貴方のことは綺麗さっぱり忘れました
もう、とっくに限界を超えていたのだと思う。
婚約者のライアンは、公爵家の三男で、王宮では廷臣をして王に仕えている。家柄も容姿も申し分なく、有能だったため、子どものころから女性に好かれていた。そんな彼と、侯爵令嬢ルシアンナは、幼いころから家の意向で婚約を結んでいた。
子どものころは優しくて、紳士的で、素敵な人だと思っていた。しかし、結婚前にライアンと使用人たちと住むようになってから、彼が――本性を表した。
ライアンは、ルシアンナを自分の思い通りに支配しようとした。ルシアンナに学園を辞めさせ、屋敷に閉じ込めて外出を禁じ、服や食べ物を自由に選ばせなかった。
家が決めた婚約だからと何年も我慢してきたが、結婚をひと月後に控えた今、身体が悲鳴を上げた。動悸や吐き気、頭痛が続いて眠れなくなり、笑顔さえ作れなくなっていた。
そんなある日、ルシアンナの元に訃報が届いた。
「父が亡くなったわ。葬儀に行ってくるから、数日家を空けるわね」
半年前に会ったときはとても元気で、友人たちと狩りに出かけたと笑っていた父が、突然死したという。
喪服に着替えて出かける準備をしていると、ソファで本を読んでいたライアンが舌打ちする。
「誰が行っていいと言った?」
「え……」
「行くな。この屋敷を空けられては困る」
「行くなって……屋敷のことは使用人がしてくれるし、ほんの三日程度で帰ってくるから」
「婚約した意味、忘れたのか? お前の親なんかよりこっちを優先しろ」
まさか、父の葬儀に行くことすら否定されると思っておらず、ルシアンナは言葉を失った。
ライアンの祖父が亡くなったときには、ルシアンナも同行し、葬儀を手伝った。亡くなる前には、体調不良のときに駆けつけて看病をすることもあった。別に、ライアンにも同じことをしてほしい訳ではない。ついて来てくれなくてもいいから、ただ、父の元に行かせてほしかっただけだったのに。
すると、ライアンは本から視線を外さぬまま、口を開いた。
「――どうせもう死んでるんだし、今さら駆けつけても意味なんてないだろう」
その言葉を聞いた瞬間、頭をがつん、と殴られたような衝撃を受ける。これまで必死に耐えてきたものが、バラバラと音を立て、一瞬にして崩れ落ちた。
(この人とはもう、家族になれない。関わりたくもない)
この人にこれまで、何度も人としての尊厳や思いを踏みにじられてきた。それでも、いつか分かり合える日が来るのではないかと淡い期待を抱いてきた。けれど、そんな小さな希望に縋っていた自分は、本当にばかだった。
ルシアンナは支度を整え、無言で部屋を出ていく。
「おい、どこに行く気だ」
「葬儀に。ここまで育ててくれた父に、感謝を伝えたいの」
「はっ、俺に逆らう気か? ああ、行けばいいさ。でももう、二度と帰ってくるなよ」
その『二度と帰ってくるなよ』というセリフは、何度も言われた。いずれも、彼の本心ではなく、ただルシアンナを傷つけたり、不安を煽ったりするための加虐心から出てくる言葉。
(彼の駆け引きに振り回されるのはもう、うんざり)
婚約者への失望と諦めとともに、屋敷を出るルシアンナだった。
◇◇◇
正直、父の葬儀中の記憶はほとんどなかった。婚約者への失望感や将来への心配、色んな複雑な感情が入り交じって、父との別れだけに意識を向けられなかった。
葬儀が終わり実家に戻ったあと、母が言う。
「――で、ライアン様とはうまくやってるの? あの人に迷惑をかけてはだめよ。公爵家との結婚は、我が家の名誉のためでもあるのだから」
「分かっているわ」
「さ、うちのことはいいから早く帰りなさい」
「…………」
ライアンはルシアンナ以外には優しく、外面が良いため周囲から人格者だと思われている。両親も、屋敷でルシアンナがどんな扱いをされているか知らず、いつもライアンを褒めていた。
この婚約は、家同士の契約だ。貴族令嬢である以上、貴族の慣習にならって、ライアンを立てて生きていくべきだと分かっている。けれどもう、心は限界だった。
「帰れない。あの人のところに、帰りたくないの……。ごめんなさい、お母様。でももう私、これ以上あの人とやっていくのは無理……っ」
ルシアンナはひどくやつれた表情で、母に訴えた。
母は、ルシアンナの並々ならない様子から異変を感じ取り、静かに抱き締めた。そして、「好きなだけここにいなさい」と言ってくれた。ルシアンナとライアンの間に何があったのかは、聞いてこなかった。
母に甘えて、屋敷でしばらくの間暮らすことにした。ライアンには、『距離を置きたい』という旨の手紙を出した。けれど、いつまでも家族に甘えたままという訳にはいかない。実家には子どもが生まれたばかりの兄夫婦の生活がある。
ライアンはルシアンナより家格が上ということもあり、身分の格差が重荷になって、婚約解消が難しいのが現実だ。一方的に婚約解除すれば、分をわきまえていないと、家族まで世間から非難される可能性もある。
寝台に座り、ルシアンナは憂いた表情で窓の外の景色を見つめる。
(もう、何もかも忘れてしまいたい……)
(いえいっそ、本当に忘れてしまえば……)
そこで、賭けに出ることにした。
◇◇◇
二週間後、痺れを切らしたライアンが、ルシアンナを迎えに来た。面会を拒まず私室に招き入れると、彼は高価な花束をこちらに差し出し、人好きのする笑顔を浮かべて言った。
「この花、好きだっただろ? 喜ぶと思って買ってきたんだ」
「……」
「今回は悪かった。今度こそしっかりするから、俺を信じて戻ってくれないか?」
「…………」
先日の屋敷での態度とは百八十度違う様子に、同棲を始める前の優しかった彼を思い出す。
けれど、ルシアンナは知っている。彼のこの態度が、支配を継続するための――演技であると。
『これからは大切にするって誓う。だから、許してくれ』
『俺にはお前が必要なんだ』
『もう絶対に失望させたりしない』
ルシアンナがライアンへの拒絶を示す度、ライアンは表面だけ取り繕ってきた。謝れば、ルシアンナを傷つけたことも何もかもなかったことになると思っているのだ。
(もう、騙されない)
この人が変わってくれるとはもう信じていない。期待して、失望して、それでもまた期待して――傷つく。そんな繰り返しはごめんなのだ。
ライアンは変わらない。屋敷に戻れば、ルシアンナを傷つけてくるだろう。これまでライアンと長い時間を過ごしてきて、確かに、情のようなものも心に根付いているけれど、ここで絆されてしまったら、自分はきっと幸せにはなれない。
ルシアンナはゆっくりと唇を動かした。
「どちら様ですか?」
「は……?」
「ごめんなさい、お客様がいらしたとは聞いたのですが」
「何を言っているんだ?」
予想外のルシアンナの反応に、ライアンは完全に拍子抜けしている。
ライアンと別れるため、ルシアンナは――記憶喪失のふりをすることにした。
彼が欲しているのは、自分の言いなりになる都合のいい妻。だから、理想の妻であろうとする自分を捨て、とんでもなく都合の悪い女になれば、自ら婚約解消を申し出てくるのではないかと考えたのだ。
「まさか、婚約者のことを忘れたっていうのか……? 大変だ、誰か! 医者を呼べ! ルシアンナが――」
ライアンはすぐさま、家の者たちを呼び寄せる。
ライアンのことだけ忘れてしまったというのはリアリティに欠けるし、都合がいい気がしたので、家族や友人などの人間関係のことを全て忘れたという設定にした。家族のことも忘れたふりをするのは心苦しかったが、ライアンと決別するためには、こちらも一度全てを捨てる覚悟で挑もうと、自分を奮い立たせた。
ライアンとの生活が辛くなった直後に記憶喪失が起きたため、医者は心因性の記憶喪失を疑った。
「何か、彼女にストレスを与えてはいらっしゃいませんでしたか?」
「そ、それは……」
医者の問いに、ライアンは何も答えられなかった。
それからライアンは、実家に足繁く通ってルシアンナに会いに来るようになった。ふたりの思い出の品を見せたり、過去のことを語ったりして、自分のことを思い出させようとしたが、やがて諦めに変わっていった。
そして――とうとうその日が来た。
ふたりきりの部屋で、ライアンはこちらを無表情に見据えて、唇を動かした。
「婚約解消しよう。面倒な女と結婚するのはごめんだ」
その目に優しさの欠片はなく、声は冷ややかだった。
彼は、一拍置いて告げる。
「お前の代わりなんて、いくらでもいるからな」
「…………」
やはり、ルシアンナの判断は間違いではなかったと悟る。
(やっぱりこの人は、変わらないのね)
◇◇◇
婚約解消された日、空はどんよりと曇り、しとしとと雨が降っていた。
ルシアンナは、父の墓の前に立っていた。無言のまま墓を見下ろし、心の中でそっと問いかける。
(本当に……これでよかったのかしら)
自分を守るためとはいえ、嘘を吐き、家族を裏切ってしまった。記憶喪失のふりをし続けることに、罪悪感が募っていく。
本来なら、家のために決められたライアンとの結婚だったのに、反故にしてしまったことが申し訳ない。もし、自分でなければ、もっと器用にあの人とうまくやれていたのだろうか。
「お父様……私もそちらに早く連れて行って。――なんて」
心が晴れず、未来に希望を抱けず、口をついたようにそんな弱音が漏れる。
何度も何度もライアンに、『お前はだめな女だ』と言い聞かされ、いつの間にか心がすり減り、自己肯定感も削がれてしまったのだと思う。
――この苦しみを、誰かが分かってくれる日は来るだろうか。
じわり、と涙を滲ませたそのとき、後ろから傘が差し出された。
「濡れますよ」
振り返ってそこに立っている男性と目が合ったとき、ルシアンナの頬に目に溜まっていた涙が伝った。
「あ、あなたは……?」
「ただの通りすがりの者です」
彼は身をかがめ、懐からハンカチを取り出して、優しく言う。
「その涙を拭う許可を、僕にいただけませんか」
無防備な心に、彼の気遣いが染み込んでくる。
久しぶりに誰かの優しさに触れたルシアンナは、また涙を流していた。
「……っ、はい……」
その日から、ルシアンナはアルフレッドと名乗る男性とよく話をするようになった。やがて彼が王子であることを打ち明けられたときには、とても驚いた。あの日、公務中にたまたまあの墓地を通りかかり、ルシアンナを見つけたという。
けれど半年後、アルフレッドから求婚されたときは、もっと驚いた。
「僕は君に多くを求めない。ただ傍にいてくれたら、それだけでいい」
アルフレッドは、泣いているときも、笑っているときも、いつも変わらずルシアンナにそっと寄り添ってくれた。何かを強制してくることはなく、ルシアンナの自由を尊重してくれた。
この人となら、幸せになれる気がした。
ルシアンナは決心する。過去の傷ごと受け入れてくれた彼と、ともに生きていこうと――。
◇◇◇
それから、アルフレッドとの結婚が決まり、トントン拍子で王宮入りした。アルフレッドに背中を押される形で、結婚と同時に家族に、『記憶喪失が嘘だった』という真実と、ライアンとの支配的な生活について打ち明けた。
『謝らなくていい。あなたが生きていてくれてよかった。今まで辛かったわね』
母をはじめとする家族は、誰ひとりルシアンナを責めず、むしろ、ルシアンナがそこまで追い詰められていたことに気づけなかった自分たちを悔いていた。
それから、新しい命を授かった直後に、ある報せが届いた。
――ライアンが、汚職の発覚をきっかけに、失脚したというのだ。
その後、犯罪者として裁かれたライアンは、実家からも勘当された。どこにも就職できず、路頭に迷っていたらしいが、廷臣時代の人脈を頼りに、なんとか下働きとして王宮に雇われたらしい。
(また、彼と同じ空間で過ごすなんて耐えられないわ)
それを耳にしたルシアンナは、ライアンに会いに行くことにした。
ようやく新しい人生を歩み始めたというのに、大切な居場所に、わずかでも踏み込んでほしくない。
廊下の床を磨いているライアンを見た瞬間、かつての姿からはかけ離れたみすぼらしい姿に、複雑な思いを抱く。だが、平静を装って彼に話しかける。
「久しぶりね、ライアンさん」
「! ルシ、アンナ……」
こちらを振り返ったライアンは目を丸める。ルシアンナはゆっくりと彼の元に歩み寄り、見下ろすようにして言う。
「王子妃殿下、と呼んでくれないかしら」
「……」
「別れてくださってどうもありがとう。もう、あなたに見下されるのも、暴言を浴びせれるのも懲り懲りなの」
「まさかお前、俺のことを……覚えているのか……?」
困惑するライアンに対して、ルシアンナは意味深に口角を持ち上げる。
「さぁ、どうかしら」
するとライアンは立ち上がり、ルシアンナの腕に縋りついてきた。
「そんなことはいい、頼む! もう一度俺が廷臣に戻れるよう、計らってくれないか? 今のお前の立場なら、それくらいできるはずだ」
散々馬鹿にして、蔑み、抑圧してきたくせに、自分が困ったときだけ縋りつくなんて、あまりにも虫が良すぎるのではないか。
「それはできないわ。自分の犯した罪の責任は取るべきでしょう」
「……はっ。俺の女だったくせに、今じゃ王子妃気取りか? あさましいな」
そんな捨て台詞にも動じず、冷徹に告げた。
「今日からもう、王宮に来てくださらなくて結構です。――王族に無礼を働いたこの者を、王宮から摘み出してください」
「なっ、俺をクビにする気か?」
「――あなたの代わりなんて、いくらでもいるので」
それはかつて、婚約解消される際に、ライアンに言われた言葉だった。
もう、ライアンの元婚約者だった時間は、過去。これからは自分なりの幸せを歩んでいくと決めたのだ。
「私はもう行くわね」
「ま、待て! 俺が飢え死にしてもいいっていうのか! まだ話は終わってな――」
「これからアルフレッド様と観劇に行くの。それでは、さようなら」
合図とともに、後方に付き従っていた騎士たちが、ライアンを拘束して引きずるようにどこかに連れていく。ライアンはじたばたと暴れて抵抗し、叫ぶ。
「やめろっ、離せ……っ、あの女が俺を騙してたんだ……っ! クソっ、絶対に許さない……!」
ライアンの言葉は、もうルシアンナの心には届かない。
この瞬間、ライアンと本当の意味で決別できた気がした。
◇◇◇
エントランスではすでに、支度を終えて正装に身を包んだアルフレッドが、ルシアンナを待っていた。
「お待たせしました」
「騒ぎがあったと聞いたよ。ライアンに会っていたそうだね?」
「ライアン様? それはどなたですか?」
「……どなたって、それは君の……」
彼が戸惑いの色を表情に滲ませると、ルシアンナはゆるりと微笑んで告げる。
「もう、彼のことは綺麗さっぱり忘れました」
「ふ。そうか。では、行こうか」
「はい」
アルフレッドに差し伸べられた手に、自身の手をそっと重ねた。
婚約者と決別し、新しい幸せを掴んだルシアンナの歩みは、とても軽やかだった。
さくっと読めるざまぁを書きたくて書きました。
最後までお読みくださりありがとうございました!
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◆新連載◆
親友を選んだ貴方へ、さようなら。「愛していた」は過去形ですので。
→記憶喪失×すれ違いです。下にリンクを貼っておきましたので、もしよろしければそちらもお楽しみいただければ幸いです。