三
それから半月ほど経ち、ナーラ国王はヨークスから届いた招待辞退の返書に眉をひそめ、歯をギリリと鳴らしました。
「断るだと! わしをこけにしおって」
しかし、ナーラ国王は怒り任せにヨークスやサラエ国へ、紛争を仕掛けたりはしませんでした。かといって黙って引き下がることも良しとはしなかったのです。
「来ぬというなら次の手を打つのみじゃ!」
国王は皇子に命じました。すぐにサラエ国へ向かえ! と。
ルシェも年頃の娘。国中の娘たちから憧憬を集める皇子を一目見れば、心動くはずだとナーラ国王は信じて疑わないようです。
アーツ皇子は父王の命に従い、三日後に五十人の兵を引き連れてナーラ国を発ちました。
ナーラの山脈越えに慣れない皇子の安全と、深森に住まう獰猛な動物から皇子を守るため、護衛の兵士たちがついたのです。
二昼夜をかけて、山脈沿いの深い森を抜け、ナーラの国境までやってくると多くの兵は引き返していきました。
「大勢の兵でサラエに踏み込んではならぬ」
事前にそう国王から指示されていたのです。
すでにこの動き自体がヨークスに悟られることもあるのだと、ナーラ国王は考えたのかもしれません。
そこからサラエ国までは平坦で危険がほぼなくなり、数名の護衛だけで十分でした。
やがてアーツたちはサラエの首都を一望できる丘にたどり着きました。
そこは岩盤に囲まれたナーラ国と異なり、薄い緑の平原が一面に広がっていたのでした。
アーツは目に見えない大気までもが、自由に羽を伸ばしているように感じたのでしょうか。両腕を広げ大気を深く吸い込むと、傍らの護衛たちへ向かって静かに笑いかけました。
「ここは風も陽も暖かい。こんな地がすぐ隣にあったとは。世界はわからないものだ」
生まれて初めて自国の外へ出たアーツの心躍っている様が、ありありとその顔に浮かんでいました。
「皇子! サラエの庭園はあそこですぞっ!」
そう叫んだのはアーツが父親のように慕う側近長アバンです。普段あまり見ることのないアーツの表情に、つい意気込んでしまったのでしょう。
サラエの庭園――ルシェの住む屋敷はそう呼ばれていました。
小さな国の小さな首都にある大きな庭園は、常にやわらかな陽ざしに満たされていました。
緑と黄色の敷地は一目で見つかり、どんな旅人も迷わずたどり着くことが出来たのです。
「では、父上のめがねにかなった娘を見に行くとしよう」
兵と一緒に馬を帰したアーツは、護衛とともに徒歩でゆっくり進みだしました。
やがてヨークスの屋敷前に着いた一行に、庭園から賑やかな笑い声と歌が聞こえてきました。フルルと子どもたちです。
「ずいぶんと騒がしいのだな。我が居塔より人がいるような気がする」
「皇塔の侍女や我らが無口なのは皇子の意向を知っておるが故でございます」
アーツの言葉に、アバンがわずかに苦い笑みを浮かべながら応じました。
「だが、なんとも心安らぐ歌ではないか。耳に心地よい」
アーツはアバンと護衛たちに向かって穏やかな笑みを返しました。
そして旅人を装いヨークスの屋敷を訪ねたのでした。
アーツたちは早速庭園へ案内されました。
もてなしはルシファの作ったスープと硬菓に果実です。
一行は整然と並んだキノコのような足をしたテーブルに座り、庭園をながめました。
そこではフルルとルシェ、両手足の指の数をこえる子どもたちが、数えきれない花の色彩に、溶け込むかのようにたわむれておりました。
ある子は色とりどりの花で花輪を作っています。フルルが大きな絵を広げ語り唄を歌っています。フルルを取り巻く少年たちも、目を輝かせ語り唄を声高らかに歌っています。少女たちとルシェがそれを囲む輪になって、笑い声を響かせながら、舞い踊っています。
いつもひっそりと皇塔で過ごしていたアーツは、その光景に魅入ってしまったかのようでした。
やがて一人の少女がアーツに歩み寄り花冠を差し出しました。
「これを私に?」
「疲れた旅の人はね、これをおつむに載せると元気になるって喜ぶの」
「私が疲れているように見えるのかい?」
アーツがクスリと微笑むと、少女は恥ずかしそうにもじもじして言いました。
「ルシェ様が言ったの。お兄さんに渡しておいでって」
アーツが庭園に現れた時ルシェに流れてきた感情は、暗い寂しさでした。それはルシェが幼い時抱いたものと似ていましたが、より深く大きなものでした。
ルシェにわかるのは感情だけで、考えまでは読めません。それは決して喜ばしいことではありませんでした。
もしも考えまで知ることが出来たとしたら――ルシェはもう少し幸せだったのかもしれません。その感情がなぜ湧き起っているか、その理由も同時にわかるのですから。
旅人は様々な苦しみや負の感情を抱え、疲れきっている場合が多かったのです。サラエの庭園に行けば安らぎが得られるそうだ。そんな話しが人伝いに伝わっていたのでした。それを聞いた人々が一時の安らぎを求め、サラエの庭園を訪れていたのでした。ですが、庭園に癒しを求める旅人の負の感情が、濁流のようにルシェへと流れ込んでくれば――。
ルシェはそれがなぜかわからないままに、その感情に押しつぶされんばかりに巻き込まれていたことでしょう。
庭園に流れる語り唄は、フルルが旅人たちから聞いた出来事を絵に描き、お話しに節をつけた歌でした。その歌詞でルシェは旅人がなぜ悲哀、憎しみ、疲れなどの感情を抱くのかを理解することが出来たのです。さらに屋敷に逗留していくうちに、旅人たちの負の感情が癒され、わずかずつ、嫋やかに変化していく様も感じとることが出来たのでした。
アーツと護衛たちはその後も屋敷に逗留していました。屋敷にそれをとがめる人はいません。心が深い負の感情に覆われている旅人が、数ヶ月屋敷で過ごすことも珍しくなかったからです。
ルシェとフルル、子供たちが戯れる庭園を眺めながら過ごすうち、アーツの感情は穏やかに凪いでいきました。
それがフルルが持つ不思議な力でした。フルルの唄には人の心を癒す力があったのです。
その言の葉が、子供たちの純粋に楽しむ歌声と共鳴しあい、癒しの効果が増幅され周囲に作用していったのでした。
ルシェの父ヨークスはそうと知っていてフルルをルシェの傍に置いたのでしょう。そして母ルシファは見抜いていたのです。フルルの力が子らの純粋な心と交じり合うとさらに大きくなることを。フルルがいなければ、ルシェが人々の感情に翻弄されてしまうということも。