九
その夜もアーツは庭園で時をすごしておりました。
「皇子、このような時間に何をしておられるのです」
アバンが背後から咎めるように問いました。
「なに、少し夜風にあたり、熱を冷ましているだけだ」
その返答にアバンはアーツの内心を察したのでしょうか。
「国王の目的はルシェ嬢の意を得るためであったというのに。皇子、あなた様が囚われてしまった熱は夜風で冷めるものでございましょうか?」
アーツは暗闇さえも眩しいとでもいうように目を閉じたのです。
「アバン……私は……ヨークス殿に話してしまったのだよ、私がナーラの皇子であると――」
そしてヨークスとの会見の様子を打ち明けたのでした。
それを聞いたアバンは、言葉を失くし、まじまじとアーツを見ました。
アーツは無論、アバンもヨークスの真の意と、サラエの秘密を知りません。アーツの求婚宣言ともいうべき申し出を、ヨークスは喜んで受け入れるべきと思ったのでしょう。
「それであなた様はすごすごと引き下がったといわれるのですか?! 皇子、あの娘を娶れば、父親が持つ先見の力が利用できる。国王の真意はそこにあるはずです。城内で娘がどう振る舞おうと文句はつけますまい。皇子が求めるなら、攫ってでもナーラへ連れてまいればよいのです」
「わたしにあの花を手折ってしまえと言うか? 咲かぬ花をはべらせたとて、果てはいつぞやの老婆の家壁の花冠になってしまうだけではないか」
「ならばなぜ、ご自身で咲かせようと思いませぬ? あの娘に皇子を選ばせればよいのです」
アバンにとって、アーツは国中の娘から恋われる容姿を持ち、ナーラ国王とは違い、真面目な人柄を持つ国を変革できる世継ぎです。その気になればルシェの恋情を掴むのは易いことと疑わないようでした。
アーツ本人は初めて恋心を抱いた相手がルシェだったのです。現在まで孤独を貫いてきた身なればこそ、ルシェにどう接っすればいいのか、戸惑ったとしても仕方がないのかもしれません。
「それにしてもナーラ皇子と名乗ってしまったのは、早計だったかもしれませぬ。これを機に国へ帰ってはどうでしょう」
アバンの言葉に、アーツはかすかに顔をしかめたのでした。身分を明かしてしまった以上、サラエ国王になにがしかの動きがあってもおかしくないと、そう気づいたのでしょう。
「私はまだここを離れたくない……が、確かに長い日を過ごしてしまった」
ここにきて、二人は自国へ何の連絡もしていなかったことに気が付いたのです。
アーツに向かいルシェの意を射止めよといったばかりのアバンは、何やら考え込んだ後、報告のため一人の兵を帰国させることにしたのでした。
それより数日経ったナーラ国では――。
いつまで経っても皇子が帰ってこないことで、ナーラ国王は疑心に捕らわれておりました。
疑心は焦燥に、やがて怒りに、最後は敵意に変っていきました。
「わしとしたことが、アーツを直接行かせるなど甘く見ておった。サラエはアーツを人質にしているに違いない!」
そう思い込んだ国王は皇子奪還のため大軍を編成しナーラに向かわせようとしていたのです。
そんな時、アーツの護衛兵だった、ケルという若者が戻ってきたのでした。
「皇子はサラエの庭園をたいそう気に入られ、今しばらく滞在したいご意向にあられます」
ケルはアバンに命じられた通り、アーツの状況を王に報告したのです。それには、アーツがルシェに執心していること、身分を明かしたことは含まれていません。ケル自身も知らないことでした。
ナーラ国王はケルに向かい、根ほり葉ほりアーツの様子を訊ねます。ケルはサラエの様子を上手く表現する言葉が見つからないようでした。
「サラエの庭園は……何とも人を惑わせ、煙に巻く空気が漂っておりました」
癒しの力の渦中にあって、安らいでいた気分が、離れてみるとそうとしか思えなかったのでしょう。
問いただしには当然、ルシェについて、もあったのでした。
「ルシェという娘は、見た目は噂に違わず可愛らしい娘です。しかしながら、十七にしては浅はかな娘でありました。一度など、王が遣わした花壺をどこぞの老婆にくれてやろうとしておりました」
ケルがルシェと直接近くで過ごしたのは、グラバーを訪ねた日だけだったのです。異様な匂いに遮られ、グラバーの昔語りを、ほとんど聞いていなかったらしいケルも、ルシェの一言だけが棘のように、記憶に残っていたようです。
それを聞いたナーラ王。
一度抱いた疑念が再び湧きあがったようでした。それも、あらぬ方向へ向かい。
――先見のヨークスとは不可思議な術者かもしれぬ。花壺を送ったのもアーツを行かせたのも、間違っていたかも知れぬ。アーツはその術にはまっているかもしれぬ。そして、我が国の工芸技術の秘密をもらすやもしれぬ――。
同じ頃ヨークスは再びあの夢を見ておりました。帯状の灰煙が陽炎のようにナーラに向かってくる夢です。
ヨークスはすでにアーツの正体と夢のことをサラエ国王に報告してありました。
アーツにルシェを諦めさせようと、知恵者たちは手立てを模索しながら、夢の意味もひも解こうとしていたのでした。
やがて夢は現実となって、ナーラの大軍がサラエへと動き出しました。
「三日の距離を二日で早駆けせい!」
ナーラ国王の一声で、軍馬のひずめが蹴散らす土ぼこりが、灰煙の塊となってサラエへと向かったのです。
ヨークスも夢の結末が、などと言っておれなくなりました。
すでにむき出しの闘気を察知した、稀な力ある人たちと側近が、王に様々な進言をしはじめたからです。ルシェも、今までにない大きな負の塊が流れこんでくる異様さを感じていたのでした。
「ヨークスの先見が違ったことはない。だが、しかし、現状でナーラ以外にここを攻めようとする国はないであろう。ヨークスの先見があったということにして、すぐにアーツ皇子たちと謁見しようぞ」
サラエ国王の命でアーツ一行は城に移されたのでした。
アーツ、アバンと護衛兵たちにサラエ国王は言ったのです。
「アーツ皇子、和の国サラエに貴国の兵が押し寄せようとしている。ヨークスの先見でそれは明らか。して、皇子に問う。それは何ゆえかと!」
アーツは一瞬頭の中が真っ白になりました。ですが、ヨークスの先見があったとなれば、信じないわけにもいかなかったのでしょう。父王の気まぐれも短腹も十分知っており、確信をもって否を断じることも出来ないようでした。
「父王の考えなど我が身は知ることはできませぬ。できませぬが、我が国の兵であれば、我が身を以て静止いたしましょう」
アーツたちはサラエの一軍とともに国境の平地で、ナーラの大軍を止めようと待ち構えたのです。
すぐにも退避できる人々は、即座に首都を出るよう王命が出されました。小国で兵の数が圧倒的に少ない中、サラエの血を一滴でも多く残すためでした。
首都に残されたのは老齢な者と小さな子どもたちです。
その中にはグラバーもおりました。残った者はヨークスの屋敷に集められました。
知恵者たちはナーラの急襲をひも解くにあたり、一つだけ読み違いをしていたのです。城よりヨークスの屋敷の方が安全であろうと。
事の次第を知らされたフルルは、屋敷に集まった子どもたちの不安を静めることに力を注いでいったのでした。