理由はない。ただ、空が気になった
生きる意味って、なんだろう。
この問いを、真剣に考えたことがある人間はどれくらいいるんだろうか。
俺はある。
というか、ずっと考えていた。
ただ、答えが出たことは一度もなかった。
神様を信じれば救われるらしい。
お金があれば幸せになれるらしい。
好きな人ができれば毎日が変わるらしい。
全部試す前に、全部どうでもよくなった。
そんな俺が、ある日たまたま入った講義で宇宙の話を聞いた。
楽そうだったから取った授業で、変人すぎる教授に捕まって、
気づいたら空を見上げていた。
これは、そんな話だ。
劇的な話じゃない。
急に人生が変わったわけでも、感動的な出会いがあったわけでもない。
ただ、昼間に浮かんでいた月を、三秒だけ気にして、すぐ忘れた。
それだけの話が、どこへ向かうのか。
読んでもらえたら、わかる。
これは、空を見上げることを覚えた男の話だ。
予備校の自習室。蛍光灯の白い光。消しゴムのかすを払う音。
受験まで、あと九十日。
望月ひかるは参考書を広げて、シャーペンを握って、それらしい格好だけをしていた。
隣の席の奴は医者になりたいと言っていた。
前の席の奴は実家を継ぎたいと言っていた。
みんな何かしら、理由を持っていた。
俺は?
高学歴になりたい。良い企業に入りたい。モテたい。
それしか出てこなかった。
志望校を選んだ理由だって、偏差値と親の顔色と、なんとなくの響きだけだ。
そもそも文系を選んだのだって、数学が嫌いだったからだ。
特に数学と物理。あれだけは本当に無理だった。
意味のわからない記号に、大量の数字の羅列。点数が上がりづらいコスパの悪さ。
電卓を叩けば、AIに聞けば、チョチョイと計算してくれるのに。
ベクトル、微分積分、日常生活で一度も使ったことがない。
意味がわからない。存在意義がわからない。
――そういえば、意味がわからないものだらけだ。
数学も、受験も、俺がここにいることも。
なんで生きてるんだろう、とふと思った。
死にたいわけじゃない。
ただ、理由が見当たらない。
朝起きる理由も、ここにいる理由も、シャーペンを握っている理由も。
根っこのところを辿っていくと、いつもぽっかりと穴が空いていた。
その問いは解けないまま、受験の日が来た。
そして、知っての通り結果が出た。
――場面は変わって、一年後。
「はぁ、まじダリィ。なんか全部、めんどくせぇな」
六畳ひと間の薄い壁に、その言葉はぶつかって消えた。誰かに届くわけでもなく、ただ空気に溶けていく独り言。
スマホの画面には「10:45」の文字。二限の開始時刻はとっくに過ぎていた。
「……三限から行けばよくね」
望月ひかる、二十歳、大学一年生。
プロフィールにオッと思った方は察しが良い、浪人歴一年の文系だ。
高学歴、大企業、モテモテ──そんな未来予想図は、センター試験の結果と一緒にとっくに燃え尽きた。
今はただ、日々をやり過ごしている。
「よいっしょ」
声に出してみたのは、誰かに聞かせるためじゃない。そうしないと、立ち上がれない気がしただけだ。
カーテンを開けると、思ったより眩しかった。
外は晴れている。
それがなんだか、少しだけ腹立たしかった。
重い足取りは、最寄り駅へと向かっていた。
スマートフォンをかざせば、改札が音を立てて開く。ようこそ、とでも言いたげに。
「こっちは歓迎なんかしちゃーいねえよ」
誰に言うわけでもない言葉が、雑踏の中へ溶けて消えた。
電車に乗り込む。
ドア付近に背を預けて、周りを見渡す。
スマホを見ている奴。イヤホンをしている奴。目を閉じている奴。
だいたいこんなもんだ。
そして俺も、その中の一人だ。
ショート動画を開く。
他人の成功が流れてくる。腹が立つ。
コメント欄を見る。俺と同じ意見を探す。
最近はネットリテラシーが上がったせいで、なかなか見つからない。
だから余計にムカつく。
Xを開く。炎上を探す。見つけた。
「マジでこういう奴ってクソだよな」
声には出さない。出せない。
無表情のまま、親指だけが動く。
一番いいねが多いコメントを見つけて、自分もいいねを押す。
さも自分が書いたように、脳の中でそっと認識する。
それだけで、少しだけ、楽になる。
そんな憂鬱な時間が三十分ほど続き、気づけば電車を降りていた。
最寄り駅から大学まで、徒歩で十五分。
これが地味に堪える。
通学路には同じ大学の学生が溢れていた。
横に広がって歩く集団、笑いながら立ち止まる男女、誰も前を見ていない。
人の流れはごった返し、中々進まない。
おまけに大学側が警備員を手配していて、怒号まで飛び交っている。
歩きスマホはダメだ。イヤホンもダメだ。法律でも条例でもないくせに、勝手にルールを作って怒鳴り散らす。
「なんも考えなしに固まって歩いてる奴らが悪いだけだろ。なんで俺まで悪者なんだよ」
声には出さない。
ただ、スマホをポケットに突っ込んで、黙って歩く。
スマホをポケットに突っ込んだだけで、これほどの言葉が溢れてくる。
望月ひかるという人間は、現代社会が丹精込めて育て上げた作品と言えた。
本人は気づいていないが。
いつも通り苛立ちを抱えたまま、ひかるは大学までの十五分を歩いた。
ふと、空に目がいった。
昼間なのに、月が出ていた。
薄く、白く、申し訳なさそうに。
青い空の端っこに、居場所を探すみたいに浮かんでいた。
――なんで昼間に月が出てんだ?
疑問が、一瞬だけ頭をよぎった。
しかし校門をくぐった瞬間、ポケットの中のスマホが存在を主張し始める。
取り出して画面を開けば、さっきまでの疑問はどこかへ消えていた。
三秒後には、月のことなど綺麗さっぱり忘れていた。
空はまだ、そこにあったのに。
三限の教室へ向かいながら、ひかるはスマホの時間割を確認した。
三限、マーケティング論。
四限、宇宙学入門。
どちらも取った理由は単純だ。楽そうだったから。それだけだ。
教室に滑り込んで、一番後ろの席に座る。
イヤホンを片耳に突っ込んだまま、ノートも開かず、周りを眺める。
――ほんま馬鹿そうだな。
まるで自分の方が優れた人間であるかのように、そう心の中で呟く。
もう後期だぞ。いつまで入学したてみたいにキャーキャーやってんだ。
どうせ「大学は人生の夏休み」とか信じてる口だろ。
バカがバカに教えた、しょうもない幻想。
良いか、就活が早期化した今、もう一年の後期から始まってるんだ。
三年までに数字を出して、ガクチカ作って、TOEICも取る。
楽単ってのはそういう人間が有効活用するためにあるんだよ。
俺はそこらへんの馬鹿とは違う。ちゃんと今から動く。
この九十分だって、無駄にしない。
そう決意して、英単語帳を開いた。
五分もしないうちに、飽きた。
就活サイトを開く。閉じる。
Xを開く。閉じる。
気づけば九十分が、跡形もなく消えていた。
講義終わりの雑談が、教室のあちこちで始まる。
笑い声。誰かが誰かの名前を呼ぶ声。楽しそうな声。
ひかるは何も聞こえないふりをして、スマホを眺めた。
――また、何もできなかった。
その言葉が、頭の中で静かに反響する。
今日だけじゃない。昨日も、先週も、先月も。
ふと、一年前のことを思い出した。
予備校の自習室。蛍光灯の白い光。消しゴムのかすを払う音。
参考書を広げて、シャーペンを握って、それらしい格好だけは、していた。
今思えば、あれは勉強じゃなかった。
勉強している自分を、演じていただけだ。
親に見せるための、友達に言えるための、自分を納得させるための、ポーズ。
情熱なんて、最初からどこにもなかった。
だから落ちた。当然だ。
それなのに、あのときの自分は本気で傷ついた。
頑張ったのに報われなかったと、本気でそう思っていた。
――笑えない。
英単語帳が、鞄の中で重かった。
五分しか開かなかったくせに、やけに重かった。
一年前と、何も変わっていなかった。
「生きる意味って、なんだろう」
その問いが、また脳裏をよぎった。
いっそ神様でもいてくれれば良かった。
信じるだけで、人生の意味も答えも全部預けられる。
手招きしてくれる道があれば、もう少し楽に生きられたはずだ。
でも今の時代、絶対なんてものはない。
一年前に正しかったものが、今日には間違いになっている。
技術が進歩して、AIが発達して、正解が目まぐるしく塗り替わっていく。
大企業のリストラだってそうだ。あれだけ盤石に見えた地盤が、あっさり崩れた。
そしてその元凶が、よりによって数学であり物理であり、科学だ。
お前らが、人の安寧を壊した。
やはり、俺はこの学問が嫌いだ。
そして、何も考えずにただ楽だからという理由で文系を選んだ自分も、嫌いだ。
キンコーンカンコーン。
「やべっ、遅れる」
焦りながら階段を駆け上がる。
教室に滑り込むと、後ろの席はすでに埋まっていた。
キョロキョロと逃げ場を探すが、もうない。
狭い小教室。ぎゅうぎゅうの人いきれ。
そして最前列、教授との距離およそ一・五メートル。
嫌いな科目の授業が、特等席で始まった。
「うっうーん」
軽く咳払いをひとつ。
教授はにこやかに、教室を見渡した。
「今から、この宇宙を解き明かします」
うるさかった教室が、一瞬で静まり返った。
笑えばいいのか、引けばいいのか。
誰もわからないまま、教授だけが続ける。
「見てください。今日はこの時間帯でも月が見えますね。上弦の月(半月)です」
窓の外を指差す。
本当に見えた。昼間の空に、白く薄く。
「上弦の月が見えるということは、太陽と月と地球がこういう位置関係にある。図に表すとこう」
チョークが黒板を走る。
直角三角形が現れた。
「直角三角形ということは、三角比が使えますね。ここから太陽と月の距離が計算できる」
教授は楽しそうに続けた。
「古代ギリシャの天文学者、アリスタルコスは今から二千三百年前、望遠鏡も計算機も持たずに、上弦の月だけを使って太陽までの距離を測った。方法はシンプルです。上弦の月のとき、太陽と月と地球は直角三角形を作る。その角度を測れば、比率で距離が出る」
誤差はあった。
でも考えは合っていた。
「もう一人紹介しましょう」
教授はチョークを持ち直した。
「エラトステネス。同じく古代ギリシャの学者です。彼がやったことはシンプルで、棒を二本、地面に刺しただけです」
教室のどこかで、は?という空気が流れた。
「エジプトのシエネという街では、夏至の正午に太陽が真上に来る。棒を立てても影が全く出ない。でも同じ瞬間、少し北のアレクサンドリアでは棒に影ができる。なぜか」
誰も答えない。
「地球が丸いからです。丸いから、場所によって太陽の角度が変わる。エラトステネスはその影の角度を測った。七・二度でした」
チョークが円を描く。
「七・二度は、円の三百六十度のちょうど五十分の一。ということは、二つの街の距離を五十倍すれば地球一周の長さが出る。彼はその距離を、歩いて測らせた。コインを使って歩数を数えながら」
教授は少し間を置いた。
「答えはおよそ四万キロメートル。現代の測定値と、ほぼ一致します」
また教室が静まり返った。
棒と影とコインだけで、地球の大きさを測った。
衛星も、レーダーも、スマホも、何もない時代に。
ひかるは黙って黒板を見ていた。
意味がわからないと思っていた。
ベクトルも、三角比も、計算も、全部。
日常生活で使わないと、ずっとそう思っていた。
でも二千三百年前の人間は、それで地球の大きさを測った。
電卓もなく、AIもなく、ただ影の角度とコインだけで。
――数学で、宇宙が測れる?
しかも道具は、棒と影とコイン。
聞いたことはある、見たことはある、誰でも知っているものだけで。
ひかるは窓の外をぼんやりと眺めた。
弥生時代だ、とふと思った。
二千三百年前といえば、日本では稲作が始まったかどうかの頃だ。
鉄もない、文字もない、スマホはもちろんない。
そんな時代の人間が、地球の大きさを測っていた。
宇宙の距離を、計算していた。
なんか、すごいな。
言葉にするとそれだけだった。
でも胸の中に、何かが引っかかっていた。
うまく名前のつけられない、小さな熱みたいなもの。
――高校のとき、ちゃんとやっておけば良かった。
次の瞬間、そう思った。
三角比も、ベクトルも、意味がわからないまま捨てた。
あのとき少しでも向き合っていたら、もっと早くこういうものに出会えたかもしれない。
後悔が、じわりと滲んだ。
でもひかるは、すぐにその感情に蓋をした。
結局、これを知って何になる。
就活に使えるわけじゃない。ガクチカにもならない。
宇宙の仕組みを知ったところで、明日の自分は何も変わらない。
そう結論づけて、イヤホンを片耳に戻した。
いつも通りの、聞くふりだけの授業が再開された。
ただ、窓の外の月だけは、なんとなく視界に入り続けた。
追い払おうとしても、そこにある。
二千三百年前から、ずっとそこにあるみたいに。
Yahoo!知恵袋の恋愛コーナー、八番目の質問を確認したところで、チャイムが鳴った。
「少し気になってたのに、もうちょい見よ」
さっきの後悔などとっくに忘れて、ひかるはパソコンの画面と睨めっこしていた。
周りでは声が飛び交っていた。
さっきの教授やばくね、この後どうする、飯どこ行く。
小教室はあっという間に雑談の場に変わっていく。
そんな中、聞き馴染みのある声が耳元に響いた。
「えーっとなになに、私は二十三歳女性です、か」
咄嗟のことにひかるは飛び上がった。
「ふあっ、うわっ」
情けない声が小教室に響く。
でもその声の主は意に介さず、画面を興味深そうに眺めながら口を開いた。
「読んでみますね」
教授はひかるのパソコンを覗き込んで、淡々と読み上げた。
「スペックは顔が中の上。似てる芸能人で言うと有村架純と広瀬すずを足して二で割った感じ。職業は上場企業の受付です。先日、年収八百万、身長百七十三センチ、顔が中の上くらいの男性とデートしたんですが、マジで会話がつまらなかった。高スペック男は大体話がつまらないから中スペックをあえて狙ったのに、会話のラリーもしてくれず全く楽しくなかったです。こっちはメイクして髪型頑張ってネイルも頑張ってるのに本当がっかり。おまけに割り勘してきたし。話で楽しませられないなら金銭的な価値くらい提供してほしい。人として終わってますよね。最近こういう弱者男性が増えてきたなと思います」
教授は満足げに画面から目を離すと、ニヤリとこちらを見た。
「少年はどう思いますか」
どう思う。
普段知恵袋を見るときは、脳死でスクロールするだけだ。
自分の言葉で答えろと言われると、少し詰まった。
数秒後、返信欄に書いてあった言葉をそのまま引っ張り出すように口を開いた。
「この女、傲慢じゃないですか。男女平等の時代にこんな自己中な、、あっやべ」
口から出てから気づいた。
これは教室で言う言葉じゃない。
しかし教授は気にした様子もなく、満面の笑みで続けた。
「良いですね。確かに傲慢とも取れる。年収八百万、身長百七十三センチ、顔が中の上、これは婚活市場では間違いなく上位層です。なのに彼女は中スペックと評価している」
教授は画面を指差した。
「見てください。自分の顔は中の上と謙遜しているのに、例に出す芸能人は有村架純と広瀬すず。職業も受付業務で良いのに、わざわざ上場企業の、とつける。この一文だけで、彼女のプライドの高さが読めますよね」
ひかるは黙って聞いていた。
確かに、と思った。
「でも」
教授の声のトーンが、少し変わった。
「なぜ彼女がこういう文章を書いたのか。こういう心理になったのか、あなたは考えましたか」
頭に、コンと何かがぶつかった感覚がした。
何も言い返せなかった。
数秒の沈黙の後、教授は再び口を開いた。
「まず、この女性の視点に立ってみましょう」
「マッチングアプリで、一般的な男性会員が一ヶ月に受け取るいいねの平均はおよそ十件です。対して女性の平均は二百件。少し容姿が整った女性になると、五百から千件以上に達します」
ひかるは黙って聞いていた。
「この女性が小綺麗だと書いているなら、単純計算で百倍以上の差がある。男性がこの数字に届くには、上位〇・一パーセントに入らないと無理です」
教授はひかるをまっすぐ見た。
「我々男性と、太陽と地球の大きさほどの差があります。この女性は、ハエにたかられるウンコくらいモテモテな存在なのです」
「……ハエにたかられるウンコ」
「比喩です」
教授は涼しい顔で続けた。
「君が逆の立場だったら、どう思いますか」
衝撃の事実に頭の処理が追いつかず、感情のまま口が動いた。
「多分、調子に乗りまくります」
稚拙でバカ丸出しな言葉だと自覚しながら、それ以外が出てこなかった。
しかし教授は表情ひとつ変えず、むしろ嬉しそうに頷いた。
「そうですよね、私もめちゃくちゃ調子乗ると思います。月曜から日曜まで日替わりで男を作って、帝国みたいなの作っちゃいますね。あははは」
ひかるは確信した。
コイツ、やばい奴だ。
ひねくれ者の自分が言うのもなんだが、マジで変わってる。
だが、逃げる隙もないので、淡々と話を聞く羽目になった。
「それはさておき」
教授は咳払いをひとつして、口調を戻した。
「おそらくですが、ここまでモテると、人間の感覚は変わります。感覚というのは絶対値ではなく、相対値で動くものだからです」
「百円のコーヒーを毎日飲んでいる人間が、千円のコーヒーを飲んだら高いと感じる。でも毎日千円のコーヒーを飲んでいれば、それが普通になる。この女性にとって、いいねが千件届くことも、年収八百万の男性に誘われることも、全部日常です。基準が上がるのは当然です。これを心理学では適応水準理論と言います」
なんとなく、わかる気がした。
「さらに言うと、人間には認知的不協和というものがあります。自分の行動と感情に矛盾が生じたとき、人はどちらかを書き換えて辻褄を合わせようとする。彼女は奢られなかったという事実を、自分に価値がなかったのではなく、相手に価値がなかったという事実に書き換えた。そっちの方が、心理的に傷つかなくて済みますから」
「ここまでが心理学の話。次は生物学です」
教授は少し前のめりになった。
「そもそも生物としてのメスは、基本的に選ぶ側です。クジャクのオスが羽を広げるのはなぜか。ライオンのオスが命懸けで戦うのはなぜか。全部メスに選んでもらうためです。メスは妊娠、出産、育児と莫大なコストを払う。だから慎重に選ぶ。それに対し、オスはポコチンを振り回すだけなので、コストが低いから数を打てる。この非対称性が、いいね数の百倍の差として現れています」
教授は続けた。
「ちなみに、人間のオスなんてまだ幸せな方ですよ」
「は?」
「チョウチンアンコウのオスはメスを見つけたら噛みついて、そのまま体が融合します。最終的に目も内臓も退化して、精巣だけの存在としてメスの一部になって一生を終えます」
ひかるは黙った。
「カマキリのオスは交尾中にメスに食べられることがある。頭を食べられても神経の仕組み上、交尾は続けられます」
「それは、やだ」
「ミツバチのオスは女王蜂と交尾できた瞬間、生殖器が根元から引きちぎれて即死します。交尾できなかったオスは冬になるとメスの働き蜂に巣から叩き出されて餓死します」
「どっちも地獄じゃないですか」
「アンデスツノイワドリというオスの鳥は、メスにアピールするために何時間も激しくダンスを踊り続けます。でも選ばれるのは上位一、二パーセントだけ。残りの九割以上は、一瞥もされずただ疲れて帰ります」
ひかるは窓の外を見た。
なんというか、男って辛いな。人間だけじゃなく。
「こういう生物学的な視点で見ると、先ほどの女性の文章も少し違って見えてくるでしょ。彼女は傲慢なのではなく、生物として正しく機能しているとも言える」
教授は一呼吸置いた。
「問題があるとすれば、その本能が現代社会と噛み合っていないことです。人間の本能は何万年も前に作られたものです。でも社会はこの百年で激変した。男女平等、割り勘、キャリア。本能が追いついていない。彼女の中で古い生物学的プログラムと現代の価値観がぶつかっている。それがあの文章として溢れ出た、とも読めます」
「本能と社会が、ズレてる」
気づいたら口から出ていた。
傲慢なカスだと思っていた。
一秒前まで、確かにそう思っていた。
でも今は、少し違って見えた。
あの文章の奥に、何かがある気がした。
「複雑ですね」
独り言のように呟いた。
「だけど、面白くないですか」
教授はまた、あの笑顔で答えた。
「学問によって、今見えている世界が変わる瞬間」
にこやかで柔らかい口調だった。
なのにその言葉は、まるで質量を持ったかのように、ひかるの胸にのしかかった。
口が開かなくなっているひかるに、教授は続けた。
「心理学を学べば、心理学の世界が広がる」
「生物学を学べば、生物学の世界が広がる」
「歴史を学べば、歴史の世界が広がる」
今まで自分の小さな主観の中だけで見ていたものが、ひとつ学ぶたびに別の世界として広がっていく。
そしてその瞬間に、感動がある。
なぜ勉強が大事なのか、ひかるは二十年間わからなかった。
でもこのたった十分で、初めて少しだけわかった気がした。
勉強が面白いと言う人間の感覚が、輪郭だけ見えた気がした。
少なくとも、意味もわからずひたすら机に向かっていた浪人時代よりは。
ただ、ひとつだけ疑問が浮かんだ。
「なんで教授は、その中でも天文を選んだんですか」
教授は一瞬だけ間を置いた。
待っていましたと言わんばかりに。
でも興奮を隠すように、静かな口調で答えた。
「天文は、全ての学問の始まりだからです」
その言葉の続きは、まだ来なかった。
でもひかるは、なぜか続きが聞きたいと思った。
生まれて初めて、授業の続きが聞きたいと思った。
ここまで読んでくれて、ありがとうございます。
正直に言います。
ひかるは、僕自身です。
生きる意味がわからなくて、何もできなくて、でも何者かになりたくて。
根っこのところを辿っていくと、いつもぽっかりと穴が空いている。
そんな感覚を、ずっと抱えていました。
天文と出会ったのも、ひかると同じようなきっかけでした。
劇的じゃない。たまたまです。
でも、宇宙に触れた瞬間に、何かが変わりました。
二千三百年前の人間が、棒と影とコインだけで地球の大きさを測っていた。
その事実が、なぜかずっと頭から離れなかった。
世界にはルールがある。
誰も書き換えられない、最初からそこにあるルール。
株価は裏切る。会社は潰れる。人間は嘘をつく。
でも月の軌道は、二千三百年前から一度も変わっていない。
それを知ったとき、根っこの穴が少しだけ埋まった気がしました。
この物語は、まだ続きます。
ひかるがどこへ向かうのか、僕自身もまだ全部はわかっていない。
ただ、書きながら一緒に探していこうと思っています。
空を見上げたことのある人に、届いたら嬉しいです。
⭐もし少しでも「続きが気になる」「面白い」と思っていただけましたら、
【ブックマーク】【評価】で応援していただけると励みになります!
感想もひとつひとつ大切に読ませていただいております。
ぜひ気軽に残していただけると嬉しいです!
これからも更新頑張りますので、よろしくお願いします!
あとyoutubeもお恥ずかしながらしてるのでよかったら見てください
https://www.youtube.com/@%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%98%E3%83%A9%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%94%9F%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8




