風苒彰の決意
風苒彰は緑英20年の夏に生まれた。何事にも努力を惜しまない兄弟弟子の伊予に対し、その場のノリとセンスで何でもサラリとこなす彼は、幼い頃より“天才”と呼ばれ続けていた。
13の時に、彼の師であった夏木烙は、伊予を始めとした彼の戦闘チームのメンバーを庇い護るために1人処刑された。彰はそれを間近で見ていた。
烙は穏やかで実直な優しい師であった。一方で厳しく揺るぎない正義を併せ持っていた。
まだ伊予と彰が幼い頃、烙は2人に向けてこんなことを言った。
「伊予、彰、お前達はこれから強くなるだろう。この国を背負って立つ程にな。だがお前達は強くなればなる程に、沢山の理不尽や悲しみを経験するだろう。だがその中でも一つだけ、これだけは忘れるな。」
その言葉に伊予は律儀に姿勢を正す。
「命の使い道。お前らは、誰かを護るために命を使え。その為に生きるのでも、その為に死ぬのでも構わない。誰か1人でもいい。いつか必ず、この人だけは護りたいと思える存在と出会うはずだ。お前達はその人に身命を捧げろ。それがこの烙の教えだ。」
「はい、師匠。」
伊予が優等生らしい返事をするのに対し、彰は訝しげな目で師匠を見上げ、頬杖をついて言った。
「何でこの俺が誰かの為に犠牲にならなきゃなんねーんだよ。」
「おい彰!」
伊予が制そうとするのを烙は穏やかに笑って許した。
「ははは、確かに彰はそう言うと思ったよ。でも、そういう奴ほど一途なものだ。それに…犠牲では、ないんだよ。きっといつか、分かる日が来るさ。」
そう言った烙は、伊予を生かす為に命を擲った。犠牲ではない、それはその時確かに彰にも分かったのだった。磔になった烙が、首を落とされる直前、ボロボロの姿で微笑んだその時から。護りたい何かを護る時、それは犠牲でも代償でもなく、ただ一重に幸福なのだと。
戦争が終わって仮初の平和が訪れると、彼は自ら天涯孤独の身となることを選択した。自由奔放な生き方をモットーとする彰にとって彼の厳然とした両親は障害だったのだ。だから彼は、15の時に家を出て両親との縁を切ったのである。この頃の彼には失うものなど何もなかった。
彰が運命的な出会いを果たすのは17の時だ。年幼い子供たちが弟子入りを志願して彼の“テスト”を受けるために研究室を訪ねて来た。その中で一際目を引いた少女が、桔城翠莱だった。その頃の彼女は周りと決して打ち解けようとせず、凛として気高く、全く感情を見せない少女であった。それは心の中に真っ直ぐな信念を持っているかのようで。彰はそんな彼女を見て、ただ純粋に、笑顔を見てみたいと、そう思ったのだ。
彼女のそれが父との血の繋がりがないという出生に対するコンプレックスからくるものであると、いつしか知るようになった。しかし、弟子として彰と接するようになってから、彼女が少しずつ変わっていくのが彰は嬉しかった。最初は父性だったと断言できる。自分も選んだ道とはいえ天涯孤独の身として両親に未練がない訳ではなかったから、同じ傷を負っているような感覚があったのかもしれない。心を開くこと、人を信頼すること、感情を見せること、一つずつ覚えていって。その度に、彰は思った。この鼓動が止まるまでの間に、自分は後どれくらいの事を彼女にしてあげられるのか。それは父性を超えた愛情であった。いつの間にか、自分でも驚くほどに、彰はそうした想いを強く持つようになっていたのだ。
命の使い道、命の使い道。そんな折に彰は亡き師の言葉を思い出す。大切な誰かを護る為に命を捧げるその誓いの言葉を。烙は伊予を護るために死んだ。そして伊予はその師の忘れ形見である侑を護るために生き続けることを選んだ。だったら俺はーー。
この命を燃やして翠莱を護ろうと、彰は心に誓った。
彰は昭徒失踪の後、その謎について調べていたのだが、実は昭徒が消える数年前から彼は昭徒や碧莱が属する研究チームの動きの不審さに気付いていた。その研究チームは創設者の勅命を受けて組織されたものであり、研究科に属さなかったため、研究科長の彰は蚊帳の外であった。だがそもそも創設者を信用していなかった彰は、密かにそのチームの動向を探っていたのだった。危険な事に首を突っ込んでいる自覚はあった。だが、自分がこの国に貢献できるメリットを考えれば、創設者もそう簡単に彰を殺すことはないだろうと計算していた。
研究チームが何かとんでもないことを起こそうとしていることは分かっていた。もしそれが起こったら翠莱はどうなってしまうのだろう。その思いが彼を崖っぷちの綱渡りのような道へと突き動かした。
最初に刺客が訪れたのは、25歳の頃だ。哲士・謬・翠莱とともに任務を遂行し、珍しく重傷を負って入院した。病院は命を狙われやすい場所であることは勿論分かっていたが、正直そのタイミングで来るとは思っていなかった。その時は軽く撃退できたから良かったが、今後命を狙われ続けるのだという現実を実際に思い知らされると、自分の命の使い道について再考せざるを得なかった。かけがえのないものの為に、自分は何ができるのか、そして自分が死ぬ事でその人を苦しめてしまう罪悪感。彰はそれらを考えることをやめなかった。それからは死と隣り合わせの日々だったが、彰は辛くはなかった。そんな時だからこそ、この慈しみ深き世界で煌めく沢山の美しいものたち、愛おしいものたちが鮮やかに見えたから。俺には俺の幸せがある、そう思えるだけで、十分だった。
27歳になってすぐ、肺炎を発症して入院が決まった時、彰は覚悟した。時が来たら堂々と死んでやろうと思っていた。その時というのは、研究チームの真相を解明し、翠莱の幸せを確信できた時のことである。
そして何より、彰が殺される事には重大な意義があった。彰を口封じに殺すことで、創設者は翠莱に少なくとも直接的な手出しをすることは出来なくなるだろう。研究科の存亡も危惧される上に、彰と翠莱が一辺にいなくなれば国家に対する疑惑と不信が一気に広がるからだ。それゆえ彰は死を以て創設者を最大限牽制することを選んだのだった。
しかしその年の秋、昭徒はこの世界から姿を消した。彰は一時退院していた時であったから、チームの研究室周辺を嗅ぎ回っていた。研究チームに属する研究員達は彰にとって仲の良い先輩研究員が殆どであったから怪しまれることもなく近付くことができたのである。
その日、昭徒の寮を訪れたのは本当に偶然であった。大した用ではなかったが、不自然にドアの鍵が開いていたから、彰は不思議に思って中に入った。昭徒のデスクの上には、1枚の写真があった。兄妹と一緒に撮られたその写真の中で、いつものようにニコニコと笑っている。何気なくその裏を見た彰は訳もなくゾクリとした。
『白流、翠莱、お前たちを愛してる。』
ただそれだけの言葉が、走り書きされていた。
彰はそれを見てすぐに寮部屋を飛び出した。嫌な予感がしたのだ。
結果的に、彰の予感は外れなかった。その日の夕方には、昭徒の部屋は全焼。そして昭徒自身も姿を消し、死亡と報告された。
葬式の後、自分の胸の中で糸が切れたように泣き出した翠莱を見て、昭徒を、兄妹を、救うことができなかった悔しさを彼は噛みしめていた。
なぜ昭徒は失踪したのか。彰は兄妹がそれについて調べようとしていることに勘付いていた。ならば自分は兄妹が真実に辿り着くための手足となろう。彰はそう決意した。たとえそれが、昭徒の失踪を止められなかった償いにはなり得ないとしてもーー。
それ以降彰の調べが及ぶ範囲はいよいよ創設者にとって見過ごせないものとなっていた。少しずつ、手口も強さも増していく刺客に、彰は焦りを感じ始めていた。刺客が強くなっているだけではなく、彰もまた長年無理をかけてきた上に病が重なり、身体が急激に衰えていった故であった。一方で、家族を危険な目に合わせる訳にはいかなかったから、刺客が来るかもしれない日は、大事な仕事があるのだと言って旭を遠ざけた。彼はわざと警戒を緩めたように見せかける日を作り、刺客が訪れそうな日を絞っていたのだ。
彼が限界を感じたのは、28歳の冬の初めのことだ。そのころ既に、彼は“維持者”という1つのキーワードに辿り着いていた。その詳細の解明には至らなかったが、兄妹が真実を突き止める手掛かりになるという確信が得られていた。維持者とは、恐らくこの国あるいはこの世界を維持する為に必要な存在。そして、昭徒は恐らくその維持者になる為に生け贄としてその身を捧げたのだと。
少なくとも、それは昭徒は家族を捨てたのではなかったという証明だった。あの日見た『愛している』の文字に偽りがなかったということの。本気で愛していたからこそ、その家族が生きる世界の為に自分を犠牲にしたのだ。それが分かっているだけでも、翠莱の心は救われる筈だ。というのもそれは彼女が昭徒に、父に、愛されていたということの証に相違ない。そしてそれこそが彼女の一番知りたい答えなのだ。
だから彼は、最期に翠莱に会うことにしたのだ。