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市井等梨の証言

等梨(ひとり)がまだ2歳の時、その人は彼女の師になった。彼女にとって、師弟3人で過ごした日々はかけがえのないものだった。

彰は優しい師だった。もともと女好きのプレイボーイである彼は、女性に対しては紳士である。そんな彰は等梨に対してもいつも丁寧で優しい人であった。だが、不思議なことにその師が、何故か兄弟弟子の翠莱に対しては意地悪を言ったりからかったりする。同じ女性なのに何故だろうと思って尋ねても、彼は「あいつは女じゃねーもん」などと軽口を叩く。そして翠莱もまた、等梨にとっては紳士であったが、彰には邪険な扱いをする。いつも無駄な言い合いをしているのだけど、そんな姿を見ているのが楽しくて、等梨は2人が大好きだった。

だが、その中で等梨はどことなく2人との距離もまた感じていた。自分1人だけが遠いような感覚を抱かずを得なかった。それは例えば、彰が話し掛けるのは大抵いつも翠莱に対してであったり、翠莱が彰に対しては感情的になるのであったり、些細なことだ。勿論、それまで翠莱と言い合いをしていた師に声を掛ければ、きちんとこちらを向いて「何だ?等梨」と師匠は微笑んでくれたし、翠莱は信頼できるパートナーとして、どんな悩み事も真剣に聞いてくれた。それが不服だった訳ではない。彰も翠莱も、師として、兄弟弟子として、十分すぎるくらいの優しさと愛情をくれた。それなのに、何故自分ももっと近付きたいなどと贅沢な不満を抱いてしまうのか自分でもその理由が分からなくて、等梨は複雑だった。

ある時、翠莱が彰の寮に泊まったことがある。緑英47年の早春であったと記憶している。彰の職務の都合上、戦闘についての修行は彼が勤める研究科の近くで行うことが多かった。しかし、その日は大分長引いてしまって、修行が終わる頃にはもうかなり遅い時間になっていた。等梨の寮は主戦闘科の方にあり、翠莱の寮はこの頃たしか暗殺科にあった。どちらもここからでは随分遠い。だが、幸いなことに等梨は実家の屋敷が研究科から比較的近くにあったので、そちらに帰ることにした。

「で、お前はどうする?」

「歩いて帰りますよ。もうそっち方面の電車ないですから。」

この頃はまだ終電も早かったため、もう暗殺科の方へ行く電車は終わっていた。

「歩いてってお前、夜が明けるぞ。」

呆れたように彰は言う。『私の実家に来る?』そう言ってあげたいのだが、等梨の親は彼女が戦闘に関わっていることを良く思っておらず、無論その筋の人間である翠莱に対しては風当たりも強いであろうから、許されないことは目に見えている。

「あー…しゃーねーな、お前今日泊まれよ。」

「えっやっ…でも…」

翠莱はその先を言わなかったが、頭の回る等梨は彼女が何を考えているのか分かった。

少年にしか見えないとは言え、一応分類上は年頃の女の子である翠莱を妻帯者である師匠が泊めていいのだろうかと、等梨も口に出さないながら少しは思ったのである。

だが彰はやはりそこが男女の差か、そういう微妙な機微に気付く倫理的な繊細さは持ち合わせていない人間だ。

「あ?1日くれー構わねーよ。」

そう言った師に対し、流石に翠莱もそれ以上は言わず、「はい」と返事をした。まだ10余歳の身で意識しろというのもばかばかしい。

彰は翠莱を先に寮に通し、等梨を実家の近くまで送ってから帰宅した。



「先シャワー行っていいよ。」

彰はダイニングの椅子に腰掛け、書類の処理を始めた。

「…手伝いましょうか?」

翠莱が訊いたが、彰は咳をしながら手で必要ないという合図をとったので、翠莱は脱衣所に向かう。

向かいがけに、「風邪ですか」と翠莱は言った。彰は書類に目を向けたまま「あー、まぁ」と曖昧な返事を返した。

戦闘員として任務地での寝泊まりや野宿は多いため、一応着替え等は携帯している。ただ、必要最低限で考えるので寝間着はない。彰は書類の処理を終え、まだシャワーの音がするのを確認して脱衣所に入った。

「タオルと部屋着ここ置いとくぞ。」

少し小さめのパーカーとスウェットを選び、分かりやすい位置に置いておく。キュッとシャワーの栓を閉める音が聞こえ、中から「…はい」という淡白な返事が返ってきた。彰はそれを聞くと、すぐに脱衣所を離れた。

「師匠、あがりました。」

首にタオルをかけて翠莱が脱衣所から出てきた。風呂上がりで上気した頬は桃色に色付いている。

「おー、んじゃ俺入ってくるわ。」

すれ違いざまに彰が脱衣所に消えたので、翠莱は1人寝室に入っていった。勝手知ったる部屋である。というのも、昔はよくここに寝泊まりしていたからだ。だが彼女がここに泊まりに来るのはもう2年ぶりくらいになっていた。

ベッドに腰掛けて寝室全体を見渡してみるが、昔と殆ど変わっていない。ふと棚の上に置かれた写真に目が留まる。師弟3人で撮った写真の隣に、妻・(あさひ)との写真があって、その幸せそうな笑顔に、翠莱は理由も分からぬ背徳感の胸苦しさを感じて、すぐに目を逸らした。

目を逸らした先に、ふとキャンバスが立て掛けてあるのに気付いた。彰は絵を描くのを趣味としていた。そっと覗いてみると、そこには1人の人物が描かれていた。肩くらいに伸びた金髪を一纏めに結び、柔らかく微笑むその男性は、翠莱も見知ったある女性に酷似した雰囲気を持っていた。

「夢国先生の奥様…?」

「あー、それな、(らき)先生だ。」

背後から急に声がして翠莱はビクリと背筋を震わせる。慌てて振り向くと、まだ水の滴る頭にタオルをかぶせた彰が立っていた。

「夏木烙。俺と伊予の師匠だよ。」

翠莱は烙に直接会ったことはない。彼女が生まれる前には故人になっていた。夢国伊予咲の妻・侑は烙の一人娘である。通りで雰囲気が似ている訳だ。

「ま、たまには師匠のこと思い出してみんのもいいかなってな。」

夏木烙は不遇の死を遂げたと聞いているが、彰の顔に悲壮感はない。

翠莱はキャンバスを元に戻しながらふいに口を開いた。

「…あなたが先に死んでも、」

彰は翠莱に背を向けてタオルで髪をふいている。

「僕は思い出したりしませんよ。」

その虚勢に、その小さな嘘にこみあげる、抱き締めたくなる程の苦しさも切なさも、彰は一蹴して笑った。

「ははっ上等じゃねーか。」

そして翠莱の方を向いた彰は、いつものような意地悪な微笑ではなくて、心からの穏やかな笑みを湛えていた。

「…本当に、そうだといいなって思うぜ。」

ずっとうじうじ偲ばれるより、死んだ奴のことなんか忘れて、残された奴らが明るく笑ってた方が、死んだ奴にとっても幸せだーーずっと前に彰が言っていた言葉だ。…彼の一言一句すら、忘れられないくせに。

「…そうですか。まぁ墓石に万年冷たい水ぶっかけておくくらいはしてもいいですよ。」

翠莱は努めてサラリと言いのけた。

「あ?喧嘩売ってんのかテメーは。」

「売ってますね。」

そんな普段通りの会話に無意識に安堵する。だがそれをふいにしたのは彰の方だった。

「…お前さ、俺がいなくなった後この寮、どうする?」

「…はい?」

彰は真剣な表情のまま続ける。

「あー、だから、もし俺がいなくなって、特研をお前が継ぐとしてー、」

翠莱は彰の言葉に顔を背けた。

「言ってる意味が分かりません。」

「翠莱、」

「何の話だか僕には分かりません。」

翠莱は少し語調を強めた。

「おっまえなぁ…」

ダンッという音と共に、彰は翠莱の両手首を壁を背にした身体の横に縫い付けた。

「…はぐらかすなよ。」

身長差15センチのせめぎ合いは筋力勝負ともなれば流石に翠莱に分はない。

「結構大事な話だろーがよ。」

彰の真剣な眼が翠莱を射抜く。そこで翠莱はポツリと言った。

「まぁ、師匠がこんな事してもカッコよくないですけど。」

「んだとテメー、俺はイケメンだろーが。ぶち犯すぞコラ。」

引きつらせた笑顔で彰が反応する。ここで挑発に乗るあたりも彼らしい。

「できるもんならどうぞっ…僕を相手にっ」

グギギと抵抗しながら売り言葉に買い言葉で翠莱も言い返す。すると、不意に彰が押さえ付ける力がぐっと強まってビクともしなくなったので、つい翠莱が彼を見上げると、彰は悲しい程、真剣な顔をしていた。

「…できるよ。」

いつもより少し低めの声で彼は言った。その一瞬、2人の真剣な視線が交錯する。

このまま溺れてしまおうか、そんな誘惑が刹那彼女の頭をよぎる。そうすれば、どれだけ満たされた心地になるだろう、そして、それはどれだけ虚しいことだろうーー。

その直後、ゴスッという痛々しい音に、彰は悲鳴にならない悲鳴をあげた。翠莱の脚は平然と彼の急所を蹴り上げていた。

「おっま…お前…ここ蹴る奴があるか…おま…まじ…」

「セクハラで訴えますよ。」

条件反射のように蹲った彰に対し、冷たい目で見下ろしながら翠莱は言った。

「あーいってぇ、まじ…容赦ねーな。」

彰は苦笑いでようやく立ち上がった。

もう、2人の距離はいつも通りに戻っていた。

「おら寝んぞ。明日の朝早ぇだろーが。俺が。」

「知りませんよ。」

セミダブルのベッドは2人が寝るのには少し窮屈だが、かと言ってどちらもソファーで寝ようとは思わない。

「お前もうちょい奥いけねーの?」

「だったらもうちょっと痩せたらどうですか師匠。」

「うるせーよ俺は細マッチョだもんね。」

高校生のように言い返しながら彰もなんだかんだでベッドに入る。彰が無遠慮に寝っ転がったので、上体を起こしていた翠莱もその隣に身体を横たえた。

「あぁ、そういやこないだ、昭徒(あきと)さんに会ったぜ。」

桔城昭徒は翠莱の父であり、彰にとっては科学者として先輩研究員にあたる。

「お前はどうしてるかって。」

「どうせ、ろくでもない報告したんでしょう。」

翠莱のその言葉に、彰は何も返さなかった。あの時彼が昭徒に言ったのはほんの一言だった。『あいつが、俺の弟子で良かった。それだけです。俺にとってはね。』昭徒はそれだけでも、幸せそうに笑って頷いていた。

「お前らも結構、強くなったよな。」

唐突に彰が口を開く。

「何ですかいきなり。」

「成長したなと思ってよ。」

柔らかな笑みを浮かべながら、彰は言った。

「…そうでもないですよ。」

翠莱はポツリと言った。

だから言わないでほしい、これだけは。もう俺がいなくても大丈夫だな、なんてーー。

「ま、まだまだだけどね!俺より強くなってもらわねーと困る。」

意地悪く笑いながら彰はそう言った。

そこで急に、彰が咳き込んだ。そういえば、最近は咳き込む姿をよく見かける。

翠莱は黙ったまま、そっと隣に寝そべる師の背中をさすった。

「悪ぃな。」

咳が落ち着いてようやく彰が言った。

「…大丈夫ですか?」

「まぁちょっと肺だか気管支だかが最近調子悪くてよ。」

さっきは風邪だとかホラ吹いてたくせにと翠莱は思ったが、彼女は医学の心得がある。彼女はおもむろに覆いかぶさるようにして彼の胸に耳をあてた。

「えっちょっ翠莱?あの…」

慌てる彰に対し、翠莱は「深呼吸してください」と冷静に言った。

「ちょ、いや待て、無理。」

「何言ってんですか。黙って…」

意味が分からない彰の反応に、しびれを切らした翠莱が不意に顔を上げると、首元まで紅潮しているのを隠すように片手で口元を覆い、視線を逸らす彰の顔がすぐ目の前にあった。至近距離にある桃色に染まった色っぽい首筋から、シャンプーの匂いだろうか、ほんのりと甘い香りがかすめて、あまりの近さに眩暈を覚えそうになる。翠莱はパッと元の姿勢に戻ったが、彰はそれが堪らない。なぜなら、呼吸音は兎も角、それと同じ辺りにある別の音を聞かれるのがまずいから。こんなにも、速く激しく脈打っていることなんて知られたくないし知られてはならない。

「し、師匠、早く深呼吸…」

彰は吐息が震えそうになるのを必死で抑えながら何とか深呼吸をして見せた。その呼吸にはゼエゼエという雑音が混じっていて、彰が言うように気管支炎もしくは軽度の肺炎であろうことが分かる。

翠莱は急いで身体を離し、平生を装って「(びゅう)先生に診て貰えばいいじゃないですか」と言った。緋雨謬は彰の同期であり、親友の1人だ。

「やだよめんどくせーじゃん。」

彰もまた普段通りの調子で返した。

「あーもー、いいから寝るぞ。はい、おやすみ!」

彰がリモコンで部屋の電気を落とす。

暗くなった部屋の中で、翠莱は確かに聞こえた彰の鼓動の音を何度も思い出していた。



次の日に会った2人の様子はいつも通りだった。偶然にもその日は2月14日、世に言うバレンタインデーという日である。

「師匠、バレンタインデーだからチョコレート。はい、翠莱にもね。」

等梨はふわりと笑顔を浮かべて2人にきれいに包装された包みを渡した。流石に手作りとはいかないが、こういった気遣いができるのが等梨らしいところだ。

「おー!ありがとうな、等梨!」

彰は笑顔でそれを受け取る。

「で?お前は?」

「ある訳ないでしょ。」

翠莱は師を睨みつけて言った。無論彰も分かっていて聞いている。翠莱はこういったイベント事には疎い人間だ。

「お前、女の子だったらお世話になってる人に義理チョコ?とか渡すのが礼儀だろーがよ。」

小馬鹿にしながら彰が言う。

「余計なお世話です。」

翠莱は冷たくそれをあしらった。

彼女は等梨のような可愛げのある女の子にはなれないし、なりたい訳でもなかった。どちらかと言うと、そういう女の子を守ってあげたいのが本心である。

「ま、俺はモテるからいっぱい貰えるし別にいーけどー。」

彰はまだそんなことを言って翠莱をからかっている。

だが、そんな彼が驚いたのはそれから丁度1ヶ月後のことである。

「人をからかうしか能の無い女々しい師匠にはホワイトデーの方がお似合いかと思いまして。」

そう言って翠莱は、押し付けるように彰に包みを渡した。これには等梨もびっくりである。

「なになに、お前俺が言ったこと気にしてたの?」

彰はニヤニヤと意地の悪い微笑を浮かべている。翠莱はそれを無視して等梨にも「バレンタインのお返し」と言って包みを渡した。

すると、不意に2人の前に可愛らしい小箱が出てくる。

「等梨はバレンタインのお返しな、ありがとう。で、ほら、俺モテるからお返しも大変でさ、ちょっと余っちゃったからお前にもやるよ。」

「それはどうも。」

いちいち素直じゃない2人に、等梨はつい笑ってしまう。

「え、何これ、お前手作りなの?」

彰は翠莱に貰った包みを開いて相変わらずニヤニヤとイタズラっぽく笑いながら言った。

「むしろどこに買いに行けっていうんですか。」

翠莱は少し恥ずかしそうに言ったが、彼女が実は非常に料理が上手いことは等梨もよく知っている。

彰は早速、美味しそうなチョコレートの粒を一つ口に放り込んだ。

「うまっ」

等梨には、そう言った師の横顔が何だかとても嬉しそうに見えた。

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