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レイディー・ヘルは七色のスパイス


 立ち食いうどん屋のうどんは、これでもかというほど美味しかった。


 食い物の美味さ不味さというものは、環境に左右されやすい。

 夕刻。疲れ果てた身体、閑散とした駅のホームで、うどんに敵うものは無かった。こんなところで焼き肉を食べても仕方ない。

 近藤灰子は、湯気上がるうどんの上で割り箸を割った。

 アルバイトは学校からの承認さえ有れば自由に出来る。近藤は派遣のアルバイトで、ベルトを流れてくる小さな四角い箱を監視し、裏っ返しになっているものを元に戻すという仕事をやっていた。

 今はその帰りだ。

 彼女は、うどんに七味を足そうと思った。手を伸ばしたものの、七味の容器は先に、隣の人間に取られた。近藤の右手が居心地わるそうに宙に留まった。


「あんた……」


 となりの、その女が近藤に話しかけて来た。


「あんた、ヒーロー科の女だねえ?」

「え?」

「そうなんだろう?」

「そうですけど」


 女はフフンと笑い、チャチャチャ! と七味を振って近藤に渡した。

 彼女は、ある悪の組織に属し、怪人を統率する立場の女だった。


「私の名は 『レイディー・ヘル』 だよ。覚えときな」

「名前をですか?」

「そうだよ」

「ええと……。結構です」


 レイディー・ヘルはうどんを持ち上げる箸を止め、驚いた顔で近藤を見やった。

 近藤は七味を振って、うどんをすすり始めた。

 普通、あの場面で 「結構です」 なんて言うかねえ……。レイディー・ヘルは首をかしげたが、近藤が自分を気にせずにうどんを食べているので、自分も食べることにした。

 彼女のうどんは肉うどんだった。


「あっつ!」


 レイディー・ヘルは言い、反射的に腰を引いた。彼女は赤白の無駄に露出の高いボンデージ風衣装なので、勢い良く吸ったうどんの汁が素肌に飛んだのだった。


「フフフ……。ヤンチャなうどん汁だねえ」


 恥ずかしさを紛らわすように彼女は笑い、微笑を浮かべたまま近藤のほうを見た。

 近藤はレイディー・ヘルのことを気にもせず、うどんをすすっていた。茶色い汁が、その口元で跳ねていた。

 この子、カレーうどんに七味を振ったんだわ! レイディーは動揺を隠すように、お冷を一口飲んだ。

 噂に聞くヒーローの学校の生徒。ちょっとおちょくってやろうと思っただけなのに、自分が動揺させられている。プライドの高い彼女にとって屈辱だった。


「ちょっとアナタ」


 レディーは言った。


「はい……」

「アナタ、カレーうどんに七味を振るって、おかしいじゃない!」

「はあ……。振ってませんけど」

「え? だって、さっき振ってたでしょ?」

「いえ。振ろうと思ったんですけど、直前で気付いてやめました」

「振ってたよ! あたし見たし!」

「ああ。振ったには振りましたけど、一粒も出なかったので助かりました。良かったです」

「そんなわけ無いでしょう! 七味浮いてるんじゃない? ちょっと見せなさいよ」

「いやですよ……」

「なんでよ。七味が入ってるのがバレるから?」

「いえいえ。だって、見せたらあなたの鼻息とか入るかもしれないし……」

「そんなこと気にするの? 分かった。息とめるからね?」

「いやいや。鼻息以外にも、あなたの角質とか、どっかの産毛とかが入るかもしれないし……」

「普通そんなに気にする? 外でご飯食べられないわよ!」

「それに、マジであなた変質者っぽいんで勘弁してください」

「ダレガ変質者ダー!」


 レイディー・ヘルは叫んだ。

 近藤は驚いた。駅の立ち食いうどん屋で、変態みたいな女に誰が変質者だと叫ばれ、お前だと言い返すことも出来ずに唖然とした。

 しかし、考えても仕方ない。彼女はカレーうどんをすすり、じわり滲み出てくる汗を拭いた。そして、レイディーに向かって言った。


「すみませんでした」

「え?」


 レディーは、自分がキレた直後にうどんをすすられてから謝られたのが初めてで、咄嗟に言葉が出てこなかった。


「変質者って言ってしまって、すみませんでした」

「ええ? まあ……良いんだけどね」

「それ、私服ですか?」

「私服というか……。制服みたいなものかしら」


 近藤はそれで、女がSMクラブで働いている人なんだと確信を持った。


「そうですか。お仕事頑張ってください」

「え?」

「私、そういうのに偏見とかは無いんで」

「そう……。随分と平和主義なのね」


 レイディーは思った。この子、案外素直で良い子なのかもしれないわ……。あたし、将来この子と戦うことになるのかしら? あまり気が進まないわねえ。

 レイディーは溜息を一つ吐くと、半分以上残ったうどんの丼に箸を置き、数百円のお会計を済ませた。


「なんだか食欲が失せちまったよ。じゃあね、お譲ちゃん。アンタ、あたしみたいになるんじゃないよ」

「まあ。多分大丈夫です……」


 丁度、各駅停車の電車が到着し、レディーはそれに乗った。

 吊革につかまって立つ彼女を見て、近藤は、都会には凄い変態の人がいるもんだなあと妙に感心した。

 間違って七味を振ったカレーうどんを食べ終え、大事な私服にカレーが付いていることに落胆した。

 お会計を済ませたとき、うどん屋のおやじが近藤に声を掛けた。


「ねえ、お譲ちゃん。さっきの女の人、知り合い?」

「いえ」


 おやじはガッカリした顔で、そうか、と呟いた。

 今日は二人も変態に出会った。日記に書いておこう。



 近藤は帰路についた。




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