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3.救われたのは入江岡

 5月になった。身体に感じる空気は日を追うごとに暖かくなり、生い茂る木の葉も新緑が深まってきている。

 ゴールデンウィークが終わり日常の戻ってきた南城高校だが、生徒のダラダラ感は抜けていない。おかげで授業中は意識を飛ばしている者が大半なのだが、なぜか放課後は覚醒するらしくグラウンドからは運動部員の威勢のいい掛け声が聞こえてくる。

 そんな窓から入ってくる声を聞き流しつつ、俺は部室で「仕事」をこなしていた。

「この分は終了っと……」

 目の前にこれでもかと積まれたプリント類、ざっと200人分。

 1年生の保護者会、その出欠席確認票だ。この雑務部の本来、というより隠れ蓑としての活動はこういった先生の雑務を請け負うことである。

 はっきり言ってダルい。出欠席をチェックし名簿へと記入していくのであるが、名前が下手すぎて読めなかったり確認欄に丸がついていかったりと不備が目立つ。ものがものだけに手を抜けないのも嫌なところだ。

 久遠はといえば、慣れているのか手際よくプリントを片付けていく。さすが雑務部長、本業も完璧ですね。

「手が止まっているわよ」

「へいへい」

 久遠の素晴らしい手捌きに見惚れていました。なんて答えたら何されるかわからないので、改めて作業に集中することにした。

 そういえば保護者会の出欠席なんて真面目に書いたことなかったな。

 我が家は両親が共働きなので、保護者会や授業参観といった学校行事に参加したことがほとんど無い。最後に来たのはいつだったかな、小学校2年生くらいの算数だった気がする。

 あの頃から算数は苦手だった。九九の語呂合わせを覚える「九九マラソン」なるものがあったのだが、俺は完走することができずクラスメートから笑い者にされたっけ。

 ちなみに今でも掛け算は怪しい。10の二乗がなぜか1000になったりする。

 そもそも数学というのは人類にとって憎むべき存在なのだ。机上の空論を展開し、悩める学生を赤点という泥沼へと引きずり込んで行く。

 世の中計算通りにはそうそう行かないものなのだ。この時間に家を出て、駅に着いたら電車に乗って、3つ先で降りたら会社までが何分で……よし完璧! なんて予定通りに進めたら電車が遅れてアウト、なんてことがたくさんある。

 そんな簡単に狂うような計算はいらない。従って数学は必要無い。証明終了、俺完璧。

 あれ? 証明って数学じゃなかったっけ?

 そんなことを考えているうちに、久遠は自分の割り当て分を片付けてしまったらしい。対して俺の前にはプリントの山。あと1クラス分はありそうだ。

 まだ終わらないの? という久遠の視線を痛く感じつつ、俺は名簿へと目を落とす。


 30分後、どうにか片付けたプリントを目の前に大きく伸びをする。

「あー終わったー」

「ほとんど私がやったじゃない」

 結局4分の3くらいは久遠にやって頂きました。どうもすいません。

 まあ片付けたと言っても処理できないプリントもある。そういったのは先生自らが確認なりをして最終的な処理をするから、厳密な意味では作業途中になるだろう。

 トントンと久遠がプリントを整頓していると、不意にノックの音がした。

「先生か?」

「こちらから渡しに行くって伝えたはずだけど……変ね」

 俺があまりにも遅くなったからクレーム言いに来たのかな? いや俺は悪く無いって、悪いのは数学だって!

 不思議そうな顔をした久遠が、プリントの束を机に置き引き戸を開ける。

 するとそこには、恥ずかしそうに身体をモジモジさせる1年生の男子生徒が立っていた。

「あの……雑務部ってここですか……?」

 眼鏡を掛けた背の低い男子、というのが第一印象だった。

高校生にもなると3年生より大きな1年生すら見かける。しかし目の前にいる男子生徒は中学生にも見えるくらい背が低い。女子である久遠が見下ろす感じになっているほどだ。

「そうだけど、何かご用?」

「先生に訊いたら、いじめの相談を受け付けているって……」

「担任の先生かしら? まあいいわ、入りなさい」

 案内された男子生徒は軽く一礼して部室へと入ってくる。久遠は引き戸をゆっくり閉め、さっきまでの椅子にもう一度座りなおした。

 男子生徒が右側の椅子へ。久遠はその正面。そして俺は引き戸を背にして立っている。

 久遠が机上のプリントを移動させたところで、男子生徒は言いにくそうに口を開いた。

「僕は入江岡いりえおかって言います。クラスは1年B組、サッカー部所属です」

「運動部員なのね。……そのまま続けて」

 胸ポケットからメモ帳を取り出し、「入江岡」「1年B組」「サッカー部」の単語を書き連ねていく久遠。

「サッカー部でいじめというか……それに近いことを受けているんです」

 1年生の入部シーズンも終わり、運動部としては新戦力の発掘と育成に力を置き始めている頃だ。

 同時に新たな人間関係が構築されていく時期でもある。先輩後輩、同級生であっても実力の有無や出身中学、様々な要因の下で複雑な絡みを築き上げていくのだ。

 そんな中ですれ違いが起こっても不思議では無い。

 些細なすれ違いが解決されずに肥大化していき、やがていじめとなっていく。元々の原因など忘れたかのように。

「練習以外のことをずっとやらされ続けたり、かと思えば無理矢理参加させられたり……。一人だけ部室に閉じ込められたこともありました」

 小さく頷きながらメモ帳にシャープペンを走らせる久遠。

 どうやら同級生からの仲間外れではなく、先輩たちから指導を口実に嫌がらせを受けているみたいだ。

 部活にはこういうのが多いんだよな、先輩が職権ならぬ部権乱用で後輩をいじめるってやつ。俺の友達にもいた気がするな。中学生の頃、剣道が上手くって先輩から陰湿ないじめを受けていたやつ。

 俺? 俺は存在すら怪しまれていたから、先輩の眼中にすら無かったらしい。

 男子生徒が説明を終えると、久遠は静かに口を開いた。

「だいたいのことはわかったわ」

 シャープペンの芯を仕舞い、顔を上げて男子生徒を見つめる。

「では様子を見ることにします。声を掛けなくても分かるように、あなたの靴の色とかを教えてくれないかしら?」

「は、はいっ」

 スパイクの色は白で、ソックスの色は青で……

 入江岡の説明を書き留めていく久遠。サッカー部が普段行っている練習や1年生に割り当てられているメニューなど、サッカー部全般に関連することまで事細かに訊いていた。

『入江岡! 呼ばれているぞ!』

 久遠の質問が終わると同時に、廊下から入江岡を呼ぶ声が聞こえた。

「先輩に呼ばれちゃったみたいです。もう行っても大丈夫ですか?」

「ええ」

 久遠の短い返事に一礼で返すと、入江岡は声の方へと廊下を走っていった。

 引き戸が閉まると、ふぅ……とため息を吐く久遠。時間的にそう掛かってはいないのだが、どうも疲れた様子だ。

「お疲れさん」

「そうね、ありがとう」

 素直に返事が返ってくるとは珍しい。よほど疲れているのだろうか。

「でも大変なのはこれからよ」

「すぐに行動を起こさないところを見ると、乗り気では無いみたいだな。あまり受けたいとは思わないのか?」

 先輩相手は厳しいってことか。でも久遠が屈するようには見えない。

 背もたれから身を起こすと、困ったような口調で久遠は言った。

「いじめに関する法律はね、部活のことについて大まかな規定しかないのよ」

「部活は管轄外ってことか?」

「完全にそうとは言えないけどね。指導といじめのライン引きが難しいのかしら」

 いじめの基本法則は「受けた側がいじめと捉えるか」だ。

 日常生活であればこの法則はそれなりに正確さを持つ。無視、脅迫、暴力……。どれも苦痛でありいじめとして捉えることができるからだ。

 ところが部活動となれば話が違ってくる。

 それは指導、特に運動部のトレーニングというのは必ずと言っていいほど苦痛を伴うからだ。この苦痛を乗り越えることによって、身体の限界点を伸ばし強靭な精神的を養う。

 与えられる苦痛、これがある程度を超えるといじめになる。

 ところがその程度というのは、人によってまちまちだ。

 同じ練習でも、ある人は能力を超えた過酷なものと感じいじめだと捉える。しかし別の人は能力ギリギリの厳しい練習という範囲で片付けてしまう。

 そしてこの認識の差、当事者以外はわからないのだ。

 つまり第三者にはいじめかどうかの判断をしきれない。本人が苦痛を訴えていても、それが練習の苦痛であるのかいじめの苦痛であるかを断定することができないのだ。

「それから1年生に雑用などをやらせるのは、上下関係を学習させる指導の範疇にあるわ。もっとも、これだって度を過ぎれば立派ないじめとして扱えるのだけれど」

「どっちにしてもわかりにくい、か」

 だが判断しづらいから放置、というわけにもいかない。

 先輩と後輩、上手い者と下手な者。はっきりとした上下関係がつくられる部活動という組織は、言い換えればいじめの温床でもあるのだ。

 上位の者が下位の者をいじめる、スクールカーストと同じ性質を持っている。それに加え「指導だから」という絶対的かつ強力な言い訳。

 いじめが起きてもわかりにくい部活動。

 なのに、いじめが起きやすい部活動。

「とにかく様子を見ましょう。時間が経てば明らかな行動を起こしてくるかもしれないし」

「そうだな。今は見守るしか無いか……」

 これを渡してくるわ。そう言って久遠が書類を持ち上げ椅子から立ち上がる。

 いじめが起きやすいのに、いじめが起きてもわかりにくい。

 久遠の背中を見送りつつ、俺は歯がゆいものを感じていた。


次の日部室へ顔を出すと、珍しく久遠が何もせずに待っていた。

「来たわね。行きましょうか」

「行くってどこに?」

 言葉の意味がわからず、近づいてくる久遠にキョトンとした顔で訊いてしまった。

「どこって……グラウンドよ」

「グラウンド? ああ、サッカー部を見に行くのか」

 昨日言っていた様子見のことね。

 久遠が出てから引き戸を閉め、一度3階へ下りる。お互いのロッカールームで土足に履き替えると、傾いている日差しを受けながら硬い土の上へと出た。

 グラウンドでは運動部がランニングをしたり練習の準備をしたりしていた。野球部はネットの移動、陸上部はストレッチ。誰もがユニフォームや体操着を着ているので、制服姿の俺は妙な疎外感を覚えてしまう。

 どうして運動部は大声を出すのだろうか。

 別にうるさいと感じたことは無いのだが、出していて恥ずかしくないのかと思ってしまう。試合での緊張感に慣れるトレーニングとも言えそうだが、声出しの緊張感と試合の緊張感は違うのではないですかね。

 それから剣道部の時に、声を出すと筋力が5パーセント上がると聞いたことがある。

 でも冷静に考えればたかが5パーセントだ。そんなの誤差範囲で打ち消されるのではないかと思う。

 などと運動部の声について脳内論議を行いつつ、久遠とともに校舎を背にしてサッカー部の入江岡を探し始める。

 サッカー部はこれから練習を始めるらしく、部員たちがゴール前へと集まっていた。

『おい入江岡』

 茶髪の3年生が声を上げ、入江岡を呼び出す。集まった集団の前へと眼鏡を掛けた1年生が姿を現した。

 入江岡だ。他の1年生と比べても低い身長。黒縁の丸い眼鏡を掛け、履いているのは白地に赤ラインの入ったスパイクだ。

「あの男子ね」

 久遠が呟いた。

 茶髪の3年生は入江岡が自分の前へ出てくると、横に置いてあるカラーコーンを顎でしゃくりながら。

『これやっとけ』

 と短く言った。

 入江岡は大きめな返事で答えると、カラーコーンの束を持ち上げ一定間隔を保ってそれを置いていく。

「今のところは……グレーゾーンね」

 グラウンドの半分ほどを使いランニングをしている他の部員を見ながら久遠が言う。

 まあ一年生なら練習の準備とかもあるしね。ただ一人だけというのは違和感を覚える。他の1年生を徴収しないのは、単に人がいらないからであろうか……?

 手際よく並べられたカラーコーン。作業が終了したらしく、入江岡は同じくランニングを終えた3年生の方へ指示を受けに行った。

『先輩、コーンを置き終わりました』

 直後、談笑していた3年生の顔が急に厳しくなる。

『は? お前さっきから何やってたの?』

『先輩がカラーコーンを置けというのでそれを……』

『何それ? そんなこと誰も言って無いんだけど?』

 おい、誰かこいつにコーン置けって指示出した? と訊く3年生。

『出してねーけど?』

 他の3年生が意味わかんないという顔で答える。

『でも先輩がコーンを指して……』

『だから何? コーン指したら並べろって意味なの? じゃあゴール指したらゴール並べろって意味になるの?』

 早口で責めたてる3年生。入江岡はどうしていいかわからず、泣きそうな顔で俯いてしまった。

 それでも足りないのか3年生は入江岡をさらに責めていく。

『お前さ、そんなに練習が嫌いなの? だったら練習しなくていいよ』

『そういうわけじゃないです……』

『そういうわけじゃないってさ、ランニングも嫌がってるじゃん。それとも何? みんなと一緒にやるのが嫌なわけ?』

 もう一人でやれば? と告げ入江岡を追い払う3年生。

「これは酷いな」

「酷いというより卑怯ね。明確な指示を出さずに濁らせておいてこの返し……」

 口には出さず行動で指示しておき、それをやれば「何やってんの?」か。やらなかったら「指示したよね?」と逆の方法で責められるパターンだな。

 久遠の言う通り、悪質というよりは卑怯だ。

 後輩が先輩の言うことに逆らえないことを使ったいじめ。1年生の何人かは俯いたままランニングをする入江岡を気遣っているようだが、先輩たちを前に助けることができないみたいだ。

「さて、戻りましょうか」

 サッカー部から目を切り久遠が西館の玄関ホールへと歩きだす。

「もういいのか? 本格的な練習中だって何をされているか……」

「わからないっていうのでしょう? そうしたいところだけど、どうやらマークされ始めているようだから」

 久遠の言葉に、再度サッカー部の方に目を向けてみる。

 多くの視線、3年生の何人かが俺の方へと視線を向けているのがわかった。どれも睨みつけるように鋭く、とても歓迎されているようには思えない。

「うわぁ……」

「次からは別の場所からにしましょう。あるいは時間をずらしたりして」

 心の中で同意しつつ、俺は西館の玄関ホールをくぐった。

 靴を履きかえて部室へと戻る。声が溢れていたグラウンドとは違い、ここには吹奏楽部の演奏が遠く聞こえてくる程度だ。

 しかし運動不足なのだろうか。4階から1階へ下り、10分ほどサッカー部を見物した後ふたたび4階へと帰ってくる。大した距離でもないのに富士山へ登ったような疲れ方だ。

 蛇足であるが、静岡県民にとって富士山は割とどうでもいい存在である。東京都民がスカイツリーに群がる地方民を見て「何が面白いのだろう、あの人たち」と感じるのと同じである。東京都民の感覚なんて知らないけど。

 まあ富士山なんか飽きるくらい見ているし。

 部室の引き戸を閉め、対面している窓を開けたところで久遠が言った。

「いじめに関する法律にはね、部活動中の事項について穴がたくさんあるのよ」

 窓の外から入ってくる風。一歩ずつ夏へと近づいているせいか、気持ち暖かくなってきたようだ。

「私たちがいじめと捉えるようなことでも、法律的には指導の一環として扱われているわ」

「じゃあどうする気だ? 黙って見ているしかないのかよ」

 監視の目があれば、ある程度の抑止力は働くだろう。だがそれは「ある程度」の「抑止力」であり入江岡へのいじめを喰いとめる有効な手段とはならないのだ。

 ギリギリの線をついて繰り返される精神的ないじめ、部室という隔離された空間での暴力行為。法律や雑務部の間隙をついて入江岡は抗えない相手からのいじめを受け続けることになるのだ。

 あと本音としては睨まれるのが嫌です。

「黙って見ているだけ……そのつもりは無いわ」

 はっきりとした声で久遠は宣言した。

「いじめは実行者の欲望を満たすものよ。欲望は尽きることを知らない。そうしてできた隙を突くわ」

「具体的には?」

 俺としては珍しい言葉を使った。久遠もそれを察したのか、窓に向いていた視線を俺の方へと移してくる。

「残念だけどそれには答えられないわ。何を根拠にいじめとして認定するのか、どういった手段でそれを炙りだすのか……私にも確実な手段が無い」

 でも……と久遠は付け加えた。

「必ず尻尾を掴んでみせる。欲望のために他人を犠牲にし、それを隠そうとするような人間を私は許さない」

 久遠に具体策が無いのは意外だった。すでに作戦を組み終えアウトライン通りに進めていると思ったからだ。

 そしてここまで感情を前に出す久遠もまた珍しい。違和感すら覚える。

 今は我慢の時か。

 俺は久遠が間違っているとは思わない。様子見が必要と判断しているのならば、俺もそれに従うことにしよう。


 登校してきた時に降っていた雨はいつの間にか止んだらしい。窓には忘れ去られたように水滴が残り、傾きつつも顔を出した太陽からの光でキラキラと輝いている。

 俺は前の席から回ってきたプリントを受け取り、タイトルを読み流す。「選択教科希望調査票」か。

 南城高校では2年生になると理数科を除き選択授業がある。

 数学はすべてカットし文系に差し替え。芸術選択は去年と同じ美術だな。社会科は五十歩百歩だけど地理にしよう。後は理科系の選択だが……

「全員受け取りましたか? 希望調査票は来週金曜日までに提出して下さい」

 まあ物理と化学でいいかな。ついていける気がしないけど。

 あいさつと同時に帰りのSHRが終わり、クラスメートが次々と教室から退出していく。

俺も流れに乗って教室の外へと出た。いつもなら雑務部室へ直行するところだが、今日は別の予定がある。どちらにせよ部活絡みなのだけど。

 自分のロッカーへ調査票を放り込んでから理数科の教室へと向かう。

 理数科はSHRが終わっているらしく、教室には数人の生徒しか残っていない。さすがは理数科、全員が教科書とノートを広げ授業の復讐みたいなことをしている。

 おっと間違えた、

「久遠」

 彼女を除いては。

 軽く呼びかけると、廊下側に座っていた久遠が振り返った。俺だと気づくと鞄を肩に掛け、椅子が戻るのも待たずに教室から出てくる。

「遅かったわね」

「SHRが長引いたのだよ。不可抗力だって」

 俺が言ってSHRが短くなるなら毎日だって言っているさ。もしかしたらSHRそのものが綺麗さっぱり無くなっているかもな。

 まあいいわと軽く受け流した久遠は、そのまま西側の階段へと向かっていく。俺もその後を追うように歩き始めた。

 久遠が向かっているのは1階の会議室。今日は部長会の定例会だ。

 定例と言っても毎月行われているわけではない。年度初めの今日と夏休み前、夏休み明け、冬休み前、年明けて春休み前。ほぼすべて長期休暇の前後じゃないか。

 まあ長期休暇中って部活が忙しくなるしね、運動部なんか特に。

 そんな長期休暇など縁の無い雑務部代表として、俺と久遠は会議室へと入った。

 既に何人かの部長が顔を揃えている。俺たち以外は全員が3年生なので肩身が狭く感じた。周りの目が怖いので帰ってもいいですか?

 そんな俺の感情などお構いなしに久遠は室内を歩いていく。もっとも後ろの窓際、「雑務部」のプレートがある場所で椅子を引き出した。

 隅の方で良かったと感じたのは久しぶりだ。この位置なら怖いお兄さんたちと顔を合わせなくて済む。ついでに見られることも無い。胸を撫で下ろすと、机の下から椅子を引き出して久遠の隣へと座った。

 数分後にはほぼ満席となった会議室。進行役の囲碁部長がホワイトボードの前に立つと、室内のざわめきが徐々に収まっていった。

「えー揃ったので、部長会を始めたいと思います」

 部長会の内容は大したものでは無い。

 各部活の新入部員を報告し、クラス担任がチェックした名簿と照らし合わせ、人数の確認を行う。その後は予算配分の発表。質疑応答が済めば部長会は終了となる。

 部長会は滞りなく進んで行った。途中で気づいたのだが、予算配分の表に雑務部の名前が無い。つまり雑務部の予算は部長会から支出されているわけでは無いのだ。え、それじゃあどこから出ているの?

 久遠がメモをとり、俺はやることの無いまま時間が過ぎていった。

「では予算配分は以上にて決定します。……全体を通して質問のある生徒は手を挙げて下さい」

 司会の囲碁部長が会議室内を見渡す。

 今日はこれで解散かな。そう思った時だった。

小久保こくぼサッカー部長、何かご質問ですか?」

 どうやらサッカー部長の小久保が手を挙げたらしい。

 いかにも怠そうな動作で立ち上がった小久保。ポケットに片手を突っ込み、もう片方の手で茶髪をかきながら口を開いた。

「質問じゃ無いんスけど、ちょっと雑務部っていう部活を廃止してもらえないかなーって」

 会議室内がどよめきだす。

 言っていることがさっぱりわからない。雑務部を廃部に? なぜこの場で? 一体何のために?

「提案の理由は何ですか?」

 若干落ち着きを取り戻したタイミングで囲碁部長が尋ねる。

「理由っていうか……雑務部がいじめ対策とか言って部員に暴力を振るってきたのが気に食わないんスよね」

 喋るのも怠いといった表情で理由を述べる小久保。

 もちろんサッカー部員に危害を加えた事実など無い。万が一あったとしても、それはいじめ抑止を目的とした行為であり無差別な暴力では無い。教職員側から認められている雑務部の権利だ。

 部屋中の視線が雑務部へと集まってくる。

「雑務部長、事実ですか?」

 綺麗な動作で素早く立ち上がる久遠。

「事実無根です。暴力は使用していません」

 簡潔に否定する。相手が3年生であってもまったく動じていない様子だ。

 間接的とはいえ上下関係の存在する場において、はっきりと否定のできる久遠は凄いと思った。私は何者の隷下にも置かれない、自らが下す判断にだけ従うのだと言っているかのようだ。

 しかし小久保はさらに喰い込んでくる。

「俺さ、部員が殴られている証拠写真持ってんだけど。証人もいるんですけどー?」

 証拠写真? 証人?

 雑務部がサッカー部に暴力を振るった事実を俺は知らない。ありもしない虚実だ。証人などいるはずもなさそうだが……

「していません。私たちは教職員の管理下にあり、必要以上の行動は行っておりません。証拠写真があるのでしたら提示して下さい」

 氷のように冷たく、氷柱のように鋭い言葉で久遠が反論する。

 雑務部は学校から監視されているのだ。不必要な武力を使用すれば学校から制裁を喰らう。そんな自らの首を絞めるようなことをわざわざ行ったりはしない。

 ブラブラと身体を左右に振りながら、小久保の攻撃は続く。

「今は手元に無くってねえ。証人も今日は休みなんだ。それより……」

 久遠の方へと振り返り、言葉を放つ小久保。

「先生が監視している。でもそれが完璧だという保障は無いよねぇ」

「どういう意味ですか」

 視線をさらに厳しくした久遠。小久保は相変わらずヘラヘラしたままだ。

 少し間をとると、バカにしたような口調で説明をしてくる。

「だって、お前らを先生がずっと見てるわけ無いじゃん。見てると思ってるならそれ自意識過剰だよ? もしかしてナルシストなの?」

 どこまでも舐めた真似を……

怒りが湧き上がってきたが我慢だ。ここは会議の場、実力で決着をつける場では無い。久遠に任せるしか無いと判断し、机の下で拳を抑えた。

久遠は表情をまったく変えない。これだけの挑発を受けても無駄な言葉を発すること無く、しかし鋭い視線を向け相手をけん制している。

口を挟まない久遠に主導権は掌握したと判断したのか、小久保がホワイトボードへと向き直った。

「他の人はどうなんだ? 暴力を放置していていいと思ってんのかよ?」

 誰も言葉を発しなかった。肯定もしなければ否定もしない。

 大多数はこれといった意見を持っていないからだろう。雑務部によるサッカー部員への暴力が嘘であるならば、教職員が雑務部を完全に管理できているというのも疑わしいことである。事実なのか虚言なのか、それを判断する材料を彼らは持っていないのだ。

「じゃあ雑務部は危ないと思っている人、ハーイ」

 手を挙げろと言うように周囲を見渡すサッカー部長。

 しかし手はなかなか上がらない。小久保の仲間と思われる3年生が数人挙げた程度だ。

 どうやら挙げるべきかを考えているらしい。同席している副部長などに囁いたり目を合わせたりして、部活としての意見を決めかねているようだ。

 思ったより挙がらないと感じたのか、小久保が声を大きくして場を煽りにかかる。

「おいおいビビッてんじゃねーよ。野球部とか暴力受けたよな? なあ?」

 小久保に睨みつけられ下を向く野球部長。

 やがて決断したかのように顔を上げ、周りの様子を窺うようにして右手を伸ばした。

 野球部長に影響されたのか、小久保の向いた先でチラチラと手が上がり始めた。8人……9人……10人……少しずつ増えていく。

「ほら危ないって思われてるじゃん。やっぱ廃部にした方がいいよあの部活」

 思わず腰を上げる。

もう我慢できない、それ以上言うつもりなら3年生だろうと容赦しないぞ。多数決だって強制的に挙げさせているようなものじゃないか。

しかし久遠に左手で阻まれる。

「大人しくしてなさい。怒れば負けよ」

「でも……!」

「座りなさい。それとも私たちの居場所を失いたいの?」

 久遠に諭され、上げかかっていた腰を椅子に落とす。

 小久保は勝ち誇ったような目でこちらを見ている。一部の3年生は嘲笑うかのような顔。他の3年生も視線があさっての方向を向き、我関せずといった態度だ。

 くそっ。味方がいないのがこんなに辛いとは。

「サッカー部長、廃部をここで決定することは不可能です」

 囲碁部長が丁寧な口調で言葉を発した。

「生徒会規則には、『不正行為などによる部活動の廃止は生徒会の権限を必要とする』と書かれています。ここは生徒会に本件を提出してはどうでしょうか?」

「チッ、面倒くせえな。さっさと廃部にしろよ」

 司会にセリフを吐き捨て、椅子へと座る小久保。

 ふたたび久遠へと視線が集まった。

「雑務部長、よろしいですか?」

「構いません」

 即答した久遠。

 久遠が座ると、集まっていた視線は囲碁部長へと移った。

 こっちが2年生だからと見下しやがって……。暴力振るってんのはお前らサッカー部だろ。自分のこと棚に上げといて偉そうな顔するんじゃねえよ。

 証拠写真も証人も嘘なのだろうと思ったが、この場でそれを追及することはできない。証拠写真は忘れたで押し通されてしまうだろうし、証人に至っては作り出すことさえ可能なのだから。

 書記員が書き終わるのを待ち、囲碁部長はもう一度口を開いた。

「では雑務部の進退について生徒会へ上申します。部長会は以上です、ありがとうございました」

 部長会の参加者がゾロゾロと廊下に出て行く。

 俺が廊下に出ると、周囲にいた何人かの3年生から視線が突き刺さってきた。

 振り返って確かめなくてもわかる、冷笑の目だ。3年生という先輩に盾突き、そして敗れた愚かな後輩を嘲笑う目。

 殴りかかってやりたい衝動に駆られたが、目の前を歩く久遠を見てそれを抑え込む。

 おそらく一番の憤りを感じているのは久遠だろう。塗り固められた嘘によって雑務部を悪者にされ、それを崩すことができなかった。

 それでも久遠は怒りの感情を出さない。怒っても好転しないと考え、愚痴の一つこぼすことなく今の状況を静かに受け止めている。

 自分が情けなくなった。一人で矢面に立つ久遠に何もしてやれないのかと。

 心の中にいるもう一人の自分を責めながら、久遠を追って部室へと入った。

 引き戸を閉めれば静寂が始まる。学校内にある部室なのに、学校から隔離されたと思えるくらい静かな空間だ。

「く、久遠……」

 自らパイプ椅子を引き出して座った久遠に、恐る恐る声を掛ける。

 久遠から返事は帰ってこなかった。

 重苦しい沈黙。引き戸を閉めた右手を離すことにすら躊躇いを感じる。壊したくも崩したくない張りつめられた室内の雰囲気。

 呼吸すら苦しくなり始めていた時、ようやく久遠が口を開いた。

「狙われた……わね」

 悟ったかのような声だった。

 正面の戸棚へと真っ直ぐに目線を合わせ、身じろぎ一つせずに発した言葉。

「狙われた?」

 オウム返しで訊き返してしまう。

 部室の緊張感が壊れていく。冷え固まっていた空気が溶けて流れが生み出されたようだ。緊張した肩の筋肉が緩んでいく。

 脳に酸素が行き渡ったおかげなのか、久遠が発した言葉の意味に疑問を感じた。

 狙われた? 誰に?

「サッカー部長が、私たちを狙ったのよ」

 久遠が俺の心中を読んだかのように言い放つ。声は小さくも冷たく、そして鋭いものだった。

 椅子から腰を上げ窓際に歩み寄る久遠。カチャッと鍵を解放し窓を開いた。待っていたように風が入り込み、確かな空気の流れを作り出す。

 窓の外を見つめながら久遠は続けた。

「部内のいじめが露見するのを恐れて、私たちを潰しにかかったのでしょうね」

 そういうことか。

 入江岡によってサッカー部のいじめが雑務部へと報告された。俺たちが見学に行ったことでそれを察知した小久保。自分たちの身を守るべく先手を打ち、雑務部そのものを潰そうと画策してきた――

 もしそうならば、あまりにも卑怯な手だ。

いや「もし」は無いだろう。久遠の判断は間違っていないと言い切れるし、自分で考えても辻褄が合う。タイミングといい、廃部という提案といい……

 収まったはずの怒りがふたたびこみ上げてきた。許せない、自己利益のためだけに雑務部を潰そうなんて。しかも理由はいじめの隠ぺいときている。

「それで、どうするつもりだ? サッカー部内でのいじめを理由に先制攻撃を仕掛けるか?」

 相手が先手を打つことを考えているのならば、さらにその先手をとる作戦だ。廃部はどう頑張っても生徒会の会議まで待たねばできないが、雑務部の制裁なら今からでも実行できる。

 実力行使ならアドバンテージはこちらにあるのだ。

「脅迫の暴力を受けたとして不利になるのは見えているわ。その方法では単純すぎるのよ」

 冷静に否定する久遠。

 反論を考えたが思いつかない。むしろ事実を押さえられたことによる状況の悪化が容易に想像できた。

 さっきまでの自分が恥ずかしい。人間というのは怒りに身を任せると、ここまで判断力が低下してしまうのか。力を使えば相手の虚言を自ら事実としてしまう。罠にも見えない罠へ自ら飛び込むことになるのは明らかじゃないか。

 ではどうすればいいのか。雑務部としての力を使うという選択肢はとれない。

「部活という組織内でのいじめは証明が難しいの」

 窓辺で振り向く久遠。視線を落とし口に手を当て、考えごとをするときの体勢だ。

「だからサッカー部を崩すというのは非現実的な手段。生徒会で決着をつけるしかないわね」

「でも明らかに不利だぞ。ロビー活動を展開されたら……」

 生徒会役員には全学年が揃っているとはいえ、若干ながら3年生の比重が大きい。あまり考えたくないが、生徒会といえども上下関係が存在するだろう。

 そうなれば3年生内で横のつながりを持つサッカー部側の影響力は圧倒的だ。対してこちらは2年生にすら味方などいない。

 まさに多勢に無勢。

 そんな中でロビー活動を展開されようものなら絶望的もいいところだ。間違いなく生徒会内での票はサッカー部側に偏る。現状では勝てる要因が何一つ見つからない。

「策は考えるしかないわね」

 何か有効打は打てないのか。俺は自分自身の無力さを嫌というほど噛みしめていた。


 4時限目が終わると同時に、購買や食堂へ向かうクラスメートが我先にと教室を出ていく。1年生から変わらない南城高校の日常風景だ。

 それを見ながら弁当箱を取り出す。

 騒がしい連中の去った後の教室は非常に静かだ。しかし沈黙の空間というわけでもなく、小さく聞こえる話し声が和やかなムードを作り出している。この雰囲気は嫌いじゃない。

 そんな昼休みを感じつつ昼飯を片付けると、男子たちの談笑が耳へと入ってきた。

『雑務部の話って聞いたか?』

 思わず手が止まる。自分が訊かれているわけでは無いのだが、クラスで出ることの少ない雑務部という言葉には悲しくも反応してしまうのだ。

『聞いた聞いた。廃部にするとかどうとか……』

『俺は大賛成だな。何もしていないのに暴力振るわれるとかありえないわー』

『マジで? そんな部活なら潰れて当然だな』

 根も葉も無い嘘を……。何もしていないのに暴力使うわけが無いだろうが。

 うちのクラスの生徒会役員を探すと、教室の片隅で文庫本を読んでいた。

 今の会話を聞かれただろうな。雑務部のマイナスイメージが役員に焼き付けば、生徒会で廃部賛成の票を投じるだろう。根も葉も無い嘘でも、ことを知らない者にとっては大きな影響力を持ちうるのだ。

 このクラスは賛成派となってしまうのか。

 嫌な話を聞いたせいか、昼休みの日課であるゲームをする気も起きない。気分転換に外へでも出るかと、後方のドアから廊下へと出た。

 東側の階段を使い3階から2階、そして1階へ。階段を下りきれば玄関ロビーは目の前だ。土足を持ってくるのを忘れていたが、あの教室から出られれば何でもいい。玄関ロビーで時間を潰していくとしよう。

 と、足が止まった。

 玄関ロビーには生徒用の大きな掲示板がある。例えば生徒会選挙の告示だとか、文化祭の出店案内、そういった学校行事を伝えるためのものだ。ちなみに西側にも同じようなものがある。

 そこに貼られていたのは、

『無差別に暴力を振るう雑務部をなくしましょう!』

 廃部キャンペーンのポスターだった。

 手書きではなくパソコンで作成し印刷されたものらしい。ポスターには指名手配犯よろしく、俺と久遠の顔写真が載せられている。他にもサッカー部が暴力を受けましたという説明書き、どうやら連中はこれを軸に雑務部叩きを進めているようだ。

 おそらくこのポスターが掲示されているのは玄関ホールだけでは無いだろう。職員室前や西館の入り口、掲示板以外のところにもテープを使って貼りつけてあるのかもしれない。

 ここまでしてくるのか……

「西ヶ谷くんだよね?」

 不意に声を掛けられ、少々驚きながらも右に振り向く。

 スーツ姿の佐々木先生だった。黒い鞄を下げているあたり、これから出張にでも行くのだろうか。

「雑務部が話題になっているけど、関係無い人にまで暴力を振るったのかい?」

「そんなことしていませんよ。噂といいこのポスターといい、すべてデマです」

 佐々木先生に睨みつけるかのような鋭い視線を向ける。

「そ、そうか。だがあまり派手なことはいけないよ、僕よりも君たちの方が困るだろうからね」

 返答に困ったのか、たしなめるような言葉を残し足早に立ち去る佐々木先生。

 教職員にまでデマが広がっているのか。

 あまりにも卑劣な手段。嘘を大衆に信じ込ませ味方を増やそうという作戦だろう。

 腹が立ってくると同時に、絶望感に似た感情も芽生えてきた。これがロビー活動の威力、縦横のつながりを自在に使った強力なネガティブキャンペーンの力なのだ。

 自分がした最悪の予想を形作るピースが無情にも埋まっていく。100ピースのジグソーパズルですら完成できなかったのに、なぜ永遠にできなくてもいいパズルのピースはこうも簡単に揃っていくのだろうか。

 玄関ホールから逃げるように階段へと向かって行く。

今は雑務部のことに関わりたくない。自分の無力さが惨めに感じるだけだ。


 午後の時間も、クラスメートが雑談を開く度に雑務部の件が出てきた。反対なんて誰も言わない。誰もかれもがサッカー部へ暴力話を信じ込み、雑務部はなくなるべきという意見で一致している状況だ。

 ろくに時間も経っていないというのに、噂はもの凄い速さで流れていく。特定の人物を叩くのが目的だと、噂話は広がっていくスピードが速い。雑務部がなくなって困るような人間は一握りだし。

 情報戦で完敗か。

 俺は今、久遠とともにグラウンドにいる。場所は東門に近いネット際だ。

 そもそも廃部の件は、サッカー部がいじめ隠ぺいを目的に煽っているものだ。つまりいじめそのものには手が付けられることなく放置されている。

 その情報を集めるべくサッカー部を監視しなければならないのであるが、前回は場所が近かったせいで熱い視線を浴びてしまった。

 なので、今回は遠い場所からお忍びでの観戦というわけである。

 視線の先にいるサッカー部はランニングをしているようだ。見ている限り、1年生が一人で準備をしているような様子は無い。

「今日は大丈夫そうね」

 そう久遠が呟いた時だった。

『うわっ、暴力沙汰で有名な雑務部じゃん』

 陸上部員の声だった。雰囲気から3年生だろう。

 大して大きな声ではなかったが、グラウンドにいる仲間へと俺たちの存在を伝えるためには十分だったらしい。

 陸上部員、サッカー部員の一部までもがこちらへと視線を送ってきた。陸上部員の何人かは俺たちの方へと近づきつつある。

『おーいサッカー部、ファンが来てるぞー!』

 大声で叫ぶ陸上部員。

 なんで俺たちがサッカー部のファンにならなくちゃいけないんだよ。連中の試合を見るなんて金積まれても断るわ。……いや、100円玉を100枚ほど積まれたら真剣に考えちゃうかもしれない。

 陸上部員の叫び声で、サッカー部員の何人かがこちらへと向かってきた。先頭は小久保らしい。

「暴力部員が何のご用ですかー?」

辿り着くなり、さっそくバカにしたような口調で訊いてくる小久保。

「いじめの監視中です。問題が解決しているわけではありませんので」

 毅然とした態度で答える久遠。

 こういう時の久遠はとても頼りになる。3年生の先輩相手でも動じない度胸。必要なことだけをはっきり簡潔に述べられる思考力。口喧嘩したら絶対に負ける自信がある。

 そんな久遠でも、集団相手には分が悪い。

「廃部寸前の部が。証拠あるのかよ証拠!」

仲間がいるのを強みに、刑事ドラマの定番とも言える台詞を発する小久保。

まあこういう時は証拠証拠言うやつが犯人だと相場が決まっているのだけどね。今回もお前が主犯だろうし。

「今はそれを調査しているところです。ですから……」

「証拠無いのかよ。もしかして何? うちに因縁つけてんの?」

 久遠の言葉を遮って喚く小久保。

 こういうのを滑稽と言うのだろうな、そう思った。自分が不利になるとわかった瞬間、大声でまくしたてて相手の言葉を遮る。どんなに有効な言葉であろうとも、口に出さなければ効力を発揮しないものな。

 もうここは行われているのは口論の場では無い。もっと次元の低い、言い争いとも呼べないものが展開されている。相手の発言を邪魔して主導権を握るという、声の大きさと図々しさでしか優劣を決められない幼稚な場。

「そうやって因縁つけて暴力振るうんだろ? 邪魔だから帰れよタコ」

 小久保が言い終わると同時に、周囲にいた野次馬から声が上がり始めた。

 かーえーれ!

 かーえーれ!

 サッカー部員だけではない。陸上部員や野球部員、テニス部員の姿まで見える。グラウンドにいるすべての部活が、俺たち雑務部に向かってブーイングをしているのだ。

「帰れよクズ! ゴミ! 死ね!」

 かーえーれ!

 かーえーれ!

 小久保の罵詈雑言に煽られ、運動部員たちのブーイングは止まらない。

 多勢に無勢、このままでは勢いだけで押し切られてしまう。

 しかも相手は3年生だ。精神力の強靭な久遠ならともかく、俺では一対一でも対応できないだろう。

 圧倒的とも言えるアウェー感が、俺たちを埋め尽くそうとしていた。

 と、その時――

『そこ! 何やっているの!?』

 低い男子の声ではない。響くように甲高い女子の声が聞こえた。

 突然の出来事にコールが止み、声のした方向へと視線が集まる。

近づいてくるのは愛嬌のある顔に小さくて華奢な身体。髪は肩くらいで整えられており、制服はきっちりと着こなしている。

 俺はこの人物を知っている。いや俺だけじゃない。2、3年生なら誰もが彼女を知っているだろう。

「せっ、生徒会長!?」

 彼女の名前は神崎かんざき、南城高校の生徒会長だ。

 学校内における神崎の好感度は抜群だ。優しくて可愛くて少しおっちょこちょい。その仕草に惚れ「生徒会役員になります」なんて連中もいるほどだ。南城高校の男子生徒でアンケートを採ったら、守ってあげたい女子ランキングで1位は間違いないだろう。

 それでいて仕事はきっちりとこなす。モテる女子にありがちな「同性から嫉妬される」というのも彼女には縁の無い言葉みたいだ。

「この騒ぎは何ですか? 校舎から見ていると目立ちますよ?」

「雑務部がうちに因縁つけてきてんだよ。いじめがあったとでっち上げてな」

 即座に返答する小久保。周囲の3年生もうんうんと首を縦に振っている。

 だがそんな多数決に流されることなく、神崎は俺たちの方へと向き直った。

「雑務部長、そうなのですか?」

「いいえ。サッカー部員からいじめの報告があったので、その調査をしているところです」

「だから無いって……!」

 声を荒げようとする小久保。

 そこに人差し指を立て、自身の唇へとつける神崎。

 メッセージを理解したのか、小久保はすぐに口を閉じた。周りにいる他の部員も声を絞る。

 ここへ来て1分強、神崎はこの場を仕切る主導権を得ていた。

「そうやって声を上げないの。私はそういう人は嫌いよ」

 少し怒ったような顔を見せる神崎。頬を膨らませ、上目使いで小久保を見上げる。

 まず演技なのだろうが、神崎がやると可愛く見えた。小さな子供がいじけているような仕草にも見える。

 思わず口元がほころぶ小久保。鼻の下まで伸ばしている。

 大丈夫だと判断したのか、周囲にいる運動部員の方へと顔を向ける神崎。

「知っていると思うけど、もうすぐ会議があります。」

 神崎の言葉を誰もが遮ることなく聞いている。もはや聞き惚れているといっても過言では無い。

「みなさんの意見はそこでちゃんと繁栄されるのだから、こんなところで獣のように争わない。……よろしいですか、紳士のみなさん?」

 はーいと元気な返事を返す運動部員たち。

 こんな連中のどこが紳士だよと思ったが、それを言っては神崎の努力が水の泡となってしまう。心の中に沈めておいた。

 しかし感心させられるほどの対応力だ。声の大きさで物事を決めるような獣たちを、ものの数分で手懐けてしまった。

 じゃあ解散! という神崎の言葉で、それぞれの場所へと戻っていく部員たち。

「あの、ありがとうございました」

 部員が戻り切ったのを見計らい、俺は小さくお辞儀をした。

 どういう意図があったのかは知らないが、一触即発の状態から綺麗に助けてもらったと解釈してもいいだろう。そうであれば礼の一つくらい言っておいても無駄では無い。

 俺の言葉に気づいたのか、神崎はクルッと身体を一回転させて向き直った。

「気にしないで。ああ見えても、みんな素直だから」

 それは神崎先輩の前だけだと思いますけど。

「私からも、雑務部長としてお礼申し上げます。」

久遠が丁寧に頭を下げる。

満足そうな顔で校舎を見上げる神崎。吹奏楽部の演奏が始まり、BGMとなって3人の間を抜けていく。

「じゃあ私は戻るから」

 短い言葉とともに西館へと走り去っていく神崎。

 ふう、と久遠がため息を漏らした。

「俺たちも戻ろうか」

「そうね。これ以上いて、また騒ぎを起こしてしまっては迷惑でしょうし」

 久遠がゆっくりと歩きだす。

 それを追うようにして、俺も玄関ホールへと歩いていった。


 数日後、放課後の部室――

「3年生はサッカー部長の呼びかけでほとんどが賛成ね。1年生は影響力が小さいのか、反対派が多数を占めているわ」

 印刷されたエクセルのグラフを見ながら、久遠が簡単な分析結果を説明した。

 ところどころ文字が違っていたり、色が白黒だったりするのは急造だからということにしておこう。俺なんかグラフ1本でも1時間かかるしね。

「勝負の鍵は2年生になりそうだけど、残念ながら賛成派が優勢よ」

「1年生は雑務部をよく知らないし、団結力がまだ低いから派閥みたいなのが無いのだろうな。」

 だが、いつ小久保あたりの魔手が伸びてくるのかわからない。連中は勝つためならいかなる手段でも行使するだろう。

 無知な者ほど嘘に引っ掛かる。それは真偽を確かめる術が無いからだ。

 もし1年生に暴力のデマ情報が広がれば、この反対派もたちまちにして賛成へと傾くだろう。そうなれば廃部は確定的だ。何としてでも1年生へのデマ流出は食い止めなければならない。

「対して2、3年生は横のつながりが強いものね。偏るのは当然かしら」

「でもこれどうやって調べたんだ? まさか聞いて回ったわけじゃないよな?」

 グラフの出来こそ荒いが、数値を見る限り十分な母数が存在しているように見える。適当なデータなんて持っていても意味は無いだろうし、どんな手品を使ったのだろうか。

 久遠が上半身を背もたれへと倒し、パイプ椅子がギッと軋む。

「協力してもらったのよ」

「協力? 誰に?」

「今回の助っ人よ」

 助っ人? この雑務部を助けてくれる助っ人なんているのだろうか。

 学校単位の調査を短時間で行うことができ、かつ雑務部に手を差し伸べてくれるような人物。

 そもそも今回の件がなければ存在すらあやふやな雑務部。知っている人間すら少ないと思うのだが……

 まあ孤立無援よりは一人であっても協力者がいた方がいい。

「とても強力な人物よ。この状況を打開してくれるかもしれないわ」

 コンコンコンとノックの音がする。どうぞと入室を促す久遠。

 あの久遠が強力と評する人物。一体誰なのだろうか。

 佐々木先生? いやあの人頼りなさそうだし……。 じゃあ保健体育の担当とか? まあ別の意味で強力だけどさ。

 期待と不安の両方を感じながら、ゆっくりと開いていく引き戸に視線を向けた。

「こ、こんにちはー……」

 遠慮気味に姿を現したのは、なんと神崎であった。

「わざわざありがとうございます。協力の件、大変光栄です」

「そんなに固くならなくても大丈夫だよっ。こちらこそよろしくね」

 久遠が丁寧にあいさつをすると、神崎は緊張を崩し軽やかな笑顔で返してくる。

 まるで有名人とお忍びで会っているかのようだ。ほら、有名人って常時カメラや人に囲まれているような印象あるじゃん? こんな雑務部室みたいな狭い場所へと来るようなイメージが無いわけで……

「神崎先輩に事情を説明したら、喜んで協力してくれるって言われたのよ」

 神崎が協力してくれるなら、確かに強力な味方となる。2年生どころか3年生ですら勢力を得ることができるかもしれない。

 しかし疑問だ。確かに雑務部の存在は把握しているのだろうが、それだけでは協力の理由とならない。サッカー部に味方してもおかしくない神崎がなぜ?

「それに、私はこの部活に助けられたことがあってね」

「先輩がですか? あまり想像できませんが……」

 ちょっと失礼な言い方だったな。でも本当に想像できないんだよ。

 全校生徒のほとんどが知っており人望の厚い神崎がいじめられている姿が思いつかないのだ。常に笑顔だし友達もたくさんいるだろうし。

「そういえば、あなたの名前は?」

「に、西ヶ谷です。西ヶ谷 一樹」

 答えた瞬間、神崎が目を輝かせた。

「じゃあもしかして西ヶ谷先輩の弟さん!? この学校にいたんだぁ!」

 あっあの……そんなに近づかれると困ります。あとそんなに嬉しそうにされても困ります。俺まで守りたくなっちゃうじゃないですか。

 久遠から痛い視線が飛んでくるので、まあまあと神崎を引き離した。本音はもっと近づいたままでいて欲しかったです。

「あなたのお兄さんに助けられたのよ。今回はその恩返しのつもりでね」

 なるほど。兄が意外なところで威力を発揮したな。入部の時といい今回といい、この効力は背後霊にでもなっているのか?

 コホンと久遠がわざとらしい咳払いをする。どうやら相手にしてもらえないのが気に入らないらしい。

「神崎先輩には反対運動をやってもらおうと思っています。よろしいですか?」

「大丈夫よ、任せて。私にできることなら何でもするつもりでいるから」

 眩しいくらいの笑顔で答える神崎。LED蛍光灯1本しか照明の無い雑務部なのに、いつになく明るい感じがする。

 仕草の一つ一つが可愛くてしかたない。こうして直接会うと男子に人気なのがよくわかるな。勢い余って告白してしまいそうだ。そのまま駆け落ちして新婚旅行にハワイまで考えてしまう。

 いや駆け落ちしてから新婚旅行行くのかよ。

「ロビー活動をするのは気が進まないけど、今は結果優先ね」

 久遠の冷たい声に妄想の世界から引きずり戻される。

「まあサッカー部でもやっているみたいだし、今回ばかりは仕方が無い」

 そう、今は結果優先だ。とにかく最悪の結果を避けなければならないのだから。


 神崎のロビー活動は相当な効果を上げていた。

 週を明けの月曜日、クラスでは会長の呼びかけが話題となっていた。

 あの会長が雑務部の廃部に反対だって。マジかよ、意外だよな。会長が反対するなら俺も反対かな。

 凄い威力だ。廃部に賛成一択だったようなうちのクラスを反対派多数まで持っていくとは。全校一の人気者は伊達では無い。

 これで役員も考え方を変えるだろう。クラスと真逆の票は投じないはずである。

 軽い気持ちで部室に入ると、いつも通り久遠が机へと向かっていた。

「西ヶ谷ね」

「ああ」

 もう慣れ切ってしまったあいさつを返し、下からパイプ椅子を出して久遠の正面へと座る。

 緑色の薄いマットに消しゴムサイズの直方体。裏面は緑一色で統一されており、久遠のすぐ手前には白い棒が何本も転がっている。

 ついに麻雀ですか。もはや4人用なのですがこれ。

 だが久遠にとって麻雀は初めてのゲームらしく、手元のルールブックや役の表を見ながらうんうん頷いている。時々マット上の牌を並べ、表と照らし合わせつつ首を傾げている。役を覚えようとでもしているのだろうか。

 まあ麻雀のルールは複雑で面倒くさい。一日二日で覚えろという方が無理な話である。

「西ヶ谷は麻雀わかるの?」

「ああ。囲碁部でやっていたからな」

 知らないと言えばそれで済んだのだろうが、残念ながら知っているからな。

 囲碁部は万能である。あそこにいるとだいたいのボードゲームを知ることができる。麻雀も囲碁部の同級生とひたすら半荘戦を繰り返していたっけな。最後は顧問に見つかって牌ごと没収されたけど。

 囲碁部でやっていないのは何のゲームだろうか。トランプ系でメジャーなものは全制覇したし、オセロ、将棋、麻雀、人生ゲーム、モノポリー……

 ああ囲碁はやってないな。なんで囲碁だけやらなかったのだろう。

「少しルール覚えたの。対戦して」

 もはや強制なのかと思ったが、嫌だとも思わなかったので素直に付き合うことにした。

 2人麻雀の方法は地域によってまちまちであるが、今回は3人麻雀と同じく萬子の一部を抜くルールらしい。脇に置かれた箱の中へと牌を放り込んでいった。

 使う牌だけを選び終わったら牌山を積むのであるが、久遠の動作を見ていると笑えてきてしまう。

 両手をプルプルと震わせ、かなり真剣な目つきで下段になる牌の列を睨みつける。しかし厳しい視線にも動じない牌がバランスを崩して落っこちる度に、久遠はグッと堪えふたたび牌を並べ直すのだ。

「な、何よ?」

「いや別に……」

 必死に牌山を作ろうとしている久遠は面白かったが、同時に可愛くも感じた。普段見せることの無い堪えるような表情からは、俺の知らない久遠が見え隠れしているようにも思える。

 10分ほど経っただろうか。ガタガタながらもなんとか牌山を作り終えた久遠。

「親決めはするのか?」

「に、西ヶ谷からでいいわよ」

 ルールが覚えきれていないから俺の手本にする気か。間違ったことでは無いし、スタートくらい円滑な方がいいか。

 小指の先ほどしかないミニサイズのサイコロ2つをマット中心に向かって投げる。コロッと出た目を足して7。両サイドの牌山も俺が積んだので、とるのは久遠の山からだ。

「俺の取ったすぐ右から取る。……いやそれ逆だって。ああそうか、久遠から見ると左なのか」

「どっちなのよ、右って言ったり左って言ったり……」

 若干怒りながらも牌をとる久遠。

 俺は持ってきた配牌を見下ろした。何だよこれバラバラじゃねえか。不要牌の売り尽くしセールかよ。

 まあ初心者に負けるわけないと、とりあえず右端の牌を切った。

 ここからは久遠もルールを理解しているらしい。麻雀らしい持ってきては捨て、また持ってきては捨てという動作が続いた。

「久遠、神崎先輩の効果は凄いな」

 牌を捨てながら話し掛ける。麻雀をやる時に一番嫌なのは会話が無くなることなんだよね。麻雀がコミュニケーションツールだと思っているやつ、あれは嘘だ。

「油断はできないわよ。先輩だって、何でもできるってわけじゃないし」

 人望ある生徒会長とはいえ所詮は一人の生徒である。上申されてきた部長会からの提案そのものをなかったことにはできないだろうし、もっと言えば賛成派全員を諭すのも不可能だろう。

 それでも十分だと俺は思っている。本来なら孤立無援、多勢に無勢の戦いなのだ。敗戦必至どころか勝機すら見えてきた現状には驚くものがある。

「それに向こうも戦術を変えてくるかもしれないわ。3年生である以上、私たちよりも経験を積んでいるだろうし」

 なるほど、ネガティブキャンペーンからの転換か。

 ありうるかもしれない。神崎というワイルドカードの登場により、彼らの運動は効果を減じつつある。となれば方針を転換し別のアプローチを仕掛けてくるかもしれない。

 例えば……、俺の頭じゃこれといった例が浮かんでこないな。

「あと私たちは先輩が何をしているかわかっていないでしょう? 不利になったとしても応援できないし」

「不利になるようなことは無いと思うよ。まあ何をやっているのかわからないのは心配だけどさ」

 クラスで聞いた話によれば、各クラスの役員に反対を呼び掛けているらしい。聞いた話と言ってもクラスメート同士の会話を盗み聞きしただけなので、情報源として信頼できるものではないが。

「でも神崎先輩が助けられているのか……想像できないな」

 誰にでも優しい神崎先輩がいじめられていた時期があったのか。

 いじめは暗くて友達もいないようなやつが受けるものだと勝手に思っていた。だから常に友達がいるような神崎がいじめられる原因が思いつかない。

「私は覚えているわ。去年の夏休み明け、会長選挙の前くらいね」

 牌を静かに置き視線を上げる久遠。

「同級生の女子たちが、自陣営からの立候補者を勝たせようとして先輩をいじめたのよ。立候補を下げて大人しくしていなさいってね」

「うわ怖っ」

「それで、その時に先輩を助けたのがあなたのお兄さん。私も協力したのだけど、あまり力になれなかったのよ」

 久遠が力になれないって、うちの兄はどんな高スペックだったんだよ!? 家に帰ればいつも漫画読んで、ゲームして、アニメ見て寝るような兄だったのに……

「というか、女子が怖いというよりも男子が単純なだけでしょ」

呆れたような口調で言われてしまう。

「うるさいな、男子代表として抗議するぞ」

「だって今回だってそうじゃない。先輩の可愛さにホイホイついていっているだけでしょう?」

 割と否定できないのが痛い。

 神崎は全校彼女にしたい女子ランキングでぶっちぎりの1位だろう。見惚れる外見といい、可愛い仕草といい、やさしい性格といい完璧な人物だ。

 それに惹きこまれてしまうのは男子としての本能と言える。ほら、優秀な子孫を残すために動物とかも相手を選ぶじゃない? 男子だって同じなんです。

 そういえば……ふと疑問が浮かび上がる。

久遠は校内や理数科内でどんな印象を持たれているのだろうか。

 神崎ほどではないにしろ、久遠も顔立ちやスタイルは悪くない。むしろ神崎が飛びぬけていて久遠でも十分に可愛いと言えるレベルだ。

 腰まで伸びている長い髪。白く美しい手。大きめの目が特徴的ではあるが整った横顔。神崎とは違った意味で可愛い。可愛いというよりは美しいと言うべきか。

 今まで気にも留めなかったが、久遠に彼氏とかいないのかな。

 理数科のクラス事情はわからないが、全員が久遠のように可愛いとか美しいわけではないだろう。そう考えれば久遠が好みでアプローチを掛けてくる者がいてもおかしくはなさそうだ。

 いや、久遠に限ってそれはないな。

 入部時に感じたオーラというか、久遠は性格的に近寄りがたいものを持っている。いつも冷たい視線とか、ほとんど変えない表情とか。

 理数科の面々はそんな久遠を知っているのだろう。それなら久遠に彼氏がいないのも納得できる。

 と、ここまで久遠は彼氏なしで話を進めているが――まさかいないよね?

「……どうかしたの?」

 俺の視線が気になったのか、牌を持ち上げたまま声を掛けてくる久遠。

 彼氏いますか? なんて訊けるわけがないだろ。

 訊いた瞬間に顔面へと牌が飛んできそうな気がする。いない人が「いますか?」って訊かれるのは拷問に近い。俺も何度となく訊かれ、そして何度となく悲しい思いをしたことか。

 仮にいたら……いたら?

「いや、何でもない」

 決まりが悪くなりサッと視線を落とす。

 俺が気にすることじゃないな。誰かが久遠を好きになるのは自由だし、その逆もまた然りだ。


 数日後の放課後、会議室は静かな空気に包まれていた。

「では、投票結果を発表します」

 生徒会役員の声。さほど大きな声ではなかったが、静まり返った会議室内の隅々まで届かせるには十分だった。

 雑務部の廃部案、その可否を問う生徒会の投票日だ。緊張してジッとしていることのできない俺。対照的に、隣では久遠が視線一つ動かさずに座っている。

 賛成が多ければ雑務部は廃部になる。

 逆に反対が多ければ雑務部は存続だ。

 ホワイトボードに「賛成」「反対」の文字が書かれた。本来であれば「無効票」も書かれるところであるのだが、真剣さゆえに出ることはなかったのだろう。

「賛成、14票」

 ホワイトボードに書かれた賛成の隣に「14」の文字が加えられる。

 次だ。次の数字で決まる。この14票を1票でも超えられなければ、俺と久遠の居場所は失われてしまうのだ。

 役員が顔を上げる。発表の時だ。

「反対……」

 しつこいくらいの脈拍が心臓から聞こえる。高校受験でも体験しなかったほどの緊張感だ。いや高校受験は緊張する要因がなかったから、去年度の期末テストくらいか。でも期末テストは結果出る前に敗色濃厚だったし……

 ええい、俺はこんな時に何を考えているのだ。

「……17票」

 どよめきとため息の入り混じった声があちこちから聞こえる。

 どうでもいいことを考えていたせいか、勝ったのか負けたのかよくわからなかった。

「神崎さんにお礼を言うべきね」

 久遠の安心したような声にようやく勝ったことを悟った。

 相変わらず表情の変化が少ない久遠。こういう時くらい笑顔になってもいいのに。

「投票結果が以上になりましたので、部長会が提案した雑務部の廃部は否決させて頂きます」

「異議あり!」

 ざわめきを制すかのように声が響き渡った。同時に一人の男子生徒が椅子から立ち上がる。

 小久保だった。部長会の時と変わらず着崩した制服、まくり上げた袖からは日に焼けた肌が見えている。

「暴力行為があったのに廃部にしないんスか? こんなの絶対におかしいっスよ」

 まるで納得できないという様子だ。

 しかし結果は結果。生徒会という正式な場で執り行われたちゃんとした投票だ。しかも部長会と違い生徒会の役員がほとんどを占めているため、誰もが「何を言っているんだこいつ」みたいな表情をしている。

「この投票は部長会からの上申で行いましたが、何かご不満があるのですか?」

 役員の言葉に身振り手振りで必死の演説を始める小久保。

「え、だってこの結果は参考っスよね? あいつらが暴力を振るったのは事実なんスよ?」

 あいつらって、完全にバカにしているだろ。

 怒りが湧き上がってきたが、今回は勝者の立場を獲得している。俺が発言したところで墓穴を掘るだけだと、大人しく座っていた。

 代わりに久遠が立ち上がった。いつもと変わらない冷たい目で小久保に反論する。

「私たちは無差別に暴力を振るったりしません。制御された大きな力より、小さくても律されていない力の方が危険ではありませんか? あなたたちサッカー部のように」

 氷のように冷たく、氷柱のように鋭い言葉。

 会議室が水を打ったように静まりかえる。主導権がどうというレベルでは無い。もうそこは久遠の独壇場となり始めていた。

 自らの世界を作り出した久遠は、次の言葉を発していく。

「雑務部はサッカー部員の入江岡くんから、いじめを受けているとの報告を受けています。……事実ですよね?」

 視線を小久保へと向ける久遠。その雰囲気に怯んだのか、小久保はしばらく口をパクパクさせていた。

「そ、そんなことは……」

「では証人として、入江岡くんをお連れしてもよろしいでしょうか?」

 逃げ場を次々と塞いでいく。

 顔面を蒼白させる小久保。役員同士が囁き合っている声が聞こえた。

 サッカー部でいじめ? 自分で暴力反対って言っていたのに? 大会に出られなくなったら部長責任だよね。

 部活内でのいじめは1年以上の大会出場資格の停止だ。3年生にとっては引退試合を飾ることができなくなり、場合によっては2年生にも影響が出る。そうなれば小久保の名は南城高校サッカー部に黒歴史として刻みこまれるだろう。大学進学にも影響しないとは言い切れない。

「あ、あれは……」

「いじめではなく指導だとおっしゃるのですか?」

 先を読んだ久遠が追撃を加える。もはや追撃というよりトドメになっている気がするが問題は無い。自分から墓穴を掘っているのは向こうである。

 うう……と唸り始める小久保。いよいよ反論の材料が尽きたのだろう。目をキョロキョロと動かし久遠から視線を外そうと必死だ。

 勝負あったな。完全勝利だ。

 久遠はいったん目を閉じ、小久保へ向けていた鋭い視線を切る。

「まあ今回はいじめとして軽度ですので、見逃すことにいたします」

 会議室中から驚きの声が上がった。

 無理も無い。久遠はここまで一切の反撃を許さない独壇場を演じてきた。そして雑務部を潰そうとした張本人である小久保に対し、いかなる制裁でも与えることができる権利を得たのである。

 それを自ら放棄した久遠。周りからすれば何を考えているのかわからないだろう。

 だが今回の目的は「雑務部を廃部から守ること」と「入江岡へのいじめを止めること」である。

 実力を使わずして両方がクリアーできるのであれば、それに越したことは無いという久遠の意見だった。

 俺としてもまったく異論は無い。

 力が使えないのと、力を使わないのは全然違うのだ。

「サッカー部は改善に全力を挙げて下さい。……よろしいですか?」

 誰にも拒否できる力はなかった。拒否する人間は小久保くらいだろうけど。

 久遠が会議室中を見渡す。視線が向けられる度に頷く役員たち。多数決をとるまでもなく久遠の提案は可決されたようだった。

「それでは会議を閉会といたします。お疲れ様でした」

 役員の声によって静寂の会議は終わりを告げた。

 久遠が退出する役員たちへと丁寧に一礼する。顔を上げた久遠へと神崎が笑顔で近寄ってきた。

「いやーよかったね! 一時はどうなるかと思ったよー」

「先輩、ご協力の方ありがとうございます」

 気さくに話しかけてくる神崎に丁寧なお辞儀で返す久遠。

 今回は神崎のおかげで助かったようなものだ。俺も何か伝えようかと思ったのだが、照れくさくて声を掛けることすらできないでいた。

「今回の判断はとてもよかったと思うよ! これからも頑張ってね!」

「はい、日々怠らずに活動していきたいと思います」

 じゃあねーと手を振りながら会議室を後にしていく神崎。

 俺たちも退出しようかと、久遠の肩を押した。

 さてこれからどうするか。外は夕日でオレンジ色に染まっているが、時間としてはいつもより早い。家に帰るような用事があるわけでも無い。

 無意識に久遠の後ろを追い、そしていつの間にか雑務部の部室へと辿り着いた

 引き戸を閉めれば、そこは学校から隔離されたように静かな場所。とても今日までの戦いで守る必要があったのかと感じてしまうような場所だ。

 入部してから2ヶ月経っていないというのに。ここは居心地が良すぎるのだ。

「とりあえず、よかったな」

 何気無い言葉を久遠へと送った。

「ピンチは脱したわね。全校生徒のほとんどが存在を知るような結果になってしまったけど」

 雑務部はあまり知られてはいけない存在だ。少数の知る人のみが知るからこそ、その効果を発揮する。

 全校に知れ渡ってしまった以上、今回みたいなことが二度と起こらないとは限らないだろう。わずかな火種を大きくし、いつの日か雑務部は暴力的だと訴える者が出てくるかもしれない。

「それでもなくなるよりはマシだろ」

 そう。この場所を守ることができたのだ。広くもなく明るくもなく、もっと言えば大多数の生徒にとって関わりの無いこの場所。

 しかし俺、いや俺たちにとってはかけがえの無いこの場所なのだ。

 それを失わずに済んだのは、大きな収穫だと思う。

「それに会長のおかげで印象も悪くなかったし」

「そうね」

 パイプ椅子を机の下から引き出し、ゆっくりと腰を下ろす久遠。

「今回は、満足しておくわ」

 それでいい。いつも最良の結果が望めるわけでは無い。手を尽くした結末に甘んじるのも悪くはないのだ。

 目標を両方とも達成できた。これ以上、何を望むのであろうか。

 部室の中へと吹奏楽部の演奏が聞こえ始めていた。


 あくる日の放課後、俺と久遠はサッカー部の練習を見ていた。

 白いスパイクを履いた入江岡が飛んでくるサッカーボールを追いかけている。しかしその目は今までのような悲しいものではない。仲間たちとサッカーを楽しむ少年のような目をしていた。

「ちゃんと参加させてもらっているみたいだな」

「一定期間の監視は必要だけどね。今のところは順調かしら」

 久遠は変わらず無表情だ。こういう時くらい喜んでもいい気がする。

 そういえば久遠が笑ったのを一度として見たことが無い。廃部の反対が決定した時も無表情だったし、この前の朝霧事件(と俺が勝手に呼んでいる)だってお礼には無表情で返していた。

 たまに怒ったような顔つきになるから、表情変化が無いわけではないと思うが……。喜怒哀楽の「怒」以外が一つも揃っていないような気がする。

 無愛想と言えばそうだろうが、まあそんなところも……

「久遠先輩に西ヶ谷先輩ですね? 今回はありがとうございました」

 いつの間にいたのか、入江岡が目の前でお辞儀をしてきた。

 サッカー部の方を見るとグラウンド隅に座り込んで休憩中のようだ。入江岡も右手にスポーツドリンクのペットボトルを持っている。

「もっと早く言ってくれればよかったのに」

「言うべきかどうか迷っていたんです。先輩たちが僕を鍛えるためにやってくれているのかなって……」

 それは大きな間違いだ。

 逆らえない先輩という立場を使い、自分の勝手な理論を押し付けているに他ならない。会社に入ってもよく言われるやつ、「俺はお前のためを思って叱っているのだからな」っていうのと同じだ。

 万分の一くらいで本音もあるのだろうが、ほとんどは自分のストレスを発散する手段としているに過ぎない。もっと言えばその先輩もまた「お前のためを思って……」などと上司から説教を受けているのだ。

 命令とともにストレスまで下りてくる日本社会、どうにかならないものか。

『休憩終了だ。集合!』

「それでは練習に行ってきます。本当にありがとうございました」

 入江岡はもう一度深くお辞儀をすると、すでに集まっている部員たちへと混じっていった。

 これでよかったのだろうかと考えてしまう。

 いじめをしても制裁されることは無いだろうと思われ、再発を許してしまうかもしれない。サッカー部に限らずだ。

 ただ一方では、こういう方法もありだと考えもできる。

 毎回いじめをした者に制裁を喰らわせることは、はたして正しいのだろうか? それこそ小久保が叫んでいた「無差別な暴力」になってしまう気がする。

 教職員がすべてを管理しきれていないというのは事実だ。だからこそ、俺たち自身が力の使い方を考えなければならない。

 サッカー部のネガティブキャンペーンが勢いづいたのも、雑務部は暴走の危険性があるという先入観が働いたのが一因であろう。雑務部という部活をよく知らず、権力だけは持っていると言われればそう思われてしまうのも当然だ。

 今回はそれを覆すことのできた気がする。雑務部は安全だと伝えることができたのだ。

 力を使わすにいじめを抑えていく方法を、俺たちは模索していくべきなのかもしれない。


 いつもなら自転車で走っていく道を、今日の俺は徒歩で静岡駅へと向かっていた。

 入学してから使い続けてきた愛用の自転車は家に置き去りだ。月日の経過からくる老朽化には耐え切れなかったのだろう。まあただのパンクだけど。

 おかげで今日は人生初のバス登校だった。立っているだけで駅に着くという便利さも人生初の体験だ。これからは自転車を毎日パンクさせておいて、卒業までバス通学を貫き通すことにしようか。

 右手で通学用の鞄を持っているため、左手が遊んでいる感覚に違和感を覚える。

 学校から帰る道を歩いたのは中学校以来だろうか。友達がいないわけでは無かったが、帰る方向が違ったため常に一人での下校だった。

しかし今日は隣がいる。――久遠だ。

自然な動きで歩調を合わせ、俺の隣を並んで歩く久遠。

不思議だ。こうしていると周りの時間が止まっているような気がする。

この時間が終わりを告げることに悲しみを感じた。なぜ感じたのか自分でもわからない。このまま真っ直ぐに歩き、駅前のホテルを曲がれば静岡駅だ。後はお互いに自分の家に向かって帰るだけである。

当然のことなのに、どこかそれを嫌がっている自分がいる。

 小学校の頃、父方の実家へと帰省し住んでいる従妹と遊んでいたことがあった。毎年夏になると2泊3日ぐらいで会いに行ったのだが、別れ際に感じた異常なまでの悲しみを覚えている。

 今考えれば、来年には会えるのだから大したことではない。だが当時は二度と会えないと思えるくらいの不安感が俺を襲ったものだ。帰宅する車の窓ガラスへと顔をくっつけ、いつまでもいつまでも手を振り続けたあの時――

 それと同じ感覚が、小規模ではあるが俺の心に湧き上がってきているのだ。

 心臓は心拍数を上げ、横にいる久遠のことが変に気になる。

もう何がなんだかわからない。一体自分が何を欲し、どうしたいのかがまったく理解できないのだ。

妙な感覚と戦っている内に、俺たちは駅前へと着いた。

タイルが敷き詰められたようなデザインの歩道を歩き、路線バスのバス停へと向かう。ロータリーでは10台以上のバスがひしめき合い、到着したバスへ我先にと乗り込むサラリーマンたちが見えた。

「じゃあ私はこっちだから」

 声を掛けられハッとする。

 少し離れた場所で久遠が小さく手を振っていた。

「あ、ああ……」

 あいまいな返事とともに右手を出す俺。

 それを確認すると、久遠は正面のバス停へと歩いて行った。

 結局、あの感覚は何だったのだろうか。

 駅に着いても心の底でくすぶっているこの感覚。嫌な記憶を忘れられずに苦労しているかのようだ。

 見えない敵と戦うのはやめようと、駅からの帰宅に使っている路線のバス停へと並んだ。

 目の前に大きく見えるのは駅前にあるホテルの建物。右を見れば駅ビルがそびえたっており、屋上には煌びやかな電飾が施されていた。

 そのまま目線を落とせば静岡駅の北口だ。電車通勤の人々が家路を急ごうと……。

「ん?」

 入り口前のバス停に久遠を発見した。脳への血流が増加し、思考力が急激に冴え始める。

 あそこのバス停は今いるバス停と似たような路線のはずだ。

 駅前の交差点の信号が青に変わり、3台ほどのバスがロータリーへと入ってくる。それを見た瞬間、俺の足は久遠のいるバス停へと駆け出していた。

 久遠の家はどこにあるのだ?

 そんな疑問が頭に浮かんできていた。いつもなら面倒くさいの一言で片づけてしまうような動機だったが、今日の俺を動かすには十分な理由だったらしい。

 停車したバスが乗車用の扉を開け、人々が車内へと入っていく。

 人の流れに乗り、久遠は前の席へと座ったらしい。後ろなら見つかることはまず無いだろうと、尾行する刑事のような考えを働かせながら後方の席へと身を収めた。

『左前よし、右よし、車内よし。発車します』

 左右に揺れながらバスが前へと進んでいく。普段の路線とは違う車内アナウンスや座席配置に違和感を覚えつつも、俺は前方に座っている久遠の背中を目で追っていた。

 駅前のロータリーを左へ曲がり、すぐ後の交差点を右へ。静岡駅から北の方へと帰宅途中の車に溶け込むようにしてバスは走っていく。11階建てマンションのある交差点までは、いつも乗っているバスと走行ルートが変わらないはずだ。

 指定されたルートを通りつつ、停止したバス停で乗客を乗降させていくバス。マンションのある交差点を越え、横に賎機山を見上げるようになっても久遠は下りるような動きを見せない。

 どこまで行くのだろうか? 鯨ヶ池あたりまで行かれるとまずいな。あの辺は最終便が早くて帰れなくなるかも……

 そんなことを考えているうちにバスは走っていく。

 と、久遠がボタンへと右手を伸ばした。ポーンというチャイムが車内に鳴り響く。

『次、止まります』

 運転手のアナウンス。

 交差点を越えたところでブレーキが踏まれバスが停車する。前の扉が開くと同時に、久遠は席から立ち上がりICカードで清算を済ませる。

 久遠が降りきったタイミングで俺も席を立った。

 冷えた夜の風を受けながら、和菓子店の前に設置されたバス停へと下りた。

「ここって……」

 隣町の東側。俺の家とはほとんど距離が離れていなかった。事実、目の前の交差点を左折して5分もあるけば自宅に着く。

久遠はこんな近所に住んでいたのか?

 横断歩道を渡っていく久遠を目で追っていく。このあたりなら道に迷うことも無いし、信号の間隔も大して長くない。久遠の歩くスピードも速くないから、入った道の場所さえ覚えていれば十分に追いつけるだろう。

 久遠の姿を一度切り、横断歩道を駆け足で渡る。

 えーっと、こっちだったな。右は住宅街や隣町の公民館、じゃあ左って何があったけ?

 電柱から顔を出すと、目の前には大小の建物が3つ並んでいた。一番右の建物は小さめで木造らしく、真ん中の建物は白色で中くらいの大きさ、そしてもっとも左の建物は奥行があり階数も多かった。

 ここは静清ホーム。確か身寄りの無い子供を保護したり、親の帰宅が遅い子供を預かったりしている場所だ。

 久遠の姿が見えなくなってしまったが、来るとしたらここぐらいだ。妹か弟でもいるのか?

「ストーカー紛いのことなんかして、どうしたのよ?」

 聞き覚えのある声が後ろからした。少し冷や汗を垂らしながら振り返る。

「ば、ばれていた?」

「駅からね。やるのならもっと上手くやりなさいよ」

 電柱に寄り掛かっていた久遠は、腕を組みながらこちらへと歩み寄ってくる。

 怒っているわけではなさそうだ。いや油断はできない。久遠の場合感情に乏しいから、心の中では烈火のごとく怒っているかもしれないのだ。

「で、何で私を追ってきたの?」

 睨みつけられるような視線を受け、思わず周りをキョロキョロしてしまう。

「いや、家はどこなのかなと思って……」

 一応、正直な理由だ。駅で感じた不思議な感覚は自分でも説明することができない。

 そういえば、今こうして久遠と話している時には消えているようだ。まあ話しているというよりは尋問されているに近いけど。

 嘘はついていないと認められたらしく、久遠は視線を俺から建物へと移した。

「ここが私の住んでいる家よ。住ませてもらっていると言った方が近いけど」

「静清ホームに? ここって高校生が住めるものなのか?」

 小学生の頃に静清ホームで暮らしていたクラスメートがいたが、今は母方の実家に移り住んだと聞いている。中学校くらいまでに別の棲家を探さなければならないと思っていたのだが、そうではないのか。

 すると久遠が寂しそうな顔をした。

「私には親がいないの。だから移り住むあても無いのよ」

 初めて聞く声音だった。諦めが混じっていたというか、すべてを悟ったような声。

 喜怒哀楽の「哀」といったところか。これまで見せなかった表情が見えたことに新鮮さを感じる。

 しかし久遠には親がいなかったのか。

「離婚とかか?」

「昔のことは覚えてないの。私にもよくわからないわ」

 覚えていない、か。忘れるくらいなら、気持ちの良い思い出ではないのだろう。

 他人の思い出を掘り返すのは好きではないし、やっていいことだとも思わない。それが本人にとって嫌な記憶となればなおさらだ。

「西ヶ谷にはご両親がいるのよね?」

「まあな」

 パチンコに嵌ったクソ親父と小言しか言ってこない母親がな。まあそう言いつつも、どこか甘えている部分があるのかもしれない。

「羨ましいわ。家族団らんって言うもの、私は体験したことが無いもの」

 久遠が言うと重く聞こえる。団らんというほど話したりするわけでもないが、そういうのも含めて久遠は感じたことが無いのだろう。家族が、親がいるというものを。

 幸せだとは言えないが、恵まれている自分が腹立たしく感じた。

 俺は寂しい思いをしている久遠に何もしてやれないのか。自分だけが恵まれていればそれでいいのか。目の前にいる女の子一人すら助けてやれないのか。そんな厳しい言葉が生まれては自分の心へと突き刺さっていく。

 すぐ目の前にいる久遠は女の子だった。冷たい視線で相手を怯ませ、飛び膝蹴りで運動部の男子ですら倒す人物にはとても見えない。

 華奢な身体。抱きしめれば崩れてしまいそうに脆く感じる。

「それじゃあ私は帰るから」

 久遠が胸の前で小さく手を振った。

 応じて小さく手を振り返す。小さい頃に従妹と別れる時のような寂しさを感じた。

 久遠の姿が見えなくなると、踵を返して交差点へと向かう。

 空は雲が晴れ始め、いくつかの星が瞬いている。車道では乗用車が次々と走り去っていき、角にある電気屋はショーウィンドウの照明をつけ始めていた。

 いつもと変わらぬ風景。でも俺の心はどこか違った。

 久遠の寂しげな顔が脳裏に焼き付いている。いつでも強気、あるいは無表情な久遠が見せた女の子の顔。

 可愛そう。そう表現すべきなのか。

 説明ができない。何なのだろう、このモヤモヤとした気持ちは。伝えることもできなければ晴らす方法もわからない。

 今の俺は何がしたいのだろうか。何を欲しているのだろうか。疑問ばかりが浮かんでは消えていく。

 もういい、これ以上は考えるのをやめよう。

 感情を無理矢理沈めると、気持ちを置き去りにするかのように横断歩道を走り抜けた。

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