1.始まりの鐘
一筋の光も無い、正真正銘の闇。深淵の底が広がっている。
それを知覚した次の瞬間、雲間から零れる陽の光のように、ゆっくりとそれでいて雄大な白が辺りを照らしだした。
それと対となるように、肉声と殆ど差異のなくなった機械音が霧笠雨竜の耳へと届く。
『Welcome to the Walhalla Online』
仮想空間を現実世界へと彩るその証は、一気に雨竜を引き摺りこんだ。
それと同時に雨竜は自身の身体をしげしげと見つめ、不思議な気持ちになる。
世界最高峰として名高い株式会社ユークリッドが手掛けた新発売のVRMMORPG"ヴァルハラオンライン"。それこそ雨竜が今からプレイするゲームタイトルだ。
ヴァルハラオンラインでの仮想空間内での自分、俗に言うアバターは現実の自分と瓜二つの姿をしている。これは株式会社ユークリッドの社長の享楽雅が最高峰のリアリティを求めた結果となった。これについて消費者の一部から不満が飛んだが、結局このシステムに変更は加えられず不発に終わる。
中肉中背の一般的な体格をしながらも、筋トレを欠かしてないが故に程良く引き締まった肉体に、切れ長の鷹のような瞳。初対面では少しだけキツイ印象を抱かれるそれも、温かい笑みがそれを打ち消してくる。手入れはしていないのか、無造作に流されている黒髪も、生来の容姿のお陰で不潔な印象を持たない。
『一度<神々の黄昏>により滅亡を迎えた世界は、一部の<楽園>を残して荒廃の一途を辿った。
<楽園>には多種多様の種族が住み、滅亡を迎えようとも逞しく、それでいて幸せな時を過ごしていた。
しかし、四四四四の鐘が鳴り響いた時、腐敗した大地から魔物が、<地獄>からは魔族が現れ、<楽園>を侵略し始める。それを防ぐには自然が唯一残った聖域である<世界樹>から宝玉を、<地獄>から鍵を、そしてその鍵を用いて<神の宮殿>へと入り、その台座に宝玉を納めて結界を発動することである』
プレイする前から読み返したシナリオが荘厳なBGMと共に朗々と語られていく。
スキップしたい、と逸る気持ちを落ち着かせ、雨竜はその後のオープニングを聞き流していた。既に頭の中はゲームの事しかなく、オープニングそっちのけでゲームの前情報を思い出し、その情報を羅列しながら整理する。
このゲームの最大の特徴はMMORPG特有の職業という概念を失くし、膨大な量を誇るスキルこそが売りだと雨竜は思っていた。勿論、練りに練られたシナリオやハイエンドなグラフィックも勿論のこと魅了される。しかし、それ以上に無限大の可能性を秘めたこのシステムこそが胸をときめかせて止まない。
スキルはパッシブとアクティブの二種に分かれ、その量は千を容易く超えているらしい。それもそうだ、武器の種類が三十以上からなり、またスキルには魔法も存在する。武器のスキルだけでその数は悠々と千を超えているはず。千どころか雨竜の予測だと総スキル数は三千は固いと見ていた。
また、スキルにはそれぞれ熟練度が設定されており、熟練度の上昇により効果も上昇されていく。また、スキルの熟練度を一定以上育上昇させると、樹形図のように新たなスキルが追加されていくのだ。他にもレベルアップによりスキルは開放されることもある。そしてスキルを取得するのにこれといった条件はなく、従来のポイントを割り振って考えるスキル構成で頭を悩ませることはない。言い変えてみれば、努力さえすれば全スキルを取得する事も夢ではないのだ。
また、ステータス自体は従来のMMORPG通り、HP、MPSTR(筋力)、DEX(敏捷)、INT(知能)、LUK(運)から構成され、レベルアップ毎に各基礎能力値は上昇し、五のステータスポイントがボーナスされる。プレイヤーは各々の育てたい方向性によりそのポイントを割り振るということだ。
そんなことをつらつらと考えていると、ようやくオープニングは終わりを迎え、雨竜の目前へ宙に浮かぶウィンドウが出現する。
『プレイヤーの名前を入力してください。なお、先に登録されている場合は無効となります』
「レイン、と」
『名前が有効か診断中…………有効。性別を入力してください』
「男性」
『ボーナスポイントを割り振って下さい』
その声と同時にステータス画面が開かれる。
そこには初期ステータスとボーナスポイントの十という数字が表示されていた。
HP:50
MP:30
STR:10
DEX:10
INT:10
LUC:10
雨竜は迷った素ぶりなく宙へ浮かぶウィンドウに手を滑らせ、すぐに与えられたポイントを割り振った。
HP:50
MP:30
STR:20
DEX:10
INT:10
LUC:10
『お疲れ様です。それでは<ヴァルハラオンライン>をお楽しみ下さい』
今まで白かった空間はその輝きを増していき、最後には眼を開けていられないほどの白が世界を染める。
キーン、という音が辺りを木霊し、雨傘雨竜――レインの身体は〇と一へと変換されその場から消え去った。
今まで滑らかに聞こえていた機械音声。しかしその声はまさしく生々しい肉声のそれへと質を変え、そして零した。
『さぁ、足掻いて見せろ』
◇◆◇◆◇◆◇
眼を開けると、そこには壁のような石碑が存在していた。黒曜石を材料としたのか、黒々としたそれは太陽の光を受けてキラキラと煌いている。
石碑の前にはレインと同じように多数のプレイヤーが興奮冷めやらぬ声で口々に騒ぎ立てる。
どうやらここがスタート地点のようだ。レインは当たり前のことを漸く認識し、それに次いで辺りを見渡す。ごった返しの満員電車のように、少しでも歩けば隣のプレイヤーと肩をぶつけるほどこの場所には密集していた。
耳を澄ませてみると、どうもこの石碑から一定間隔以上離れると、見えない壁のようなものに阻まれるらしい。レインも試しに歩いてみようと思案したが即座に却下。どうせその壁に辿り着く前に人の壁に阻まれる。
それに見えないの壁の原因も、このヴァルハラオンラインの公式サービス開始時刻に達していないのが原因だろう。仮想空間内に埋没したのは午後十八時ジャスト。確か公式的に開始されるのはその三十分後だったはず。
ならば今の内に現状の理解に励んでいた方が得策だというのがレインの考えだった。
ステータス画面は先程と変わるはずもないので無視。コールと呼ばれる動作で、口頭によりウィンドウ画面を宙へ出現させる。
「オープンウィンドウ」
出現したウィンドウには項目毎に枝葉しており、ステータス画面、スキル画面、アイテム画面のゲームに関するメイン画面に、システム画面、フレンド画面、ギルド画面といったサブ画面も幾つか存在する。
その内、レインはアイテム画面をクリックして手元にあるアイテムの種類を眺めていた。
「初期装備一式とライフポーションが五つ、マナポーションが五つか……。
んー、初期装備はどうせ売っても端金だし、初めならマナポーションの全売りで装備買えるかな?」
自分が目指す戦闘スタイルの為の武器を手に入れる為の金策を考える。前情報なら、一部を除いた全種類の初期武器は初めの街<城塞都市ガーランド>で購入できるらしい。これは様々な武器やスキルを楽しんで欲しいという開発者の意図によるもの。
流石にレインのようにマナポーションを売ってまで最初から揃えるプレイヤーは少ないだろうが、それでもスキルを育てる関連から見ればその行動を間違いと言い切るのも難しい。
それに次いでスキル画面にも目を移す。膨大な数のスキル全てに目を通すのは至難の業だが、自分が望むスキルだけならどうにかなるというレベルだ。それも初期だからだけであり、レベルが上がるにつれてその作業も比例して多くなる。
ヴァルハラオンラインではスキル所得にこれといった制約はなく、所得ボタンを押すだけでそのスキルは取得される。ただ、パッシブスキルなら装備してそのスキル毎に設定されている条件をこなせば熟練度は上昇するが、アクティブスキルは装備してスキルを使用しなくては熟練度は上昇しない。
レインはスキル画面を速読の要領でスクロールしていき、現在習得できるスキルをあらかた見終わる。それと同時に欲しいスキルを片っ端から所得していく。
<武器:鎌>
<パッシブ:索敵>
<パッシブ:隠蔽>
<アクティブ:シックル>
<アクティブ:ダークアロー>
<アクティブ:アイスアロー>
<アクティブ:ヒール>
鎌はレインが主武器とする予定である両手武器の一種で、中・後衛型で魔法と組み合わせることにより真価を発揮するカウンター型の武器である。鎌は両手武器の為に取り回しが大きく、攻撃速度も遅くて近接防御手段が乏しいが、その一撃一撃には鎌特有のアビリティ<断罪>が加えられ、クリティカル率が他武器より二倍に設定されている。また、鎌自体の攻撃力やスキルの威力補正も高く、火力だけで見れば大剣などの脳筋と同クラスの火力を叩きだし、スキルにより必中のクリティカルなどもあり、火力だけで言えば最高峰なのだ。それに、杖や本に比べると断然と劣るが、一応魔力補正もあり魔法との併用も可能である。
パッシブスキルの二つは読んで字の如く、索敵の方が視界外の存在を脳内、またはウィンドウに投影する事が可能になるスキルだ。投影すると言っても、脳内に簡易マップが表示され、その表示された簡易マップにプレイヤー、NPC、モンスターなどの種類に判別されるというもの。スキルが高くなるほどその詳細も増えていき、完全習得すれば気配を感じとることすら出来るほどだ。
もう一つのスキルである隠蔽はプレイヤー、NPC、モンスターから発見され辛くなるというもの。効果は単純明快な分、スキルの熟練度によりその効果も段違いになる。ただ、どちらのスキルもパッシブスキルに属するが、各プレイヤーの判断により効果を一時的に無効にすることも出来る。
そして残る三つのアクティブスキルは所謂攻撃スキルだ。<シックル>が鎌を使った単発攻撃で、威力補正二〇〇%、クリティカル補正一・二倍、再使用時間は五秒、硬直時間はなしとそれなりに優秀なスキルである。
<ダークアロー>と<アイスアロー>は各属性魔法の一種で、消費MPが五、威力補正が一二五%、再使用時間は五秒、硬直時間はなしとこちらも初期魔法にすれば優秀な部類に入る。
最後の<ヒール>は名前通り回復系の魔法で、消費MPは多めの一〇、威力補正ではなく補助補正が一一〇%、再使用時間が一〇秒、硬直時間は三秒となっている。
そうこうしている内に、ふと空が暗くなる。
急激に天気が悪くなり夕立が降るような、そんな生易しいものではない。暗雲が立ち込め、裁きの雷が天から穿たれるような、そんな暗さだ。
唸る世界。慟哭のような金切り音が辺りを覆い隠し、その場に居たプレイヤー達は顔を顰めた。
レインも例に漏れることなく、周りと同じように脳に突き立てられるような不快音に頭を悩ましつつも、何か変化はないかと見渡す。
あった。黒曜石の石碑の上。
今では煌きを失い、代わりに禍々しさを醸し出すそこに、まるで春麗らかなベンチに腰掛けるような優雅な佇まいでそれは存在した。
人だ。紛れもない人間。エルフでもドワーフでも亜人でも獣人でも魔族でもない、この場に存在するプレイヤーと同じ人間。
だが、その人間の雰囲気はプレイヤーのそれとは一線を画していた。そう、まるで神の如き威圧感。
人では到底掴むの事の出来ない星々、世界を包む雄大な大海、大地を優しく染める月、生命の息吹を齎す太陽、人間が夢想するには烏滸がましいそれらと同類――いや、それらすら別格。
まさしく世界を生み出した造物主に相応しい風格だった。
『聞こえるか挑戦者達よ』
声が響く。彼の者が腹の底から張り上げて声を出しているわけではない。それは隣に座る友人へ気軽に喋りかけるという程度のもの。
しかし、それでもその声はこの場に存在するプレイヤー合計三万人に届いた。
時刻は一八時二五分。公式の開始時刻まで五分を切り、初回生産されたヴァルハラオンライン三万台が皆等しく起動していることを告げていた。
『これはゲームだ。だが、単なるゲームではない』
ある者は歓喜していた。これをオープニングイベントだと思っていたから。
ある者は落胆していた。また長いイベントが始まると思ったから。
ある者は狼狽していた。この状況を呑みこめないが為に。
そしてレインは――訝しんでいた。
遠目だが、その姿には見覚えがあった。
彼の存在は株式会社ユークリッドの社長にして、開発部門の主任も手掛けるゲーム業界の稀代の天才、享楽雅。この世界を創り上げた、まさに神に等しい存在であった。
そんな存在が態々オープニングイベントみたいな挨拶をするだろうか。
『私は数多くのゲームを世に送り出した。この中の多くの者は一つくらいプレイしたこともあるだろう。事実、君達はこのヴァルハラオンラインを今まさにプレイしているのだから』
朗々と響くそれに、レインの身体は警鐘を掻き鳴らしていた。
今ならまだ間に合う、と。
震える喉はか細いながらも音を発し、オープンウィンドウの音と共に宙へウィンドウが出現する。
『だが、それでも私達の手では皆が"本当の意味"で満足する作品は創りだせなかった。だから――』
予想したくない未来。しかし、克明とレインの頭を駆け巡っていた。
『君達を試させて貰おうか』
ガタン、とレインは膝を付いた。
周りはそんなレインに驚くが、視線は享楽雅から離せないでいる。
それで正解だ。
『これより一種のデスゲームを開催させて貰う。ログアウトは一切出来ないものと思え』
ポカン、と口を開ける者、その言葉の意味を理解出来ない者、その言葉を信じられず引き攣り笑いを起こす者、その言葉に怒気を孕んだ声を飛ばす者。反応は種々様々。
しかし神は語る。
『信じられないのならコールでシステム画面を見てみると良い。そこからログアウトの文字は一切ないのだから。
さて、あまり長く説明すると公式開始時刻を過ぎてしまうな』
ちら、と自分の腕に巻かれた時計に目をやりながら、何の問題はないかのように語る。
『君達に残された時間は仮想空間内で三年。その期限が君達の生命の蝋燭だ。
これは現実世界の三分の一。つまり、現実では一年しか経過していないと同義だな。
この期間内までに君達がこのヴァルハラオンラインを攻略しなければ君達全員は――"死ぬ"』
最早笑うことも泣くことも怒ることもしない。
この場に居るプレイヤー全員は享楽雅の言葉の本意を知ろうと躍起になっていた。
『この三年の期間内でゲームで死亡しようとも、それはデスペナルティが課せられるだけで現実で死ぬわけではない。これが君達が知る本来の意味でのデスゲームとの違いだな。
故に君達は死を恐れずこのヴァルハラオンラインを攻略して欲しい。
あぁ、現実世界の君達の身体はすぐに病院に搬送される手筈になっているから心配しないで欲しい。勿論、病院の費用は私達持ちだよ』
お茶目な言葉に野次一つ飛ばすことが出来ない。
それがこの場にいるプレイヤーの心理状況の異常さを証明する最大の点だっただろうか。
『勝てば生き、負ければ死ぬ。単純明快な自然の摂理だな。
だからこそ、私達は君達にこの言葉を贈ろう。
――生きたければ死に物狂いでこのゲームをクリアしろ。それ以外に君達が生き残る術など存在しない。
だが、ある意味簡単だろう? 君達の本懐はこのゲームをクリアする事なのだから。
タイムリミットがあるのと、プレイの代償に自身の命が掛かってる、これだけしか普通のゲームと違わないさ』
それが何よりの違いだ、と叫び声を幾人かのプレイヤーは声を挙げる。
しかし、そんな声は神に届かない。
『私に見せてみろ。
私達が生み出した数々の作品にケチを付けるだけの力の意味を!』
その言葉を皮切りに、当たりを覆っていた暗雲が次第に姿を消していき、見えなかった透明の壁が今では輝き、ガラスが砕けたような音が響く。
時刻は一八時三〇分。
ヴァルハラオンラインが今此処に始まった。