モーニングコール
昨日のマドレーヌ効果により、今日は随分と目覚めが良かった。来海の施しがあっただけで、俺のクオリティ・オブ・ライフは格段に向上するのだ。流石来海ちゃん。
爽快な気分のまま、早めの学校の支度をしていると、机上に置いていたノートパソコンからメッセージの受信音が鳴った。
何かと思い開くと、怒涛の長文。
送り主は確かめるまでもなかった。
「………」
俺は静かにノートパソコンを閉じた。
よし、見なかったことにしよう。
あの男はしつこいので恐らく催促のメールが届くだろうが、知ったことではない。3回目が来たら、仕方ないから返そうとは思う。とにかくこれをすべきは、今ではない。
すると今度は、スマホの方の着信音。
電話が掛かってきたらしく、手に取ると、まさかの来海の母である都さんから。
都さんから掛けてくることは滅多にないのだが、一体何だろうか。
都さんとは来海を泣かせてしまった件で先日の朝に話した以来だ。向こうが略奪愛を推進してきたのも踏まえて、若干気まずい。
しかし出なかった場合にあの撫子笑顔をお見舞いされそうなので、俺はすぐに応答のボタンをタップした。
電話の向こうからは、少しして、おっとりした声が聞こえて来た。
『…あらあ。おはよう、碧ちゃん』
「……おはようございます」
『ごめんなさいね、急に』
「いえ、それは全然構いませんけど。…あのう…何のご用でしょうか都さん」
『うふふ。用というほどでもないんだけど……』
都さんはちょっと言葉を切って、それから、のほほんと言った。
『今日、うちで朝食食べて行かない?碧ちゃんの好きな出汁巻き卵が今日は都さん上手に出来たの』
「……おお……!」
都さんは来海同様に料理上手で、特に和食を作らせたら食べた者の舌を唸らせるレベル。俺の母親は、俺と翠が小学校に入ったあたりから海外を仕事で飛び回っているので、むしろ都さんの料理を食べる機会の方が多かったのだ。
しかも出汁巻き卵とは……!
俺の大好物である。
うちは母親は相変わらず海外。父親も仕事が忙しいので、朝食は各自で用意しなければならない。
その点においても、作る労力が省かれる意味で、嬉しい提案だった。
反射的に返事をしそうになって、俺ははたと止まる。
そうだ。
それは、非常に魅力的な提案だったが、俺はしかし頷くわけにはいかないーーーーーーー!
何だかここ数日で自分の当初の目的を完全に見失ってしまっていたが、俺は少々来海との距離感を測り間違えているからして、それを修正しなければいけないのだ。
来海に泣かれてしまうので、ある程度はもう諦めるとして、それは来海から誘ってきた場合の話。
俺の方から来海に近付くのは、ナッシングである。
え?昨日調理実習に乱入しようとしてたのに説得力ない?いや、調理実習は浮気じゃない。クラスメイト全員が浮気相手になるから、浮気と仮定することは出来ません。
まあ、とにかく。
今のこの状況下では、『宮野家を訪れる』という選択肢の決定権は俺にある。ここでもし訪れようものなら恐らくアウトだ。
家に上がるのは、来海の彼氏さんに許された特権であるのだ。その特権を俺が行使するわけにはいかない。
俺から来海に接近するのは、ナシなのだ。来海から誘うならともかく。来海からなら、ともかく。
しかも、俺は、土曜日には来海の彼氏最有力候補との直接対決を控えている身っ!
初心忘れるべからず。宮野家にもう上がることはないと決めたあの日を思い出せ!己の心を律するのだ。
断腸の思いでここは断らねばならないーーーーー
「すみません都さん。せっかくですがここはお断りさせて……」
『あのね、碧ちゃんー』
「お、はい…?」
『くるちゃんね、最近新しいナイトウェアになったの』
「へ。は、はあ…」
急にどうした…?
そして把握できてなかった新情報に、驚き。
前のモコモコパジャマも可愛かったけどね。
『くるちゃん、前のも可愛かったけど、今度はネグリジェよー』
「……………お」
ね、ネグリジェ…!ま、マジ…?
密かに期待してた男子高校生の欲望が知らないところで、実現しちゃったよ……!
『しかも丈が長くてね、スカートがふんわりしてるからお姫様みたいよー』
「…………な…」
『くるちゃんはスタイル抜群だから、あの細い腰のくびれが……』
「…………お、あ……」
『私譲りのあの部分は言うまでもなしね』
「…………お……」
『ふふ、都さん、あれは碧ちゃんの好みどストライクだと思うの。清楚かつ控えめな大胆さが大好物の碧ちゃんなら、見たくてたまらないと思うの。ふふ、想像してみて。くるちゃんが着てるとこ想像したら、碧ちゃんどう?ねえ、どう?』
「…っ、な、なんてこったー!見たいよぉ!来海ちゃんは、天使!いや、喜んで行かせていただきます!!」
『あら、決まりね』
「…………あ」
我に帰る。
気付いた時には、時すでに遅し。
わ、罠にハマってしまった……!!
そうだ、この人はそういう人だった。
相手を転がすのが上手なのだ。
いや、来海という最高級に甘いトラップにまんまと引っかかってしまった俺が単純で馬鹿なんだが……!
今からでも訂正しなければ……!
『さあ、早くいらっしゃい、碧ちゃん〜。また後でね』
「み、都さ……!」
ブツっ、無慈悲にも切られた電話。
おっとり都さんは、案外容赦なくキッパリしているのである。
俺は崩れ落ち、床に両手をついた。
ああ……神よーーーー。
俺はまた罪を犯そうとしているのです、どうしましょう。
俺の歯が半分くらい折られるかもしれない。
だって、見たいと思っちゃったんだよ!
来海め…わざわざ俺のどストライクゾーン当ててきやがった……
何でだ。第3回分からせタイムによって吐かされた俺の好みが来海の脳に無意識に残ってたのか。偶然で引き当てたか。
エロスと可愛いの共存には抗えない、意志薄弱な我が身に嘆く…………。
俺がのそのそと階下に降りると、もう朝食も済ませて家を出る寸前の妹と目が合った。
妹の翠は、ただ今中学2年生で、テニス部に所属している。試合が近いため、最近は朝練が多く、俺より何十分も早く家を出ていた。
そうだ。和泉も喜ぶし、翠が宮野家に一緒についてきてくれたらなあ…!
「あのな、翠……朝食もうワンセット食べないか。俺の罪を軽くしてくれ……!」
妹は真顔になった。
「……お兄ちゃん、何言ってるか分からない。食べない。じゃあいってきます」
「……いってらっしゃい……」
本日も、朝はテンションが低めな妹を見送った。
普段は優しいんだよ?
しくしく。




