三月三十一日の夜に漂う改行の匂い
日付の端に小さな数字が並び、月のファイルが閉じられる。カレンダー上の三月は、ここで一度終了し、四月という新しい章がロード待ちになる。けれど、空気はまだ読み込み中で、完全な切り替えには至っていない。
夜の空は、どこか落ち着かない色をしている。冬ほど澄んでおらず、夏ほど濃くもない。三月という行が終わり、四月という行にカーソルが移動する直前の、未確定な背景色。
桜は半分ほど咲いている。満開でもなく、蕾でもない中間状態が、なぜか年度末という言葉とよく似合う。人事異動も、退職も、入学も、すべてが「途中経過」に見える瞬間。何かが終わり、何かが始まるが、その境界は視覚化されない。
子どもの頃、三月三十一日は特別な日ではなかった。ただ春休みの一日で、明日も休みが続くというだけの時間。大人になってから、三月三十一日には書類や通知や心の整理が詰め込まれるようになった。日付に意味を貼り付ける能力は、成長ではなく訓練の結果なのだと思う。
街を歩くと、引っ越しトラックが止まり、花束を抱えた人が歩き、スーツケースを引く人が駅に向かっている。人間は月末に合わせて移動するが、鳥も木も川もそんなことは知らない。自然は行替えをしない。人間だけが改行する。
夜のコンビニで、レシートの日付が三月三十一日と印字される。数値が並んだだけの情報なのに、そこに終わりの気配を感じる。数字は感情を持たないが、人は数字に感情を投影する。カレンダーは、人類最大級の感情投影装置だ。
窓を開けると、少し暖かい風が入ってくる。四月の風ではなく、三月の余韻を含んだ風。月の境界は、風には存在しない。境界は、ただ人間のデータ構造にのみ存在する。
三月三十一日の夜とは、月というファイルの最後に挿入される空白行。私は今日、その空白行に立ち止まりながら、四月という次の段落に何を書くのかをまだ決めないまま、ただカーソルが点滅しているのを眺めていた。




