言葉の奥にあるもの
「記述する」って、ちょっとかたい言い回しだと思っていた。でもよく考えると、「記述」という言葉自体にすでに「書く」という動作が入っているのだから、それに「する」をつけるのは二重表現じゃないのかな、なんてふと疑問に思ったのだ。
こういうことを考え始めると、止まらなくなる。たとえば「勉強」は「する」か「しない」かの選択が日常の中にある。でも「記述」って、あえて「しない」と言う場面がそんなに多くない。むしろ「空欄」とか「未記入」とか、もっと現実的で事務的な言い換えが先に出てくる。
たぶん「記述」は、それ単体でもう動作が成立している言葉なんだと思う。何かが書かれている、その結果がすでにそこにあるような言葉。だから、「記述しない」とわざわざ言うと、ちょっと浮いてしまう。誰もが「書かない」ことよりも「空欄」の存在として扱っているから。
そこから、もっと広げて考えてしまった。「名詞だけで動作がわかる言葉」と、そうじゃない言葉があるんじゃないかって。「勉強」は、するかしないかがまだ揺れている。でも「記述」は、すでに何かをしたという空気をまとっている。英語だと、こういう違いはもっと明確だ。動詞で命令もできるし、否定もストレート。でも日本語は、名詞に曖昧さがある。その曖昧さを「する」で補ってるのかもしれない。
私が書く小説の中でも、こういう言葉の違いがふと表れることがある。「記述する」という表現をキャラクターに言わせるか、「書き込む」にするか、それとも「空欄のまま提出した」にするか。それぞれの言葉に、少しずつ違う物語がついてくる。
言葉って、本当に奥が深い。たった一つの助詞や補助動詞が、その人の態度や空気をすっかり変えてしまう。そんなことを考えながら、今日もまた、私は文章と向き合っている。