名探偵は死なせない
とある博物館の落成式の最中に、一人の男が殺された。日本有数の財閥の会長である権田原重光(67)。鍵の掛かった民具の保管庫で、ナイフで一突きされたことによる外傷性ショック死。近隣住民として偶然この場に居合わせた警視庁捜査一課の九鬼義知警部補は捜査を開始するものの、落成式の主賓である権田原がなぜ保管庫にいたのか、凶器であるナイフが保管庫内に残されていたにもかかわらず犯人は鍵の掛かった部屋からどうやって姿を消したのか、皆目見当がつかない。九鬼は早々に自力での捜査を諦め、絶大な信頼の目で一人の少年を見る。少し生意気そうな中学二年生、横溝ドイルは冷めた瞳で九鬼警部補を一瞥すると、関係者に幾つかの質問をして納得したようにうなずき、確信をもって告げた。
「謎はすべていつも一つ。九鬼警部補、関係者を全員保管庫に集めてくれ」
九鬼の呼びかけにより、関係者が全て事件現場である保管庫に集められた。館長、学芸員、地元議員とその秘書、会長の運転手。全員の姿を確認し、ドイルはおもむろに口を開いた。
「この事件の最大の謎は、権田原氏を殺害した犯人がどうやってこの部屋から逃げおおせたのか、ということです」
学芸員である水原健一がうなずいて口を開く。
「ええ。事件当時保管庫の扉には鍵が掛かっていて、扉以外に出入りできるようなところはありません。権田原さんは中に入られたのですから、別の誰かが鍵を掛けたとしか考えられません」
館長である鈴木智則が汗を拭きながら補足する。
「この博物館には貴重な文化財も多く収蔵されています。そのため、鍵はドイツ製の特殊なものを採用し、複製することは不可能です。マスターキーは警備員室で厳重に管理されていますし、盗み出して使うこともできません。それに、鍵以外にもこの建物には最新の警備システムが導入されており、それらをすべて掻い潜って姿を消すなど、とてもできるものでは……」
「そう」
ドイルは大きくうなずき、皆を見渡した。
「つまり、この保管庫は事件当時、密室だった」
「えぇい、回りくどい! 犯人は分かっているのだろう!? さっさと言え!」
「そうですよ。先生はお忙しいのです」
イライラした様子で地元議員の石橋邦治が怒鳴り、秘書の神林公則が同調する。ドイルは「まあまあ」と二人をなだめると、表情を引き締めた。
「密室の謎を残したままでは、犯人に言い逃れを許してしまいます。まずはこちらを解き明かしてご覧にいれましょう」
「トリックが分かったのか!?」
石橋が驚いたように目を見張る。「もちろん」とドイルは不敵な笑みを浮かべた。
「謎というのはね、ただ真実が語られていないだけなんです。解けない謎などありはしないのですよ」
むぅ、と呻き、石橋は口を閉ざす。神林が不安そうに石橋を見た。ドイルはぱちんと手を叩き、明るく大きな声を上げた。
「百聞は一見に如かず。今から皆さんの目の前で、密室を再現してみましょう。九鬼警部補!」
「おうっ!」
ドイルの呼びかけに応え、九鬼警部補が勢いよく保管庫を出ていく。戸惑う関係者を横目に、ドイルは説明を続ける。
「館長さんにお願いして、保管庫のマスターキーをここに持ってきていただきました。これで、九鬼警部補に保管庫の扉に鍵を掛ける方法はない、はずですよね?」
鈴木が懐からマスターキーを取り出して皆に見せる。水原が「はい」とドイルの問いに答えた。ドイルは満足そうにうなずき、
「もうすぐですよ。……五、四、三、二、一――」
――ガチャン!
保管庫の扉が重い金属音を立てる。皆が一斉に扉を振り返った。ドイルだけが涼しい顔で皆の様子を見る。
「これが、密室を作り上げたトリック、です」
神林が扉に駆け寄り、ドアノブをガチャガチャと回す。
「ほ、本当に鍵が掛かっている」
一様に驚いた表情で、今度はドイルに皆の視線が集まる。
「いったい、どうやって?」
「もったいぶらずに早く教えろ!」
ドイルは軽く息を吸うと、少し得意げな顔で答える。
「……AIですよ」
「AI?」
関係者の顔に疑問符が浮かぶ。ただひとりの男を除いて。ドイルは彼に視線を向けた。
「そうですよね、冴木誠史郎さん。いや、AI研究所上席研究員、冴木誠史郎さんとお呼びすべきでしょうか?」
被害者である権田原の運転手、冴木誠史郎の肩がびくりと跳ねた。
「な、なんのことでしょう? 私は、ただの会長の運転手ですが……」
気弱そうに肩を震わせ、冴木は怯えた目をドイルに向ける。ドイルは小さく首を横に振った。
「今は、そうでしょう。しかし半年前までのあなたはAI研究所に勤める研究員でした。館長、AI研究所、という言葉に聞き覚えがありませんか?」
急に話を振られ、鈴木は困惑しながらも必死の様子で考える。しばらく呻った後、鈴木は「あっ」と声を上げた。
「この博物館に警備システムを納入した、帝国警備保障の協力会社です!」
ドイルは鈴木に礼を言い、再び冴木に視線を戻した。
「ここの警備システムは普段、AIによって自律的に運用されるよう設計されているようですね。警備に限らず、空調管理や職員の勤怠管理までカバーしているとか。人手不足と人為的なミスを同時に解消する、最新のソリューション、というわけです」
冴木はおどおどと視線をさまよわせる。
「だ、だから、そんなこと私に言われても、知りません」
冴木の発言を無視してドイルは話し続ける。
「AIがカメラで映した映像を解析し、部屋が無人になると自動的に施錠される。そんな機能もあったりするのでは?」
冴木はドイルと視線を合わせず、「だから、私は知らないって」とつぶやく。鈴木館長が代わりに答えた。
「は、はい。そういう機能もあったはずです」
学芸員の水原が思い出したように言葉を補う。
「た、たしか、警備会社からの提案で、その機能を追加したはずです」
なるほど、と納得した表情を見せ、ドイルは冴木を鋭く見据えた。
「AI研究所にいたあなたは、警備システムの仕様をご存じだったのではありませんか?」
「だから、知らないって言ってるだろう!」
たまりかねたように冴木が叫ぶ。
「だいたい、AIが勝手に鍵を掛けるとしてだ。AIはカメラ画像を解析して無人かどうかを判断するんだろう? 会長を殺した犯人が部屋を出てから鍵が掛かったのなら、犯人はカメラに映ってるんじゃないか? それが映ってないから、あんたらはこんな探偵ごっこをしてるんだろうが!」
息も荒く冴木はドイルをにらみつける。ドイルは憎しみに似たその視線を涼やかに受け流した。
「確かにカメラに犯人の姿は映っていません。でも、それは当然なんです。犯人はこの保管庫に、一歩も立ち入ってはいないのですから」
冴木が目を見開く。他のメンバーからどよめきが上がった。
「一歩も立ち入っていない、って……じゃあ、犯人はどうやって権田原さんを刺したんですか?」
ドイルは冴木の顔を見つめる。冴木の唇は蒼く震えていた。ドイルは神託のように告げる。
「AI、ですよ」
既視感のある答えに、関係者が再び疑問符を浮かべる。冴木だけが凍えるように震えていた。ドイルはスマートフォンを取り出して耳に当てる。
「九鬼警部補、お願いします」
数秒の間を置いて、
――ゴオォォーー
という、何かを吹き出すような風の音が聞こえ始める。皆、思い思いに視線を上げ、音の正体を探る。神林が天井の真ん中を見上げ、ぽつりとつぶやいた。
「……エアコン?」
天井に据え付けられた空調から温かい空気が流れ込んでくる。ドイルは「正解です」と神林を讃えた。
「館内の空調管理は警備システムに統合され、普段はAIが自動で管理しています。しかしAIに命じれば設定を変更することが可能です。今回は九鬼警部補から警備員さんにお願いしてもらって、保管庫の空調の設定を変えてもらいました」
生徒を指導する教師の顔をして、ドイルは場所を移動する。権田原が倒れていた位置まで移動し、ドイルは冴木を振り返った。冴木の顔は血の気を失って白蝋のように白い。空調の風が顔に当たり、ドイルは顔をしかめて一歩後ろに下がる。民具の間に置かれた、人と同じくらいの高さの細長い人形が背に当たり、ドイルは慌てて元の位置に戻った。
「おい、ちょっと暖房が効きすぎだろう。暑くなってきた」
石橋が不快そうにネクタイを緩めた。「すみません、もう少し」とドイルは石橋に軽く頭を下げる。冴木だけが、冬の空の下に放り出されたように震えていた。
「たぶん、そろそろです。見逃さないように気を付けて――」
「危ないっ!」
言葉を遮り、冴木はドイルに飛びついて床に押し倒す。硬く目を閉じ、少年を守るように強く抱きしめる。突然の出来事に、皆が言葉を失って冴木を見た。ドイルは静かに問う。
「……何が、『危ない』のですか?」
ハッと目を開き、冴木が床を見つめた。
冴木は短く浅い呼吸を苦しげに繰り返している。ドイルは彼の手をそっと解き、起き上がった。
「安心してください。あなたの仕掛けた罠は、あらかじめ解体しています」
冴木は脱力したように大きく息を吐き、うなだれる。神林が不可解そうに言った。
「罠、って、何のことですか?」
ドイルはさっきまで自分の背後にあった細長い人形を指さした。
「その人形を動かしていただけますか?」
戸惑いながら学芸員の水原が人形を慎重に持ち上げ、脇にどける。これも貴重な民俗学の資料だ。素人に扱わせるわけにいかないのだろう。人形が除かれ、背後の状況が露わになる。そこには大きな棚が置かれ、とある部族の狩猟道具が整理されて置かれていた。吹き矢から弓、据え置き型のクロスボウのようなものまで、獲物に応じて多様な道具が収められている。水原は、学芸員の習性だろうか、収蔵品をまじまじと見ると、
「……あれ?」
小さな違和感をつぶやいた。耳ざとくドイルが声を掛ける。
「どうしました? 何か気になることでも?」
水原は慌てたように首を横に振る。
「い、いえ、大したことでは。ただ、変なものがついてるな、と」
「変なもの?」
鈴木館長が水原に説明を促す。恐縮しつつ水原は続けた。
「そこにある、大型のクロスボウのような道具があるでしょう? これはとある地域の先住民族が使う、大型の獲物を仕留めるための器具なんですけど」
厳密にはクロスボウとは違い、矢だけではなく銛や石、金属片など、用途によって射出するものを変えられるアタッチメントがあり、それがこの民族の一つの特徴になっているのだと、嬉しそうに専門性を発揮して水原は語る。鈴木館長がわざとらしく咳払いをした。我に返り、水原は射出機の引き金部分を指さす。
「そこの、引き金の部分を見てください。ツタのようなものが巻き付いているでしょう? これもまた、面白い特徴を持つ植物なんですが、おかしいんですよ」
だからなにが、と言いたげに石橋が水原をにらむ。腕を組んで納得がいかないように水原は言った。
「この植物、この射出機を使う人々の住む地域では、あまり使われないんですよね」
この植物を使うのはもう少し南の部族だったはず、と水原はぶつぶつ考え込み始める。冴木は床に突っ伏したまま動かない。ドイルは大きくうなずいた。
「水原さんの疑問はもっともです。このツタは最初からついていたものじゃない。これこそが、犯人が仕掛けた『自動殺人の罠』なんですよ」
『自動殺人の罠』という言葉の響きに、誰かがごくりと唾を飲む。水原は絡まるツタと射出機の引き金を交互に見つめ、何かに気付いたように声を上げた。
「そうか! 差動収縮!」
「さすがは専門家。鋭い指摘です」
ドイルの素直な称賛に水原は照れたように笑う。石橋が大いに不満を示しながら怒鳴った。
「その差動収縮というのは何だ! 自分たちだけで納得していないで説明しろ!」
おっと、申し訳ありません、と答え、ドイルは再び教師の顔をする。
「このツタは、乾燥すると驚異的な力で収縮する、『サルナシ』という植物の近傍種です。これらの種類の植物は二層の細胞壁を持ち、乾燥したときの収縮率がそれぞれ異なる。内側のほうが強く収縮することによってコイル状に巻き上がり、その勢いによって種子を大きく弾き飛ばす特性を持っているんです。地域によってはかなり古い時代から民具に利用されているそうですよ」
ほう、と石橋は理解したのかしていないのか分からない様子でうなずく。神林が混乱した表情で言った。
「ツタが乾燥したら縮むっていうのが、いったいなんの罠なんですか!」
回りくどい、という非難めいた視線を軽くかわし、ドイルは冴木を見下ろした。
「犯人はまずツタを濡らして伸ばし、棚と引き金に結わえ付けたんです。乾燥するまではツタは伸びたまま。そして権田原氏をこの保管庫に呼び出し、遠隔から空調の温度を上げた。この場所、空調の風が直撃する場所なんです。空調がツタの水分を奪い、おおよそ室温が三十度になったとき――ツタは収縮し、引き金を引いた。これが犯人が用いたトリックです」
籠などの他の民具にもさまざまな種類のツタが使われ、射出機にツタが絡まっていても目立たない。それがこの保管庫を犯行現場に選んだ理由なのだとドイルは言った。
「訂正はありますか? 冴木さん」
冴木は黙ったまま、起き上がろうとしない。しかし、意外なところから反論の声が上がった。
「確かに、小僧の言う通りにすれば殺害は実行できるかもしれん。だが、それは『そうすれば誰でもできた』という証明に過ぎん! その男が犯人だというなら、動機は何だ? 意味もなく殺したとでも言うんじゃないだろうな!」
怒り、そして焦りと滲ませて、石橋がドイルをにらむ。困惑したように他の関係者が石橋を見た。ドイルは石橋を静かに見つめ返す。
「ずいぶんと冴木さんに同情的ですね? お知合いですか?」
石橋はわずかに視線を逸らし、声のトーンを落とした。
「市民が無実の罪を着せられようとしておるのだ。議員として、看過できんのは当然だろう」
ドイルは小さく笑みを浮かべる。そして皆を振り返り、大仰な身振りで言った。
「そう、石橋さんの言う通り、僕の推理は冴木さんの犯行を決定づけるものではありません。しかし、冴木さんに大きな動機があるなら、それは大きな蓋然性を生む。元AI研究所の上席研究員、今は会長の運転手、そして動機があるとなれば、犯人と言って差し支えはないのでは?」
「だから、その動機は何だと言っている!」
石橋は再び敵意をむき出しにして怒鳴る。ドイルは侮るような目を石橋に返した。
「動機は、お金です」
石橋は血走った目を見開く。ドイルは軽蔑の表情を浮かべた。
「冴木さんには娘がひとり、いらっしゃいますね。今年で十歳になる。かわいい盛りだ」
「……やめろ」
石橋はかすれた声でつぶやく。ドイルは楽しげに続ける。
「冴木さんの奥様は六年前に亡くなっていますが、十年前まで、権田原氏の屋敷でハウスメイドとして働いていらっしゃった」
「やめろ」
石橋が怒気を強める。憎しみが瞳に満ちる。ドイルはそれを意に介さず、軽快な口調で言った。
「この事件の動機は、権田原氏を殺害し、この国有数の財閥のトップである彼の莫大な遺産を手に入れること。つまり――」
冷たく、残酷な笑顔で、ドイルは断言する。
「――冴木さんの娘の本当の父親は、権田原氏です」
「やめろ!」
石橋はドイルに掴みかかり、襟首を持ち上げる。ドイルの顔が苦しげに歪んだ。
「お前に何が分かる! 冴木君がどれだけ苦しんだか、冴木君がどれだけ自分を犠牲にしたか、冴木君が!」
石橋の目から悔し涙がこぼれる。
「どれだけ娘を愛してくれたか!」
「……その言葉が、聞きたかった」
ドイルの声から嘲りの色が消える。石橋は戸惑い、襟首を掴む力を緩めた。ドイルはそっと石橋の手を解き、深く頭を下げる。
「あなた方の尊厳を踏みにじる言い方をしたことを謝罪します。これは僕の、探偵としての未熟です。客観的な証拠を揃えられなかった。あなたと冴木さんの関係が、どうしてもわからなかった」
ドイルは真摯な目で石橋を見る。
「あなたは、冴木さんの奥様のお父様だったのですね」
石橋はうつむいて地面を見つめる。
「権田原氏は歴史にも博物学にも興味のない人物です。落成式に進んで参加する人間ではない。この犯行には、まず彼をこの場に誘い出す必要があります。落成式に参加するよう誘ったのも、保管庫に呼び出したのも、石橋さん、あなたですよね? 議員からの要請なら権田原氏も断ることができない」
石橋は抗うように顔を上げ、ドイルをにらんだ。
「違う! 私は――」
「もう、いいんです。お義父さん」
冴木が緩慢な動作で立ち上がる。諦念を宿したその目に、もはや怯え震える様子はなかった。
「手口も、動機も、おっしゃるとおりです。お金のために、私が殺した。間違いありません」
虚無が滲むその声に、ドイルは首を横に振る。
「犯行の動機はお金でしょう。だがそれは、あなたのお嬢様の命を救うためのお金だ。違いますか?」
何でもご存じなんですね、と冴木は乾いた笑みを浮かべる。そして、虚ろな瞳で宙を見つめ、ぽつり、ぽつりと話し始めた。自らを省みるように。
石橋の娘、美幸と冴木は幼馴染だった。幼いころはただの友人。特別な関係を意識することもなく、冴木の大学進学を機に二人の距離は離れる。だが、隣にいることが当たり前でなくなったとき、冴木は自分の中に淡い想いがあることを初めて自覚した。想いを抱えたまま別の人間に想いを寄せることはできず、冴木は研究の道に邁進する。AI技術の発展は人類の未来に必ず貢献すると、その確信が彼を支えた――あるいは、淡い想いからの逃避が、彼を研究に向けさせたのかもしれない。
研究者としてのキャリアを着実に積み、久しぶりに実家に戻ったある日、冴木は偶然に美幸と再会する。そして愕然とした。あれほど明るく笑顔を絶やさなかった彼女は、ひどくやせ細り、無表情だった。いったい何があったのかと、冴木は石橋に問う。石橋は拳を握りしめ、奥歯を噛んでうめくように言った。「魂の殺人だ」と。
「……絶望し、毎日のように死を口にする娘を、冴木君は励まし続けてくれた」
石橋は当時を思い出すように目を閉じた。冴木の必死の献身は少しずつ、少しずつ、美幸の心を解いていく。ようやく、少しだけ笑顔を取り戻し始めた、そう思ったとき、さらなる残酷な現実が彼女を襲った。彼女の身体に命が宿っていたのだ。あのおぞましい男の血を引く命が。泣き崩れる美幸を抱きしめ、決死の覚悟で冴木は言った。
「僕と、結婚してください」
冴木の腕の中で美幸が泣いている。冴木もまた、泣いていた。腕の中の体温だけが二人の真実を伝える。そして彼らは家族になった。
やがて美幸は娘を生み、穏やかな日が続く。しかしその平穏は永遠ではなかった。娘が四歳の時、美幸は病に倒れ、帰らぬ人となった。冴木に娘を託して。美幸の面影を宿した娘を愛し、懸命に育てる冴木に、運命は牙を突き立てる。娘もまた、母と同じ病を得たのだ。遺伝に由来するその病は、この国では症例も少なく、治療方法も確立されてはいなかった。アメリカになら治療ができる医師がいるかもしれない――そんな噂に一縷の望みをかけ、渡米を試みようとするも、彼の前に大きな壁が立ちはだかる。それは、『治療費』というあまりに現実的な壁だった。滞在費も含めれば数億とも言われる金額を用意する当てもなく、冴木は途方に暮れ――彼は権田原を頼った。自分の娘と知れば、援助をしてくれるのではないか、そんな期待はしかし、簡単に裏切られた。
「あの男は、私にも娘にも会おうともしなかった。脅迫で小金をせしめようとする詐欺師、と言われました」
美幸の人生を狂わせ、娘の命さえ一顧だにしない。権田原という男に、冴木はその瞬間に明確な殺意を覚えた。このままでは娘は死ぬ。だが、権田原を殺せば遺産によって娘は救われる。どちらにしても命は一つ失われる。ならば――
――生きるにふさわしい命は、どちらだ?
自らが育て上げたAIに、冴木は問う。出力された回答を読み終え、彼は覚悟を決めたように顔を上げた。
「ひとつだけ、教えてくれませんか」
告白を終え、冴木は湖面のように凪いだ瞳でドイルに問うた。
「どうして、娘と権田原の関係が分かったんです? そこが分からなければ、動機の解明は不可能だったはずだ」
どこか哀切を宿して、ドイルは答えた。
「AIですよ」
冴木はわずかに眉を顰める。ドイルはスマートフォンの画面を冴木に向けた。
「AIにあなたのお嬢様と権田原の関係を聞いてみたんです。そしたら、99.1%の確率で親子関係が認められる、と答えてくれました」
冴木は脱力したように表情を緩める。
「まさか、私が心血を注いで研究を重ねてきたAIに、足元を掬われるとはね」
運命の皮肉に冴木は目を閉じる。そして、目を開けたとき、彼はどこか晴れやかな顔をしていた。
「でもね、ドイルさん。私は目的を達しました。権田原は死に、遺産は娘に入る。娘は助かるんです。他のことはどうでもいいんだ、娘が生きてくれさえすれば」
すべてを受け入れた様子の冴木に、ドイルは痛ましげな視線を送る。
「……いいえ、冴木さん。あなたは何も達成してはいません」
ドイルの言葉に冴木は訝しげな表情を浮かべた。ドイルはスマートフォンで九鬼警部補を呼びだす。しばらくして、保管庫の扉が開いた。九鬼警部補は一人の人物を連れて現れた。
「お、お前は――!」
冴木が信じられないと顔を強張らせる。九鬼が連れてきたのは――死んだはずの権田原重光その人だった。
「そんなバカな! 私は確かに確認したんだ! 監視カメラの画像で、この男が死ぬところを!」
「……AI、ですよ」
冴木の叫びをドイルが静かに否定する。
「あなたが確認したのは、僕があらかじめAIで作ったフェイク画像だったんです」
冴木が唖然とドイルを見つめる。ドイルは後ろめたい気持ちを押し殺すように大きく息を吐いた。
「あの時間、権田原氏は保管庫に入ってはいません。事前に僕が事情を説明して入室を阻止しました。あなたが現場に行かず、遠隔で状況を確認していたからこそできたことですが」
殺人は阻止されたが、その時点では犯人も、犯人を追い詰める証拠も、揃ってはいなかった。ドイルは警察と権田原に依頼し、殺人が実際に起きたものとして時間を稼いだのだ。もし失敗したと分かれば、犯人は再び権田原を狙う危険がある。
「――そん、な……」
冴木ががっくりと膝をつく。娘を救う手段が今、断たれた。その絶望が彼の表情を失わせた。つまらなさそうに鼻を鳴らし、権田原が侮蔑の視線を冴木に向ける。
「愚か者が下らぬ妄想を抱いた、その末路がこれだ。楽をして金をせしめようとするからこのようなことになる」
「くだ、らぬ、妄想……?」
錆びたおもちゃのようなぎこちない動きで、冴木は権田原に顔を向ける。権田原は見下すように顔を歪ませた。
「そうだ! お前の娘が私の血縁だというのも、私が死ねば遺産が入るというのも、すべて妄想だ! お前が手に入れられるものなど何もないわ!」
「自分がしたことを、忘れたか!」
石橋が憤りと共に叫ぶ。権田原はおかしそうに嗤った。
「私を誰だと思っている! 私が白と言えば白になる! 私が黒と言えば黒になる! それだけの金と権力を私は持っているのだ! 貴様ら如きが何を叫ぼうと、世に蚊の鳴くほども響きはせんのだ!!」
冴木の目から涙が零れ落ちる。口を開き、もはや言葉にならぬ咆哮が溢れる。権田原の哄笑が響く。石橋が悔しさに震え――
「そこまで」
底冷えのするような静かな制止の声が、部屋に響く。
権田原は眉を顰めて声の主――ドイルを見た。ドイルは無表情に淡々と告げる。
「他者を貶めるなら、あなたもまた自身の愚かさと向き合わねばならない」
「私が、愚かだと?」
権田原は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「何の力もないくせに望みだけは一丁前に主張する有象無象と、この私を一緒にするな!」
ドイルはスマートフォンをかざし、権田原を冷たく見据える。
「あなたが今まで踏みにじってきた魂たちの悲鳴を、AIが暴く。もう言い逃れはできませんよ」
スマートフォンの画面には、権田原が数十年に渡り隠蔽した無数の犯罪と彼との関りが詳細に記述されている。権田原は吹き出すように笑った。
「それがどうした! そんなもの、公表される前にいくらでも揉み消してくれるわ! それができる力が、私にはある!」
「ああ、ごめんなさい」
急に態度を翻し、ドイルが権田原に頭を下げる。虚を突かれて一瞬言葉に詰まり、そして権田原は愉快そうに笑った。
「ようやく己の分際が理解できた――」
「もう公表済みなんです。僕の知り合いの雑誌記者を通して、ね」
ドイルがスマートフォンの画面を切り替える。そこに映されていたのは、権田原の私邸を囲む無数の記者の姿だった。
『権田原さん! 月刊フェイカーの記事は本当ですか!?』
『三十年に渡る鬼畜の所業と書かれていることについて、コメントをお願いします!』
『いるんでしょう? 出てきてお話を聞かせてください! 権田原さん!』
権田原の顔が青ざめる。ばたばたと複数の足音がして、三人の刑事が保管庫に入ってきた。二人の刑事が権田原の脇を固め、正面に立った老刑事が柔和な笑みを浮かべる。
「権田原重光さん。署までご同行願えますか?」
老刑事の眼光が鋭く権田原を射抜く。権田原はびくりと肩を震わせた。二人の刑事が脇をがっちりと抱える。老刑事があごで外を示し、権田原は引きずられるようにして連行されていく。
「べ、弁護士を、いや、警視総監を呼べ! こんなことが許されると思っているのか! 私を、誰だと思っている!!」
喚く権田原に耳を傾ける者はない。老刑事はドイルと九鬼警部補に軽く会釈をすると、背を丸めて部屋を出ていった。
権田原が去り、室内は重苦しい沈黙に包まれる。冴木は放心したように座り込み、石橋は拳を握りしめてうつむく。他の誰もが声を上げられずにいた。権田原が死んでいなかったという事実は、冴木の娘が命をつなぐ術を失ったということでもある。ドイルは息を吸い、意を決したように冴木に言った。
「……冴木さん。あなたはさきほど、僕をかばってくださいましたよね? 『危ない』と言って、僕を床に倒した」
冴木は何の反応も示さない。ドイルはゆっくりとした口調で続ける。
「ナイフを射出する、あの植物の特性を利用したトリックは、機械のように正確に再現できるものじゃない。失敗する可能性も決して低くはないはずです。だからあなたは仕掛けを二つ、用意していた。成功率を上げるためにね。しかし、僕が用意したフェイク画像では、射出されたのは一つだけでした」
虚ろな瞳で冴木は中空を見つめたままだ。ドイルは粘り強く、届くように、言葉をつむぐ。
「一方は不発だったと、そう思ったんでしょう? もともと現場にいなかったあなたには、仕掛けを回収する時間もなかった。だからあのとき、あなたは僕をかばったんです。不発だったもう一つが、空調を設定しなおしたことで動いてしまうんじゃないかと思って」
冴木はわずかに視線を落とす。ドイルは諭すように言った。
「あなたは人を殺せるようなひとじゃない。もう、やめましょう。まだやり直せます」
ドイルはそっと冴木に手を差し出す。うつむき、自嘲するように冴木が笑った。
「……確かに、私に人殺しは似合わないらしい」
パシッ、とドイルの手を弾いて、冴木は勢いよく立ち上がる。同時に懐からナイフを取り出し、牽制するように振り回した。九鬼警部補がドイルの手を引き、ナイフの殺傷範囲から引き離す。石橋が驚きと悲鳴の混じった声で叫ぶ。
「冴木君! 何を!?」
「本当に、似合わないことをするものじゃない」
ナイフを構え、冴木は果ての無い空洞を湛えた瞳でドイルを見る。ドイルの背に冷たい汗が滲んだ。九鬼警部補が隙を窺うようにわずかに身を沈める。冴木は九鬼にナイフを向け、「動くな!」と叫んだ。九鬼の動きが止まる。冴木をこれ以上刺激しないことを選んだのだろう。
「権田原の言ったとおりだ。奴を殺せば遺産が手に入るなんて、ただの妄想だった。殺すなんて、簡単にできることじゃない。もっと簡単な方法が、あったんだ。私は、見ないふりをしていた」
冴木はナイフを、自らの首に当てる。石橋が息を飲んだ。
「娘と一緒に、未来を――そんな、愚かな夢を見た。最初からこうすればよかったんだ。私の保険金で、娘が助かる。そうすれば誰にも迷惑を掛けずにすんだ」
ドイルが身を乗り出して叫ぶ。
「ダメだ! 冴木さん!」
冴木は微笑み、そして石橋に視線を移した。
「お義父さん。娘を、頼みます」
「冴木!」
冴木の祈りと、九鬼の制止の声が重なる。九鬼が冴木に手を伸ばし――哀しい刃が冴木の首を、ためらいなく引き裂いた。
血しぶきを上げ、冴木の身体がゆっくりと崩れ落ちる。冴木の身体を支え、九鬼警部補が唇を噛んだ。誰もが目の前の出来事に動けずにいる中、ドイルは怒りに似た眼差しで叫ぶ。
「九鬼警部補! 冴木さんを床に寝かせて、傷口を圧迫して! 少しでも出血を抑える!」
気圧されたようにうなずき、九鬼警部補はドイルの指示に従う。誰かが「そんなことしても、もう」と絶望をつぶやいた。ドイルはスマートフォンを操作し、AIのプロンプトに向かって叫んだ。
「頸動脈を切り裂かれた人間を救命する方法を教えろ!」
AIは冷徹に現実を提示する。
『頸動脈を引き裂かれた人間を救命するのは不可能――』
回答を遮り、ドイルは吠える。
「人類の叡智を集めたお前に、不可能なんて言わせない! 考えろ! 命が、かかっているんだ!」
わずかな沈黙の後、AIは短く返答する。
『――三十秒で出力します。少しお待ちください』
次の瞬間、がしゃん、と大きな音がして、博物館内の照明が一斉に落ちる。ドイルのスマートフォンが小さく振動する。
「な、なんだ? 何が起きた?」
うろたえる神林を横目に、水原がはたと何か気付いたように顔を上げた。
「……まさか、ネットワークにつながる全ての演算装置を使って、AIがドイルさんの問いに答えようとしているのか――?」
ぴったり三十秒後、スマートフォンはドイルに回答を提示する。懐から救急医療キットを取り出し、ドイルは冴木に語り掛けた。
「冴木さん、あなたは死んじゃいけない。あなたにはまだ、生きるべき理由が残っているはずだ――!」
救急車のサイレンが鳴り響き、冴木を運んでいく。それを見送り、九鬼警部補は大きく伸びをして、隣にいるドイルに笑いかけた。
「救急隊のひとがびっくりしてたぞ。見事な応急処置だった、って」
ドイルは澄ました顔で答える。
「AIのおかげですよ。僕は大したことはしていない」
「AIの指示を完璧に実行したのはドイル君だろう?」
ドイルは首を横に振る。九鬼警部補は軽く肩をすくめた。
「しかし、AIの進歩ってのはすごいねぇ。人の命さえ救っちまうんだから」
ドイルは博物館の建物を振り返った。
「普通のAIなら、あんなことはできませんよ。『頸動脈を引き裂かれた人間を救命するのは不可能です』で終わりです。でも、僕のスマートフォンはあのとき、この博物館の警備システムのAIと繋がっていました。このAIは冴木さんが作ったものです。だからきっと――」
ドイルは少しだけ目を細める。
「――冴木さんを救いたいと、そう思ったんじゃないでしょうか」
九鬼警部補もドイルの視線の先を見る。
「AIにも心があるのかい?」
ドイルは博物館を見上げたまま、答えた。
「さあ。僕には、わかりません」
そう言いながら、その声には何かを信じる温もりがあった。九鬼警部補はドイルの横顔を見つめる。冷たい冬の風が吹いた。
「さて、それじゃ、行きましょうか」
唐突にそう言って、ドイルは九鬼警部補を振り返る。九鬼警部補はうなずいた。
「ああ、今日は本当にご苦労さん。送っていくよ」
眉を寄せ、ドイルは残念な生き物を見る目で九鬼警部補を見る。
「何言ってるんです。帰りませんよ。まだやることが残っているでしょう?」
「やること?」
まったく心当たりがない、というように九鬼警部補は首を傾げる。小さく息を吐き、ドイルは説教口調で言った。
「本当に九鬼警部補は自分の頭で考えない人ですね。いいですか。今回の犯人の犯行動機は何だったか、覚えていますよね?」
九鬼警部補は壊れたおもちゃのようにカクカクと首を縦に振る。
「娘の病気の治療費、だよな?」
わかってるじゃないですか、とドイルはあきれ顔を作る。
「権田原は死んでいないし、冴木さんも命を取り留めました。そうすると、冴木さんのお嬢様を救う手立てはないままです」
「そ、そうだな?」
うなずきながら、しかし意図を理解してはいない様子の九鬼警部補に、ドイルは徒労感を滲ませる。
「犯人の動機を形成した原因がまだ解決していないんですよ? そうすると、犯人はまた犯行を企てるかもしれないじゃないですか。それでは意味がない。真の解決には程遠いというものです」
「え? でも、俺たちにそんな大金、用意できないぞ?」
うろたえる九鬼警部補に失望のため息を吐き、ドイルは言った。
「お金を用意するのが目的ではありません。病気を治療することが目的です」
「だから、その治療に大金が必要なんだろ?」
「だから、お金を掛けずに治療するために、今から僕たちが向かうんです」
ドイルの言葉の意味を浸透させるように、九鬼警部補の動きが止まる。そして意味を理解するにつれ、その顔が驚きに強張った。
「君が治療するって言うのか!?」
「僕じゃありません。AIです」
AIの指示通りに、自分は手を動かすだけだとドイルは言った。いやいや、と九鬼警部補は首を横に振る。
「医師免許を持たない人間が医療行為をしたら法律違反だ!」
「僕は米国で医師免許をすでに取得していますから、その点は問題ありません」
「そうなの!? すごいな、ドイル君!」
あまりに素直に称賛の目を向けられ、ドイルは名状しがたい表情になる。キラキラとして目でドイルをしばらく見た後、表情を改め、九鬼警部補は確認するように言った。
「本気、なんだな」
もちろん、と答え、ドイルは冴木の娘が入院している病院がある方向を向いた。
「死なせませんよ。死なせるはずがない。九鬼警部補、僕はね、信じているんです」
ドイルの瞳には強い自負と決意が同居している。
「探偵の力は、真実を暴くためにあるのでも、犯人を追い詰めるためにあるのでもない。誰かを幸せにするための力なんだって」
九鬼警部補の厳つい顔が優しく微笑む。大きくうなずき、
「よしっ! じゃあ車回してくる! ちょっと待っててくれ!」
そういうと、猛烈な速さで走っていく。あっという間に見えなくなったその背中に、
「すごい速いな」
呆れたような、感心するような声で、ドイルは小さくつぶやいた。
AIの進歩の速さにはいつも驚かされますね。




