トイレで絡んでくるのはマジ勘弁
床から壁まで、一面白いタイル張り。
東壁面上方に複数の窓。その下に小便器が並び、反対側にも個室が三つ。
言うまでもないが、ここは男子トイレである。
じじじじじっ。
僕がトイレ内に入るなり、どこからかその音が聞こえてきた。
音がする方、東側奥の天井に目を向けた。あった。監視カメラが。
トイレ内にカメラって……ここ盗撮かよ?
でも、個室の方には向いてないし、単に監視目的だろうけど?
この学園って、カメラが至るところにある。教室や廊下にもあるし、体育館、理科室、保健室にもあるって話だ。
セキュリティ第一の私立だから、そうなってるのだろうが、過保護っていうか、生徒がモルモットにでもされてるみたいで、あまりいい気分じゃない。
さて……。
僕がトイレに来た時には、誰もいなかった。
用務員さんが掃除を終えたばかりのようで、辺りに洗剤の刺激臭が漂っていて。個室もすべて開いていて。
じょぼ、じょぼじょぼ。手前から二番目の小便器に行き、用(小)を足す。
……あの緊縛少女ってなんだったんだ?
本気で僕を食べようとしてたのがホラーだったけど、なんで、あんな罠まで仕掛けて人間を食べたがってたんだ? その辺すげー謎だし、あいつってクラス一緒なのか?
見たことがないやつだった。けど、まだクラスメイトの顔、半分も覚えてないし。
それに、あの予言者。
あいつもちんぷんかんぷんだった。
あの衝撃立体映像ってなんだったんだ!? 僕がバトルとこといい、あんな恥ずかしいことしてたとこといい。
けど、一番不可解なのはあのUMA。あいつの生態が一番気になる。
あいつって普段何を食べて生きてるんだろう?
肉食? 草食? 雑食? 人間で言うと何歳なんだ?
さっき廊下で会った二人の少女のことを思い浮かべながら、じょぼじょぼとやっていたら。
しばらくして(そこに来てから数十秒も経たずに)、左隣から奇怪な声が聞こえてきて。
「ぐる、ぐるるぅ……」
何か獣じみた唸り声だった。
知性を微塵も感じさせない(人のものとは思えぬ)類の。
後から隣の小便器に来た生徒が、その声を発しているようだ。
トイレ中に隣のやつを見るのは、マナー違反。だから、僕も最初は気にしないようにしていたけど。
そんなこっちの配慮を嘲笑うかのように、「ぐるるぅ、ぐぎゅるるるぅ」容赦もなく声は続いて。遠慮するどころか、いや増しに大きくなっていって。
それに声だけじゃなかった。
なんだ、この臭い? 仄かな異臭まで漂ってきたのだ。
こんな臭いって……子供のころ、サファリパークに行った時に嗅いだことがあるような……って、誰がいるんだよ!?
耳と鼻を刺激する存在が気になり、そっちを見ると。
……………………………………………………。
んだ、こいつ?
全身が白き毛に覆われ、墨を垂らしたような黒い縞がある化け物がいた。
尻で尻尾を揺らし、後ろ二本足で直立している。
だけど、本来は四本足で移動するのが性に合ってそうな。猫が大きくなって狂暴な雰囲気をまとったような、そんな面妖な怪物だった。
……白虎だ。
あたかも神代からでも現れたような白い獣が、小便器で用を足していたのだ。
「ぐるぅ、ぐるるぅ」
牙を剥き出しにし、吠え声を上げながら。
……こいつって、トイレマナー悪すぎ!! じゃなくて見事に魔物!!
堂々とこんなとこにいるって。普通にトイレしてるって。
どんな種類の生き物だよこいつ?
そうなのだ。
昨日、この学校、私立土瑠素学園に転校してきたばかりの僕は、まだ学園のことをよく知らない。クラスメイトや先生の顔と名前、どんな部活があるかとかさえ。
まともに話したのは、クラスでも隣の天使、クラス委員長の喩子さんだけ。
心の中で彼女をもう下の名前で呼んでる僕もアレだけど、それくらい喩子さんは特別な人ってことで。実際のところ、天使じゃなくて割と変人っぽいけど。
が、そんな状況にも関わらず、二日足らずで早くも判明したことが一つだけあって。
この学園は変だ。
明らかにおかしい。
この学校に来て以来、ありえないことばかりが続いている。
昨日は、首筋や手の甲に鱗が見える国語の先生(二十代中半女性)が「あたしは蛇人間です」と真顔で自己紹介していた。頭部が三つある犬がキャンキャンと廊下を散歩していた。先生の時も犬の時もいずれを気にする生徒は一人もおらず、さも当たり前とでも言うように見過ごされ、授業は滞りなく進んでいたし犬も悠遊と歩いていった。
今日は今日で、少女が廊下で縛られてたり、予言者(?)やUMAが現れ、今トイレに魔物がいる。こんな状態。
なんかサスペンスだ、この学園。
てか、異界だここ。
「うぐるあああ♪」
と、低く地の底から響いてくるような声がして。
白虎が顔を上げて、こちらを向いていた。
白い毛に覆われて黒い縞が映えた虎顔……。
自然に互いの目が合って。
その深き青紫の瞳孔を備える眼と、僕の目が。
やつの方が一メートル近く背が高いから、こっちが見上げる形で。
「……”え……いや……」
つい口ごもってしまう僕。
「……別に見ようとしたわけじゃなかったんだよ……ご、ご免……悪気はなかった……!!」
焦って言うも、青紫の瞳孔をぴくりとも動かさず、背を波立たせるようにその身をくねらせて。
「あんぎゃあああああああ!!」
隣で大口を開き、耳を聾せんばかりの雄叫びを上げてきた。
牙をむき出しにし、ずずっと顔まで寄せてきた。
ヤバぁっ!! すかさずその場から跳ね、白虎の噛み付きをかわす僕。
その後、慌ててジッパーを上げていると、びゅおおおおん!!
大理石のごとく濃白色の爪をした白虎の右手が、手を開いたまま、ロングフックをかましてきて。
く……っ!! ばっと身を屈める。
頭上を、腕がびゅうんっと素通りしていく。
こ、こいつ……!? 予告もなしに襲ってきやがった!!
なんて獰猛なやつだ。こっちは喧嘩する気なんて、さらさらなかったのに。
バトル経験ゼロの僕は、さっきの予言映像みたいに武闘派し出すどころか、無抵抗そのもので。
魔物が左、右、左、右と連続的にフックしてくるのを、後退しながらかわしていって……かわすっていうかジリ貧で。
一メートルほど退がったところで、びゅぎゅああん!
その重たげな身体には想像も付かぬしなやかさで、白虎がくるり回転して。
ずっさああああと、後ろ蹴りをかましてきて。
幻惑するような動きに目くらましに会い、呆然とした隙にどっぐあああん!!
瞬時に両腕でボディをガードしたものの。
「くっはあああ!!」
なんて蹴りだ……ガードの上からもずしんと来る一撃……いや、来るどころか……。
ずうううううん! 腹を抑え唾を飛ばしながら、トイレ入り口そばの壁まで吹っ飛ばされていた。
びしぃ!! 背中や肩が壁に当たり、身を横たえて「うぐううう!!」と唸る僕に。
影がにじり寄ってきた。白虎が近づいてきた。
魔物め、とどめを刺しにくる気?
何考えてんだこいつ。僕が何かしたかよ? 普通にトイレしてたら、一方的に攻めてきやがった。なんなんだ、この凶悪モンスター。
……変とか異常どころじゃない。危険だ、この学園。
視界斜め上方に、虎の顔が見えた。
白虎を睨み付け「ぜえ、はあ」と息を荒くしながら、短時間で訪れたこの危機に、こっちは改めて気が滅入っていた。
ったく。二人も埒外な少女に会った後に、トイレで一休みのつもりが、休むどころか命の危険に晒されるって……。
人外学園かよここ?
額をたらたらと汗が伝ってくる。
と思ったけど、これって汗じゃない?
今の弾みで、ぶつけたみたいだ。額のどこかから垂れてきたものが、傾けた顔の口元まで伝ってきた時、その鉄みたいな味で気づいた。血だって。
じわじわと魔物が迫ってくる。
くそ、動けねえ。手足が、鉛みたいに重くなっている。
今の相当効いた? ボディに食らったのに、頭の中ががんがん言っている。
白虎が、両腕をこっちに向けてくる。
がっと僕の胸倉をつかんできて。
「ぐるるるるぅ……!!」
その膂力に抵抗もできず、宙に持ち上げられる僕。
額から血を垂らし「ぜえぜえ」と喘ぐこっちを、白虎はさらに高く掲げて、「ぐぎゃるぎゃおおう!!」 と投げ飛ばそうとしたのか、両腕を軽く曲げたその刹那。
「あたしの食糧に何してる~~!?」
トイレ入り口で甲高いアニメ声がして。
「たあああああああああああああああああああああああ!」
掛け声とともに、そこにいた少女が金髪を振り乱し飛び跳ねてきやがった。
ずがああああん!! 白虎の背後から、後頭部に強烈な跳び蹴りを見舞ったのだ。
彼女だ!!
彼女というのは、もちろん今さら説明するまでもなかろう。
廊下から現れたあの少女。
縛られていたセーラー服だった。
さっきと違って、縄がほどかれている。その縄を丸く束ねたものを右肩に背負い、猿ぐつわもはずした姿で。
「きみ、誰かに自由にしてもらったの!?」
「ふふふ。誰にもしてもらってないわ。自分で脱出してきたの♪」
だよな、罠だもんな。
人に助けてもらう必要なんてないよな。
「脱出って……。んな手品みたいなことできるなら、最初っからそうしてくれよ!!」