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飴と無知

作者: 日向 葵

「痛」

 メイドが用意したシャツに袖を通すと、予期せぬ痛みに体の動きが一瞬止まった。

 目の前の鏡を使って痛みのありかを探せば、上腕部の裏側に痣がある。昨日の入浴では気付かなかった。

「チッ」

 誰もいないのをいいことに下品な舌打ちをして、着かけたシャツを乱暴に脱ぎ捨て長袖のものを自分で探す。

 段々蒸し暑くなってきたので夏服にしたいのは山々だが、傷跡が目に触れるごとに見苦しいと注意されるのは火を見るよりも明らかなので仕方ない。

 確か一昨日背後から鞭で打たれた。その際軌道がわずかに逸れて当たったのだろう。程度の酷い背中ばかりに意識がいって見落としていた。今からではお務めに間に合わなくなるので手当ては帰ってからしよう。どうせその頃には新しい傷が増えている。

 朝から不満を抱えながらオレは王宮へと向かった。




 この国で最も豪華な場所はと質問されれば、誰もが答えにあげるであろう王宮の一室。オレがいるのは単なる子供部屋だが、それだって我が伯爵家とは比べ物にならない。広さは言うまでもなく、調度品も並べ上げれば上げるだけ恐ろしくなっていくものばかりだ。

 頭上には傲然と輝く水晶のシャンデリア。その光を受け止める大理石の床を毛足の長い絨毯が覆う。権力の象徴である高級食材のパイナップル柄の壁紙には、舶来品である黒檀の額縁に納められた婚約者の肖像画がかかっている。一度使わせてもらっただけだが、浴室にはアメジストのバスタブがあることも知っている。初めて訪れてから今日までずっと、どこに顔を向けても眩暈がしそうだ。

「王子、いけませんね。スペルミスが二か所もあります」

 部屋の主であるこの国で最も尊い子供に相応しい家庭教師として雇われた、最も賢い知者がテストの結果を慇懃に告げる。次期国王として幼少期から厳しく養育されたユーリック王子は、俺より二歳年下ながら大人顔負けの貴族然とした澄まし顔でわずかに唇を引き結んだ。

「仕方ありませんが、鞭打ち二十回です。よろしいですね」

 同意の頷きを見届けた家庭教師が、少し離れた場所で椅子に腰かけるオレの方へつかつか寄る。何度経験しても嫌な瞬間だ。

「ヒュー・エンディコット、手を」

「はい」

 短くそっけない命令に従い手の平を上にして差し出す。

 パシン!

 風切り音に続いて乾いた音が弾けた。無防備なオレの手には鋭い痛み、家庭教師の手には短鞭。これがオレのお務め「ウィピング・ボーイ」の全てだった。

「痛い!」

 目をぎゅっとつぶり大声を上げる。

 ウィピング・ボーイとは、王子が不品行な立ち居振る舞いや間違いを犯したとき体罰として施される鞭打ちの身代わりのことだ。

 相手は子供。しかし一介の家庭教師が身分の高い相手に暴力をふるえるわけもない。そこで代わりに引き受ける代理人、この場でいうオレが用意されたわけだ。更に自分のせいで他人が苦しむ様子を見せ、王子の道徳心に訴え反省を促す狙いもあるらしい。そのためウィピング・ボーイに名乗り上げたあと、オレは国王との顔合わせで「大げさに痛がれ」と秘密のお達しを受けた。家庭教師には手加減をするよう言っておいたとも。

(十四、十五……)

 心の中で数を数えながら終わりを待つ。

 手加減されても痛いものは痛いだろうとあらかじめ覚悟はしていたが、この家庭教師が王の言いつけを守っているのか疑うくらいに手の平は焼けるように熱い。背中ではなく手を指定したあたり、前回自分がどこを叩いたのか把握して気を使ってはくれているようだが……。

(十九、二十)

 指定回数きっちり叩き終えた家庭教師は、何事もなかったかのようにオレを心配する素振りすら見せず元の位置へ戻った。

 しかしユーリック王子は身軽な動きで椅子から下り、授業を再開しようとする家庭教師と入れ代わりでオレの方へ来た。

「ごめんね、ごめんね……!」

 王子と違いテーブルを用意されていないオレの目前にはスペースがある。そこにあろうことか膝をついたユーリック王子は、真っ赤に変色した両手を下から掬うようにそっと握り締める。毎度のことだった。

 声変わりがまだの王子は幼い抑揚で謝り続ける。

 お務めを始めた頃のオレは、ユーリック王子の身分にあるまじき振る舞いと謝罪にいたく感銘を受けた。細い眉尻を下げ同情を寄せる姿はとても嘘には見えない。本心からの言葉は傷口から沁みて心に到達した。

 でも、段々と見えていなかったものが見えるようになってきた。

 哀れむように伏せられた青い目が、うっすら涙の透明な膜に覆われていること。

 少年らしいあどけなさを残した白いほほが、赤く染まっていること。

 離れた家庭教師は知る由もないが、抑制しきれない呼吸の荒さ。

 豪奢な金糸のような髪に隠されていたはずのそれらに、距離の近さと回数の多さから嫌でも気付くようになった。

 信じられないことに、ユーリック王子は鞭で痛がるオレを見て興奮していた。

 それを知ってからはもう。

「僕のせいでごめんね、次は絶対間違えないようにするから……」

 いじらしく、またありがたいお言葉も空虚に響き、最近ではわざと間違えてるんじゃないかと疑心が芽生えつつある。

「王子、席にお戻りください」

 家庭教師が咳ばらいをしたのを頃合いだと判断し着席を促せば、ゆっくりと……指先を最後まで残すような離れ方をし王子は席へ戻った。

(変態め……)

 オレはその華奢な後ろ姿を見つめながらひっそりと不敬罪を重ねた。




 国王が長子のためのウィピング・ボーイを探している、という話を父親から聞かせられたとき、オレはすぐにそのお役目へと立候補した。

 その返事をもらった父親は、そうかとも分かったとも、およそ会話を続けるどころか終わらせる努力も放棄して部屋を出ていった。

「くそ野郎が」

 露骨なオレへの興味の無さに、ドアが声と姿を遮ったことを確認してから罵る。

 この家で三番目の息子(オレ)には一片の価値も無い。家督を継ぐ一番上の兄が大事にされるのはこの世の常識、二番目ならスペアとしてある程度大事にされる。でも、二番目ですらないオレは。

 両親からは期待もされず、家主に追従するのが仕事のメイドからもおざなりな世話しかされない。何番目だろうと結婚という役目を与えられそのために必要な投資をされる女に生まれた方がまだましだったかもしれない。

 このままでは大した将来が見込めないのは明らか。だからオレは、僅かな望みにかけてウィピング・ボーイになると即決した。

 ウィピング・ボーイとして王宮に通えば、王とは難しくとも王子となら確実に知り合いになれる。面識さえあれば将来なにかしら引き立ててもらえるかもしれない。ついでに、座っているだけとはいえ勉強中の王子の傍に控えるなら国随一の教育にふれられる。それは父親が雇う家庭教師に習う兄二人には得られないアドバンテージだろう。

 そうして迎えた顔合わせの日では国王にまず恭しく挨拶をしてから品定めをされた。問題なかろうと判断した王が家臣に王子を連れてくるように言いつける。お目通りが許されたらしい。

 広い王宮だからか、人を呼んで戻ってくるだけで随分と待たされたように感じた。なんてことはない。後で考えればあれは明らかにただの焦燥感だった。

 やがて小さな歩幅の靴音を伴い家臣は謁見の間に入室。オレはこの時初めて、名前と年しか知らなかったユーリック王子と相まみえた。

 光を受けて輝く小麦畑のように眩しい金の髪。貴族らしく伸ばしつつあるそれが屋外での労働を知らない真っ白なほほの横で豊かに波打つ。

 丸みを帯びた額からすっと突き出た鼻は白くそそり立つ石灰岩の断崖のように美しい。高くすっきりした鼻梁は年齢以上の利発さを醸している。反対に左右対称にきちんと納められた両目は濁りを知らず青く透き通って子供らしさが強調される。

「名前は?」

 まだ高い声と相俟って、一見するだけでは少女と見誤る人も多そうだ。

 名乗る許可を与えられたので、背筋を伸ばして丁寧に、はっきりと自己紹介をする。

「シーモア・エンディコットが三男、ヒュー・エンディコットと申します。お目にかかれて光栄です」

「そう。僕はユーリック・キャヴェンディッシュ。よろしくね」

 挨拶はそれきり。あっけなく、なんなら尊大とも受け取れる。伯爵家なんて、三男なんて、ウィピング・ボーイなんてってか。彼は幼いながらに既に支配者の風格を備えていた。




 第一印象こそ次期国王らしさを感じたものの、お務めの時間がくればユーリック王子は年相応だった。

 各教科の家庭教師が過密スケジュールに忠実に則り入れ代わり立ち代わり入退室を繰り返す毎日。王子は真剣に書物の文字を読み、難問に顔を顰めたり、時に足をぶらぶらさせタイミングを見計らっては教師に見えないようあくびをしたり。

 とはいえ、そんな子供っぽさを感じられるのは表面上だけ。教育はさすがの一言につき、上二人の兄が習う内容より恐らく高等だった。年長者にあるまじきことながら正直最初のうちはついていけず、王宮の図書室が借りれなければオレは未だに躓いたままだったろう。

「ユーリック王子、誤答が一つございます」

 年老いた神学の家庭教師が重大な秘密を打ち明けるように教え子の誤りを指摘する。間抜けなオレはまだ自分の出番に気付かないでいた。

「ヒュー、何を呑気にしていますか。手を出しなさい」

 あ、そうか。そこでようやく身分違いの自分が同席を許された理由を思い出す。

 黒々とした乗馬用の短い鞭はしわだらけの手が握ってもなお物騒にオレの目に映った。オレ、本当に今からこれにぶたれるの? 遅まきながら恐怖に取りつかれるが、王子の間違いを裁く手は止めようもない。

 微動だにしないウィピング・ボーイにしびれを切らした家庭教師が、オレの手首を掴み甲へパシンと鞭を振り下ろした。力のない老爺だからか勢いはなく耐えられなくはなかったが、仮にも伯爵家の一人として育ったオレにとって他人からの暴力は衝撃的だった。暫く時が止まり、王命を思い出し慌てて悲鳴を用意する。

「いっ……」

 タイミングは外したし、白々さも否定できない。もしかしたらこれが原因で役目を解かれるかもしれない。焦りと連続して襲い掛かる痛みとで脳が空転するも、そんな心配は不要だった。

「ヒュー、平気!?」

 オレよりよっぽど焦燥を表に出した王子が駆けつけすかさず手を取りケガの具合をあらためる。

「ああ、痛そう……ごめん、ごめんね」

 年寄りの初心者といえど要領を得た最後の方はダメージが大きかった。まじまじと赤らんだ手の甲を見て謝罪するユーリック王子。眉を落とす表情は場違いな程悲愴に満ちている。わななく唇が少女のように可憐だ。

 いつぶりかの本気の心配に、グッと胸が詰まった。家族にだってここまで心配された記憶はない。初めての経験に、心臓がどこにあって、どのくらいの速度で脈打っているのか知覚できるほどオレはドキドキしていた。

「いえ……お気遣い、ありがとうございます」

 こんなに思いやりのある人が将来この国の玉座に座るなら、それは喜ばしいことだろう。遠い未来に期待を予感し、その時のオレは吞気に、しかし本気でそう思ったのだ。




 新しい家庭教師が加わった。将来を見据え婚約者の国の言葉を覚えるために招聘されたのは、王子の家庭教師としては初めての女だった。

 王子の婚約者と出身が同じ女家庭教師(ガヴァネス)の名前はアニェス。この年になっても結婚しないどころか職に就いていることからも分かるとおり、自立心の強そうなきっぱりとした物言いの女だった。

「ではまずユーリック王子の習熟度を確認させていただきます」

 アニェスはきびきびと必要なものを用意し、たちまちテストの準備が整った。制限時間を伝えテストが始まる。

 本格的な指導の前の確認なわけで、ユーリック王子がその知識に乏しいのは俺にもなんとなく想像がついた。果たしてテストが始まれば、王子のペンの動きは鈍かった。

「時間です」

 終わりを告げアニェスがすぐ採点にかかる。少し気まずい無言なだけの時間を過ごして待てば、採点したばかりのテスト用紙片手に彼女は「分かりました」と一人勝手に納得しながら王子の席へ戻ってきた。

「正解は半分……さすがですね。これなら上々です。では、早速授業を始めさせていただきます」

 教本を開き次へと進もうとするアニェスを王子が引き留めた。

「半分なら鞭打ちは何回か?」

「何回? ああ、確かに王からウィピング・ボーイの件は伺っておりますが、そのような野蛮な真似は致しませんからご安心を。現に御覧なさい。鞭など持っていないでしょう?」

 にこりと淑女らしい笑みを浮かべアニェスは「まずはアルファベットの読みの違いから――――」と授業に移る。

「でも……」

 王子の唇は物欲しそうに言葉を紡ぐ。その顔は明らかに足りないと訴えていた。小さな口をぽかんとあけて、でも菓子をねだるような幼い可愛らしさとは反対で。年下の子供らしからぬ表情に、形容しがたい感情が血管を通して全身に駆け巡る。

「鞭が無いなら」

 気付けば許しも得ずに声を発していた。でも自分で自分に驚くのはまだ早かったらしい。

「平手でいいので、ぶってください」

 とんでもない発言だと自分で理解するのに数瞬要した。見開いた色違いの二対の目がこちらに向けられるが、オレも同じ表情をしていただろう。しかし、オレの口はまだ足りないと動き出す。

「オレはウィピング・ボーイです、これが仕事です。給金ももらってます。叩いてもらわないと、オレが困るんです。お願いします」

 とにかく必死だった。本来なら余計な苦労もせず喜ぶべき場面だろうに自ら罰を求めるなんてどうかしてる。どうかしてるのに、信じられない程滑らかに舌が回る。

「……分かりました」

 アニェスがため息を吐いて教本を机に置いた。オレの席へ優雅な足取りと顰めた眉で歩み寄るが、オレの目はこれから仕置きをしようとする女家庭教師(ガヴァネス)ではなく、その後ろの青い真剣な目としっかり結ばれていた。

 パチン。

 気の抜けた音が耳元で鳴る。手加減は明らかだった。こんなんじゃだめだ。こんなんじゃ。でももうこの真面目気取った女家庭教師(ガヴァネス)はこれで切り上げるだろう。だったら。

「痛い!」

 ほほを押さえ、思い切り金切り声をあげた。アニェスがぎょっとして身を強張らせるのが俯いた視界でも分かる。

「痛い、痛いっ!!!」

 尚も大げさに喚くオレを不気味な怪物のように見つめるアニェスの向こう。王子の頬が紅潮しているのを密かに確認できた瞬間。

 背筋を何かが這い登った。語彙の詰まった引き出しをひっくり返しても当てはまる名前の見当たらない何か。まだ、文学や語学や修辞学の講義で教えてもらっていないらしい……授業を共にして大分経ってもオレは無知のようだった。




 その日も図書室を使わせてもらい適当な時間で区切りをつけ、門まで中庭を通って向かう途中のことだった。

「今すぐ国王にウィピング・ボーイを止めるよう進言させてください!」

 急に思わぬ方向から大きな声が聞こえ思わず足を止める。茂みを挟んで向こうの回廊にはアニェスと重臣の一人が向き合っていた。

「私は確かに()き遅れの独身で子供はおりませんが、かわいい甥や姪がいます。王子やヒューは彼らと同年齢です。そんな幼い子供に暴力を振るうなんて、到底看過できません! あんなに痛がって可哀相に……こんなことまるで野蛮です!」

 アニェスの激しい提言に重臣は圧され気味だったが、最終的には頷いた模様だった。

 ああ、終わる。オレの役割が。傷を負う日々が。あの時背筋に感じたものが不明なまま。なぜこんなにも喜びと絶望が湧き上がるのか知り得ないまま。




 予感は当たり鞭打ちは無くなった。しかし相変わらず王宮への通いは続きなぜか王子と同じ授業を受けている。穏やかで、でも何か物足りない数日。甘美さを失った菓子をずっと口に含んでいるようだった。

 授業後、習慣になりつつある図書室へ寄ってから帰ろうと長い廊下を一人歩く。通り過ぎたドアがかすかな音を立て開いたのは目的地の一つ手前の部屋でだった。

「ヒュー」

 暗闇――――古すぎる本や地図を仕舞った埃っぽい蔵書部屋から、場違いに澄んだ青い目がこちらを覗く。声の正体は考えるまでもなくユーリック王子だ。

「ねえ、少し僕と話そうよ」

 僅かなドアの隙間に夕暮れ時の鈍い光が差し込み幼い白い手が握り締めるものの正体を露にする。

(鞭だ……)

 ごくりと喉が上下する。痛覚が蘇る。それだけじゃない。王子の息遣いや潤んだ青色と興奮した赤色も。あの謎の感覚に似た何かが体内で醸成されていく。

「……はい」

 誘い込まれるように隙間に体を滑り込ませオレ達はドアの向こうへひっそり消える。

 罪悪感。充足感。背徳感。快感。優越感。ややもすればオレは嫌でも名前を知るだろう。もう無知ではいられそうもなかった。

短編集用に書いたものにタイトルをつけました。多分私が知らないだけで百万回くらい使われたタイトルだと思います。


ウィピング・ボーイ、基本的には架空なようです。念のため。

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