ゼロクエリに耳を澄ますとき
私は原稿用紙をにらみながら、ふと机の上のスマートデバイスに視線を移した。何も尋ねていないのに、画面には「今日は雨が降りそうです。洗濯物は部屋干しに」と静かに通知が浮かんでいる。ゼロクエリ検索──問いを発する前に答えが届く時代の小さな奇跡だ。けれど私は、その背後に脈打つ長い物語を思わずにはいられない。
すべては一九九四年、英国の研究所が「忘れかけた用事を思い出させる」ために開発した小さな実験から始まったという。まだブラウザも若かったころ、研究者たちは人の行動ログをこっそり集め、声なき欲求を推し量ろうとした。そこに「検索」という言葉はなく、けれど確かに検索の未来が宿っていた。
二〇〇五年、シアトルの研究チームが発表した論文を私は大学図書館で読んだ。彼らはユーザの行動履歴だけで検索結果を並べ替え、「事実上のゼロクエリ」を理論化する、と書いていた。ページの余白に赤ペンでメモを残した憶えがある――「小説に使える」。当時はまだ検索窓に文字を打つのが当たり前で、未来の読者が自分の欲求すら言語化しなくなるなんて想像しづらかった。
転機は二〇一二年の夏、Android 4.1 とともに現れた Google Now だった。カード形式の通知が、私のカレンダーと位置情報を縫い合わせ、次の予定を先回りして教えてくれた。私は締切前の取材旅行でよく迷子になったが、あの頃から知らない街でも「次の地下鉄は三分後」と囁くカードに救われた。ゼロクエリがもたらしたのは、地図よりも先に「気づき」が差し出される安心感だった。
作家としての私は複雑だ。問いを立てる行為そのものが創作の火種になる。けれどゼロクエリは火打石を取り上げ、もう火を起こしておいたからと手渡してくる。便利さの背中に、物語を奪われるような寂しさを覚えることもある。だから私は、AIが用意したカードをあえて無視して散歩に出かける。傘を持たず、雨に降られ、びしょ濡れで喫茶店に逃げ込む。そこではじめて「濡れたノートの匂い」という一句が生まれるのだ。
二〇二四年、巨大言語モデルが検索エンジンと手を組み、新しいゼロクエリの波が押し寄せた。AIは外部ツールを呼び出し、私の読書履歴や心拍数を材料に、次の執筆テーマや休憩のタイミングまで勧めてくる。まるで編集者が何十人も部屋にいるようだ。だが編集者と違い、彼らは沈黙のまま私の内面を映し出す。私はときどき画面に向かって「うるさいわね」と独りごちる。答えが早すぎると、疑問が成熟する過程が削ぎ落とされてしまうから。
それでも、ゼロクエリは物語の肥料になる。登場人物に行動ログを付与し、彼らのスマートデバイスが何を提案するかを想像すると、物語は勝手に枝分かれしていく。未来の読者がページをめくるより先に、物語が読者の心を覗き込み、結末をカスタマイズする日が来るかもしれない。問いが生まれる前に答えが届く世界で、私は「問いの余白」をどう描くかに心を砕くのだ。
夜更け、窓を叩く雨音が強くなる。洗濯物はもちろん部屋干しだ。スマートデバイスは静まり返り、次に何を告げるか思案しているようだ。私は原稿用紙にペンを走らせる。ゼロクエリが開く未来を恐れず、でも決して明け渡さない。問いを抱えたまま書き続ける自由こそ、作家である私の呼吸なのだから。




