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2 はらへり少年とやさしきマスター

 少年は、腹を空かせていた。


「おい、ぼけっとしてんじゃねぇ!」


 気の荒い沖仲仕が、ふらふらと歩く少年を突き飛ばす。空腹でおぼつかない足取りでは踏みとどまることもままならず、少年はそのまま道端に座り込んでしまった。しかし、同情の視線を向ける者こそあれ、少年に助けの手を差し伸べようという者はなかった。珍しい光景でもないのだ。


「……ちくしょう、ようやくここまで帰ってきたってのによ」


 アイルランド訛りの強い語調で、少年が毒づく。少年の服装はロンドン帰りを思わせる洒落たものだったが、全体としてはどうにもちぐはぐでよれよれな雰囲気を醸し出していた。有り体に言えば、着慣れていない、服に着られているという印象を見る者に与えるのだ。


「この俺が、こんなところで、うう……」


 少年の聞こえよがしな独り言もよくなかった。一旗揚げようとロンドンに行ったはいいが、夢破れてすごすごと帰ってきた愚か者に特有の、地元で真面目にあくせく働く人間を蔑み軽んじるような態度。声をかけようと近づいてきた品のいい老婦人でさえ、少年の言葉に顔をしかめて立ち去るありさまだった。


「少年よ、どうかしたのかね?」


 ゆえに、アイルランド訛りのないバリトンの美声をかけられた少年は、弾かれたように顔を上げた。ようやく、自分と同じ都会の人間が現れたのだと、そう思ったのだ。果たして、そこに立っていたのはロンドンのカフェでカウンターの後ろに立っているのが似合いそうな、真っ黒な蝶ネクタイにエレガントなエプロンをつけた、小ざっぱりとした口髭の男性だった。男性は少年のカバンにちらりと視線を走らせると、心なしか親しげに口元をほころばせる。


「きみは……ロンドンからかね?」

「そ、そうだ! 俺はロンドンで料理人として修業を積んできたんだ!」


 やはり、わかる人にはわかるのだと少年は思った。すると道端で情けなく座り込んでいる自分が急に恥ずかしくなり、慌てて立ち上がって服についた旅塵を払う。しかし、これがいけなかった。


「おっと」

「わっ! す、すみません!」


 思った以上に汚れていた服が、ばふりと埃を吐く。男性は一歩引いてかわそうとするが、砂埃は真っ黒なエプロンに白茶けた汚れを残してしまう。


「ごめんなさ……!」


 手で払い落とそうとして、すんでのところで自分の手も服と大差ないことに気付いて思い留まる。怒鳴られる。少年はそう思った。


「ふむ、気に病むことはない。中へ入りたまえ」

「え、で、でも」


 自分の服装に視線を落とす少年に、男性は頭上を指差して見せた。そこに揺れていたのは、お店の看板。真新しいブロンズの輝きを放つ『カフェ・デ・グラティア』の飾り文字だった。つまり、男性はこの店のマスターなのだろう。


「おっ、帰ってきたぜ!」

「おう、また捨て犬を拾ってきたのかい、マスター!」

「坊主、若いな! どっからきた!」


 昼間から一杯やっている沖仲仕の一団が、マスターの連れてきた少年をはやし立てる。この綺麗でお洒落なあか抜けた雰囲気を持つ店には似つかわしくない連中に一睨みくれてやろうかとも思ったが、マスターの迷惑になってもいけないと考えて無視することに決める。


「…………」


 しかし、明後日の方向を向いて胸を張ったその瞬間、少年の腹が盛大な音を立てる。時刻はすでに昼過ぎ。朝から不本意な断食を強いられている腹の虫の、少年に対する抗議の鳴き声だった。


「おっ、もうこんな時間か!」

「マスターに腹いっぱい食わせてもらえ!」

「勘定はここに置いとくぜ!」


 豪快で声のでかい連中は、酒と飯の代金を置いて騒がしく去っていった。その様子をぼうっと眺めていると、マスターに声をかけられる。


「いつまで突っ立っているのかね? 好きなところへかけたまえ」


 四人掛けのテーブルが三つに、カウンターが六席の小さな店だ。少年は少しだけ迷い、カウンターへ腰掛ける。


「あの……」

「腹が空いているのだろう? 少し待っていたまえ」

「そういうんじゃないんだ! 金ならある!」


 嘘ではなかった。アイルランドへ帰る、最後の船賃ではあったが。


「ではこうしよう」


 言い出して、引くに引けなくなった少年の内心を見て取ったのか。少年の顔をじっと見つめた後、マスターが言う。


「ロンドンから来たと言ったね? 若いころ、僕もロンドンで修業したことがあってね。きみのロンドンでの話を、ぜひ包み隠さず僕に聴かせてくれたまえ」


 それが飯代だと、マスターはそう付け加えた。


「あ、ああ、いいぜ! じゃあ、どこから話したものか……そうだな、俺が最初に修業したのは、オールド・ストリートのジョー&ジョイスってレストランで……」


 少年の苦労話とも自慢話ともつかない話を、マスターは淡々と聞く。


「さあ、シェパーズパイだ。食べながらでいいから、続けたまえ」


 チーズをたっぷり乗せた熱々のパイが目の前に置かれる。少年は口中に湧き上がるつばを飲み込み、スプーンを手に取った。チーズを絡めたマッシュポテト、トマトピューレで味付けされたマトンが、火傷するほど熱く、そして旨い。


「あっふ、うまっ……!」

「水はいるかね? いまコーヒーを淹れるから、そちらは少し待ちたまえ」


 タイミングを見計らったかのように、ことりと目の前に置かれたグラスの水を勢いよく飲み干し、少年は再びパイにスプーンを突きこむ。二口、三口と飲み込み、それからようやく、まだ話の途中であったことを思い出す。


「ああ、そうだ……話の続きだよな。それで……ええと、どこまで話したっけかな。そうそう、ジョー&ジョイスの料理長とは、なんて言ったらいいのか、そう、方針の違いで喧嘩になってな。頭にきた俺は、店を辞めてやったのさ。その次の店は……そう、イーストエンドのクラーク・ハウスだったかな」


 スプーンを口に運びながら、少年はとつとつと語る。マスターはそれに口を差し挟むことなく、ただ静かにコーヒー豆とカップの用意をしている。


「…………そこでしばらく修行して、けどそこも俺には合わなくて…………だから、もっと腕のいい料理人がいる店で修業しようと思って、俺は…………」


 次第に途切れがちになる少年の言葉に、マスターが手を止める。


「うちのパイは口に合わなかったかね?」

「……いや、こんなに旨いパイ、食ったことなくて……」


 少年の言葉に、マスターがふっと笑う。


「気に入ってもらえてうれしいよ。だが、ロンドンで料理人を志した君からすれば大した料理ではないだろう?」


 少年が厚顔でいられるのも、そこまでだった。


「ごめんなさい!」


 カウンターに頭をぶつけんばかりの勢いで、少年が頭を下げる。


「今までの話は、全部作り話でした! 俺、ほんとは下働きしかしたことなくて、アイルランド訛りをバカにされては喧嘩して店を飛び出して、料理なんてほとんどしたことなくて……ごめんなさい! 騙してごめんなさい!」


 店を叩きだされても仕方がない。そう覚悟して、恐る恐る頭を上げる少年に。


「そんなことじゃないかと思ったよ、少年」


 にやりと渋く笑うマスターは、不器用にウインクしてみせるのだった。

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