保健室の古川先生
授業が終わって放課後の部活に向かう俺の足取りは、軽い。調理実習リベンジは失敗したが、来海からのマドレーヌプレゼントがあったので、俺の気持ちは晴やかだったのだ。
「……………」
廊下を歩きながら、俺はふと歩を休めた。
俺と同じように部活に向かう生徒が、俺を通り越してわいわいと話しながら、行ってしまう。
……いや、……少し違うな……。
今の俺の感情を形容するには、それは単純すぎる。
もし仮に説明するとしたら、そう、安堵だ。
恐らく必要のない不安。その不安をしなければいけなかったことに、重ねた不安。そんな繰り返す不安から解放された、安堵が今の俺の心を占めているのだ。
そしてーーーーー僅かに淋しさがあった。
それが、心底嫌になる。自分の性格の悪さに、いつもこんなとき、俺は失望する。
「あら?大倉くん。どうしたの?」
声を掛けられてはっと顔を上げると、優しげな顔つきの保健室の古川先生がいた。彼女は、水上高校の保健室の癒し的存在で、生徒に人気。悩みを相談しやすいと、女子たちから信頼されている。
そんな古川先生は、ダンボール2箱を手に持っている。彼女の上半身が隠れるほどの大きさで、なかなかに重そうだった。保健室の備品だろう。
俺は、上から1個拝借。
「…手伝います」
「あら、ありがとう大倉くん。とっても助かるわ」
「いえ……」
俺が2個とも持つと、古川先生は1個も貸してくれなくなりそうだったので、平等に2人で1個ずつ。古川先生はそういうお人だ。
それなりに長い付き合いなので、なんとなく分かる。
彼女は、俺や来海の中学の時の保健医でもあった。俺たちが入学したのと同じタイミングで、水上高校に勤務先が変わったのだ。
もうそれほど人のいない廊下を、俺と春川先生は歩く。グラウンドからは、野球部のひときわ大きい掛け声が聞こえていた。
「……春川先生」
「うん?」
「来海のクラスの調理実習、潜り込めませんでした」
「あはは、それはそうだよ大倉くん」
真面目な顔つきで俺がそんなことを言うものだから、春川先生はおかしそうに笑った。気さくで、大人らしい飾り気が良い意味で無い笑顔だった。
先生とは言え、俺が中学2年の時に保健医になりたてだった人なので、むしろ生徒に近い年齢なのだ。
「もし実行してたら、私が苦労しちゃってたよ大倉くん」
春川先生には、無事に自分のクラスから俺が脱出し、来海のクラスの調理実習に参加できた際に、保健室に居ることにしてくれるよう、事前に頼んでいたのだ。
「それはもう、必要犠牲ということで手を打ってください」
「ええ?あはは」
またおかしそうに笑う。
やがて、沈黙が落ちる。
俺と来海の中学時代を知る春川先生は、たまに何かを言葉にするのを躊躇って、そんな風になる。俺も大抵何とも言えないものだから、黙ったままだ。
しかし、春川先生の口が先に開いた。
「宮野さんは、……元気にしてるかな?」
それは随分と気遣わしげな、声だった。
刹那、躊躇って、俺は曖昧な笑みを浮かべる。
「……………来海も春川先生も同じ学校に居るのに、不思議な質問ですね」
「………大倉くん…それはちょっと皮肉だよ……」
春川先生が眉を下ろして、苦そうに笑う。俺としてはただの純粋な疑問のつもりだったのだが、春川先生には引っかかるものがあったらしい。言葉って難しいな。
「…すみません。そんなつもりじゃ」
「ううん、ごめんね。確かに私の方が不思議な質問だった。………あのね、大倉くん」
古川先生が一拍置いた。
「敢えてそれに答えるとしたら………私には、心の奥底まで分からないから、かな。…私はね、当時の宮野さんの心の傷に気付いてあげられなかったからーーーーーーー」
古川先生のそれは懺悔するような、悲しい痛みを伴うものだった。古川先生なら、もし当時の来海に助けを求められていたら、きっとその傷に寄り添おうとしただろう。
だが、来海は……1人で解決しようとしてしまった。
困った人に手を差し伸べられる勇気と優しさを持っていながら、その実、彼女は誰かを頼る甘えと強さを持っていなかった。
そしてとうとう起こったのが、中学2年の2月、あの事件だ。
古川先生は事に気付いた後には、懸命にフォローしてくれた。
だから古川先生が気を病む必要はないのに、律儀で生徒思いの先生なのだから、これが難しい。
俺と来海のことを高校に入学してからも気にかけてくれ、俺の突拍子もない頼み事を受け入れてしまうのは、それゆえなのだろう。
「宮野さんのことは、大倉くんが一番分かっていると思うから………。だから、大倉くんに訊いたの」
そうだろうか。
咄嗟に思う。
それは相対的な評価。……来海の心への理解を、他者と比較するから当てはまるだけなのではないかーーーーーー、と。
他者よりは、来海のことを俺が理解しているに決まっている。でもそれが相対的でなく、絶対的だとは言えるかは保留だった。
俺だって、当時、気付いてやれなかった部分があったのだから。
ただまあ、俺の視点で語るとするのならば。
「……来海、元気にしてますよ。あんな腐った学園よりよほどここは平穏で、心地良い」
「そっか………」
いつの間にか、保健室に到着していた。
春川先生が床に置いた段ボールの上に、俺も持っていたもう一つを重ねた。
「ありがとう、大倉くん。ごめんね、もう部活始まってるんじゃない?」
「先生を手伝ってたって言えば、大丈夫ですよ」
俺の性格的に、選んだ部活は元々緩い。そんなにロスってないし、時間は大丈夫なはずだ。
俺は、春川先生に軽く挨拶をして、保健室を出て行こうとした。ドアに手を掛けた時だ。
春川先生の声が、最後に問いかけた。
「大倉くんは………大丈夫?」
どうしてそんなことを訊くのだろう。
俺は振り返る。
「ええ。元気にしてますよ」
俺はそう言い残し、今度こそ保健室を出て行った。
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あれから、もう2年以上が経とうとしている。
当時中学2年生だった碧の言葉を、今でも春川小鳥は思い出す。
『俺は………もう二度と、来海にあんな思いはさせません。でも、これは、来海は知らなくていい。俺がやったことも、来海が知る必要はない……だから黙っててください、春川先生ーーーーーー』
宮野来海の傷を、大倉碧は宣言通り全て忘れさせた。彼女を救えたのも、これからだって救うのも、彼ただ1人だけが出来ること。
おかげで、彼女は毎日楽しそうに高校生活を送っている。傍目から見ていても、心配になるようなことは、彼女に関してはない。
だが、大倉碧は違う。
彼はとても自分の感情の操作が得意で、繊細だった。
それを他者に悟らせる真似を、彼は決してしない。
彼は才覚に恵まれ自我に強く、一方で危うき自己犠牲の脆さを持っていたーーーーーー
『来海の幸せのためなら、俺は…………』
春川小鳥は、思い出す。
『大嫌いなあの女でも、従ってやりますよ』




