1 みならい少女とごちそうマスター
イギリス、リヴァプール。海商の都市として名高いこの街には、一軒のカフェがある。仕事帰りの一杯に顔を赤くした労働者が行きかう通り、八月のぬるい海風が揺らす看板には、緑青色に錆びた飾り文字で『カフェ・デ・グラティア』と刻まれているのが見て取れる。
「マスター、表の看板下げてきますね!」
通りまで響く快活な声がしたかと思うや、蜂蜜色のポニーテールをスミレ色のスカーフでまとめた少女が軽やかなドアベルの音色と共に姿を見せる。前に大きなポケットのついた焦げ茶色のぶかぶかエプロンで身を包んだ少女は、深呼吸をしながら両手を空へ掲げ、ぐうっと伸びをする。
「んーっ! つっかれたぁ!」
猫のようにしなやかな少女の肢体が伸びるのに合わせて、シンプルな白のブラウスのすそがチノパンから引っ張り出される。そのはしたなくも健康的な美に視線を注ぐ通行人も少なくなかったが、少女が気にする様子はない。
「よい、しょっと!」
ドアにかけられたプレートを『ようこそ』から『また明日』へ裏返し、本日のおすすめメニューを書いたボードを抱えて少女は肩で扉を押し開く。名前こそカフェだが、気軽な家庭料理を出す店としても近所の住人に親しまれるデ・グラティアの店内には、ラムの肩肉シチューの食欲をそそる香りが漂っている。
「ああ……マスター、お腹空きましたよぅ」
「今日は忙しかったからな。食事の前にテーブルを片付けてくれ、アイリン」
「わかりましたっ」
カフェ・デ・グラティアは見習い兼ウェイトレスの少女と、バリトンの美声を放つ立派な口髭を蓄えたマスターが二人で切り盛りする、小さな店だ。内装は古びているが、幾度も補修と改装を繰り返しながら丁寧に使い込まれたテーブルやカウンターは落ち着いた雰囲気を醸し出している。一日の仕事が終わり、家へ帰ってから改めて食事を作るのもおっくうだということで、特別な用事が無い限りは仕事が終わったらそのまま二人で食事を摂る決まりになっている。
「マスター、なに作ってるんですか?」
「アイスティーだ。今日は暑かっただろ」
少女が尋ねると、お湯を沸かしていたマスターが口髭を揺らしてにやりと笑う。
「わ、うれしい。マスター大好き」
「すぐ淹れるから、さっさと片付けろよ」
「はーい」
五分後、少女によって簡単に片づけられたテーブルの一つに、いくつかの皿が並べられる。香辛料をたっぷり効かせたラム肉とじゃがいもがごろごろと入った豪快なシチューに、マッシュポテト、フィッシュ&チップス。要するに、本日の残りものだ。しかし火照った身体と喉を潤すきんきんに冷えたアイスティーだけはマスターが手ずから入れてくれたものだ。
「あっ、またそんなウイスキー入れて……ダメですよ、マスター」
「うるさいな、いいじゃないか」
脱いだエプロンを畳んで椅子の背にかけていた少女が、マスターの行為を見咎める。しかしマスターは意に介することもなく、自分のアイスティーにアイリッシュウィスキー『タラモア・デュー』の琥珀色を注いでいく。紅茶の香りにふわっとしたバニラの匂いが加えられ、なんとも魅惑的な香りとなる。
「なら、あたしにもください」
「ダメだ、と言いたいところだが……まあ、少しならいいだろう」
小指の先ほどのわずかな量が、少女のグラスにも注がれる。それで満足したのか、少女はにこっと笑って席につき、気取った様子でグラスを手に取る。
「今日も一日、おつかれさまでした」
「アイリンも、ご苦労さま」
触れ合ったグラスが涼やかな音を立て、二人はそれぞれのグラスに口をつける。甘くまろやかな口当たりを楽しむように口髭を吊り上げて渋く微笑むマスターに対して、慣れないウィスキーの味に少女はおおげさに顔をしかめる。
「ほれ、だから早いと言ったのに」
「言ってませんー!」
茶化すようなマスターの口調に、少女もついムキになる。
「そうだったか? まあ、冷めないうちに食べなさい」
「はーい、いただきます!」
少女は気を取り直してスプーンを手にすると、目の前に置かれたラムの肩肉シチューの攻略に取り掛かる。塩こしょうにタイムやセージというシンプルな味付けながら、大きめに切られた玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、かぶによく煮込まれたスープが染み渡り、とても滋味深い。煮込み過ぎないよう取り分けてあったラム肉が、口中に旨みを広げる。
「ちなみに明日の仕入れはどうします?」
マッシュポテトを頬張り、フィッシュ&チップスを口に放り込みながら少女が尋ねる。マスターは少女の行儀悪さを咎めることもせず、静かにナプキンで口元をぬぐってから答える。
「いや、明日はいい。臨時休業だ」
「もしかして、新メニューの開発ですか? お手伝いしますよ!」
マスターはしばしば新メニューの構想を思いつき、その度に臨時休業してはレシピの研究を行う。少女も何度かその手伝いをしたことがあった。与えられる役割は、もっぱら買い出しと味見役ではあったが。そんな少女の内心を見透かしたのか、マスターは苦笑を浮かべつつも否定する。
「そうか、アイリンには教えてなかったな。まあ、毎年恒例だ」
「毎年? なにかの記念日でしたっけ?」
「いや」
軽く首を振ったマスターは、アイスティーを口にしてから厳かに告げる。
「明日は年に一度の、対決の日なんだ」
対決。普段そうそう聞くことの無い単語を頭に思い浮かべるのに、少し時間がかかってしまった。それからマスターが騎士よろしく剣を構え、ガンマンのように銃を抜き打つ姿が思い浮かび、その似合わなさに思わず笑ってしまう。マスターが口髭と上背からは想像できないほど喧嘩や流血沙汰を苦手としていることを、少女はこの一年の付き合いで知っているからだ。
「なにかおかしかったか?」
「いえ、その……えっと、対決って、なにをするんですか?」
「うーん、なんというか、まあ、その、料理だな」
「料理、ですか?」
料理対決、という話なら少女もわからないでもない。料理人としてお互いに腕を競う。なにやら格好いいではないか。しかし、マスターは料理対決と口にする際になぜか表現に戸惑うような様子を見せた。その理由が分からない。
「そうだ、ならこのメモにあるものを明日の朝、買ってきてもらえるか?」
「ええ、お安いご用ですとも」
差し出されたメモを受け取る。そこには普段めったに使わない上等な砂糖や香料、それに肉や野菜、各種の果物が少量ずつ几帳面な字で記されていた。
「予算はこれだ。少し余ると思うが、残りは小遣いにして構わない」
渡された金額は、普段の仕入れ額一日分に匹敵するものだった。せいぜい三人前程度の食材の対価としては破格の金額だ。
「え、こんなにですか?」
「上等なものを選んでくるんだ。目利きの練習になる」
「はい」
「ちょろまかすなよ?」
「そんなことしませんよー」
「ああ、悪かった……そう膨れるな」
いつの間にか皿を空にし、グラスを干したマスターが立ち上がる。
「片付けはしておく。今日はもう休むといい」
「はい、ありがとうございます」
「うん。おやすみ、アイリン」
「おやすみなさい、マスター」
ぺこりと頭を下げて退出し、美しい満月を見上げつつ家路につく少女の頭を占めていたのは、マスターの話を聞いていて思いついた、ある『計画』だった。