ネグリジェの幼馴染
観念して、俺は朝の宮野家を訪ねた。俺の家から五軒隣の家。近いね、流石幼馴染。
そうするように言われてあるので、俺はインターフォンは鳴らさずに、宮野家の玄関のドアを開いた。
宮野家の大黒柱、来海の父親である遼介さんは既に出勤している時間だ。リビングからは、都さんと和泉の2人の声がしていた。
空気に軽く挨拶だけして、靴を揃え、俺はそそくさと上がった。
リビングに入ると、都さんと和泉が俺に気付き、よく似た顔2つが微笑む。つくづく儚げな美人顔であった。遺伝子って、すごい。
「いらっしゃい碧ちゃん〜」
「碧兄ちゃん、おはよ!」
「お邪魔しますとおはよう」
食卓の席には、4人分の朝食が並んでいた。
空の食器もあるのは、遼介さんが先に食べたからだろう。
都さんが大得意の和食。出汁巻き卵に、切り身の茹で鮭、南瓜のそぼろ煮に、ご飯と味噌汁。家庭科の教科書に載ってそうなほどの、理想の朝食クオリティである。これを毎日作ってるんだから、都さんはすごい。
しかも、味噌汁は湯気が立っている。まだじんわり寒い立春にはありがたい。
お?
俺はリビングに本来居るはずの人物が居ないので、首を傾げる。
「……あれ?来海は?」
壁に掛かった時計を見ると、7時20分。学校もそう近くないので、今くらいには既に起きておいて支度をしていなければいけない時間。
都さんが返す。
「あらら。くるちゃん今日はお寝坊さんみたいねー」
のんびりした返事。一瞬、のどかな草原に立つ都さんの姿が頭に浮かんだ。羊に囲まれてそう。
「…って、みたいねー、て!!…都さん、起こしてあげないのか!来海が遅刻してしまう!」
「うーん、碧ちゃん起こしてきてあげて」
「いや、何で!?」
「あら、いつものことじゃない」
「いつものこと、だった、けども!」
もう、彼氏居る幼馴染の部屋においそれと入れるか。どう考えても闖入を躊躇うわ。
都さん全部こっちの事情知ってるんだよな?その提案してくるのは、何で!?
ぽっと出の彼氏より、幼馴染の俺を応援してくれてるのは分かるけど、そのカードはアンフェアすぎるだろ。反則勝ちしてまうぞ、俺が。
「私今忙しいのよー」
「そうかな!?」
のほほんとテレビを見て笑ってる気がするけど、気のせいなのか!?ドロドロの権力争いで罵倒し合ってる皇宮の女性たちを見て、さらに笑ったように見えるのは気のせいかな!!
「碧ちゃん、くるちゃんのことよろしくね〜」
韓ドラ観てる主婦に、眠り姫な娘さんをよろしくされてしまった。
この前来海の部屋には入ったが、あくまで「部屋」だったのだ。「寝室」と化している朝はアウトだ。駄目である。
よし、回避、回避。
「おい、和泉。お前がお姉ちゃんを起こしてきて」
「やだよ。勝手に入ったらお姉ちゃんに怒られるし」
「お前は弟なんだ!俺よりはマシだろ!」
「碧兄ちゃんは、いいじゃん。早く起こして来てあげなよ」
「何でだよ!」
弟と幼馴染だったら、絶対弟の方がマシだろ。来海の彼氏に処されたくないんだよ俺。和泉くん、分かっておくれ。
しかし、和泉も母親と同じく韓ドラを観ながら、俺にちらりと目線を寄こすだけ。
「…そもそも碧兄ちゃんさ、お姉ちゃんのパジャマを見に来たんじゃなかったけ」
ネグリジェな。
「違う、し…!」
「目泳いでるけど」
「目の体操だ」
「このままだとお姉ちゃん遅刻しそうだけど、時間大丈夫?」
「大丈夫じゃない……」
「うんじゃあ行ってらしゃい、碧兄ちゃん」
「何でだよぉ………」
せめてもの抵抗のために、和泉の学ランの襟を引っ張って無理矢理連れて行こうとしたが、あっけなく拒否され、和泉は席に座ってドロドロ皇宮劇を観ていた。
回避失敗…。
断罪ルート突入……。
来海を遅刻させるわけにはいかないので、俺は説得を諦めて、2階へと上った。
階段を上り切って、向かいの部屋が来海の部屋だ。
コンコンコン、と3回ノック。
昔からの合図なので、もし起きていれば俺と気付くだろう。
しーん。
扉の向こう側から、応答なし。この部屋には、どうやら眠り姫がいるらしい。
「……はあ」
俺は溜め息を吐いて、心を整える。ここから先何を見ようとも、動じるでない俺よ…!
よし。
意を決して、俺は扉を開いた。
すぅ、すぅ…と小さな寝息が聞こえてくる。
ベッドの上に眠る幼馴染の姿。
布団にくるまるようにして、背を丸くしている。
ベッドに広がったストレートの黒髪と、ゆったりとしたスカートの裾。
おおう……
可愛らしすぎて、うっかり昇天するかと思ったぁ…!
危ない、危ない。
中学時代に散々鍛えられた俺の理性は、きちんと仕事してくれて一安心ーーーーー
すると来海は、ごろん、と寝返りを打った。
つまり、俺の方を向いた。
「………!?」
俺が欲望ゆえに無駄に身につけた豆知識によると、ネグリジェというのはフランス語で「しまりのない、気取りのない」という意味である。
そして、来海が纏ったネグリジェは、完全なるネグリジェであった。ゆったりとした胸元によって、母性の象徴が、角度を間違えればチラリどころではない。しかも、膨らんだそれにちょうど紐のリボンが垂れて、更なる膨らみを強調する。
しかも、ルーズなシルエット越しでも分かる腰の細さ……。
自分の可愛さの破壊力、知らないのか…!?
思わず目元を覆う。
無防備への呆れと、罪悪感である。
俺を朝から煩悩まみれにしてくる来海ちゃんよ、少しは加減してくれたまえ……。
いや、俺が勝手にやって来たのか。すみません。
ちょっと前までの俺なら、『おはよう来海ちゃん〜朝だぞ〜!』とかルンルンでふざけてやってたんだが、今日はちょっと無理っすわ……。
俺はブレザーのポケットに入れていた自分のスマホを取り出し、1分後にアラームを設定した。
それを、来海の枕元に放置。
よし、完了。
これが新・幼馴染モーニング作戦。肩を叩く等の接触もない、完璧な配慮。うん。これで俺は処されることはなくなった…!
俺はミッションをコンプリートし、部屋を出て行った。
ーーーーー5分後。
宮野家の2階に、悲鳴が走った。
激しい物音がして、ドタドタドタ!と階段を勢いよく駆け下りる音。
「ああっ!遅刻しちゃう〜っ!!何で誰も起こしてくれなかったのぉーーー!!?」
本日の眠り姫こと、来海のお目覚めである。家を出なければならないデッドラインの時間が迫っていることに気付き、顔面蒼白である。
都さんは、椀を持って味噌汁を口に含む。ほお、と息を吐いた。
「あらあ、碧ちゃんが起こしてくれたでしょう?」
「碧くんのスマホに起こしてもらった!もー!碧くん直接起こして……!?」
「身の安全が確保されたら」
……うん、来海ちゃんのヤバい彼氏が居なくなったらね。
「どういう意味っ??」
来海はネグリジェから制服にチェンジしており、あわあわと食卓の席につく。
俺は最後の一口を食して、来海の部屋からブラシを取ってきた。
「ポニーテールにしていい?」
「普通の一つ結びでいいよ…?!大変じゃない?!」
「ポニーテールが見たい…」
「え?分かった!ごめんね、ありがとう碧くん!」
着席して朝食を食べている来海の背後に立って、俺はブラシで来海の髪を丁寧に梳かす。まあ、手入れに気を使っている来海の髪は軽くブラッシングしただけで、すぐにまとまるから、簡単だ。
髪を耳の高さよりちょっと上のあたりでまとめる。来海の手首についていたゴムをすっと抜いて、そのゴムで結び、俺はポニーテールを完成させた。ちなみにこの角度から見るうなじって最高である。
お、なかなか上出来じゃないか?
そろそろ幼馴染技能検定を受けるべきかもしれない。
試験内容がポニーテールだったら、三級取得は確実である。
来海の対面に座っている和泉は、微妙な面持ちだった。ずず、と味噌汁を啜る。
「ダメ人間製造機……」
ぼそりと呟かれたが、多分俺のことではないと思うので、敢えて俺がその言葉を拾うことはなかった。
「来海、学校に持って行く教材の準備した?」
「うん!……あ、でも机の上に数学の課題置いたまま……」
「了解。じゃあ来海の鞄の中のファイルに入れとくから」
「ほんとにごめんね…碧くん…!」
はあ。久しぶりだ。
幼馴染をお世話するこの享楽こそ、心踊るのである。
遅刻しそうな幼馴染を手伝ってるだけだし、別にこれはいいよな?
「ダメダメ人間製造機………」
何かまた中学生男子の呟きが聞こえてきたが、多分俺のことではないので、俺は聞き流した。




