表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

1.入れたのは久遠

 午後の教室。解放された窓からは春の柔らかい風が吹き込んできている。

 春の風が心地良い。日本の気候の特徴は四季があることだと小学校くらいで教わったが、それは大きな間違いだと思う。赤道付近が常夏であるように、日本くらいの緯度なら常春であるべきだ。

 そんな春の風は俺を睡眠タイムへと誘う。確かスペインには午睡をとるシエスタという文化があった。やはり人間として活動している以上眠くなることは……

「痛てっ!?」

後頭部に予想できなかった痛みを感じガバッと顔を上げた。

 ワンテンポおいてピントが定まり、目の前にあるのは教師の顔だということを理解した。中年のおっさんは大して怖くも無い目で俺をにらみつけている。

 俺のささやかな睡眠タイムを邪魔するなよ。家では勉強やらゲームで忙しいから寝ているヒマなど無いのだ。午睡くらい取らなければ、俺の身体がガラガラと音を立てて崩れてしまうだろう。

「西ヶ谷、あれを答えてみろ」

 顎でホワイトボードをしゃくるおっさん……じゃなくて教師。

 はっきりしない意識を覚醒させるのと、視線のピントをホワイトボードに書かれた数式に合わせるだけで5秒以上の時間を費やした。

 えっと……エス……アイ……エヌ……0に横線引っ張ったやつ?

 周りからの早くしろムードが痛いほど刺さってくる。正直、さっき頭に喰らった教科書よりも痛い。

 落ち着け、こういう時はホワイトボードのどこかに答えがあるはずなのだ。あるいは有効なヒントが隠れていることが多い。それを探すのだ! エス! アイ! エヌ! 8の描き方がくだけたやつ!

 そんな自己流で作り上げた理論が通用するはずもなく、俺がギブアップを申し出るのと教師がため息を漏らしホワイトボードへ向かったのは同時だった。

 呆れつつ俺を座らせた先生は、赤のマーカーで表の空欄を順番に埋めていく。0、1/2、√2/2……

 √ってなんだあれ? 割り算にしては分母が見当たらないぞ? 

 記憶の沼を底まで探せばようやく出てきそうな記号を見つめている間に、先生は表の空欄を埋めきってしまった。

 それを見ながら、ノートへ答えを書き写すクラスメートたち。なんで早くしろムード出していたんだよ、お前らもわからないじゃないか。……わからないから早くしろムードを出していたのか。

 俺もノートを取り出した。「数学Ⅰ」「2年A組」「西ヶにしがや 一樹いつき」と太いボールペンで書かれている表紙。真っ白な見開きページへと表を書きこむ。

 数分後、幼稚園児が描いたバスの絵に象形文字をラッピングしたような表が俺のノートへとできあがっていた。うん上出来。古代エジプト人なら俺の努力をわかってくれる。

 このノート、1年生の最初から使っているくせにほとんど埋まっていない。最初のページには「第1章 方程式と不等式」なんてしっかり書きこんであるくせに、少しめくれば円周率が延々と書いてある。ちなみに今は下1ケタまでしか覚えていない。

 ノートを書き終えた俺が視線を上げると、ちょうど様子をうかがっていたらしい先生と目が合った。

「西ヶ谷、ワークの70ページから4ページ分やっておきなさい。明後日までに見せるように」

「うえっ?」

「うえっ。じゃない」

「あっはい」

 俺への懲罰が下されたと同時に、6時限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。

 授業が終われば掃除の時間。教室隅にあるロッカーからほうきを取り出し、別に掃除なんかしなくても綺麗じゃないかと思いつつ机の間を掃いていく。

 この学校――南城静岡高校は静岡駅から少々離れた場所にある。周囲はほとんど住宅街、たまにスーパー。玩具本社が隣にあるせいで工場の一部と間違えられる某工業高校を考えれば、実に分かりやすい所在の私立高校となっている。

 校内は高校というよりも大学に近い風景だ。教室に閉塞感を持たせないように、という配慮で壁は全面透明のガラスになっている。そんな配慮はいりません、むしろ刑務所と間違えるくらいの密室にしてください。

 机は長く2人で一組、椅子はアームみたいな一本脚もの。この椅子は立つと自動的に仕舞ってくれる便利機能付きだ。うつ伏せになっても格納されてしまうので、寝にくいことこの上ない。

 校舎中央は広い吹き抜けとなっている。3階グラウンド側にはウッドデッキのテラス。うん、やっぱり大学と言ったほうがしっくりくるな。

 ふと見たホワイトボードは文字が消されて真っ白な状態に戻っており、すぐ横ではクラスの女子がマーカーの片付けを終えていた。

 今日の掃除はこれで終わりかな。

 教室の掃除ほど適当なものは無い。できるところだけやっておけばオッケーなんてのはまだいい方で、掃除そのものを放棄して教室からの脱出を実行する者もいる。別に給料が出るわけでも無いし、明日になれば次の掃除当番が綺麗にしてくれるだろうという意識が働くからだろう。

 誰よりも早くほうきを掃除ロッカーへと片付け、誰よりも早く教室を退散する。

 いつもなら帰宅ルートにつくのであるが、今日はちょっと違った。行かねばならない場所があるからだ。

 ポケットに二つ折りどころか八つ裂きになりかかっているプリントを取り出す。間違えて洗濯したのではないかと思うくらいボロボロのそれには、校内の見取り図と部活動ごとの部室の場所が掲載されていた。

 部活動の勧誘プリント。本来は一年生が入部する部活を、あるいは帰宅部入部を決めるために各部室をスムーズに回れるよう生徒会が作成したものだ。

 なぜ2年生の俺が持っているかと言えば帰宅部だからである。「いつまでも家でゴロゴロせんと身体動かせや? ああ!?」という暗黙のお達しというわけだ。ただ強制ではないので、これを見て入部する2年生がいるかと聞かれれば少々疑問である。

 とにかく、これを持って放課後の校内を歩き回るというのは「何らかの部活動に参加する」という意思表示なのだ。

 剣道部か……竹刀を振り回し鮮やかな身のこなしで一本を取ってくるその姿は実にカッコいい。

 囲碁部か……深い心理戦を展開し碁盤のすべてを自分の色に変えたときの気持ちは清々しいだろうな。

 ちょっと待て、それオセロだし。

 剣道部は汗まみれになるのが嫌だ。というより、本気の運動部とかグダグダな放課後を過ごしたい俺には相反するものを感じる。授業で疲れて運動するとか正気の沙汰じゃねえよ。

 この学校の囲碁部には1年生の頃に入っていた。しかし緩い文化部の空気を望んでいた俺にとって全国大会常連の囲碁部は別世界であり、囲碁のルールを覚えるよりも先に退部の方法を覚え辞めてしまったのだ。

 そんなわけで、3ヶ月ほど前から部活には入っていない。

 ――そう。

 ――3ヶ月前だ。

「兄貴……」

 こうやって不意に思い出してしまうことがよくある。

 3ヶ月前、俺の兄は死んだ。体育館からの投身自殺だった。

 几帳面だった兄らしく、私物用のロッカーも体育館用シューズの靴箱も自宅にある学習机の中身もオークションで買ったパソコンのデータも――すべて片付けて。

 なんでだよ。

 なんで死んじまったんだよ。

 そりゃあ「お兄ちゃんを見習いなさい」とかよく言われ、自慢する兄に殺意を抱くようなこともあった。反抗期真っ最中の頃なんて、ナイフ片手に兄の部屋へと飛び込んだことすらあった。おもちゃだけど。

 兄弟愛を感じたことなんてなかったし、俺の尊敬する人物ベスト10に兄をランクインさせたことなんてなかった。ベスト100でもなかった気がする。

 でも死ぬこと無いだろ。いくら俺が兄を嫌いだからと言っても、心の底から憎しみが湧きだすほどの敵というわけじゃないのだから……

 原因はいじめだった。

 クラスメートの一部からいじめを受け、堪えきれなくなったらしい。詳しいことは知らないが頬を腫らして帰ってくるのを見たことがある。よほどエスカレートしていたのだろう。

 兄の葬式に来ていた、兄のクラスメートたち。涙を浮かべている者や白い棺をじっと見つめている者がほとんどの中、一部の人物が見せていたニヤニヤ顔を俺は忘れない。

 あいつらだ。あいつらが兄を殺したのだ。

 しかし時期が時期だったこともあり、簡単な調査後に学校は兄のクラスでも卒業式を執り行った。兄を殺した人物たちは罪を負うことなく卒業していったのだ。

 無理だと思ったことは諦める性格ゆえ、探し出して償わせてやろうとは思わなかった。だが、俺に宛てられた遺言だけが気になっている。


『雑務部へ入ってほしい――』


 校舎の4階隅っこ。位置関係と面積を考えれば、倉庫としか思えないようなこの場所が「雑務部」の部室らしい。本当かよと思ったが、勧誘プリントにも「雑務部」と非常に小さなフォントで載っている。ただし説明書きはまったく無い。

 他の部活であれば「①科学部! 日々様々な実験を実行中! 天体観測もやっているよ♪」などと部員を勧誘するべく精一杯の甘い言葉が並べられているのだ。

ところがこの「雑務部」、勧誘の言葉はおろか説明の番号すら振られていない。まるでよそ者は入るなと告げているようにも感じられる。

 4階に上がり廊下の端へ。ガラス張りのせいで教室の中まで見渡せるこの学校に、内部が見えないその部屋は異様とも言える雰囲気を醸し出していた。プレートには何も書かれておらず、中から声が聞こえることも無い。

 一体この中には何があるのだろうか。

 常識的に考えれば、薄暗い蛍光灯の下に金属製の棚で整頓されたいくつものダンボール箱だろう。あるいは体育祭や文化祭で使われるような作り物、素体は毎年使い回し外側だけが新しくされるような感じのやつだ。

 待てよ? 兄がわざわざ遺言で残しているということは――兄が残した「なにか」が?

 引き戸の取っ手に左手を掛け、ゆっくりと引いてみる。

 サーッという音とともに、引き戸はゆっくりと開き遮断していた室内の情報を解放していく。

 部屋の中は広い印象を受けた。

蛍光灯は1本しか無いが十分な明るさを確保している。両脇にある古そうなねずみ色の戸棚は、遠慮気味に部屋の一部を占めていた。奥の窓は開かれていて、中央には木目調の長机。そしてパイプ椅子が2つ――

「あっ……」

 女子生徒が座っていた。

 スラッとしたきれいなラインの体格は座っていてもわかる。長い黒髪はパイプ椅子の背もたれが見えないほど伸びており、整った顔立ちは横からでも美しいと言い切れた。

ネイルも何もしていない手は、ときおり思い出したように動いている。目線は無機質にその手先を見つめていた――

 しばらく唖然とする。あまりにも予想と違ったからだ。

 女子生徒に声を掛けようとした寸前、彼女の視線が俺に向いた。初めて人の存在を知ったのか、手を止め俺の方をじっと見つめている。

「……なにか?」

 冷たい視線というか、抑揚の無い声というか、無機質に問いかけられた。西ヶ谷 一樹という人間に対してではなく、その辺に転がっている石にでも訊いているような雰囲気だ。

 中に人、それも彼女だけとは考えもしなかったので返答に困った。自分の名前を名乗るか? それとも君は誰ですかとでも訊く?

 彼女に見つめられた、というよりも睨みつけられたまま気まずい沈黙が下りた。

「こ、ここが雑務部の部室だと聞いたんですけど……」

 緊張と初対面のせいか敬語になってしまう。校内用スリッパを走る青色の帯から彼女が同級生だというのは理解できたが、それでもタメ口で話すような度胸はなかった。

 どこを向いていいかわからずキョロキョロと視線を動かす俺とは対照的に、彼女は真っ直ぐ俺の方を睨みつけている。動物でも異性なら威嚇はしないぞ。

 しばらくして、彼女は興味を失ったかのように視線を戻した。再び机に向き直り、中断していた作業を再開する。

 どうしていいかわからない俺はおもむろに机の上を覗いてみた。

 トランプ。2枚だけ重なっているものや10枚以上重なっているもの、表のもの裏のもの、束となっているものや重なっているものまで様々だ。どれも不気味なほど整然と並べられている。

 女子だからカード占いでもやっているのか? いや、この配置はどこかで見覚えがあるような――

 ポーカーはこんな枚数を必要としなかったはず。7並べにしては順番がおかしい。マインスイーパー? いやそれトランプゲームですら無いだろ……

 クラブの9の後にハートの8。その次はスペードの7が続いている。右上にはきっちりと重ねられたカード。ダイヤの2の上に重なられたダイヤの3――

 思い出した、ソリティアだ。

 正確にはクロンダイクと呼ぶらしい。誰もがパソコン授業のときヒマを持て余してやりこんでいたことだろう。え? そんなの俺だけだって?

 まあ、そのソリティアを実際のトランプでやっているのは初めて見たけど。

 やっていることはソリティアだとわかったが、ここがどういう部屋なのかを理解したわけでは無い。ソリティアひとつで部活を見極められるほど俺のIQは高くないのだ。

「私へのご依頼かしら?」

 山札から新しいカードを引きながら、彼女は小さく訊いてきた。

 ご依頼?

 ああそうか。俺が何か雑務をお願いしてきたように思っているわけか。

 よくよく見れば雑務(?)に使うような道具がひっそりと置かれている。太いシャベルや使いこまれた台車。高枝ばさみまであるが使うのだろうか?

 そのほとんどは女子生徒が一人で使うようなものでは無い。まあ部員が彼女だけとは限らないし、書類整理や力仕事で担当が決まっていたりするのだろう。

 でも俺は雑務の依頼に来たわけでは無い。

「ここに入部しようかと思って……」

 照れくさそうに頭をかきながらそう告げておいた。

 これが他の部活であれば「本当!? こっち来てこっち! 部活紹介するから!」と腕を引っ張られつつ部室内を連れ回されるところだ。実際に1年生のとき入った囲碁部でも、体験入部の際に囲碁のルールを細かく教えられた。全然覚えちゃいないけど。

 照れくさそうにしたのは、そういう「歓迎されるのが当然」みたいなものがあったからかもしれない。

 ところが、俺の目の前にいる彼女の反応は想像もしていないものだった。

「……あなたはここがどういう場所か知らないの?」

 カードを取る手を休め、それをひざの上で組んだ彼女。目を閉じながら発した台詞がそれだった。

 どういう場所? 雑務部の部室じゃないの? 別の部活動なのだと明確に正さないあたり場所は間違っていないと思うが――

 どうも意味が違うみたいだ。部屋が部室がという意味ではなく、ここは自ら好き好んで入ってくるような部活では無い、と言いたいらしい。

確かに勧誘プリントには部活紹介のメッセージも無かったし、番号も振られていなかった。部室だってこんな隅の狭いスペースだし、ここで何をしているのかも定かでは無い。

そもそも「雑務部」という部活があったことすら、兄の遺言が無ければ気づかなかったことだ。

 名前から推測するに、ここは教師の手伝いなどをこなす部活動では無いのだろうか?

「あなたをここに入れる必要は無いわ」

 しばらくの沈黙の後、彼女が感情を捨てきった声で言った。場の空気が冷えていくのを感じとる。

 言い方にムッときた。ここがどんな活動をしているかも調べずに「入れてください」と頼んできたのは俺が悪かった。だが物事には断るにも言い方ってものがあるだろう。

 俺を入部させたくないのであれば、なぜ入れる必要が無いのかを説明してほしい。「即戦力にならないから」とか「部員は足りているから」とか具体的な理由を知りたいのだ。

 ふたたび目を開き、机の上のカードを手に取る彼女。どうやら俺が望んでいる入部拒否の理由を説明するつもりは無いらしい。

「なぜ?」

 ストレートに訊いてみる。素直な返事が返ってくるようには思えなかった。しかしこのまま引き下がるもの嫌だったし、これといった言葉が見つから無かったからだ。

 彼女の白い手によってスペードの7の上にダイヤの6が重ねられた。

「私だけで十分だからよ」

 理由になっていない。ソリティアを一人でやる部活ならそうだと言ってくれればいい。部員が多いのならば人数過多だと説明してくれれば済む話なのだ。

 それをわざわざ謎解きのように短い言葉で濁してくる。

「帰って」

 少し強くなったような感じのする口調で、その一言が飛んできた。

「あなたがここに入る必要性は無いわ」

 何も教えてもらえない。何も言わせてもらえない。

 彼女は冷めた目でトランプと向き合っていた。山札から引かれたクラブの5が、奥に置いてあるクラブの4へと静かに重なる。

 俺は身体の向きを変え、彼女と窓を背にした。

 おそらく彼女には何を言っても無駄なのだろう。ここではどんな活動をしているのか、入部できない理由は何なのか、部長や顧問は誰なのか、他に部員はいるのか……

 訊いたところで返事は期待できないだろう。いかなることを訊いてみても、彼女は机の上に配置されたトランプを並べ替えつつ「帰って」とのみ言い続けるのだろう。会って1時間も経っていないが、それくらいのことは読み取れる。

 入ってきた時とは逆に、右手を引き戸の取っ手へと掛ける。簡単に開くとわかっているのに、感情的になりかけているせいか力任せに引いてしまった。

「……ふぅ」

 強く引き戸を閉じ、ため息をつく。

 なんでこんな場所に来たのだろう。兄に関する「なにか」があるものだと一瞬でも期待してしまった自分が恥ずかしい。部屋へ入る前に戻りたい。

 結局、何だったのか。

 兄の遺言通りにできなかった無念な気持ちが残っていた。話はすでについていて「君が西ヶ谷くん? よろしくね」とすんなり入れるのでは無かったのかよ。誰が見るわけでも無いパソコンのファイル整理するくらいなら、俺の入部をあっせんしておいてくれ。

 身体中に脱力感を感じつつ、俺は階段から駐輪場を目指す。

 1階に下り外へと通じるガラスの扉を開けた。さわやかな風が頬をなで、外に出たのだという実感を湧かせてくれる。グラウンドからは運動部の声、後ろの校舎からは吹奏楽部の演奏がそれぞれ重なることなく耳に入ってきた。

 とぼとぼと歩いて向かう駐輪場。そこには誰もいなかった。帰宅部はすでに帰った後だろうし、部活に入っている生徒はまだ活動中だ。俺だけがここにいるのは珍しいことじゃ無い。

 明日からどうしようか。帰宅部だと進学に不利だとか言われているし、囲碁部に舞い戻るのも気まずい。中学の時にやっていた剣道部という選択肢はあって無いようなもの。運動部は中学校までで十分だ。

 そうなると希望があるのは――

『……あなたはここがどういう場所か知らないの?』

 この一言がどうも引っ掛かる。「雑務部」とはどういう部活なのか、何をしているのか非常に気になるのだ。

 この学校に来て1年、詳しい話は聞いたことが無い。去年あった部活紹介の時にも無かったし文化祭でも出店スペースは無かった記憶がある。

 しかしあの部活は存在している。兄が遺言で言っているあたり、少なくとも去年からは。

 「雑務部」とは一体……?

 やっぱり明日も行くしか無いのか。まだ夕日も沈んでいないのに気が重くなっていた。


 不幸にも次の日に放課後はやってきてしまった。全国どこでも授業後の時間を「放課後」というだろうから、24時間営業でもしない限り放課後はやってくるだろう。

 自分のクラスのある3階から階段を使って4階へ。西側の一番隅にある倉庫、もとい「雑務部」部室。担任に訊いてみたのだが、やはり間違いでは無いらしい。

 1年生の教室を通り過ぎながら俺は考える。

 どうやって入ろう? 思いっきり開けるのか、慎重に開けるのか。入ったらどうする? 強気に出るのか、低く構えるのか。

 本来であれば昨日の放課後で済んだ話なのだ。ここに入部します。はいどうぞ。たったそれだけのやりとりで終わるはずだった。

 ところが部活シートにある2年生は空欄のまま。顧問にも部長にも会えなかったし、部活シートを出す時間もなかった。時間というよりタイミングが無かったのである。

 と、そんなことを考えている内に部室まで来てしまった。

 時間が経てば放課後はやってくる。歩き続ければ目的の部屋はやってくる。自明の理だ。しかしどうも今日の俺はおかしい。そんな当然のことに対してもいちいち不安になっている。

 右側が手前になっている「雑務部」部室の引き戸。白い引き戸には傷一つ無い。ちょうど頭の高さにある曇りガラスも、手を伸ばした場所にあるステンレス製の取っ手も、壁との隙間を埋めている緩衝用ゴムも、若干の汚れこそあれ傷はまったく無い。まるで一度として開けられていないかのような状態の良さだ。

 引き戸の取っ手へ左手を掛け、一呼吸おいてゆっくりと開ける。

 誰もいないで欲しいという感情と、昨日の彼女に会いたいという感情が心中で混ざり合い渦を作っている。どちらが本当の感情なのか自分でもわからない。

 部屋の中には木目調の長机。そして2つのパイプ椅子。

「……」

 ねずみ色の戸棚の間、そこが自分の棲家だとでも言うように彼女は今日も座っていた。

 昨日と同じように、最初は俺のことなど気づいていないかのように自分の作業へと集中している。左手の手札からカードを1枚選びだし、それを机上のカードの左右へと並べていく――

 俺は昨日と同じように、トランプの広げられている机へと近寄っていった。

 彼女に一番近い場所にはハートの7。右隣へとハートの6、5、4……と並んでいく。下の段には同じような並べ方でクラブのカード。こちらは左側へKまでのカードが並んでいた。

 しかし、どれも気持ち悪いほど整然としているな。机にラインでも引いてあるのか。

 どうやら彼女は一人でトランプをするのが趣味らしい。いや趣味と決まったわけでは無いが、少なくともここではトランプをして放課後を過ごしているのだろう。

 今日のゲームは7並べか。ん? それ一人でやるゲームじゃ無いだろう……

 ハートの列をAまで並べ終わったとき、彼女はゆっくりと顔を上げた。

「帰って」

 冷たい声。氷柱を投げつけてきたかのような刺さる声だ。警告しているとかそういうレベルではなく、あなたの顔も見たくないというメッセージが嫌というほど伝わってくる。

 だが帰るわけにはいかない。何か収穫を得るまでは。

「……西ヶ谷 雄太ゆうた

 彼女の手が止まる。ちょうどスペードの4を置こうとしているところだった。

 俺の兄の名前。南城静岡高校の「元」3年C組、出席番号21番。成績は中の上くらいで運動神経も優秀。好きな食べ物ははんぺんのフライで嫌いなものはスズメバチ。なお静岡で「はんぺん」といえば黒はんぺんを指す。

 俺が「雑務部」を知るきっかけとなり入部を決意した人物だ。昨年度1月10日、昼休憩の時間に西館屋上から転落――死亡。原因は不明。

 彼女の手はしばらく止まったままだった。視線も机の上から動かない。伸ばした背筋もすらりとした両脚も固まっている。

 でも何かが違う。俺の入部を拒否していた昨日の彼女とは違い、兄の名前が出てきたことに驚きを隠せない様子だ。

 吹奏楽部の演奏が聞こえてきた。インターバルが終わり練習を再開したところなのだろう。音楽の教養の無い俺にとっては沈黙から逃れられるだけで満足だ。

 ふぅ……と彼女がため息をこぼした。疲れたとでもいう風に目を閉じ左手に持っていた手札を机の上に置く。広がった手札の端にはスペードの3が見えた。

「……あなたがなぜ、その名前を知っているのかしら」

「俺の兄の名前だ」

 落とされていた彼女の視線が一瞬で俺を捉える。血縁関係にあるとは、彼女にとって予想外のことだったのだろう。

 目を見開いている彼女を俺は昨日のお返しだと睨み返した。なんと大人げ無い。いや大人じゃ無いから大丈夫だ。高校生だからセーフな。

 兄の名前を出せばどうにかなると思ったが、ここまで効果があるとは思わなかった。予想以上でこちらが調子に乗ってしまいそうだ。だが昨日の体験が頭をよぎる。効果の過信は禁物だ。

「俺の兄に――西ヶ谷 雄太に、この雑務部へ入って欲しいと遺言を受けた」

 慎重に言葉を選び出し彼女へと突きつける。

 俺は彼女を睨みつけ、彼女は俺を見つけ続けていた。昨日とは立場が逆転し俺は肉食獣のように鋭い視線を向ける。

 どれだけの時間、視線を合わせていたのだろうか。吹奏楽部の演奏が終わった。

 もう耐えきれないとばかりに彼女は視線を落とした。合わせて俺も視線を外す。窓の外には静岡駅南の風景が広がり、小さく見える車がせわしなく道路を走っていく。

 広げられたトランプをまとめ始める彼女。青色主体の網掛け模様が背のトランプは、数秒と経たないうちに一つの束になる。角のわずかなズレを指先で整えると、通学用鞄の横ポケットへとトランプを放り込んだ。

 そのまま彼女はねずみ色の戸棚を開け、いくつかあるファイルの中から分厚い緑色のものを取り出し机の上で広げて見せる。タイトルに「指導要領別表」と入れられた古いファイルには、パンチで穴を開けられたプリント類が大量に閉じられていた。

「このページを読みなさい」

 中ほどのページを開かれた。ファイルを上下ひっくり返し、自分の向きと合わせてから読み始める。


 前年度に県立高校で発生した虐めによる生徒自殺事件の影響力は強大なものであり、本校生徒や保護者、教職員にも精神的および肉体的な負担を感じさせているものである。

 先月卒業予定生徒を対象に行った「学級内における虐め行為」の調査では、対象生徒の9割以上が「虐めを受けたことがある」もしくは「虐めを見たことがある」あるいは「虐めをしたことがある」と回答した。これは本校教職員の予想をはるかに上回る数字であり、教職員側と現場である本校生徒において重大な意識のずれを表すと共に、虐めというあってはならない行為が教職員の目の届かない場所で蔓延している事実でもある。

 従って虐めの把握と撲滅、アフターケアが今後の本校運営において喫緊の課題であるが、虐めそのものへの直接的なアプローチを教職員が行うのは困難を極める。理由は生徒固有のコミュニティの確立であり、成長上必須であるため必要以上の介入をすることは事実上不可能である。

 以上より教職員による虐めへの直接対応は諦めざるを得ない。しかし現状を傍観することは虐めの蔓延を容認してしまうことになり、教育現場における教職員の信頼を完全に失墜させることとなる。

 そこで新たな虐めへの対応策として「生徒主導の高度な介入」を提案するものである。同じコミュニティ内にいる生徒自身の自浄能力に期待し、その効果を最大限発揮させるべく教職員が全力をもってバックアップする方法である。

 具体的には虐めの発見情報の伝達、加害生徒への対処、アフターケアなどこれまで教職員が行ってきたものを生徒自身に行わせることにより、生徒同士の緻密な情報交換やコミュニティ内での加害者対処、生徒目線による精神的治癒を行いコミュニティという壁を障害とすることなく生徒自身にあった対応方法で効果向上を図るものである。

 なお教職員はこれら生徒の後援にあたるものであり虐めへの対処をないがしろにしてはならない。


 長々と書いてあるが、要するに「いじめ問題は生徒自身に任せた方が対処しやすい」ということを言いたいのだろう。同意はできるが、どこかしら教師たちの責任転嫁が見え隠れしているような気もした。

 プリントの発行は4年前。校長も俺の知らない名前だ。え? 今の校長の名前? 山田太郎だっけ?

 4年前の1年前、すなわち5年前と言えばアレだ。ナイトオブジャッジっていうカードゲームが流行った年。最初はマジックポイント10を超えるだけでも激レア扱いだったのに、終わり頃になると平然と30なんか出ちゃったりして急に冷めていったよな。

 まあ俺のカードゲーム談義なんかはさておき、5年前にあったのは「静岡県立東部高校生徒飛び降り自殺事件」だ。

 とある男子生徒が入学早々からいじめを受け続け、2年生になってからは暴力が絡み始めるほどエスカレート。3年生進級直前に堪えきれなくなり体育館の屋上から飛び降り自殺をしたっていう話だ。

 東部高の他の生徒や教師も男子生徒がいじめられているのを知っていた。ところが他の生徒はいじめ加害者からの反撃が怖くて言い出せないわ、教師は加害者を指導したところ体罰扱いで更迭させられそうになるわで柔軟な対処が出来なかったという。

 この事件がきっかけとなり、政府がいじめ問題へ重い腰を上げたのである。結果として「虐めおよびそのほう助に関する法律」が半年という異例のスピードで施行され、いじめへの対応や加害者に対する明確な罰則規定が決定されたのである。

 でもよく俺覚えていたな。これ小学6年生のときの話題だぜ?

「だいたいのことは理解したかしら」

 プリントを読みふけり、4年前の1年前のことを思い出していた俺は身体が震えるくらい過剰反応してしまった。そうだっけ、ここは「雑務部」の部室だった。

 小さく頷くと、彼女はパイプ椅子の向きを正し俺に正面を向けるような格好で座り直した。

「5年前の事件をきっかけに、この学校でも生徒によるいじめ対策が考えられるようになったわ。生徒会アンケートとかレクリエーションとかね。でも……」

「効果はなかったってことか」

 頷く彼女。文脈から察しただけだったが、そんな程度で効果なんかあるはずも無い。

 アンケートなんて授業の空いた時間とかに時間調整で入れるようなものだし、レクリエーションに至っては公開処刑とすら言える。

 中学生の頃、いきなり球技大会が開催されたのはこのせいだったのか。なぜか次の年には消えて無くなっていたけど。顔面サッカーとか二度とやりたく無い。

「そこで、もっと強硬的な手段が取られることになったわ。教育委員会としても背に腹はかえられない、といった感じね」

「強硬手段? いじめ見かけたら懸賞金でも出すのか?」

 パシリクラスなら1万円。カツアゲ見たなら10万円。集団リンチで100万円! 100万円あったら何しちゃう? カラオケ貸し切り? 東京まで旅行? いやいやゲーム買うに決まっているだろ。

 素晴らしいシステムに見えるけど問題点ばかりだな。被害者装って金貰うやつが出るかもしれないし、どこぞの海賊団みたいに「俺の懸賞金は100万円!」とか目指し始める頭のおかしいやつがいないとも限らないのだ。

「そんな予算はどこにも無いわ。生徒一人を助けようとして学校が潰れるレベルよ」

 おっしゃる通りです。

 彼女は座ったまま閉じられているプリントをめくった。新しい教科書の導入に関する報告、火曜日の時間割変更について、長期休暇におけるアルバイト許可に対する所見……

 10ページほど進んだところで彼女の手が止まった。さっきよりも新しいプリント、校長の名前も今のものみたいだ。……山田太郎じゃなかったのか。

「『生徒主導による虐め加害者への対応機関の設置』……?」

 赤いインクで「持出厳禁」と書かれていた。


 本校では生徒主導による虐め対策が度々実行されているが、現時点で有効といえる策は考案されていないのが事実である。

 原因は強制力であると考察する。いかに生徒主導としコミュニティ内における活動範囲を確保しても、虐め加害者に影響を及ぼすことのできる強制力が必要なのだ。現在の生徒には虐め加害者に法律を遵守させられるような強制力は無いのである。

 そこで一部の生徒の行動に一定以上の自由度を持たせ、暴走を防ぐべくこれを教職員が監視する体制を作り上げるべきと提案する。

 行動に自由度を得た生徒は同コミュニティ内における非常識な仲間の行動を強制力によって取締り、虐めに対する明確な抑止力として働くのみならず、虐め発生の際生徒が持つ迅速かつ柔軟な対応によって法律の効力が最大限に発揮できるであろう。


 読んで一言。「誰が書いたんだこんなもの」。あ、口に出していたわけじゃ無いからな。

 さきほどの文章とは違い言っていることがよくわからない。ただ「強制力」とか「暴走」とか入っているあたり、どうもまともな文章ではないみたいだ。

「いじめは綺麗な方法で解決できない。そう言っているわ」

 俺の心を読んだかのように彼女は説明した。

「先生だと抑止力を働かせることはできるけど、目の届かないところが存在する」

「逆に生徒だと広範囲をカバーできる反面、抑止力が不足しているってことか」

 いじめに根本的解決方法は存在しない。あると言えばあるのだが「仲直りする」というその手段は失敗するときの方が圧倒的に多い。というか成功率が低すぎて検討すらされない。

 となれば対症療法しかない。いじめをしたらそれ相応の仕打ちがあるのだと警告し、実際にいじめを行った者には躊躇なく制裁を喰らわせる。

 制裁とはいじめ加害者に刑罰を科す「虐めおよびそのほう助に関する法律」だ。つまりいじめたら刑事罰が待っているぞと脅しを掛け、実行した直後に刑務所へ叩き込んでやればよい。

 しかし現実はそう簡単にいかないのである。

 教師がいじめを発見したならば、そのまま無理にでも警察へ突き出すことができる。ところが担任といえども生徒を四六時中監視しているわけにもいかず、いじめそのものを見落とすケースが多い。

 生徒であれば多くの目があるためいじめの発見は容易である。だが生徒は友人関係などから報告をしない場合もあるし、発見生徒自身もいじめへ巻き込まれる可能性が存在するのだ。

 もちろん生徒と教師が連携して対応していく方法が無きにしも非ずだが、効果のほどは今日のいじめ事情を鑑みればお察しの通りである。

 結局何が言いたいのか。いじめに対する特効薬は現時点で存在しませんということだ。

「いじめの発見と抑止力を両立させるための方法。それが生徒による強制執行という手段よ」

 一切の感情を無視した声で彼女が言う。

 もう一つファイルが出てきた。赤く薄いファイルだが妙な感じがする。直感だがこれはいじめの対策方法だとかアンケートの調査結果だとか、そんな生易しいものでは無い。悪寒すらしてくるのだ。

 そんな俺を気にもせず彼女はファイルを開いた。初めのリングファイルとは違い、こちらはクリアポケットに収納するタイプだ。中身はほとんど埋まっていない。

 取り出してみたプリント、タイトルは誓約書と書かれている。なぜか書いてある文字はミミズのようにグニャグニャしていた。

「以後このようなことはしないと誓います。……これは何だ?」

 下手な署名の横に赤い指印が付けられていた。朱肉かと思ったのだが、すぐ下に同じ色で水玉模様がひとつ。朱肉って垂れるものだっけ?

 ペラペラと他の誓約書を見てみると、微妙に色が違う。

「学校の朱肉もいいかげんなものだな」

「その指印のこと? それは血判よ」

 ふうん。だから色が微妙に違うのね。

 …………え?

「け、血判?」

「シャチハタやサインだと、あれは適当に押したとか言われてノーカン扱いされるでしょう? 指紋は手術でもしない限り絶対的な証拠になるから」

 さらりと言われても困ります。血判なんて初めて見たぞ。

 つまり水玉模様は血が滴り落ちた痕か。ファイルが視界に入ったときに感じた悪寒の原因はこれだったと……

 誓約書の内容はどれも「○○さんをいじめたことを認めます」「○○には今後一切関わらないようにします」というものだった。

「だいたいわかってきたでしょう? この部活が何をする部活なのか」

 彼女の声が冷たく聞こえた。本人がさっきよりもトーンを落としているわけでは無い。これを見た俺の心が人間への恐怖心を湧き出しているからだろう。

 この部活が何をする部活なのか。ああわかってきたよ。学年順位で中の下に位置し、数学1ケタ常連の俺でもわかったよ。こんなものを見せられれば、なんとなくでもわかってくるさ。

 さきほどのプリント「一部の生徒に一定以上の自由度を持たせる」というのはこういうことだったのか。人体を傷つけることも厭わない、範囲内であればありとあらゆる手段を駆使していじめを潰していく体制――

 振り向き、ロッカー下側を開ける彼女。

 中にはいくつかの入れ物。ダンボール箱みたいに大きいものもあれば、手のひらに収まるほど小さいものもある。一見、特別なものは無いようにも見えるが……

彼女はその中からペンケースサイズの小さな箱を取り出した。

 青いふたに白い入れ物。本来別のものが入っていた箱を転用したようだ。ラベルが貼られているわけでもなく何が入っているのかわからない。

「抑止力というのは圧倒的なアドバンテージがあってこそ機能するものよ」

 青いふたが開き姿を現したのは――ナイフだった。

 刃渡り9センチほどの小さなナイフ。明るくもない蛍光灯の光を跳ね返し、不気味なくらいに光っている。

「流石にここまで使うことは稀だけどね」

 ふたを閉じ箱は元の場所へと仕舞われた。

 プリントにあった「強制力」という文字。学校書類である以上オブラートに包んで書かれているのだろう。あの強制力とは即ち「武力」か。

 この部活の活動内容がすべてわかった。

 生徒という監視役を使いいじめが起きていないかを探る。いじめが起きたら過剰なまでの武力を行使し相手の行動を抑え込む。再発を防止するために誓約書を書かせ2度目は無いぞと釘を刺しておく――

過剰な武力を使う点では核の傘のようだ。いや、力が偏っている分こちらのほうがえげつないか。

 この部活というか、この学校が行っている常識を超えたいじめ対策を理解したところで一つの疑問が思い浮かんだ。

「なぜ兄は……自殺しちまったんだ……」

 武力まで行使できるほどの体制を敷き、学校がそれをバックアップしている。

にもかかわらず兄は死んだ――

 なぜ? 武力ですら対抗できなかったから? 誰にも気づいてもらえなかったから?

 発見能力と強制力――この内どちらかが機能しなければ、過剰なほどの対策方法にも破たんが生じる。条件が揃ってこそ初めて効力を発揮するのだ。

 兄の場合、何かが噛み合わなかったのか……

「西ヶ谷 雄太――あなたのお兄さんはこの部活の部長だった」

 戸棚から立ち上がり彼女はそう言った。

 兄はここの部長だったのか? いじめ対策の最前線ともいえるこの部活の?

 余計に疑問を感じざるをえない。いじめ対策のスペシャリストとも言うべき存在の人間が、いじめられっ子最大の敗北である自殺へと追い込まれてしまったのだから。

「一生懸命な先輩だったわ。何件も来るいじめの相談をすべて引き受けて、全部解決したのだから」

 彼女は窓際に歩み寄り外を見つめていた。吹奏楽部の演奏は再び始まり、今度は別の曲が聞こえてくる。

 春の柔らかい風が頬をなでていた。

「それゆえに何人もの人から逆恨みされた。でも先輩がそれを表に出すことは無かった」

「他人を優先した結果、自分自身が追い込まれていることに気づかなかったのか」

 彼女は頷いた。

 兄らしかったと思う。家では学校のことをほとんど話さない。父や母に心配されても「大丈夫だから」の一言で済ませていた。何でも自分で背負いこみ、決して他人を頼らなかった兄。

 くるりと彼女が振り向く。笑っても泣いてもなく、感情を捨てたような目でこちらを見てきた。

「あなたも入ればそういうリスクを孕むことになるわ。でもそれに打ち勝てるような人間には見えない」

 ようやく納得のいく説明を受けた気がする。

彼女はいじめに耐える兄の姿を毎日のように見てきたのだろう。同じ道を辿るかも知れない俺を部活に入れ、堪えきれなくなった挙句に自殺してしまうようなことを二度と体験したくないと伝えているのだ。

 だが俺には兄から受け取った遺言がある。このまま引き下がるわけにはいかない。

 兄が勝てなかったものに勝ちたい。いじめっ子という兄が敗北した相手に俺は勝利したい。

 他の部活ではそんなことできないだろう。でもここならできる。武器もあるし仲間もいる。何より学校というバックがあるのだ。これ以上の環境は無い。

「兄がそうでも俺がそうなるとは限らない」

「おめでたい発想ね。そういう人間が餌食になるのよ」

 はぁ……と彼女はため息をついた。

「とにかく今日はこれで帰って。自分の身に危険が降り注ぐような部活に入ることが本当に正しいのか、頭を冷やして考え直しなさい」

 彼女はファイルを元に戻しながらそう言った。

 喰い下がろうかとも思ったが、俺は口論するためにここへ来たわけでは無い。明日また会える目途も立ったことだしと大人しく退散することにした。

 狭苦しい部屋から解放され大きく伸びをする。狭い部屋だけに空気の入れ替えが上手くいかないのか廊下へ出ると涼しく感じた。

 駐輪場へ向かいながら、わかったこととやるべきことを頭の中で整理する。

 あの「雑務部」の正体は生徒によるいじめ対策本部なのだ。そのための武器や体制が整備され学校という大きなバックもついている。

 それゆえに所属生徒自らがいじめの対象となってしまうことも起こり得るのだ。自分の問題を部活の方へ持ち出すわけにもいかず、自分だけで背負い込み自殺を選ばざるを得ないような状況にも陥ることがある。

 そうならないためにはどうしたらいいのか。いじめに耐えうるような精神力を持つか、いじめられないような動きを取るか……

 自分もいじめられるというリスク。これは非常にやっかいだ。入らなくてもよい沼の中へと入りこみ他人を助けだしてくるのだから、次は自分が出られなくなるかもしれない。ミイラ取りがミイラになる。――ちょっと違うなこれ。

 彼女の「入るな」は親切心で言っているつもりなのだろうな。

 とにかく俺は入ると決めた。どんなリスクがあろうとも、どんな危険が待ち受けていようとも関係ない。

 問題はそれを彼女にどう伝えるか、だ――


 人間の感覚なんてアテにならないものだ。考えごとをしている時は時間が経つのが早いなぁと思うくせに、頭の中空っぽだと一分一秒すら長く感じる。

 今日の俺がまさしくそれだ。登校してからずっと考えごとをしていたらすでに放課後だ。どうせなら今日みたいな日が続いてくれよ。いつもの数学とか1秒の定義を変更したんじゃないかってくらい時間の経ち方が遅い。

 俺の頭の中が日常的に空っぽだとカミングアウトしたところで、今日も西館4階へと向かう。

 考えていたのはもちろん「雑務部」の件だ。今向かっている場所だってその部室である。彼女が親切心で入るなと言っている以上そこからゴリ押しで入るのは不可能だろうしやりたくも無い。

 でも俺は入りたい。兄の遺言だというのもあるが、それ以上に兄が負けた相手に勝ちたいのだ。実際に戦っているわけでも無いし、兄を自殺に追いこんだ者たちはすでに卒業してしまっているけど。

 兄が負けた状況、と言うべきだろうか。いじめることを何とも思わず人を一人殺してもなお笑っているようなやつに怒りの鉄槌を下してやりたい。

 ものすごく自己中心的な考え方だけど。

 そう考えながら4階の部室へと歩いていく。もはや帰巣本能みたいに無意識なものすら感じ始めてきた。

「あれ?」

 視線が4階の廊下を捉えたとき、部室から出てくる人影が見えた。

 腰まで伸びている長い黒髪と遠目でもわかるスタイルの良さは間違いなく彼女だった。あまり使うことの無い東側の階段を目指している。一体どこへ行くのだろう。

 ストーカーまがいの行動をするのもどうかと考えたのだが、彼女の歩みの速さに惹きつけられるかのごとく俺はその後を追い始めていた。

 いつもとは違う踏み応えの階段を下り、校舎の2階へ。まだ数人の3年生が残っている教室を横目に見つつ廊下を歩いていく。

反対側に到達すると彼女は目の前の扉を押し開けた。

 扉が閉まりきらないくらいのタイミングで俺も続いていく。向こうには渡り廊下、その先は東館だ。昔あった旧館を取り壊して新設された校舎であり、図書館や音楽室が入っている。本を読まない俺には無縁の場所だな。

 その東館入ってすぐのところにある階段を上っていく彼女。てっきり吹奏楽部に用事でもあるのかと思ったが、音楽室のある4階をきれいにスルーしていった。

最上階って何があったっけ? と不思議に思いつつ彼女の背中を追っていく。

5階には何もなかった。透明なガラスの窓が壁の代わりとなり、オレンジ色の夕日が部屋の中へと遮られることなく差し込んでいる。床や天井からちょろりと出ている電気コードを見ると改装工事中の店舗内みたいだ。

ここで彼女の歩みが止まる。

腰を屈め足先の感覚を確かめるかのようにゆっくりと移動しだす彼女。俺も身を低くし彼女の数メートル後ろにつく。一体何を警戒しているんだ? 余計にこの先が気になる。

 次の瞬間、突然彼女が振り返った。

「えっ?」

「あっ……」

 お互い視線が合う。

 俺がバカだった。5階の廊下は階段から直線状に伸びているのだ。彼女の行方を追うのにわざわざ廊下に出る必要は無いのである。大人しく階段からチラチラ覗いていればよかった。

 進むことも退くこともできず、廊下の上で固まる俺。何かアクションを起こしてくれよ! 今の俺の体勢はけっこう辛いんだからさ! 太ももに血液が溜まる気がして、立ち上がるときに足の反応が鈍くなるのは気持ち悪いことこの上無い。

 俺の心を読んだのか、それともストーカーを排除しようと考えたのか。彼女は腰を屈めたままこちらへと近づいてきた。

「何のつもり?」

「いやっあの……部室に誰もいないので校舎を歩き回っていたら、不思議とここに足が出向いてしまいまして……」

 ありえないだろ。出向いた先で目的の人に会うとか何のラブストーリーだよ。だいいち無縁なはずの場所に足が向くはずも無い。

 はぁ、とため息をついた彼女。前を確認し誰もいないことを確かめると、腰を屈めたままササッと俺の方へと近づいてくる。

「見なかったことにしてあげるから、今すぐ帰りなさい」

「せめてここに来た目的を教えてくれよ」

「帰って」

 その言葉、ここ最近ずっと聞いている気がするな。

 でも俺に帰る気は無い。健全な青年であればその先に何があるのか知りたいという好奇心を持っているものなのだ。例えそれが危険なものであっても、我々にはこの目で確かめる使命があるのさ。

 うん、どうでもいいわ。知りたいと思っても増水した川へと入ってはいけません。というか健全な青年であれば増水した川に入る危険性くらい知っているだろ。

 帰る気の無い俺の感情を察したのか、彼女はふたたびため息をついた。奥さん、幸せが逃げてますよ。

「この先にあるトイレでね、1年生がカツアゲされているのよ」

 指で奥を指す彼女。明るい青で男性用のマークと薄めの赤で女性用を示すプレートが並んでいるのが見えた。

今の時代にカツアゲなんてするやつがいるのかよ。近所のヤンキーでもやらないと思うぜ。まあ近所のヤンキーを見たこと無いけど。

「相手も1年生だから大したことは無いのだけどね」

「じゃあ早く助けてやれよ。いじめ撲滅隊の隊員なんだろ?」

 察しなさいよという風に首を振られた。

「男性用のトイレに篭られているのよ。まさか私の性別を知らないわけじゃ無いでしょうね?」

「行動的には男にしか見えないけどな。……嘘だよ冗談だよ本気にするなって」

 謝るからその殺気を仕舞ってくれよ。ニュースで「南城高校で殺人事件、原因は性別の誤認」なんてテロップ出されたら浮かばれないじゃないか。

 やっぱりトイレに関する性差別は考えるべきだろう。女子が男性用入ったところで何も言われないのに男子が女性用に入ると非難轟々。そして都合のいい時だけは「私女子だから男性用には入れないんだ」。不平等にもほどがある。

 勘違いするなよ? 俺は女子トイレに入りたいなんて願望を抱いたことは無いからな。

 性差別うんぬんの話はさておき、常識的に異性のトイレに入るのは気が引けるな。個室なんか同性でも入れないから、トイレというのはなかなか便利な場所である。

 彼女がトイレに近づき、それを追って俺も前進する。徐々にではあるが中からの声が聞こえるようになってきた。

『早く出せよ。ありませんとか言い訳するんじゃねーよ』

『なにお前? 調子乗っちゃってる? いや乗ってるし』

 こうして壁際でやりとりを聞いているだけで怒りがこみ上げてくる。脳の奥から変な液体が血液へ流れ込み身体を震わせようとしている。目の前にある新品の壁を思いっきり蹴飛ばしてやりたいくらいだ。

 一人じゃ何もできないくせに、複数人になった瞬間から自分のエゴを全面に出して目標を攻撃しはじめるのだ。それは利害の一致する仲間を得たことによる安心感から可能になる行動であり、自らの意見に自信を持つからでもある。

 もっと言えば大義名分が揃うからでもあるのだ。聞こえてくる2人の声もいじめとして通報されれば「こいつがやりました」「違います、こいつが先に仕掛けたんです」と真っ先に自分の身を守りにいくだろう。本当の意味で「友達」とか「仲間」のような概念は存在しないのである。

 普段は「人の命は尊いものです」と言いふらしているのに、いざ状況が整えば「正義の名の下に」とか抜かして戦争をおっぱじめる世界各国みたいなものだ。

 横にいる彼女が少し震えた。動きたくても動けないことを歯がゆく思っているのか、それとも突入以外の解決策を探っているのか――

 耳を立て始めて2、3分くらい経っただろうか。だんだんと音が混じるようになってきた。ドン! というトイレの扉を蹴り上げる音。パンッ! という張り手のような音だ。

『なんなのお前? 自分が何したかわかってねえの?』

『金が無いなら盗ってくるんだよ! いちいち言わせんなクズ!』

 なんだこの感覚は?

 トイレから聞こえてくるカツアゲ現場の声と音を聞きつつ、俺は自分に対する違和感を覚え始めていた。

足から伝わってくる床の感覚、左手の指が触れている壁の感覚、聞こえてくる声、心臓の鼓動――ボヤーッと薄らいで自分が感じ取っている感覚では無いみたいだ。

 他人のものとなったような心臓が鼓動を早め、そして強めていく。血圧が上昇し血流が早くなる。神経が過敏になる。静けさに抵抗を感じていく――

「なに? どうしたの?」

 足が伸びて立ち上がる。目線が一気に高くなる。驚いた彼女が止める間もなく、俺という人間は声のする男子トイレへと向かっていく。

 グイッと制服の裾を掴まれた。が驚くほど自然にその手を振り払う。右足が前に出る、次は左足、そしてまた右足――

 トイレの中は十分な空間が確保されており、白を基調とした清潔感ある壁、バリアフリーの条件を満たした小便器などいかにも新設という感じがした。

 いきなり入ってきた俺の姿を見て「なんだこいつ」と言いたそうな表情を見せる1年生たち。一人はヒョロリとやせ型で背が高く、もう一人は相撲取りのように太っていたが1年生と聞いていたせいか鋭い視線も怖くは感じない。

 室内の様子を把握した俺という人間はつかつかと歩いていく。そのまま近くにいた相撲取り小僧を、

「がはっ!?」

 殴り飛ばした。

 まさに殴り飛ばしたという表現が適切だっただろう。右手の拳を握力テストができるくらい強く握ってから振りかぶり、勢いのついた拳を相手の顔面向かって投げつける。

 パカーンと快音を響かせた拳は相撲取り小僧の顔面中央へとクリーンヒットした。鼻血が弧を描きながら飛んでいきすぐ後ろの扉へ赤い水玉模様を作り出す。

時間にして1秒かかっていないだろう。だが俺からすれば数秒くらいに感じるほどのコマ送り再生だった。

 鈍い音を立て個室の扉へと倒れこむ相撲取り小僧。隣のヒョロリ小僧は何が起こったのかを理解できず、口を開けて唖然としていた。

 目の前で血が噴出したというのに、俺という人間は止まることができないらしい。今度はそのヒョロリ小僧に照準を定めると左足を軸にして右足を後方へとスイング。そのままひざを鋭角に曲げ、

「ぐふう……」

 ヒョロリ小僧の腹へと右足を捻じ込んだ。

 眼球がそのまま落ちるんじゃないかと思うくらい目を見開き、口からよだれを垂らしながら壁へと押し付けられるヒョロリ小僧。声にもならない声を出して倒れこんだ。

 右足を元に戻し直立の姿勢を取る俺という人間。

 左に視線が移ると腰を抜かしている弱そうな男子生徒が目に入った。目が合うと男子生徒はビクッと反応しこれでもかと見開いた目でこちらの様子をうかがっている。

 男子生徒の目が必死に訴えてきた。や、やめて……。僕は何もしていないよ! そこで倒れている不良みたいなやつらに脅かされていたんだ!

 これがいつもの俺だったら「わかってるさ。早く逃げろって」とにこやかな笑顔でそう告げるところだ。まさに正義の味方。俺ってカッコイイ!

 ところが男子生徒の目の前にいるのは「俺という人間」だ。残念ながら俺では無い。ここまでの状況を見るあたり目の前で助けを求める男子生徒まで殴り飛ばす、あるいは蹴り飛ばしてしまいそうだ。

「こっち来て!」

 そのとき、タイミングを見計らっていたのか彼女が俊敏な動きでトイレへと入ってきた。腕を掴まれ応答するヒマもなく男子生徒は彼女の手で廊下へと連れ出されていく。

「あなたも来る!」

 ついでに俺という人間も腕を掴まれた。裾を引っ張ったときに止めきれなかったのを考慮したためなのか、女子とは思えない力で引っ張り出されていった。

この間わずか3秒。3秒しか掛からないなら始めからやればいいのに――


 東館から渡り廊下を経て西館に入り、いつも使っている階段を4階まで上る。西館を貫通するような長い廊下を端まで歩いていけば「雑務部」の部室に辿り着く。

 そして、俺と彼女と救出された男子生徒。3人が部室に落ち着くという現在の状況に至るわけだ。

「ありがとうございました!」

「また何かあったら言うのよ」

 男子生徒は何度もペコペコとお辞儀をし、丁寧に引き戸を閉め去っていった。残ったのは俺と彼女だけ。

 男子生徒がお礼を言っている間、彼女はまったく笑わなかった。眉一つ動かさずに男子生徒のお礼を聞き流し、最後に一言添えただけだ。

 しかしお礼が気に入らないというわけでは無いらしい。笑顔を見せなかったが怒った顔も見せたわけでもなく不服そうな表情もしていなかった。仮面でも被っているのかと疑えるくらい感情の変化が無い。

 パイプ椅子を木目調の机から引き出し丁寧な動作で腰を下ろす。入り口から向かって右、机中央のパイプ椅子。やはりそこは彼女の指定席らしい。

「……無茶をするわね」

 窓の外を見ながら彼女が言った。小さくない吹奏楽部の演奏が聞こえてくる中、驚くほど鮮明に聞こえた。

「男子トイレだから入れないとは言ったけど、あなたに入れとは言って無いわ」

「俺だってそう解釈したわけじゃねーよ。ただ……」

 あの時の俺は俺じゃなかった。「俺という人間」だったのだ。

 拳を振り上げ殴り飛ばしても、ひざを使って蹴り上げても、その感覚はほとんど伝わってこなかった。殴った拳の痛み、蹴り上げたひざの感触を今頃になってようやく脳が感じ取り始めている。

 これを頭に血が上るって呼ぶのだな。スイッチが入った瞬間、自分が自分じゃなくなる瞬間。あとは俺という人間がしでかすことを傍観しているしかない。止めようとしても俺はそこにいないのだから止めようが無いのである。

 かなり昔だが似たようなことがあった気がするな。いつだか覚えちゃいないけど。

「まあ、根性と積極性だけは評価してあげるわ。」

 自分の肉体を乗っ取られて評価を受けた感じなのでイマイチ実感は湧かなかったのだが、少なくとも余計なことをしたと責められるよりはだいぶ良かった。

 正義の味方も悪いものじゃないなと満足げになっていると、トントンと机を叩く音がした。

「出しなさい。書いてあげるから」

 へっ? 出すって何を?

「いじめを止めるとはいえ、生徒を殴ったり蹴ったら立派な犯罪よ。正義の味方を演じた後だから実感湧かないでしょうけど」

 冷静に考えれば当たり前である。しかも今回はほぼ全力で殴っただろう。鼻血が飛んでいくシーンに今更ながら恐怖感を感じた。

 明日の朝刊は「私立高校で暴行事件発生」だろうか。弁護士はどうしよう。優秀な弁護士を付ければ無罪を勝ち取れそうだが、代わりに家の家財まで無くなりそうだ。頭金なしの30年ローンで勘弁してください。

「雑務部員ならいじめへの対応ということで見逃してくれるわ。こういうやりかたは好きじゃないけど」

「雑務部員なら? てことは……」

 彼女が左手を俺へと突き出す。

「私は雑務部長の久遠くおん あおい。――西ヶ谷 一樹の入部を許可します」

 笑顔はなかった。これから始まる逆恨みのリスクに、俺がどれだけ対抗していけるのか彼女が一番心配なのであろう。

 だが俺は負けない。兄が身をもって教えてくれたいじめの恐怖を、対抗していくことの難しさを、俺は絶対に忘れない。

 様々な感情を持ちながらも俺はようやく雑務部への入部が実現した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ