に帰るというルールを教えられ、誰も彼もが本能的にそれを守っていた。高校生となった今でも、鐘の音を聞くたびに自然と時計に目が向いてしまう。

 今日も枕元にある携帯電話をさぐり、まだはっきりしない意識の中で待ち受け画面を開いた。黒く大きめのフォントで表示されている十七時の時刻。

 まだピントの定まりきらない目を小窓に向けると、オレンジ色の光が弱々しく入っているのが見える。遠くには小さく筋状の雲が、白から紅へのグラデーションを背景にどこまでも広がっていた。

 昼ごろにトイレへ行きたくなり起きたのは記憶にあるが、それ以外はずっと寝ていたらしい。睡眠時間は長い方だと思っているが、こんな時間まで寝続けていたのは初めてだ。

 手に持ったままの携帯電話を操作して着信履歴を見る。

 本日八時十四分、三沢先生。

 それが最後の通話となっていた。つまり自分が寝ている間にたった一件の着信もなかったということだ。

 教師としての仕事はそれなりにこなしている三沢先生なら、私の欠席を伝達してくれているだろう。生物や体育といった教科担当の先生。雑務部顧問である佐々木先生。必要ではないだろうがクラスでも欠席理由を説明してあるかもしれない。

 私のところへ連絡がくることはありえないのだ。

 そんなあたり前のことなのに、なんだか寂しく感じる。

 やはり私は誰からも必要とされていないのだろうか。私が休んだところで誰も困らないから、誰も私を心配してはくれないのだろうか。

「はぁ……」

 不安をかき消すように、かき消したいようにため息を漏らす。

 私だって、自分を心配してくれないような人から連絡をほしいとは思わない。連絡がこないのだって、誰も私の連絡先を知らないからだろう。

 感情を理論で押さえ込む。しかし無理に押さえ込んでいるようにしか感じられない。

 嫌な心情を捨てるように携帯電話を閉じて枕元へ放り投げると、両手を後ろについて上半身を起こした。

 締め上げるような頭痛はまだ続いている。熱も下がっていないらしく、視界がゆらゆらと揺れて見えた。腫れているのどを飲み込んだ唾液が通り過ぎるたびに襲ってくる、ヒリヒリという焼けるような痛み。

 うん?

 ついた両手に冷たい感触。

 なでるようにしてシーツを触ってみると、湿っている部分が白いシーツを透かしていた。どうも寝ている間に大量の汗をかいたらしい。

 着ている寝間着と下着も触ってわかるほど湿っていた。張りついた下着がひやりと冷たく感じ、そして胸や腹にべたついて気持ち悪い。足の方にも寝間着がひっついているような感覚を覚える。

 せめて下着だけでも着替えなければと、布団から足を引っ張り出してベッドの階段へと下ろした。

 一歩一歩、ゆっくりと慎重に階段を下りていく。風邪のせいでおぼつかない足元と滑りやすい階段。これほどベッドから下りるのが怖いと思ったことは、ここ静清ホームにきて一度もない。

 トンという軽いショックと同時に、右足がフローリングへと着いた。

 心をなで下ろしながら左足もつけた後、ベッドの枠を手すりのように使いながら両開きになっているクローゼットを右側から開ける。キイッという金具がこすれる音とともに、防虫剤の匂いがわずかに感じられた。

 ハンガーにかけられた制服の上着とスカート。明るい灰色のパーカーと深い青色のズボン。白い半袖のTシャツ。

 それらの下にポツンと置かれているのが下着の入れてあるクリアケースだ。

 ひざ立ちになりながら左手でクローゼットをつかんで身体の揺動を抑えつつ、右手で前面下部にある取っ手を引く。

 重い感じもなく滑らかに引き出されるクリアケースから二枚ずつしかない下着の上下を取り出した。上はブラではなく普通の白シャツ。ブラはつけたこともないし、自分の小さな胸ではつけたいとも思わない。

 中身の量と容積がつりあわないクリアケースを閉めてから、寝間着を脱ごうと両手でボタンを外しにかかる。

 プラスチック製の透明なボタンを一つ一つ外しながら、ふと空腹に気がついた。

 静清ホームに住んでいる高校生は、基本的に一階にある食堂で食事をする。しかしマナーにうるさいし、時間も決まっているため使い勝手が悪い。他人との交流もしたくない私は、夕飯などをいつも自分の部屋ですませていた。

 ところが今日は風邪をひいている。外出はおろかしっかりと歩くこともできない。

 なにか口にいれなければ、薬を飲まなければ。やらなければならないことが次々と頭に浮かんでくるのだが、今の状態で実行するのは難しいことばかりだ。

 湿った下着を脱ぎ乾いている新しい下着に腕を通す。

 軽く丸みをおびた胸と、腰のすぐ上で締まっているウエスト。滑らかな曲線で描かれた身体のラインを隠すように、やわらかで白い下着が下りていく。さらさらとした感触は今日最初の心地よさを感じさせてくれた。

「……」

 と同時に胸が気になり下着をつまんで中をのぞき込む。

 食べるものに気をつかっているわけではないが、高校生となった現在にいたるまで体型を気にしたことはない。体重やメイクなどにも無関心だったし、見ていてうらやましいと思ったこともない。

 だが一つだけ気にしているのが――胸の大きさ。

 特別大きくしたいという願望はないが、あまりにも女子らしく見えないのは心苦しさを感じる。体育で着替えをするたびに自分の胸から目をそらしたくなる。

 休み時間や自習授業の時間にかわされるガールズトーク。注目して聞かなくとも耳に入ってくるその会話からは、思春期の恋する乙女たちが悩むボディラインの話も流れてきたりするのだ。

 まあ私に恋愛なんて無関係だけど。

 心の中で諦めに近い否定をした、そのときだった。

「久遠! 大丈夫か!?」

 鋭い男の声。同時にバターンという部屋のドアが思いっきり開く音。フワッという風を足元に感じ、カタカタと細かく小窓が揺れた。

 静清ホームの管理人さん? 最初はそう思った。

 しかし風邪を心配してくれるような人間ではないし、消灯の見回り時間にはほど遠い。くるような理由が見つからないのだ。

 三沢先生は理数科三年生の放課後講習をやっている時間だし、クラスメートもほとんどが部活動中だ。まず理数科に、いや二年生に私を心配して静清ホームまできてくれるような友達はいない。

 後ろを振り向くと――

「えっ……」

「あっ……」

 長袖ながそでで白いシャツに黒色のズボン。色白で鋭さのない目とやせ気味のほほが印象的な見慣れている顔。右手に下げているのは、濃緑に薄く黄を加えたような色をした布の包み。

 開いたドアの横にいたのは、なんと西ヶ谷だった。

「……」

「……」

 しばらく言葉が出ず、身動きもとれないまま固まる二人。

 なぜ西ヶ谷がここに?

 私に見切りをつけ、捨てたはずの人間がなぜここに?

 それもあのときと同じ服を着て。

 腕先の乱れた西ヶ谷の白いシャツ。シワの入った黒いズボン。二日前とまったく同じ西ヶ谷の服装を見つめ、ハッと我に帰った。

 今の自分は――下着姿だ。

「でっ……」

「い、いやそういうわけじゃなくって……」

「出てって!」

「ごめん! ごめん!」

 開いたときよりもさらに大きな音。静清ホーム中に響き渡るような音とたててドアが閉められた。

「ハァ……ハァ……」

 反射的に出した大声の代償なのか、頭の奥から襲ってくる割れるような痛み。乱れ上がる心拍と荒くなる息。ほてった身体中を走り抜ける悪寒。そのせいなのかガクガクと震える手足。

 両腕を胸の前で組み、足は自然と内股になっていた。西ヶ谷の視線から外されたにもかかわらず、恥ずかしさで真っ赤になった顔を上げることができない。

 な、なんてことをしてしまったのだろう。

 頭の中が真っ白だ。よりによって下着姿見られてしまった。しかも自分を心配してきてくれた西ヶ谷を大声で追い出すなんて……

『く、久遠? 悪気はないんだ、許してくれ……』

 ドアの向こう側から弱々しく聞こえる西ヶ谷の声。

「ちょ、ちょっと待って!」

 締め付けてくるような頭痛に耐えながら、私は必死に西ヶ谷を呼びとめた。

 静清ホームに保護という形で住んでいる少年少女はかなりの人数に上る。その多くは元の家庭で複雑な事情があったり、親に捨てられた実質的な孤児だ。だから中には精神病をわずらっていて、非行に走ったり自殺するケースもあったという。

 静清ホームはそれを防止するため、部屋の鍵を外してあるのだ。この部屋に入ってくるような友達などいなかったから、今まで気にしたこともなかったけど……

 脱ぎ散らかしていた寝間着に腕を通し、震える手でボタンをとめようとする。

 が、なかなか穴に入ってくれない。小学生にもできるようなことなのに、自分の手が思うように動いてくれないのだ。

 五つあるボタンに悪戦苦闘しながら、ふと心の中に染み出してきた声。

 私は――うれしいんでしょう?

 南城高校の二年生で、私を心配して静清ホームまできてくれるような友達。

 いないと思っていたが、たった一人だけいたのだ。

 そう――雑務部員の西ヶ谷 一樹。

 他の誰でもない、会いたいと強く願っていた人物が自分に会いにきてくれた。

 でも、それを素直に喜べない私。

 恥ずかしがって、自分が自分でなくなるのを恐れて。

 なぜ怖がるの?

 なぜ私は自分を偽りたがるの?

 なぜそれを変えていこうとしないの?

 違う!

 私は、私は……

 心の中から漏れ出てきたような言葉の問いかけに答えることができないまま、最後のボタンを穴へ入れ終わった。

「い、いいわよ……」

 立っていられなくなり、声を出しながらフローリングにぺたんと座り込んでしまった。それと同時に西ヶ谷が顔を見せる。キィッというドアの軋む申し訳なさそうな音は、西ヶ谷の感情をそっくりそのまま表現しているかのようだった。

 私が服を着ているのを確認してから、ゆっくりとドアを開け放していく西ヶ谷。

「ご、ごめん……」

「それはいいわ。なにをしにきたの?」

 声の高低を押さえ込むようにして問いかける。

 他人と話すときは気にしないのに、西ヶ谷に対面するときは自然と感情を殺している自分がいた。

 「部室の鍵がかかっていて、いつもは久遠が開けているからおかしいなと思って……。佐々木先生に聞いたら風邪で休みだっていうから、お見舞いに行こうかと早めに帰ってきて……。でもノックに反応がなかったから、ひょっとしたら倒れているのかもと思って……」

 視線を落とし、語尾を小さくしながら言いにくそうに説明する西ヶ谷。

 さっきまでしていた考えごとで、ノックの音が聞こえなかったみたいね。

 一つのことに集中していると、他のことが見えづらくなってしまうのは私のくせ。それも他人からすればどうでもいいようなことに集中してしまう、不必要で悪いくせだ。

「そ、それより……これ、持ってきたんだ……」

 西ヶ谷が右手に下げていた布の包みを開け、私へと差し出してきた。

 ちょっと大きめの弁当箱。湯気で曇ったふたを開けると、中には白くでどろどろのおかゆが敷きつめられていた。真ん中には梅干が一つ、自分が主役だとでもいうかのように深紅を主張している。

 思い出したかのように食欲がわいてきた。

 そういえば朝からなにも食べていない。起きて着替えたのだって、無茶をしてでも外に出て食べるものを手に入れようと思ったからだ。

「お腹なんか……」

 私は他人に頼るのが好きではない。その好意をどうやって受け取っていいのかわからないからだ。両手を胸の前で振り、反射的に断ろうとしたとき……

 ぐうー……と私のお腹が低く鳴り響いた。

「無理するなよ」

 もう一歩踏み出しながら、おかゆの入った弁当箱を差し出してくる西ヶ谷。ふっと軽い笑みのこぼれるその顔からは、さっきまでの緊張感が消えているのを感じとれた。

 うう……とうなりながら、少し前に出て弁当箱を受けとる私。

 失礼なのを承知で下を向いていた顔は、赤くてほてっているだろう。口は固く閉じられ、弁当箱を受けとった両手もぶるぶると震えている。

 ノックが聞こえなかったとはいえドアを突然開け放し、着替え中だった私の下着姿を見られてしまった。魅力がないとはいえ女子を相手にあるまじき行動をした西ヶ谷だったが、それに対して怒っているわけではない。

 お腹が空いていないといいかけておきながら、目の前でうそだとわかってしまったことが恥ずかしくて仕方ないのだ。

「弁当箱は今度返してくれればいいから。どうせ部活にはくるだろうし……」

「待って」

 くるりと背を向ける西ヶ谷、その上着のすそをとっさにつかんだ。

 不思議そうな顔をする西ヶ谷を、私は少し息を上げながら見上げた。そうするつもりはなかったけど、西ヶ谷からすれば穴が開くかと思うくらい鋭い視線を向けられているように感じられたかもしれない。

 しばらく沈黙が下りた。

「少し……話しても……いいかしら?」

「え? ああ……」

 私のしぼり出すような声に応じて、部屋中をきょろきょろと見回しながら上がってくる西ヶ谷。

 私は折りたたみ式の机を開き、部屋の中央へと置いた。その上にほんの少し音が出るくらいのゆっくりとした動作で弁当箱を置くと、近くの戸棚からプラスチック製の白いスプーンをとり出す。

 少し、いやたくさん話したかった。これといった話題があるわけでもない。伝えなければいけないことが山のようにあるわけでもない。

 ただ言葉をかわしたかったのだ。

 いつもなら放課後の部室で中身のない雑談をしている時間だ。数枚のトランプを手に持ちながら、あるいは木目調の机にゲームボードを広げながら。

 それができない今日、私は我慢できなかったのかもしれない。登校日の放課後には必ずかわされている会話。それが一日、たった一日だけ途切れそうになったことに耐えられなかったのだろうか。

 それとも――急に感じた一人であることへの悲しさから逃避したいため?

 西ヶ谷が帰ってしまえば、私はまた一人になる。会いたいと思っていた西ヶ谷の訪問。その時間を引き延ばしたいという欲求からなのだろうか。

「じゃあ……頂くわ」

 目の前へやや緊張気味に座った西ヶ谷へ、軽く頭を下げた。まさか呼びとめられるとは思っていなかっただろうから、これからなにをされるかわからないという不安からくる緊張感だろう。

 そんなつもりはないのに。

「あ、ああ……」

 濁すような返事をする西ヶ谷。

 スプーンでおかゆを少しすくって口へと運ぶ。熱くもなく冷えてもいない、ほどよい温かみが伝わってきた。溶けてしまいそうなほどやわらかな感触を舌に感じ、ほのかな甘みが口の中を満たしていく。

 空腹だったせいもあるだろう。かむことすらじれったいと感じるくらい、私はおかゆを夢中で食べた。

 食べることがこんなに幸せだと思ったのはいつ以来だろうか?

「何か相談はきたかしら?」

 おかゆが半分ほどなくなり、梅干がスプーンにあたったところで西ヶ谷へ問いかける。口におかゆを含んだまま聞くのは失礼だと思ったが、あまりにもおかゆが惜しかったからだ。

「部室は開けなかったからな。相談も受けていないよ」

 まあ部室の前で待ってまで相談をするような人は見たことがないし、そもそも雑務部室に直接くるのは少数だ。佐々木先生がなにも聞いていないのであれば、今日は相談がなかったのだろう。

 まず相談そのものが毎日くるようなものでもない。

 スプーンで梅干をすくい上げ、口元でちょっとかじってみた。すっぱい液が口の中を流れていく。

「そう。ならいいわ」

「久遠は大丈夫なのか? 顔が赤いし、声だって……」

 ドキッとした。

 私を心配してくれるなんて西ヶ谷くらいのものだが、実際に目の前でいわれると驚きを隠せない。

 他人を心配したことも、心配されたこともほとんどないからだ。こんな私に気をつかってくれたという喜びと同時に、どう言葉を返していいのかわからないという不安も感じてくる。

 しかも顔が赤いのは熱のせいではないだろうから。

「え、ええ。朝より熱は下がったわ。明日にはちゃんと登校できるはずよ」

 いつもであれば「大丈夫よ」の一言で終わらせるような質問だった。

 体温計には朝からさわってもいないし、この風邪が明日に治っている保障などどこにもない。手元には薬の一つですら存在しないのだ。

 うそをついてまで言葉をつむいだのはなぜだろうか?

 そんなこと、自分が一番わかっているくせに。

 私は予想以上に西ヶ谷へと近づきつつあるのだろう。慣れきったはずの一人を捨ててまで会いたいと思うようになり、うそをついてまで会話がほしくなる。依存すらしているのかもしれない。

 でも私は西ヶ谷に捨てられたのではないだろうか?

 西ヶ谷が私を心配するのは自分のため。私がいなくては雑務部にとって都合が悪いからだろう。私そのものの身を案じてくれているわけではない。

 おそらく。たぶん。推測であるけれど。

 私はプラスチック製のスプーンを静かに置いた。弁当箱に敷きつめられていたおかゆがお腹を温かく満たしてくれている。

「ごちそうさまでした。……一つ、聞いてもいいかしら?」

 食べ終わると同時に思い浮かんできたことがある。

 この前のこと、下校中に駅で見かけた女の子のことだ。西ヶ谷の隣を笑顔で歩いていた、ツインテールの彼女のこと。

 できれば聞きたくない。でも聞かなければならない。彼女が西ヶ谷とどういう関係なのか、なぜ二人で駅にいたのか。彼女がどういった人物なのか、悩むくらいならここで聞いておくべきだろう。

 もし「恋人」だといわれたら? いや、あの状態から見てそうなのだろうけど。

「あの……その……」

 声を出そうとするが、なかなか出てきてくれない。むしろ顔はうつむき、手は震えてしまう。身体が行動を阻止しているかのようだ。

 聞かなければならないことがたくさんあるというのに。伝えなければならないことがたくさんあるというのに。判決を聞き、死刑宣告を受ける覚悟を私の身体がなかなか決めてくれない。

 私が言葉に詰まっているのを珍しいと思ったのか、西ヶ谷が不思議そうな目で見つめてきた。

 そんな目で見られると、余計にいいにくい……

「あ、あなた土曜日に……誰か女の子といたわよね?」

 かすれるような声をようやく出した。本当は「土曜日に女の子と買いものに行っていたみたいだけど、あれは誰かしら?」と状況説明とともに聞くつもりだった。これだけしか言葉が出てこないほど、口を開くのが苦しく感じた。

 問いかけ一つでこんなにも苦労するとは。

「な、なんでそれを?」

 不思議そうな顔から驚きの顔へ。予想外の質問だったのか、急に焦りはじめる西ヶ谷。

「ど、土曜講座の帰りに見かけたのよ。あ、あれってもしかして……」

 恋人?

 その言葉は無へとかき消されてしまった。

 怖かったからだ。恋人かという問いかけをする。そうだという返事が返ってくる。その瞬間、自分が自分でいられなくなる気がしたのだ。

 やはり私は捨てられた。身勝手な振るまいのせいだと絶望して。

 静寂せいじゃくが部屋を満たした。信号の変わり際なのか、走っている車の音も聞こえてこない。裏にある山の木々がざわめく音、園児がはしゃぐ声。いつも聞こえてくるはずの音がとまっていた。

 ゆっくりと顔を上げると、今度は西ヶ谷が目線を下に向けていた。

 やはりいいにくいこと、恋人の関係なのだろうか。そして私にだけは知られたくなかったのだろうか。私に知られては都合の悪い関係なのだろうか。

 開けてはいけないパンドラボックスを開けかけているような気分だ。

 どのくらい時間がたっただろうか。実際には一分もたっていないのだろうけど、私たち二人には十分にも二十分にも感じられるほど長い時間だった。

 決心したように顔を上げる西ヶ谷。

「あの子は……俺の従妹いとこだよ」

 その顔は恥ずかしそうに笑っていた。

「へ?」

 意外すぎる答えにまともな返事を返すことができない私。

 い、従妹?

 沈黙が壊れていくかのように、車の走る音がうるさいほど聞こえてきた。ザザザという木々のざわめきも小窓から耳へと入ってくる。

「俺より一つ下なんだけどね、親同士での用事についてきたらしいんだ。土曜日にいたのは買い物をせがまれちゃって……」

 頭をかきながら照れくさそうに説明する西ヶ谷と、唖然としながら聞き流していく私。

 な、なにを私はこんなに悩んでいたのだろう。いつもは見れない姿だし予想できないとはいえ、西ヶ谷が女の子と二人でいたのを目撃しただけでこんなにも深く考え込んでしまうとは。

 恥ずかしい。これでは嫉妬しっとしているかのようだ。

「そ、そうよね。西ヶ谷に彼女なんてできるわけないだろうし」

 落ち着きを取り戻した心で精一杯の皮肉を返す。

「サラリとバカにしただろ……」

 あきれた顔をする西ヶ谷。

 いつもの二人、いつもの私たちだ。笑顔や笑いのやりとりこそないけれど、包み隠さず本当のことがいいあえる関係。

 でもここまで西ヶ谷を意識したことがあっただろうか?

 ただの同級生で、

 ただの部員で、

 ただの友達……

「……」

 それなのに西ヶ谷を意識せざるをえない。同級生といえば西ヶ谷、部員といえば西ヶ谷。友達といえば西ヶ谷が浮かんでくるのだ。

 それほど、この西ヶ谷という人物にはひきつけられるものがあるのだろうか。

「何か手伝うこととかあるか?」

「今は……」

 本当はたくさんある。掃除、洗濯、買いもの……。風邪をひいている私ではできないことばかりだ。

 でもこれを任せるわけにはいかない。西ヶ谷は同級生であり、部員であり、友達。私の世話をしてくれる家政婦ではないのだ。私も一人の高校生、自分のことをやってもらうわけにはいかない。

 西ヶ谷を信頼していないわけではない。むしろ信頼を置いているからこそ、すべてをやらせてしまうことに抵抗を感じるのだ。

 本音は恥ずかしいからだけど。ここの建前はノーカウントで。

「今は……特にないかな」

「そうか」

 西ヶ谷はそれ以上聞いてこなかった。

 適切な距離を保っている西ヶ谷。

 近づきもせず、しかし離れることもなく。伸ばした手がわずかに届かず、しかし小さな声でも聞こえるような距離。

 そして、それを不満に感じている私がいる。

 なぜ不満なのかわからない。呼べばちゃんときてくれるし、いつもこちらを見てくれている西ヶ谷。これ以上なく適した距離を保っている西ヶ谷に、私はなにを求めているのだろうか。

「それじゃあ帰るとするよ」

「え、ええ……」

 立ち上がり、軽い笑みを浮かべる西ヶ谷。私は表情を固めたまま、詰まったような返事しか返すことができなかった。

 自然な動作で弁当箱とプラスチック製のスプーンを持ち上げ、背を向けてドアへと歩いていく西ヶ谷。フローリングが軋むわずかな音につられ、私も両手で身体を支えながら立ち上がった。

「スプーンは洗って返すよ」

「コンビニのものだから別にいいわ。処分してくれるなら助かるのだけれど」

「わかった」

 ドアを開けて外へと出る西ヶ谷。蛍光灯で明るくなっていた廊下を見て、部屋の電灯をつけ忘れていたことにようやく気がついた。

 と、くるりと顔を向けてきた西ヶ谷。

「風邪、ちゃんと治してくれよな」

 言葉とともにパタンと閉じられるドア。

 部屋にはふたたび沈黙がおりていた。一人残された私。いつもの部屋、いつもの孤独な雰囲気だ。

「はぁ……」

 それなのに思わずため息が漏れてきた。

 西ヶ谷の隣にいた彼女は、恋人ではなかった。自分が捨てられ西ヶ谷が彼女へ心を移したというのも、すべて私の妄想として消えていったのだ。

 恥ずかしい。さっきまでの私は一体なにを想像、いや妄想していたのだろう。

 西ヶ谷は南城高校の同級生であり、雑務部の部員であり、話のできる友達だ。逆にいえばそれ以上でも以下でもない。血縁関係にあるわけでもなければ、恋人であるわけでもないのだ。

 それなのに「捨てられた」だとか「嫉妬しっとしている」だとか……

 まるでつきあっているかのような言葉を並べている自分がバカに思えてくる。そんなことあるわけないのに。

 私が、西ヶ谷を好きになることなんて。西ヶ谷が、私を好きになることなんて。

 薄暗い部屋に、今更ながら電灯をつけた。パチッというスイッチの音が聞こえた後、洞くつへ明かりをともしたかのように照らし出される室内。

 早く着替えて寝ましょう。

 明かりをつけたまま寝るというのもおかしな話だが、今は目を閉じていればそれでいい気がした。軽い足どりでベッドの階段を上り、すでに乾いた布団の上へ足を滑り込ませて横になる。

 気のせいだろうか。熱っぽい感じも締め上げるような頭痛もなくなっていた。


 白い――

 白く明るい、やわらかな光が空間を満たしている。

 床や壁、天井のように制限された空間ではない。どこまでも深くてどこまでも続いており、どこまでも高い広大な空間だ。いや、空間という限定された呼び方そのものが間違っているのかもしれない。

 その中で――私は立っている。白い、というより光輝いている一枚の服を着て。

 なにもはいていない裸足にも、なにもつけていない素手にも、触れているという感覚はない。

 私は浮いている。なにもない光だけの空間に、私は違和感を覚えることなく浮かんでいるのだ。下から持ち上げてくれる床もなければ、手を使って支えられる手すりもない。上から吊り上げられているわけでもないのに。

「お母さん!」

 私は叫んだらしい。私が自分の意志で叫んだわけではなく、他の誰かから操られているように声が出てきたのだ。

 その視線の先に立つ、私と同じような白くつなぎ目のない服をまとった女性。

 微笑みを見せているのは、かっこよくて、可愛くて、美しくて、賢くて、たくましくて、やさしくて、誠実で、勇ましくて、厳しくて、でも尊敬できて、私の憧れで、夢そのもので、目標で……

 私のすべてを受け入れてもらえる、私のお母さん。

 私にとって理想の人物。

 そんなお母さんに、ふたたび私は叫んだ。

「お母さん! 私の身体をあげる! そうすれば自由に生きられるでしょう!?」

 なぜ私はそんなことを叫んだのだろう。

 わからない。

 自分の口から勝手に言葉があふれ出てくるのだ。

 お母さんは顔を少し傾け、さらに微笑みを深くした。

「いらないわ。あなたはどうするの?」

 私? 私はどうするの? お母さんに身体をあげて、私はどうするの?

「私なんかいい! こんな人間は必要ない! 私なんかよりも、お母さんの方が大切なんだから!」

「それは違うわ」

「違わない! お母さんにはたくさんの人がいたじゃない! でも私には誰もいないの! 私なんか必要とされていないのよ!」

「そんなことはないわ。あなたは多くの人に必要とされているのよ」

「されてなんかない! 誰が私を必要だっていうのよ! こんな惨めで! 身勝手で! 人殺しの娘なんか!」

「そうやって自分を責めてはだめ。あなたを見てくれている人は必ずいる。惨めでも身勝手でもないのだから」

「でも!」

 フワッというやさしい感触が身体を包み込んだ。

 温かい……。首から、胸から、背中から、お腹から、手から、足から、人肌の温もりが激しい流れとなって私の体内へと流れ込んできている。底が感じられないほど強い安心感が、血液のように身体中を隅々まで満たしはじめていた。

 私は抱きしめられている。ようやくそれを悟った。大好きなお母さんに、私は抱きしめられている――

 甘い吐息が耳に触ってきた。

「あなたを必要としてくれる人のために生きなさい」

 お母さんのやさしい声。すべてを知っているお母さんの声だ。

 思わず目の奥が熱くなった。

「あなたを必要としてくれる人を見つけて、その人とともに生きなさい。こんなところであなたは死んではいけないのだから」

「そんな人! いるわけが……」

 サッと離れるお母さん。

 白く光輝いている笑顔がはっきりと見えた。

「いるわ。あなたのことを思い、考え、行動してくれる人はちゃんといるのだから」

 トンと軽く肩を叩き、スーッと遠のいていくお母さん。

「それを見つけられるのは、あなたしかいないのよ……」

 まるで天に召されていくように高く、高く昇っていくお母さん。

 私は手を伸ばした。届かないとわかっているのに、もうお母さんには会えないのだとわかっているのに。

 どうして伸ばすのだろう。

 わからない……わからないよ!

「お母さん! お母さん!」

 私は夢中で叫び続けた。記憶が飛び、今まで覚えてきたことをすべて忘れてしまうのではないかと思うくらい全力で叫び続けていた。もう見えなくなったお母さんへ、天を仰ぐようにして。

「お母さん! お母さん! お母さん!」

 目からあふれ出るようにしずくがこぼれてくる。声がだんだんとかすれてきた。お母さんと叫んでいるはずなのに、自分でもなにをいっているのかわからないほど意味不明な言葉が出てきている。

 それでも心の中にたまっていたものを吐き出すかのように、私の口は叫ぶことをやめない。

 私を必要としてくれる人なんていない!

 私はいらない人間なんだ!

 私は惨めで、身勝手で、人殺しの娘なんだから!

 わからない、わからないよ! お母さんがいっていることがわからないよ!

「お母さん! お母さん! お母さん! お母さん!」


 ハッとして飛び起きた。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 肩を上下させて呼吸を整える。

 細かく震えている両手はかけている布団を必死に握り締めていた。首元のきつい服を着ているわけでもないのに、マラソンをした後かと思えるくらい胸が苦しい。

 乱れた髪にはいくつもの滴。ほほは涙の通ったあとがべたついた道となっていた。シーツが湿り気を帯びているあたり、どうやら泣きながら汗をかいてしまったらしい。夢の中で泣き叫んでいたからだろう。

 またぬらしてしまったわね……

 手元もほとんど見えない暗闇の中、整えきっていない息をしながら小窓の方へと視線を移した。一等星のまたたく青白い夜空が綺麗に見え、リーンリーンという虫の鳴き声が聞こえてくる。

 車の走る音が聞こえてこない。どうやら夜は深いようだった。

 下着の予備は残っていたかしらと考えながら、着替えようとベッドから慎重に下りる。

『あなたを必要としてくれる人のために生きなさい』

 母の言葉がしみるようにして思い出された。

「私を……必要としてくれる人……」

 そんな人、いるわけがない。

 誰ともまともな会話をかわすことなく、

 他人の意見に耳を貸そうともせず、

 ただ冷たい指示を与えるだけ。

 それが私、久遠 葵という人間だ。自分を気にかけてくれるような人ですら顧みることのない愚かな人間。

 つじつまあわせの理由によって作られた中身のない自信を根拠に、自分だけが正しいのだと過信して行動する。そんな自己の利益のみを追求していくサンプルケースのような私を、必要だと思っている人などいるわけがないのだ。

 だから私はこんなところにいる。

 親、親戚、友人……

 誰からも愛想を尽かされ、見捨てられ、その存在価値を失っているのに生きようとしているからだ。

 こんな人間、死んでしまえばいいのに。

 ああ……浮かんでくる。心の奥底から、自分が死んでいるシーンが思い浮かんでくる。

 明かりの落とされた暗い部屋。

 なんの音もしない静かな部屋。

 生気の感じられぬ死んだ部屋。

 そんな部屋の中央、天井から吊り下げられている一本のロープ。

 太く、丈夫そうで、容赦のない無機質なロープ。

 そのロープの下でうなだれている――私。

 手足は力なく垂れ下がり、すべてを諦めた青白い顔で……

「うっ……」

 背筋を走った恐怖に、階段の途中で思わず目を閉じた。目の前を横切った想像を振り払うかのように右手で顔を覆う。

 死ぬのは痛いだろうし、恐ろしいだろうし、怖いだろう。死ぬ前はどんな感じなのだろうか。激痛が全身を駆け巡るのか、すべての感覚を失ってしまうのか。死んだ後はどうなるのだろうか。高空へどこまでも昇っていくのか、なにも見えない暗闇の中へ永遠に閉じ込められるのだろうか。

 死への恐怖に打ち勝つことはできない。少なくとも今の私では。

 死にたくない

 でも死ななければいけない。

 死ぬのは怖い。

 でも生きているのはもっと怖い。

 自分のこと一つ決められない私。これでは私を必要としている人間がいないのもあたり前だわ……

 おびえながら階段を一歩下りると、すでにフローリングへと着いていた。

 右手を下ろし暗闇に慣れきっている目で部屋の電灯をつけた。パチッというスイッチの音とともに天井から強烈な光が降ってくる。真っ白になった視界、まぶしさのあまり反射的に目を固く閉じた。

 部屋の電灯すら私を拒むの?

 私に視界すら与えてくれないの?

 少し待てば慣れてくる部屋の明かりにすら悲しみを感じるくらい、敏感な否定感情が自分を支配しつつあった。

 なぜこんな細かいことで。自分が嫌になってくる。

 目を細く開けて、電灯の光を瞳へと誘い込んだ。焼けるような印象を受けつつ重いまぶたをゆっくりと開けていく。

 どうにか部屋の状況がわかるようになったところで、あることに気がついた。

「あ……」

 折りたたみ式の机。夕方に西ヶ谷がきたときのまま、片付け忘れていたらしい。

 その小さな机の上にあったのは、手のひらくらいの大きさをした深さのある皿。ラップが綺麗にかぶせられている清潔そうな白い皿の中には、薄い黄色のスープらしきものが入っていた。

 もちろんずっと寝ていたのだから、スープを作った記憶などない。

 皿のすぐ前に置かれたプラスチック製の白いスプーン。その横に置かれたメモ帳を見つけ、不思議に思いながら手にとってみる。

『卵スープを作ってみました。よかったら飲んでください』

 名前は書いていなかったが、誰なのかはすぐにわかった。

 どうやら西ヶ谷はこれを置くために、わざわざもう一度きたらしい。そういえば部屋の電灯も消した覚えもなかった。

 そこまで気をつかうことなどないのに。

「私を必要としてくれる人、か」

 西ヶ谷は私を必要としてくれるのだろうか?

 あるいはただの社交辞令でやっていることを、私が勝手に拡大解釈しているだけなのだろうか?

 いいえ、今それを考えるのはやめましょう。

 せっかくの好意を拒むというのは悪いと思うし、西ヶ谷なりの意図を持ってとった行動なのだから。自分に不利益がないのであれば素直に受けとるのが礼儀であり、自らにとっても最良の選択だ。

 珍しくすんなりと自分の理論に納得しつつ、卵スープの入った皿からラップをとろうとしたときだった。

「これは?」

 皿の影に茶色い小袋が隠れていた。数センチほどしかない小さな袋だ。

 私はなんの抵抗も感じないまま、袋に貼ってあったセロハンテープを切り口を開けた。逆さにした小袋からは、カサカサという音とともに中身が左手へと転がり落ちてくる。

「あっ!」

 出てきたのは――ヘアピン。

 忘れるはずもない、土曜日に西ヶ谷が従妹といた雑貨店で買っていた蜜柑みかん色の短いヘアピンだった。

 これ……もしかして私にあげようとして?

 それなら話があう。母親やクラスメートへのプレゼントであれば従妹に隠す必要はないだろう。むしろどういうのがいいのか聞くことすらあるかもしれない。従妹にあげるのであれば、サプライズでもない限りその場で渡していただろう。西ヶ谷なら直接ほしいものを選ばせるようにも思える。

 かぁっと顔が赤くなってしまった。急に身体中がほてったように熱い。

 他人から、それも西ヶ谷からもらったといううれしさ半分。なんで恋人へのプレゼントだなんて疑ったのだろうという恥ずかしさが半分。

 やっぱり西ヶ谷に恋人なんているわけがないじゃない……

 ヘアピンを小袋へと戻し、忘れるように卵スープへと手を伸ばした。

 わ、私にプレゼントをしたからって恩恵があるわけじゃないんだからね……。そんなことぐらい、西ヶ谷はわかっていると思うけど。

 なぜ私にヘアピンをくれたのかまったくわからない。私はクラスメートでもなければ恋人でもない。ヘアピン一つで西ヶ谷のほしいものをプレゼントできるくらい親切な人間でもないのだ。

 その理由を考えるのはやめておきましょう。なにか裏がある、そう考えてばかりでは他人との距離を縮めることは永遠にできない。自分を孤立に追い込むだけなのだ。

 それに西ヶ谷は私をだますような人物ではないと思うし。

 やはり私は西ヶ谷に依存しつつあるのだろうか? そう思いつつ、スプーンで卵スープを一口飲み込んだ。

 冷めてこそいたが、西ヶ谷のわずかな温かみを感じとれた。


 平日の学校。並んでいる教室から漏れ聞こえてくる一年生たちの声。それをかき消すように反響するチャイムの音。

 四階の廊下はずっと降り続いていた雨から解放され、晴れ渡った外から入ってくる太陽の光で明るい肌色を帯びていた。梅雨時期にあるわずかな晴れの日。自分は生きているのだと感じさせてくれる日だ。

 西ヶ谷からもらったお粥と卵スープのおかげなのか、信じられないほど足どりが軽い。

 締め上げてくるような頭痛もなくなり、寒く真冬を思い出させる熱も下がっていた。まるで昨日までの重い身体を脱ぎ捨て、新しい健康な身体に魂を入れ替えたようにも感じられる。

 そんな自分に安心しながら、私は右手に持っていた鍵を部屋の鍵穴へと差し込んだ。銀色に輝くアルミ製の長い鍵。

 開けられた先に広がっているのは雑務部の部室だ。

 誰もいない部室。

 狭くて暗い部室。

 でも……ここに必ずきてくれる人がいる部室。

 ドアのすぐ横にあるスイッチに手を伸ばすと、パチッという音とともに部屋中へと白い光がまき散らされた。数歩歩いて長机の下からパイプ椅子をとり出し、久しぶりの感触を確かめるようにゆっくりと腰を下ろす。

「私を必要としてくれる人……」

 西ヶ谷が私を必要としているかなどわからない。

 むしろ私が西ヶ谷を必要としているのだと思う。それも依存していると自分自身でわかるほどだ。

 でもこれだけはいえる。

 ちゃんと私を見てくれている人かいる。

 嫌悪や軽蔑けいべつの目ではなく、見下したりあざ笑うかのような自分を否定する目でもない。

 私を肯定してくれる、温かくてやさしい目だ。

 それだけで私は満足に思う。

 誰からも見放され、捨てられ、孤立していた今までと違い、自信を持って友達だといえる人物がすぐ近くにいるのだから。

 昨日は久しぶりにうれしいと感じた気がする。

「……」

 でも本音は……もう少し先に進みたいかな。

 友達からもう一歩先へ――

 ドアのスライドする静かな音がした。どうやら私を見てくれている人が、西ヶ谷か部室へとやってきたらしい。

 いつもと変わらない雰囲気の中へ。

「風邪、治ったのか」

「あの程度なら、心配はないわ」

 強がりをいうと、西ヶ谷はふっと鼻で笑ってきた。

 小窓を開けると、待っていたかのように流れ込んでくるさわやかな風。部屋の空気が動き出すのがわかる。

 その風で、私の髪にとめられたら蜜柑みかん色のヘアピンがゆらゆらと揺れていた――

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