善悪は瑠璃色の戸惑い
昼休みを終えて白井大海原が教室に戻った時には、もう席の大半は埋まっていた。
休み時間には、人生の春を謳歌しています的なお喋りを楽しんでいた面々も、教室に収れば病人のように黙ってしまう。
白井は前から二番目、一番端の席に座った。教授が入ってきた。小太りで薄毛の教授だった。
名前は浮雲三太夫。まるで戦闘とは無縁の人間に見えたが、違和感たっぷりの皮手袋だけは長年の使用感で良い風合が出ていた。
「今回は、善人悪人の見極めについての授業をしましょう。教科書を開いてください」
白井は教科書を開いた。
ヒーロー学校の教科書は、自動車教習所の物と似ている。
基本的に、ルールや心構えなどが基礎の基礎から記されていて、それを授業で応用するといった具合だ。
教科書の内容は薄いのだが、厚みはそこそこある。挿絵や写真がふんだんに盛り込まれている場合が多いからだった。
教授は窮屈な声帯から、苦しそうな声を出した。何か喉に詰まらせているのかと心配になったが、それが彼の地声だった。
「世の中には善人と悪人が居ます。程度の差は有れど、懲罰するに相応しい者と、そうでない者が居るわけです。そこで、懲罰する側である我々。我々にとって、善人悪人の判断ミスは致命的なものとなります。現場に駆けつけて、間違って悪人顔の素人さんにキャノン砲を撃ってしまったら、その人は死にます。あなたがたは一気に殺人犯です」
重い溜息が幾つか聞こえた。
教授は続けた。
「最近では、敵のほうも色々と策を練り、可愛らしい外見の怪人を送り込んだりしています。可愛らしい外見の物を蹴っ飛ばしたりしたら好感度が下がりますからね。でも、多少好感度が下がろうと、子供達や、その親から罵声を浴びようと、悪の芽を摘むのが我々の仕事ですから我慢しなければなりません」
生徒たちは思い知らされた。
正義の名に守られたヒーロー職と言えども、遣り甲斐だけでは食ってはいけないのだ。
「問題は可愛らしい怪人と間違えて、最近では、ゆるきゃらなんかを丸裸にしてしまうことなのです。ヒーローがヒーローを。自分自身を守るために必要な能力、それが『善人悪人見極め術』なのです」
善人悪人見極め術……。
ネーミングはともかく、ヒーローを志すのであれば必要な能力に違いなかった。
教授は既に汗をかき、ペットボトルで水を飲んだ。
燃費の悪い人間らしい。
「つまり、善人悪人の見極めは、ヒーロー生命を左右するほどの大事だということです。それも、瞬発的な判断力が鍵となります。日頃からその辺の感覚を養うように気をつけましょう」
なるほど。と、白井は思った。
案外ややこしいものだ、ヒーローの世界というのも。
「教授!」
その時、白井の座っている席の、数列後ろの方から声がした。
「はい、なんでしょう」
白井は声の主が気になり、教室を振り返って見た。
ピンと真っ直ぐ上に手を上げている女がいた。凛とした、高校なら生徒会長風の、社会ならキャリアウーマン風の女だった。
専門学校という場所では異様に映るその積極性。でも、本人の姿勢には全く迷いが無かった。
その容姿の利発な鋭さも手伝い、皆が彼女に注目した。
女は言った。
「それは、すごく大切ですよね!」
教室中が息を呑んだ。
「はい」 教授は言った。
「やっぱり……」
彼女は手を下ろした。満足げな顔をしていた。
「では」
教授は言って、授業を続けた。
そして、退屈な授業が再開された。
悪人や怪人の特徴。トラブルや、判断に困ったときの対処法などがこの授業内容の主だった。
白井は、女の満足げな顔が頭に残って集中できなかった。あの質問はなんだったんだろう。あの顔は、どいういう感情だったんだ?
戸惑いの中で、哲学のような授業は過ぎて行った。
授業も終盤に入ったとき、教授は生徒に教科書をしまわせ、妙なオモチャを教卓に乗せた。
「善悪判断の強化をする上で、こういうものがあります。ちょっと使ってみましょうか」
教授が取り出したオモチャは、小さなスピーカーがくっ付いている四角い箱。その箱からはコードが伸び、先にはボタンが付いている。
「誰か手伝ってくれますか?」
「はい!」
サッと手を上げたのは、先ほども手を挙げたあの女だった。
教授は一瞬嫌な顔をしたが、あんなに目立つものを無視をするわけにもいかなかった。
「では……」
教授は女の机の前まで行って、その機械を置いた。
女は、本体から伸びるボタンを両手に持った。
教授は女に簡単な説明を施して、機械の位置を調節した。
部屋の照明を落とすと、箱から光が放射され、ホワイトボードに図が投影された。
『善人悪人チョイス無双』
という文字と、侍の稚拙な絵が映っていた。
「ちょっと、まず両方のボタンを押してみてください」 教授が言った。
女がボタンを押すと、二種類の音声が機械から発せられた。
≪もう心配ありませんよ≫
≪ライダー、キーック!≫
「善人が出てきたら右のボタン。キックを食らわす相手が出てきたら、左のボタンを押してくださいね。では、本番に行きましょう」
画面が切り替わって、少女の顔が映った。
女がボタンを押した。
≪もう心配ありませんよ≫
続いて、どこぞの主婦が映った。
≪もう心配ありませんよ≫
ジェイソン。
≪ライダー、キーック!≫
見ているほうにも要領が分かってきた。
矢継ぎ早に画面は切り替わった。素早い判断力を養う為の訓練だ。
悪役商会の人。
≪もう心配ありませんよ≫
怪人のキグルミを着たスタントマン。
≪もう心配ありませんよ≫
近所の十円おばさん。
≪もう心配ありませんよ≫
キグルミ殺人鬼。
≪ライダー、キーック!≫
白井は思った。あの女、見掛け倒しではなく、なかなかやるようだ。
妖怪人間。
≪もう心配ありませんよ≫
砂かけババア。
≪もう心配ありませんよ≫
ぬらりひょん。
≪ライダー、キーック!≫
小悪魔系女子。
≪もう大丈夫ですよ≫
巣鴨系御老人悪魔。
≪ライダー、キーック!≫
なりふり構わない系地下アイドル。
≪ライダー、キーック!!≫
むむむ。と、白井は考え込んだ。
なりふり構っていないとはいえ、地下アイドルを蹴り上げるのはよろしくないのではないか。
白井の判定では、それは誤答であった。
するとその時、善悪トレーニング器から、プシュッ! と音がした。
「クサッ!」 女は思わずのけ反った。
教授が教室の電気をつけた。
「はい、このように、間違えたら臭いにおいが出ます」
教授は機械をきれいにまとめて持ち、自分のバッグに仕舞った。
そして言った。
「このトレーニング器が欲しい人は、ここに予約票がありますので名前と電話番号を書いて行ってくださいね」
教室はザワついた。みんな、どうしたものか迷っているようだ。
白井は手を上げて、言った。
「値段は幾らなんでしょうか?」
「三十八万円です」
三十八万円……。
ザワ付きさえも治まった。
誰も、席を立たなかった。
良い陽気だった。
日光は柔らかく、風には少しも嫌らしいところが無かった。
そのまま五分が過ぎた。
授業終了のチャイムが鳴った。
「もう帰っちゃいますよ?」 教授は言った。
誰も席を立たなかった。
挨拶をして、教授が教室を出て行った。
白井は帰り支度を始めた。