怪人は泪色の手紙
下校途中。足元に咲くスミレに目を止め、白井大海原は立ち止まった。
その可憐さを何かに喩えることも出来ず、白井は深い思想の渦に飲み込まれた。
彼は思った。
入学して一年。その中で何か、かつて自分が得ようとしていた物を得ただろうか?
自然を見ると、心がザワついた。全く落ち着かなかった。
もしも、俺にヒーローの素質がなかったら? 高潔な自我ばかりを育て上げてしまい、社会的不適合者のまま世間に放り出されてしまったら? ただ揺れて萎れてゆく自然を見ると、そんな不安がこみ上げてきた。
人生は常に切迫していて、緩まる隙も無かった。まるで自転車で綱渡りに挑戦するようなものだった。
白井は、自分らしくないメランコリーに自身で動揺し、思想を断ち切る思いで歩を進めた。
夕暮れだった。
日はまた昇るがまた沈んで、やまない雨はないがまた降った。そんな言葉に意味は無い。
土は湿っていた。先日土砂崩れの起きた道はキレイに掃除されていた。
そのときだった。
「ここだよ……」
気のせいだろうか。甲高く鼻に掛かった声が耳に引っ掛かった。
「ここだよ……」
今度は確かに聞き取れた。
「誰だ」
「僕だよ……」
「誰だ!」
「つくしボーイだよ」
「つくしボーイ……」
「そうだよ」
「誰だ!」
「だからつくしボーイだよ」
ほらここだよ、と言われ見ると、木の幹に小さなつくし型のボーイが佇んでいた。
「オッス」
手を上げたつくしボーイは胴が太め手足細めの男で、頭はおかっぱで、顔は妙にリアルな中年男性風だった。
大きさを考えると、つくしというよりキノコに近い。
「……はじめまして」
「何かしこまってるんだか。育ちの良さそうな面じゃないぜ」
「いや、年上かなと思って……」
「年上じゃないわ! 何歳だと思ってるんだよ、子供子供!」
「子供……?」
「僕、三歳三歳!」
「三歳……」
「それにさ、お兄ちゃんヒーローだろ? 僕怪人だからさ、遠慮はいらないよ」
怪人といいながらも、つくしボーイのヘリウムガスを吸ったような声からは、微塵の敵意も感じられなかった。
「怪人だったのか」
「そうそう、うちは貧乏でさ……」
そう言うと、一つ溜息をついて、彼は一番太い幹に寄りかかった。
「僕はこれでも、ごく一般的な家庭で育ったんだ。少なくとも、僕はそう思っていたんだよ。でも、悲劇っていうのは、普通の家庭に訪れてこそ実力を発揮しやがるんだよ。悲しいね」
「……」
「あれは僕が、人間として生まれてから七年ほど経ったときだった。何気ない人生の何気ない一瞬に、それは訪れたんだ」
「それっていうのは……」
「火事さ」
「火事……」
「そう、そしてそれが、極貧生活の始まりといえるね。惨めな生活を強いられる切っ掛けとなったんだ」
「災難だったな」
「ああ。僕は火をつけてしまった手前、家でも居心地が悪くてさ」
「えっ、おまえが火をつけたのか?」
「そうさ。ライターで人形の毛を炙って遊んでたんだ。チリチリ焼けて臭いがしてさ、途中までは凄く楽しかったんだけど、まさかあんなことになるとはね……」
「そうか……」
「それでさ、家族が気にするな気にするなって慰めてくるもんだから、余計に罪悪感が増しちゃってさ。僕、家出したんだ。それでフラフラ歩いてるときに求人広告を見つけて、怪人になったてわけ」
こいつ最低だな。白井は思った。育ちの問題じゃなく、なるべくして怪人になったんじゃないか。
一方、お手製のタバコを吸いながらつくしボーイは言った。
「でもこんな姿にされるなんて思わなかったよ。だってさ、あの屈強なヒーローを倒さなきゃいけないんだぜ? 元の体よりもこんなに小さくなるなんてさ」
「そうだな」
「そうだろう? まあ、それでも、僕はこれで頑張ろうと思ったんだよ。小さいなら小さいなりの活躍の仕方ってのがあるだろう? 例えば諜報係とかさ。忍び込む系にはもってこいだからね。そう思ったんだよ」
「ああ」
「でも僕、緊張すると臭い胞子みたいのが頭からバンバン出ちゃってさ……。直ぐに見つかるんだよな。この前もヒーローの基地に忍び込もうとしたら、胞子のにおいに気づいたダスキンの人に捕まっちゃって、もう一歩でドSンジャーの連中にチクられるところだったよ。あいつらに知れたら地獄だからな」
「逃げ帰ったってわけか」
「いや、泣いて命乞いしたんだ」
つくしボーイの話を聞いているうちに、影が濃くなってきた。
濃い紫色の空が覆い被さってきた。
白井は言った。
「悪いが、もう帰らなきゃいけない」
「お兄ちゃん」
「うん?」
「元気、出たかな」
「え?」
「さっきまで暗い顔してたからさ。僕、そういうの放っとけないからさ」
闇に、つくしボーイの笑顔が薄く浮かんだ。
「ああ。そうかもしれないな」 そう、白井は言った。「ありがとう。おまえも頑張れよ」
「僕はダメさ」 つくしボーイは最後にタバコを大きく吸って、木の幹で消した。「この体の大きさだと、だいたい寿命が三年なんだ」
「え?」
「僕、この身体になって三年経つからさ。もう色々瀬戸際ってわけ」
「そうか……」
白井は、不本意な哀しみに息苦しさを覚えた。
つくしボーイは数歩白井に歩み寄った。
「お兄ちゃん。最後に、頼み事聞いてくれるかな。僕、手紙書いたんだ。実家のポストに入れる予定だったんだけどさ、ちょっと、もう体がきついんだ。だからこの……手紙を、僕の家に届けといてくれないかな。今住所書くから……。ここからそんなに遠くないよ。でさ、僕のお母ちゃんに会えたら一言、こう言ってくれないかな。 『おかあちゃんあり』 ゲホゲホゲホ! あ、やべえなこれ……。 『おかあちゃ』 ゲーホゲホゲホ! ゲホゲホゲホー! ああ、まるで喉に……カナブンが詰まっているみたいだ…………」
「つくしボーイ?」
「……」
「つ、つくしボーイー!!」
つくしボーイは死んだ。
白井は彼から受け取った小さな手紙を、大切に財布にしまった。
……
翌日、白井は山を下り、つくしボーイの家族が住む家へ向かった。
今にも倒壊しそうなアパートだった。
訪ねたときには母親しかいなかった。
白井が事情を話して手紙を渡すと、母親は手紙を読み、途中で泣き崩れた。
ひとしきり泣いて、泣き終えると、母親は絞り出したような声で白井に尋ねた。
「あの子は……最後に何か言っていませんでしたか……?」
「え? ええと……」
白井は胸を詰まらせていた。
冷静にはなれなかった。
「ありのままで良いんです……。あの子のことですから、家族を恨んでいても不思議ではないし。ありのままで……」
「そうですね、あの……」
白井は一つ咳払いをした。ありのまま……。
『喉にカナブンが詰まっているみたいだ』 と、言っていました。とは言えなかった。
外で小鳥が鳴いた。家の奥からは、洗濯機の回る音が聞こえた。
「ごめんなさい。特に何も」
「そうですか……」
母親は顔を上げずに言った。
「それでは、僕はこれで。失礼します」
振り返ると、つくしボーイの母親がずっと、白井に向かって頭を下げていた。
白井は寮に帰った。
静かで、今まで夢を見ていたかのような不思議な気分だった。
床に寝転がると、まあ、諸々頑張ってみようかと思えた。




