風苒旭の証言
旭が恋をした相手は、噂でも有名なプレイボーイだった。完璧なルックスに加え、ムードメーカーで人気者の彼は当然女の子からモテた。そして彼は寄ってくる女の子を拒むことなくかい摘んでいた。周りからは、どうせ遊ばれて捨てられるだなんて言われたけれど、自分でもそんな恋したくないと何度も思ったけれど、それでも諦めきれなかった。
「風苒君…あの、お話があって。」
「千倉サン?どしたの?」
ある日、とうとう彼を呼び出して、想いの丈を告げた。彼は「うーん」と考えるかのように言うと、ふと優しげな笑みを向けてこう言った。
「俺も、千倉サンのこと、どうやって口説こうかなーって、思ってたとこ。」
その言葉に涙を溢れさせる旭の頭を、彼は優しく撫でてくれたのだ。
彼との交際は順調だった。彰はいつも優しく、旭のことを大切にしてくれた。喧嘩だってただの一度もしたことない。全てが順風満帆のまま4年の交際期間を経て、旭が22歳の時、彼らは結婚した。元々結婚する前から、仕事の忙しい人であったが、妻になってみて尚更その多忙さを知った。仕事一筋、と言ってもいい。それでも旭は寂しいとは思わなかった。忙しい中でも、彼が自分に愛情を向けてくれていることが感じられたからである。
妻になって、初めて彼女は夫の弟子を紹介された。結婚するまでは、彰は彼女に仕事関係のことを一切話さなかったし関わらせなかったのだ。7歳の女の子2人、仲良くなれるかしらと楽しみにして、旭は彼女達に会った。
茶の髪に茶の瞳のクールな美少年風の弟子を見たその時、胸の辺りでざわりと不快な感覚がしたことを彼女は忘れられない。理由もなく、胸がざわめき、鼓動が少し速くなる。
「初めまして奥様、桔城翠莱と申します。風苒彰師匠にお世話になっております。」
「え、なになに、誰にお世話されたって?」
「師匠は黙ってて下さい。」
そんな掛け合いをする夫とその弟子を見て、落ち着かない心地になりながら、平生を保って旭は微笑んだ。
「風苒の妻、旭です。こちらこそ夫を宜しくね。」
「は、はい!」
7歳にはとても見えない大人っぽさ、そしてどう見ても男の子にしか見えない風貌、そういったものに単に違和感を感じているだけなのだろうと、旭は無理矢理納得した。
国家組織の戦闘員となる為には、並外れた身体能力や格闘能力を持つ“異能力血液”と呼ばれる血を受け継いでいる必要がある。必ず遺伝するものではなくて、陽性の人間を“継承者”と呼び、継承者は軍隊に入ることになるのだという。旭は継承者ではないが、彰も翠莱も、もう1人の弟子である等梨も継承者ということになる。継承者はその特徴として、成長が早い。だから、7歳の子供でも見た目は10歳くらい、という感じなのである。一般人の旭は継承者についてのあれこれに不慣れであるから、そういった部分で動揺してしまっただけなのだと、彼女は決めつけたかったのだ。
それからも何度か、翠莱に会う機会はあった。その度に彼女は胸中におこる黒い感情を押し殺した。はじめはただの違和感だったものが、段々と確信に変わっていく。その過程で自分の彼女に対する態度が無意識のうちに素っ気ないものになりつつあることに彼女は気付いていた。そして、15も歳の違う少女に対して訳もなく“その感情”を抱いてしまう自分の醜さを心底嫌った。
夫の口からは頻繁に翠莱の話が出た。年若い弟子を自分の寮に泊めているのも知っていた。そういった一つ一つの些細な彰の言動に、旭は逐一傷付いた。だが、どうしようもなくみっともない嫉妬心なんて、絶対に知られたくなくて、彼女は夫に対して心をひた隠しにした。
そんな中、緑英48年2月の寒い日に、旭は彰との間に第一子を産んだ。彰にそっくりな男の子に、灯という名を授けた。
無意識のうちに、彼女はホッとしていた。自分と彰を繋ぎ止める何かを、彼女はずっと欲していたのだ。彰は子供を愛する人だったし、絵に描いたような理想の家庭生活ができるのだと、これで女性としての幸せを手に入れられたのだと、そう自分を誤魔化した。
彰は灯の生まれる半年前程から肺炎を患い、入退院を繰り返していた。それまでが丈夫な人であっただけに、旭は尋常でなく心配した。春頃になると心配のあまり、ストレスで少しやつれた姿を見て、彰の友人であり主治医でもあった謬から「大丈夫か?」と声を掛けられることもあった。
入院中の彰を世話するために旭は彼が来るなと言った日以外、毎日のように見舞った。その度に、旭には何も意味の分からない難しそうな文書やら何やらを彰が調べているのに彼女は気付いていた。彰はいつも「時間がない」と呟いていた。どんな大事な調べ物だろうと旭は不思議に思っていた。
ある日旭が見舞った時、たまたま彰は眠っていたので、起こさずにベッドサイドの椅子に腰かけた。ベッドテーブルにはいつものように資料が乱雑に広げられていて、どうやら調べ物をしている間に寝てしまったようだった。
ふと、魔が差した。いけないことだと思いながらも、どうしても、夫が病床にある身を押して調べているものが何なのかを知りたいと思ったのだ。彰を起こさないように、旭はそっと彰がいつも走り書きしているノートを開いた。
「何これ…」
殆どの単語や数字は意味が分からなくて、ただそこに頻繁に出てくる“維持者”という言葉と、見覚えのある名前だけが、彼女の印象に深く残った。
翠莱。翠莱。翠莱。翠莱…
私のことなんて、ちっとも興味を持ってくれないくせに、この子の事になると、あなたは膨大な時間を犠牲にしてでも何かを知ろうと思うのね。
旭はノートを慎重に元通りの位置に戻し、そして彰が起きる前にその場を去った。
緑英48年12月の初め頃のことだ。彰は「伊予から手紙が届いた」と朝から上機嫌だった。彼の無二の親友である夢国伊予咲はこの時戦場にいた。この年の夏頃から隣国・白蓮との戦争が勃発していたのだ。後々第8次月民戦争と名付けられるこの戦争は、段々と激化して総力戦となった末、小宵が辛くも勝利を収めることとなる。病床にある彰に召集はかからなかったが、伊予は9月頃にはもう召集を受けて出征していた。戦場から殆ど帰って来ることのできない伊予との連絡手段は手紙くらいであり、彰はそれを日々楽しみにしていたのだ。入院生活で暇な彰と違って伊予は多忙なのであろうが、決して便りを切らない辺りに生真面目で几帳面な性格が表れている。
しかし、旭がショックを受けたのは、その時彼が筆を走らせていた相手が伊予だけでないことに気付いたからだ。旭にばれないようになのか、それともついでの方がいいと思ったのかは分からないが、彼は翠莱宛てにも手紙を書いていたのだ。
しかし夕方になって投函しておいて欲しいと渡された封筒は1通だった。伊予宛のものである。訝しく思ったが、口を挟むことでもないので彼女はそれを預かった。それ以上に、彰が即日返信を書き上げたことが驚きであった。伊予と違って不真面目な彼はいくら暇だとしてもその日の内に返事を書き上げるようなことは今までなかった。余程書きたいことでもあったのかしらと不思議に思いながら、旭はそれを投函した。
彰が息を引き取ったのは、クリスマスの早朝のことだった。妻の身でありながら、その死に立ち会うことすら叶わなかった。恐らく彰が呼ぶなと言ったのだろう。立ち会ったのは主治医の謬と雛満仁夜だけであった。仁夜は伊予・謬と同様にかつて彰と同じ戦闘チームで戦った盟友の一人である。
仁夜から電話を受けた旭は、何も言葉を発することができなかった。あまりに急で。あっけなくて。
一昨日まであんなに元気だった彼が。24日は、仕事の事で大事な予定があるから見舞うなと彼は言った。じゃぁその代わり25日は、灯と先日生まれたばかりの霰と、家族4人で一緒にクリスマスをお祝いしましょうと提案したのは旭の方だ。だから旭は朝から張り切ってご馳走を作ろうと、用意していたところだった。
いくら「もしもし」と焦ったような仁夜の声が聞こえても、旭は縛り付けられたかのように、受話器を持ったまま動くことができなかった。
謬がどうしても死因を調べたいと言うから、旭は黙って首を縦に振った。本音を言えば、死因などどうでも良かった。死因ではなくて、彰が死ななければならなかった理由が知りたかった。もっと言えば、なぜ死を選んだのかを知りたかった。旭は、彰が殺されたのだとはっきり分かっていた。思い返せばそれを示唆する言動はいくつもあったように思う。
死因も、彰を殺した人間も、どうでもいいことだ。彰は強かった。生き延びることも死ぬことも彼次第だった。その彼がなぜ、殺される事を選んだのか。それだけだ。
ようやく彰の葬式を挙げられたのは1週間後のことだった。
相変わらず戦場にいる伊予は、出席できなかった。しかし総司令官である伊予の計らいで、翠莱と等梨の2人は特別に一時戦地から抜けることを許されたのである。喪服やら香典やらを用意する暇はない。戦闘服のまま、身一つで2人は師の葬式に行った。2人が着いたのはもう式が終わりかけていた頃だ。線香はあげなかった。2人はただ、多くの参列者の後ろから少し遠巻きに見た師の遺影に、深く深く頭を下げただけであった。
だが、それが起きたのは、式が終わった後のことだった。翠莱と等梨は旭に弔問の挨拶をする為、彼女の前に現れたのだ。旭は前よりも更に痩せ、髪は乱れ、目は虚ろだった。だが、旭は2人に気付くと生気のなかった目を見開いた。
それは衝動だった。
旭は翠莱の姿を見ると椅子が倒れるような勢いで立ち上がり、駆け寄って、突然翠莱の頬を平手で打ったのだ。翠莱は呆気にとられて、打たれたまま微動だにできなかった。
「あなたが…あなたが彰を殺したのよ!」
狂ったように吼えた旭を等梨が懸命に抑えようとする。
「奥様!落ち着いて下さい!」
「あなたのせいで…」
旭は溢れる涙を隠す気もなかった。恨みも憎しみも悔しさも、今まで我慢してきたもの全部。
「何であなたなんかにあの人を奪われなきゃならないのよ!」
叫んだ声は涙のせいで枯れかけている。
「奥様っ!」
等梨の必死な制止など旭には聞こえない。
目の前で固まっている少女は、女性として誘惑するにはあまりに少年のような風貌で、あまりに年若くて。その瞳はショックに見開かれている。
たしかに彰は私のことを愛していた。だとしてもそれはーー
「あの人は私を一番に愛した訳じゃなかった!」
旭は血を吐くような辛さで、喉の奥がよじれるような痛さで、そう叫んだ。
「なんであなたなの…!」
絞り出すようにそう言った旭は、壊れたように、声の限りに泣き叫んだ。彼女の慟哭が周囲の静寂の中で一際痛々しかった。
彰亡き後、旭は子どもに手をあげるようになり、暫くののち灯が霰を連れて家から脱走すると、数日後に自ら命を絶った。
彼女の自室の机上に置かれた遺書を発見したのは伊予だった。
『彰さん
私はあなたの事を恨んでいるわ。
あなたは私の弱さを知っているから、独りにしたら後を追うって思ったんでしょう。だから結婚して4年も経って、初めて私を求めたのね。あんなに遊び人だったあなたが、結婚した頃から何故だか私に手を出そうとさえしなかったのに。私との間に子どもを作って、自分がいなくなっても私が強く生きるように望んでくれたのね。灯を見て焦ったの?自分にそっくりで。だから霰を生ませたんでしょ?でも、あなた何も分かってないわ。私はそんなに強くないのよ。どんな世界でも、あなたがいなければ私は生きられない。
罪な男よね。他の女のために死んでいくなんて残酷だわ。いつからあの子のために死のうと思っていたの。でも私、結構前から気付いてたのよ。あの春の夜、あなたが初めて私を抱いた日から。果てた後まどろんでいた私に、あなた枕元で「ごめんな」って言ったもの。そんな言葉で許せるほど、私は安い女じゃないわよ。
だけど、気付いてたのに幸せな家族を演じ続けた私にも咎はあるわね。お互いに騙し合って…それでも私は、騙されてることが幸せだったのよ。
彰さん、私のことを愛してくれて、大切にしてくれて、ありがとう。子ども達のこと、ちゃんとできなくてごめんなさい。
私はあなたの事を愛しているわ。
旭』