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空気のなかの自我  作者: 設楽七央


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春分の光が机の上に落ちるとき

春分の日。カレンダーの小さな文字が、今日は特別な日だと主張している。昼と夜が等しくなるという、天文学的には端正で、人間的にはほとんど実感のない節目。けれど、窓から差し込む光は、いつもより少しだけ意識に引っかかった。


朝、カーテンを開けると、光が机の上に一直線に落ちていた。ノートの白いページ、ペンの影、湯気の立つカップ。そのすべてが、光によって一時的に意味を与えられているように見える。光は、物に「今ここにある」というラベルを貼る装置だ。


春分の光は、冬の光よりも広く、夏の光よりも穏やかだ。角度が中庸で、部屋の奥まで入り込み、隅々を均等に照らそうとする。均等という言葉が似合う珍しい光。だが、照らされる側は均等ではない。埃は浮かび、紙は黄ばみ、コーヒーの染みはくっきりする。光は公平だが、露出するものは不公平だ。


子どもの頃、春分はただの休みだった。昼間に外で遊び、夕方に帰り、夜はいつも通り眠る。昼と夜が等しいことなど意識したこともなかった。ただ、春という言葉だけが浮遊していて、何かが始まる気配だけがあった。節目とは、理解するものではなく、後から意味づけられるものなのだと思う。


机の上に落ちた光の帯は、時間とともにゆっくり移動する。午前中の帯、正午の帯、午後の帯。光は同じなのに、帯の位置が変わるだけで、気分も変わる。午前の光は義務的で、午後の光は倦怠的で、夕方の光は郷愁的だ。等しいはずの昼の中にも、感情の非対称がある。


夜になると、今度は人工の光が主役になる。部屋の灯り、街灯、スマートフォンの画面。春分は、自然光と人工光の勢力図が切り替わる季節でもある。自然の光が長くなり、人間の光が相対的に短くなる。その変化に、なぜか少しだけ安心する。宇宙の側が主導権を取り戻す感じ。


春分の光とは、宇宙が一度だけ「均衡」を実演する日。私は今日、その光が机の上に落ちるのを眺めながら、均衡という概念よりも、均衡が一瞬でも実現するという事実そのものに、奇妙な慰めを感じていた。

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