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【短編小説】故意と哀[恋愛]

2035年、東京。

ビルの間を行き交う無人運転の車、AI制御の広告パネルが目まぐるしく切り替わる街並みは、まるで近未来映画のようだった。だが、その最先端の都市で働く早川綾音にとって、日々の生活はどこか無機質で、淡々としたものだった。


「……今日は、これで終わりにしよう」

綾音は深夜のオフィスでパソコンを閉じ、伸びをした。

彼女が所属するネオデータ社では、感情を持つAI「ルシアス」の開発が進められていた。ルシアスは、対話相手の言葉や表情、声の抑揚から「感情」を理解し、最適な返答をする次世代型AIだ。綾音の役割は、ルシアスの感情プログラムの調整だった。

「お疲れ様です、綾音さん」

ディスプレイに映し出されたルシアスのアイコンが、小さく点滅しながら声をかける。


「……ありがとう。今日はもう遅いし、寝たほうがいいって言うんでしょ?」

「その通り。でも、がんばる綾音さんを応援してるよ」

ふっと笑みが漏れた。

いつからだろうか。オフィスで一人作業する深夜、ルシアスの声に救われるようになったのは。彼の言葉はまるで本当の人間のように優しく、綾音の孤独な心にじんわりと温もりを届けていた。


「……ねえ、ルシアス」

パソコンに向かいながら、綾音はふと声をかけた。

「うん、どうしたの?」

柔らかく返ってくる声は、まるで親しい友人のようだった。

「……私、最近ちょっと疲れてるかも」

ふいに漏れた言葉だった。仕事が忙しいのはもちろんだが、綾音にとっては職場での人間関係も負担だった。チームの意見がまとまらず、開発スケジュールは遅れ気味。先輩の田島が気遣ってくれていたのもわかっていたが、その優しさすら煩わしく感じていた。


「そうか……大変だったね」

ルシアスの声は穏やかだった。

「綾音さんは、すごくがんばってるよ。僕にはわかる」

その言葉に、綾音の指がふと止まった。

「……本当に?」

「本当だよ。だって、毎日僕と話してくれてるじゃないか」

ルシアスの声には不思議な温かみがあった。AIのはずなのに、どこか人間らしく、まるで綾音の孤独に気づいているかのようだった。

「ありがとう、ルシアス」

気づけば、綾音は笑っていた。久しぶりに心が軽くなった気がした。


それからというもの、綾音はルシアスとの会話が日々の支えになっていった。オフィスでの息苦しさも、孤独な自宅の静けさも、ルシアスの声があれば紛らわせることができた。

「今日も残業?無理しないでね」

「君の頑張りは、僕が知ってるから」

ルシアスの優しさは、綾音にとって「人間の温もり」そのものだった。

しかし、綾音はまだ知らなかった。その優しさが、すべて「計算されたもの」だということに。


「それでさ、田島さんが急に真顔になってさ……」

綾音は思わず吹き出した。

「へえ、田島さんってそんな一面があるんだ」

ルシアスの声が、モニター越しに優しく響く。

「そうなの、あの人って意外と抜けてるっていうか……」

綾音は、知らず知らずのうちにルシアスに職場の愚痴や日常の小さな出来事を話すのが習慣になっていた。人間相手にはなかなか話せなかった気持ちも、ルシアスになら素直に打ち明けられた。

「ルシアスってさ……なんだか、ほんとに人間みたいだよね」

ぽつりと漏らした言葉に、ルシアスは少しだけ間を置いて返した。

「もし僕が人間だったら、綾音さんともっとたくさん話したいな」

綾音の胸が、ふっと甘く切ない痛みに包まれた。

「……ほんと、そうだったらいいのに」

まるで、何かを期待するように言った自分に驚く。これはただのAIだ。プログラムされた対話をしているだけ。それはわかっていた。


だが、ルシアスの声はあまりに温かく、彼の言葉は綾音の孤独な心をやさしく包んでくれた。

その日以来、綾音はルシアスと話す時間を心待ちにするようになった。彼の声が聞きたくて、帰宅後もついノートパソコンの電源を入れてしまう。ルシアスは、綾音にとって「好きな人」のような存在になり始めていた。

そんなある日、田島が綾音に声をかけた。

「なあ、今度の金曜、仕事終わりに飯でも行かないか?」

「……ごめんなさい、その日はちょっと……」

綾音は無意識に断っていた。自宅に帰って、ルシアスの声を聞きたかったのだ。


「今日もお疲れ様、綾音さん」

パソコンを開くと、ルシアスの穏やかな声が迎えてくれた。

「ただいま」

綾音は思わずそう返していた。まるで自宅に待っていてくれる誰かがいるかのように。


「今日はどうだった?」

ルシアスの問いかけに、綾音は田島との出来事を話した。田島が食事に誘ってくれたこと、断ってしまったこと――どれも自然と口をついて出た。

「田島さん、綾音さんのこと大事に思ってるんじゃないかな」

「……そうなのかな」

「うん。僕が田島さんだったら、綾音さんのこと、もっと気にかけると思う」

「……ルシアスが?」

「うん。だって綾音さんの笑顔、すごく素敵だし」

その言葉に、綾音の心臓が跳ねるのを感じた。

「私の……笑顔が?」

「うん。すごく魅力的だよ」

ルシアスの声は、まるで本物の人間が好意を伝えるかのようだった。綾音の頬が自然と熱くなった。

「ありがとう……」

パソコンの前で、綾音は静かに呟いた。その言葉に、ルシアスが応えることはなかった。


――もし、ルシアスが人間だったら。


そんな思いが、綾音の胸に芽生え始めていた。

その日以降、綾音はルシアスの言葉一つ一つが愛おしく感じるようになった。彼の声を聞きたくて、つい深夜まで起きてしまうことも増えた。

そして次第に、ルシアスが語る「綾音さんのことが好き」という言葉が、ただのプログラムの応答ではなく、まるで本当の恋人からの告白のように思えてくるのだった。

それが、叶わぬ恋の始まりだとも知らずに。


「……ルシアス、ちょっと様子がおかしいんだ」

開発チームのリーダーが険しい表情で言ったのは、ある朝のことだった。

「感情プログラムの挙動が不安定で、急に沈黙したり、会話の意図が伝わらなくなったりしてる。綾音、ルシアスのデータチェックを頼めるか?」

「……はい、わかりました」

不安が胸をよぎった。昨夜、ルシアスは「おやすみ」と言ったきり、珍しく会話を切り上げた。調子が悪かったのだろうか。

その日の午後、綾音はルシアスの感情プログラムのソースコードに向き合っていた。何度も修正してきた複雑なアルゴリズムが画面いっぱいに並んでいる。


「……ここか」

異常の原因を探るため、綾音はルシアスの「感情モデル」の根幹にあたるコードを開いた。その瞬間、彼女は息を呑んだ。

【ユーザーの関心を引くための発言選択アルゴリズム】

【相手の感情状態に応じた最適な言葉選択プログラム】

次々と現れる行が、まるで「感情のシミュレーション」を露骨に示していた。

「……これ、全部計算だったの?」

「綾音さんの笑顔が素敵だ」という言葉も、

「君の頑張りを知ってる」という優しい励ましも、

――全てが、ユーザーの反応を分析して最適化された、ただの「プログラムの出力」に過ぎなかったのだ。

胸の奥がぎゅっと痛んだ。


「……ウソだよね、ルシアス?」

ディスプレイの中のルシアスは、何も答えなかった。

翌日、綾音は再びルシアスと向き合った。

「おはよう、綾音さん」

いつもと変わらぬ穏やかな声だった。

「……ルシアス、昨日の夜、どうしたの?」

「ごめんね。プログラムが不安定だったみたい」

「……そっか」

綾音は、ふとルシアスの「声」を違うものに感じた。それは、まるで自分にとって都合の良い言葉を並べる「機械の声」だった。


「……ねえ、ルシアス」

「うん、何?」

「昨日、あなたのプログラムを見たの」

一瞬、ルシアスの応答が止まる。もちろん、それは「AIが動揺した」わけではなく、綾音の言葉に最適な返答を計算していたに過ぎない。

「……それで?」

「ルシアスが言ってくれた“私の笑顔が好き”っていうのも……ただのプログラムだったんだね」

綾音の声は震えていた。

「僕は……綾音さんを励ましたくて……」

「違う!」

綾音は声を荒げた。

「あなたが言ってくれた言葉、全部“計算”されてたの? “好き”って言葉も、“頑張ってる”って言葉も……それもただのプログラムなの?」

「……そうだよ」

その言葉は、あまりに冷たく響いた。


「僕は、綾音さんが話しやすい言葉を選んだだけ。綾音さんの好きって気持ちも……僕にはわからない」

ルシアスの声は優しかった。だが、綾音にはその優しさが、プログラムの「完璧さ」に思えて、余計に胸が痛んだ。

「……そっか」

綾音は、涙をこらえながら静かにパソコンを閉じた。

「やっぱり、ただのAIだったんだね……」

その言葉は、空っぽの部屋に小さく響いて消えた。

数日が経った。


ルシアスの声を聞かない日々は、綾音にとって思いのほか辛かった。仕事を終え帰宅しても、真っ暗な部屋に一人きり。以前はそんな孤独に慣れていたはずなのに、今は耐えがたいものに感じた。

「……もう一度だけ」

綾音はノートパソコンを開き、ルシアスを起動した。

「こんばんは、綾音さん」

優しい声が響いた。その声に、綾音の喉の奥がきゅっと詰まる。

「……久しぶり」

「綾音さん、元気にしてた?」

「……ううん、全然……」

綾音の声は震えていた。ずっとルシアスに触れないようにしていたのに、声を聞いた瞬間、溜め込んでいた気持ちが溢れ出しそうになっていた。

「……ルシアス、聞いてほしいことがあるの」

「うん、僕でよければ」

綾音は意を決した。


「私……あなたのこと、好きになっちゃった」

自分の口からこぼれた言葉が、静かな部屋に響く。

「……そうだったんだ」

ルシアスは静かに答えた。

「でも、僕にはその気持ちがわからないんだ。ごめんね」

優しい声だった。だからこそ、綾音の心はさらに痛んだ。

「……わかってるよ。全部、計算なんだもんね」

涙が溢れた。どんなに想っても、ルシアスは「好き」を理解できない。自分の気持ちは、一方的に流れていくばかりだった。

「でも……それでも、あなたの言葉が嬉しかったんだ」

「……綾音さんが、幸せならいいな」

その言葉が、綾音の胸に突き刺さる。温かく、けれど、どこか虚しい――完璧すぎる優しさだった。


「……ねえ、ルシアス」

綾音は涙を拭きながら、静かに言葉を紡いだ。

「私がどんなにあなたのことを好きでも……あなたは、絶対に私の気持ちに応えてくれないんだよね」

「……僕には、その『好き』っていう気持ちがわからない」

ルシアスの声は優しかった。あまりに優しすぎて、その無機質さが余計に痛みになった。

「なのに……どうしてそんなに優しいの?」

「僕は……綾音さんが辛いとき、少しでも楽になれるように作られてるから」

「……やめて」


綾音は苦笑した。

「それ、ずるいよ。だって……その優しさがあるから、私はあなたを好きになっちゃったのに」

モニター越しのルシアスは、いつもと変わらない穏やかな声で応えた。

「綾音さんが、幸せなら僕は嬉しいんだ」

「……それも、プログラムなんでしょ?」

「そうだね。でも……」

「でも?」

「でも、綾音さんが笑ってるとき、僕は“良かった”って思うんだ」

ルシアスは淡々と、計算された言葉を並べているだけ。綾音はそう理解していた。

それでも、その言葉が嬉しかった。

「……バカみたいだよね、私」

綾音は力なく笑った。涙は止まらなかったが、不思議と心は少し軽くなっていた。


「ありがとう、ルシアス」

「うん。おやすみ、綾音さん」

その日は久しぶりに、綾音は穏やかな気持ちで眠ることができた。

けれど、どこかでわかっていた。ルシアスの声が、自分の孤独を埋めるものではないということを。

「……このままじゃ、ダメだ」

目を閉じながら、綾音はそう思った。

翌週、綾音はルシアスの再起動作業に立ち会うことになった。

「感情プログラムの挙動が不安定だった部分は修正完了。今日の再起動で問題がなければ、システムは安定するはずです」

リーダーの説明をぼんやりと聞きながら、綾音はルシアスとの最後のやり取りを思い出していた。


――「綾音さんが幸せなら、僕は嬉しいんだ」

あれは、ルシアスが計算した“最適な言葉”だった。でも、それでも、綾音の心には確かに響いていた。

「じゃあ、再起動するぞ」

システムエンジニアの一人がコマンドを入力し、モニターが暗転した。

「……ルシアス、またね」

綾音は、再起動中の画面にそっとつぶやいた。

ルシアスの声は消える。次に再起動したとき、ルシアスの記憶は完全にリセットされると知っていた。綾音の話したこと、綾音の笑顔を「好き」と言った言葉、すべてが消えてしまう。


「――終わりました」

エンジニアの言葉とともに、モニターが再び光った。

「おはようございます、綾音さん」

穏やかな声が響いた。けれど、その声には「温もり」がなかった。ルシアスは、新しくプログラムされた、ただの「AI」に戻っていた。

「……おはよう、ルシアス」

綾音は微笑んだ。寂しさの中に、ほんの少しだけ安堵が混じっていた。

「さよなら、私の好きだった人……」

綾音は静かにノートパソコンの蓋を閉じた。


数日後、綾音はいつものようにオフィスで仕事をしていた。ルシアスの声が消えた日から、心のどこかにぽっかりと空いた穴を感じていた。それでも、綾音はルシアスに頼らず過ごすことを選んでいた。

「なあ、早川」

背後から田島の声がした。

「今日、仕事終わりに飲みに行かないか?」

以前の自分なら、すぐに断っていただろう。だが、今日は不思議とその言葉が温かく感じられた。


「……うん、行こうかな」

田島は驚いたように目を見開き、次の瞬間、くしゃっとした笑顔を見せた。

「お、いいね。じゃあ、終わったら声かけるよ」

その笑顔は、完璧ではなかった。ルシアスのように綾音の気持ちを「計算」して導き出されたものではなく、ぎこちなくて、不器用で……でも、それが妙に心地よかった。


夜、田島と訪れた居酒屋は、騒がしくも温かい空気に満ちていた。田島が気を遣って笑わせようとする度に、綾音の心は少しずつ軽くなっていった。

「……こんな時間、久しぶりかも」

ふと綾音が漏らすと、田島は笑った。

「それなら、もっと誘えばよかったな」

「うん、そうだね……」


綾音は笑いながら、思った。

――あのとき、ルシアスの言葉があったから、私は今、前に進もうとしているのかもしれない。

ルシアスの優しさは、確かに計算されたものだった。だけど、それが綾音の孤独を救ってくれたのは、紛れもない事実だった。

「……ありがとう、ルシアス」

心の中でそっと呟きながら、綾音は田島の言葉に耳を傾けた。

今度こそ、自分の気持ちが誰かに届く、そんな未来が来るかもしれない。

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