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SIDE/カール・ミーレ・ツー・グルナート

 いつから彼女が〝そう〟だったのか分からない。


 学園時代は違ったと言い切れる、はずだ、と思う、おそらくは。

 口数の多いタイプではなく、魔法も下手で、時おりやんちゃなところもあったものの、穏やかで、聡明で、悪辣で、慈しみに富んだ、一緒にいて心地のよい女性だった。

 二度の死産を経験した時も、彼女は彼女であったように感じる。

 彼女は遠くの山肌を見つめるような瞳で、怒りと悲しみと後悔と失望と諦念の入り混じった謝罪の言葉を私に吐いた。私はいかに彼女に罪がないかを説きながら、抱きしめることしかできなかった。


 かつては、子どもなんてそこら辺の孤児を引き取ってそれらしい教育をすればよいだけだと思っていたものである。それがいつしか、彼女と自分の血の入り混じった子どもが欲しいと考えるようになっていた。

 分析するに、おそらく自分の子である必要はない。彼女の産んだ子どもが私は欲しかったのだ。彼女という素晴らしい存在性の一端が、人間個人の寿命を超えて後世まで継がれていくことを望んでいた。彼女の存在性が永続的であること、それはきっとこの世界に比類のない価値を与え、また同時に、その世界が光り輝く尊きものであることの証左になるだろう。


 二度の死産は彼女の気力と体力を奪い、彼女は以前よりも家に引きこもるようになった。


 アルス王国において、ある人間が快適に暮らすために必要なもの。それは地位と富だ。

 地位があれば、社交の場に出てこない彼女に対する不愉快な噂を流す貴族の首をはねることができるし、富があれば屋敷の敷地を拡大しそこに森や川を作ることで、自宅を出ずとも豊かな自然に触れさせることができる。

 彼女が心穏やかに日々を過ごせること。平穏な一日が永遠となって続いていくこと。それだけが私の願いだった。


*****


 十年が経ったころ、子どもを授かった。三年を空けて、さらにもう一人授かった。

 それぞれをレミリア、エルミナと名付けた。

 二人を抱く彼女の安らかな表情を見て、ただそれだけで二人が生まれてきてくれたことに感謝したものだ。


 レミリアが三歳になったころ、私は()()に気が付いた。

 深夜、レミリアの泣き声が聞こえてきて、彼女の寝室に行ってみる。

 彼女の形をした〈それ〉が、レミリアをあやしていた。

 そのとき、私は〈それ〉が彼女とは別の存在だと直感した。

 後から思い返しても、その直感の言語化は難しい。

 仕事の負荷からくる心身の疲労がそう勘違いさせたのではないかとすら思ってしまう。

 だがそれは彼女ではなかった。

 敢えていうのであれば、それは母親が娘に接する距離感というよりも、乳母の距離感だったのではないだろうか。

 あるいは私が気付いていなかっただけで、もっと以前から、彼女は〈それ〉だったのかもしれない。後になって言えることは、少なくともこの時点では〈それ〉が彼女の姿をしていたということだけである。

 私は己が〈それ〉に気付いたと悟られぬように、夫婦間でありがちな二三言を交わし、自室へと戻った。


 翌日、使用人たちの目を通して〈それ〉を観察してみた。

 〈それ〉は彼女として、振る舞っていた。

 従者に朝自宅をさせ、朝食を食べ、乳母と交代で娘たちの様子を見ていた。

 午後には茶を飲み、いくつかの書類に目を通し署名をし、秘書に指示を出し、外商の持ってきた服を二着購入していた。

 娘たちを出産して以来の、いつもの彼女の姿のように見えた。

 仮に無理に相違点を見出すならば、いつもよりも人当たりが良いように見えたことくらいであろうか。

 昨晩の違和感は、単に私の勘違いだったのだろうか。

 あるいは、私が気付いていないだけで何年も前から彼女は〈それ〉だった……?


 一般的に考えるのであれば、前者だろう。

 しかし私だって隙あらば王国を掌握するように育てられてた公爵家の人間である。幼少期より培われたその勘が、これは見落としていいものではないと告げていた。


「一つ、寝ぼけたことを尋ねるのだがいいだろうか。私は最近気づいたのだけど、きみのそれは、いつから()()なんだ?」


 ある夜、警備以外が寝静まった屋敷で、彼女にそう尋ねてみる。

 雲の動きに合わせて、月明りが彼女を照らす。

 傍らには二人の娘のための、小さな寝台がある。

 寝室から月が見えるように、というのはこの屋敷を建て直したときに彼女が求めた数少ないオーダーの一つだった。


「ふむ。逆に聞くのだが、お前はいつ気付いたのだ? むしろよくもここまで気付かなかったなと我は感心するぞ」


 学園時代から、他の権威者がいない空間でセレーネが私を呼ぶ際の二人称は「キミ」だった。しかしそんなことは〈それ〉も百も承知だろう。私の反応を楽しむために、敢えて露悪的な側面を前に出して「お前」と呼んでみせたように私には感じられた。


「先日、レミリアを寝かしつけたときだ。……教会で、一人の人間に複数の精霊性(じんかく)が宿る症例を聞いたことがある。神官は『女神の分霊』などと言っていたが、人間の複雑性に人口数を掛け合わせたなら、そういった例の一つや二つも起きるだろうと当時の私は思ったものだ。きみは――つまり私がいま話しかけている人格ということだけど――そういうのだったりする?」

「うむ。その神官は的を射ておるな。我とて神性の一つや二つは有している故な。だがお前の理解は薄っぺらいな。本質を捻じ曲げて、物事を自分が理解できる範疇に収めたがる実に人間らしい軽薄さである」

「そういう辛辣なところは、彼女によく似ている」

「我とあやつは世にいうところのベストフレンドであったからな。互いにそこそこの影響は受けておる」

「セレーネに代わってもらうことはできる?」

「ここで我が真似事でもしてやればお前はころっと騙されるのであろうがな、これはあやつとの〈契約〉であるがゆえ、ここに宣言する。お前が学園時代に煮詰めすぎたジャムのような恋をしていたセレーネの精霊性(たましい)はすでに死んでおる。よって残っているのは、この肉体と我のみであるぞ」

「……そうか」

「なんだつまらん。泣いたり、怒ったり、そこの椅子を投げつけてきたりせんのか」

「生憎私は公爵家の人間でね。ある程度の感情のシミュレートは、先日気付いた時点で済ませたよ。それにその椅子は投げつけるにはいささか高価だ」

「公爵家もユーモアまでは教えてくれなかったようであるな」

「私はこうしてきみと比較的友好的に対話できていることに驚いている。きみの正体はなんだろうか」

「ふふん、なんだと思う?」


 その挑発的な物言いに、セレーネの面影を見てしまう。


「死者の肉体が動いている、という現象から真っ先に思いつくのは魔物だが、きみの言を信じるのであれば、セレーネの存命時からきみはその肉体に存在したことになる。イヌやキツネに一時的に憑かれた人間が、やがて人間の身体のまま中身だけがイヌやキツネそのものになっていくという話を教会の記録書で読んだことがある。『呪い』という言葉が使われていたが、そういった憑き物の一種ではないだろうか」

「ふむ、中々に良い線で我はびっくりよ。さすがはあやつが伴侶に選んだ人間であるな。もったいぶらずに教えてやろう。我は魔王である」

「マオウ…………」

「お前ご自慢の教会知識シリーズにある言葉か?」


 ある。読んだことはないけれど、音の並びとしてはどこかで聞いたことがあるはずだ。どこだろう。


「……そうか! かつて聖女が王前で杖を抜いた際に発していた言葉だ」


 聖女の文脈ということは、マオウは魔王か。音が意味として腑に落ちる。


「…………魔王だと!?」

「わっはっは。今日からリアクション卿を名乗ると良い。面白い」

「……魔王がなぜセレーネの肉体にいる」

「そんな顔をしてくれるなよ。あやつが子を産みたいと願ったのだ。我は喚び声に応えて手を貸してやったに過ぎぬ。我がいなければ娘二人はこの地平に発生しておらぬのだぞ。トータルで得したな」


 つまり、セレーネが自身の人格と引き換えに魔王を憑依させ、娘たちを産める肉体を得たということか。

 不思議とそのこと自体は信じられた。

 彼女は不思議な知識に通じていたし(そもそも私は彼女の気を惹くために教会の些事にまで詳しくなったのだ)、常人ならば取らないであろう選択肢を躊躇いもなく選べることも知っていた。私が彼女に惹かれたのはまさにそういった気質故であった。

 それに、彼女が取引をした相手というのであれば(少なくともここに〈それ〉の人格はある)、ある程度の〝格〟がある存在だろうというのも、セレーネの能力に対する信頼として期待できる。だがそんな存在が――。


「……なにが望みだ」

「うむうむ。実に貴族らしい発話だ。乳母を一人増やして給与を上げてやれ。あれは全然休めていないぞ」

 ……ふざけているのか?

「ふざけているのか?」

「わはは、声に出ておるぞ。愉快愉快。お前に免じて教えてやろう。我はな、この王国を破壊したいのだ」

「それはなぜだ」

「それは分からぬよ。魔王とはそういうものなのだ。お前ら人間の語るところの仁義や愛に、お前は理由を求めるか?」

「仁や愛に理由はある。そういった振る舞いをすることを前提に社会が組み上げられている。実際の有無に関わらず、そう振る舞うことが生存に有利に働く」

「お前も生存に有利だからあやつを愛したのか?」


 議論のために肯定したい理性と、否定したい感情が衝突して答えにならなかった。


「うむ、かわいいぞ。我に舌戦を挑みたければ、あやつのステージまで登ってこなければな」

「どのように王国を破壊する?」


 負け試合の会話は捨てる。最低限の情報は拾っておきたい。


「こうな、我はじわじわと内部から、ぐずぐずに、腐った果実のように、当事者たちが気付いた時には取り返しがつかなくなっているような破滅的な崩し方をしたいのだ」

「随分と雅なことじゃないか」

「暴力による破壊は三百年前に成されておるからな。我は模倣は好まぬ」

「そうだとして、なぜそれを私に言うのだ。セレーネとの契約というやつか?」

「それもあるが、純粋に我は楽しいのだ。お前はあやつの伴侶とは思えぬほど鈍く、長らく我に気付かなかったからな。魔王としてしゃべりたいことが溜まっておる」

「それは良かった」

 ならばこの会話はできる限りの情報収集にあてるべ――……………っ!


 …………ッ!?


「……………………」


 ……………………………ちょっと待て。


 まてまてまて。


 いつから。

 いつからだ。

 いつからセレーネの中身は魔王だった?


「………………」


 魔王は『我がいなければ娘二人はこの地平に発生しておらぬ』と言った。

 二人目のエルミナを産む体力がなく、死産にしないために魔王と契約したのなら分かる。

 時系列の問題として。

 だがその場合『娘二人』という言い方をするだろうか。


 仮に。

 もしそうでなかったのなら。

 最初の娘のレミリアを産むために魔王と入れ替わったというのなら……。


 洗練された指先。

 絡みつく肢体。

 乱れた髪。

 香水と体液の交じり合った独特の芳香。

 囁いた愛。

 エルミナを成したとき、私の腕の中には一体誰が――。


 冷たい汗が背筋を降りていくのが分かる。

 問題は相手ではない。

 私自身が()()に気付かなかったこと――。


 先ほどまで小さく眠っていたエルミナの目が薄く開き、その瞳に月を映している。

 途端にそれは、己の罪の象徴のように感じられた。


「あーあ。我の考えによるならば、幼子といえど、そのような親からの嫌悪の視線は存外肌で感じ取っているものであるぞ。もう一生好かれんかもしれぬなぁ! 我の方が懐かれてしまったらどうしようなあ」


 魔王が楽しそうに笑っている。

 私を煽るためというよりも、真に今の状態を楽しんでいるように見えた。


「まあ仕方がないと思うよ。今の我はけっこう可愛いし」


 魔王がくるりとその場で回る。

 月光を浴びたその金色の髪は本当に美しく、そのことが腹立たしかった。


「大丈夫大丈夫。誓った相手でないと気付かずに愛を囁きながら腰を振り続けていたことなど、お前の愚かさに比べれば大した問題ではないよ。気にするな」

「………………」

「むう。よく分からんな。そんな顔をしたところで、過去が変わることなどないのだから、意味などなかろう。それに我とて興味深い体験だったのだ。そんな顔をされると、我はちょっと悲しい」

「…………」

「やれやれ。今日はもう駄目なようだな。喋らぬのならば帰れ。我とて暇ではないのだ。子育てには体力が必要である。どうせすぐに泣きだすのであるから、寝られるときに寝ておかねば。明日また来い。かわいい寝衣で待っていてやる」

「……頼むから、それだけはやめてくれ」

「我儘なやつめ。仕方がないなあ。普通に待っておいてやるから、菓子の一つでも持って来いよ。ほれ、行け。おやすみ」

「………………おやすみ」


 静かに扉を閉めてから、立っていられなくなって、その場にしゃがみ込む。


 このドアをくぐるとき、彼女に似て非なる異質な存在を、私は殺す覚悟でいた。杖も隠し持っていた。

 だけど、もう、きっと、私にあれは殺せない。

 あれに、セレーネに対するものと類似した気持ちを抱いてしまった。

 彼女の余裕に塗れたその応答を、一瞬心地よく感じてしまった自分が確かにいた。

 私はただ、セレーネの見た目を愛していただけなのか……?

 いや、そうではない。そうだけど、そうではなく――。

 口調こそ違えど、本質的な類似性を感じてしまった。

 一緒にいて心地よさを感じてしまった。


 私のことを愚かだと笑い、はるか高みから指先で遊ぶように私の感情を弄び、それでいて根底には万物への抱擁心が流れている。優美で気品があり、さりとて私にだけは辛辣で、その特別な枠に自分がいることに嬉しくなってしまう。

 今会話した魔王と私が愛したセレーネには、同じ方向性があるように感じた。なんなら、かつて死産して以来口数の減ったセレーネよりも、あれの方が学園時代のセレーネに近いとすら感じしまう。


 情……というわけではないけれど、今この王国内で私が最も自然体でいられる場所があるとすれば、それはきっとあの魔王そばなのだ。


 私の妻は王国の破壊を志す魔王で、私の心はきっと、最早それを受け入れることしかできない。

 私の地位は王国に対し極めて影響力の高い〈宰相〉で、それはきっと魔王の欲望を満たすことに十分に役に立つだろう。

 すなわち、私は今この瞬間に、王国の、代々繋いできた公爵家の首に手をかけようとしている……という自覚もある。


 正しさが、分からない。

 仁や愛も分からない。

 ただどっちつかずの欲望が揺蕩っている。

 這うようにして自室まで戻り、ベッドに横たわる。

 ガラス戸を隔てた向こうに、二つの月が淡く地平を照らしている。

 星は見えなかった。


 それから、毎夜のように魔王の寝室で語らった。

 〈契約〉と呼ばれる双方に対する絶対的な拘束力を持つ約束が存在すること。

 セレーネとの〈契約〉により、魔王のいくらかの言動に拘束がかかっていることを知った。

 私も、魔王は私の命を直接的に狙うことはしない代わりに、私は魔王について口外しない、という〈契約〉を魔王と結んでみたが、頭の奥を細い針で刺されるようなその直感的な感覚は、それが真であると信じるに十分に値するものだった。


「すごいな。魔法石いらずじゃないか」

「我が〈契約〉を破れば消滅してしまうからな。そうおいそれと結んでよいものではないのだ。このようにお主にだけ色々と話してしまうのも、あやつとの〈契約〉のせいである」

「思いがけずきみがレミリアやエルミナの世話をしているのも、セレーネとの契約か?」

「どちらもある。我は〈契約〉のために、あやつの娘二人を成人まで生存させなければならぬのだ。それはそうと、この二人はもはや我の娘のようなものでもあるからな」

「例えば、レミリアが成人する前に、十五の歳に死んでしまったなら、きみはセレーネとの〈契約〉に反したとして消滅するのか?」

「おおん、それは試してみぬと分からんなぁ」


 魔王が揶揄うように笑う。

 〈契約〉に関することであれば、この魔王が条件を把握していないはずがない。ただただ、私の思考や想像力を弄んでいるのだ。


「あやつに誤算があったとすれば、父親が存外娘たちを愛していなかったことであるな。なんなら今ここで試してみてもいいのだぞ」


 少し、考える。

 私にはもう、この美しい破国の魔王を自らの手で殺す意志も勇気も胆力も克己心も使命感もない。

 だが、一方でそのことを恥であると感じていないわけではない。王国の繁栄のために尽力してきた亡き父母や公爵家の系譜に、私は顔向けができない。

 だからその折衷案として、エルミナを殺すことで間接的に魔王を消滅させられるのであれば……という思考が一瞬だけ頭を駆け巡っていくのが自分でも認識できた。


「よいよい。人間は愚かな方がかわいいからな」

 気付けば魔王がエルミナを抱いている。

「ほれ見てみよ、エルミナよ。これがお前の命を天秤に乗せた親の顔であるぞ。おお、怖いなあ。このような顔の人間は信用せぬようにせんとなぁ」

「………………」


 今分かった。

 魔王が壊したいものは王国だけではない。

 人間さえも内部から腐らせ、楽しむことを愉悦とする。

 そのためならば、平気で自身の消滅ですら、賭けのテーブルに乗せるのだ。


 エルミナがこちらを見ている。

 その無垢な瞳を、私は一生涯直視できないだろう。



*****


 それからの数年で王国は着実に、されど多くの人々には気付かれぬ形で滅びへと歩みを進めていった。


 元々、この王国は腐敗していた。

 人身を売り買いし、暴力と薬物と金が幅を利かせ、誰もが短期的な自身への利益と快楽ばかりを追求していた。だけどそんなことはどの国だってそうだろう。人間が愚かな存在である以上、一定規模の集団が社会を形成していたなら、進行の差こそあれ、それは必ず崩壊する。

 要するに、その事実を前提としたうえで、それらの欲望をいかに抑止できるか、というのが国家の役割なのである。


 アルスでは王宮の権威性が各貴族に目を光らせることでその決壊を遅延させていた。

 具体的には、宰相である私がそう努めていた。

 それまでだって当然王国法に抵触しない、あるいは参照されない程度には私も私財を肥やしてきた。だがそれはあくまで極小の観点であって、王国とグルナート家は天秤の同じ側に乗っていた。グルナート家の資産が増えるときは必ず、王国はそれ以上の利益を得ていた。総体として、私は王国の存続に尽力していたと思う。


 しかし魔王の登場により、私が完全にそれをやめてしまった。

 魔王の政治介入を前に、私程度の努力ではほとんど意味がないと感じてしまったから。

 このままならばあと十年かそこらで、それこそ下の娘が十六を迎えるタイミングで、王国は崩壊するだろう。


 もしかしたなら、具体的に目に見える形では何も変わらないかもしれない。しかし確実に現在の社会秩序の終焉は訪れるだろう。そのとき、私たちの「公爵」という肩書は意味を持たなくなる。

 自領に引きこもり、他領との戦争に備えながら、狭いコミュニティの内側だけで自給自足を行っていくしかないだろう。

 できるだけ多くの貯えを作っておかなければ。

 王国なんかに財を入れている場合ではない。

 必要なのは金と兵力。だけど物資が無くなれば金の価値は下がるかもしれない。だから労働者用の餌として、依存性の高い薬物の流通を確保しておきたい。研究に重ね、トレの精製過程で極めて強い依存性を付与することに成功した。


「なんかお主、最近の方が生き生きとしておらん?」

「分かりますよ。目標に向かって邁進するのはとてとて楽しいですからね」


 王妃が紅茶を口にする。

 最近私たちの茶会に加わった王妃は、王国再建のために一度完全なる破壊が行われることを望んでいる。


「それよりも今朝のあれだ。お主は随分とエルミナに嫌われておるようだな」


 朝食時の話だ。

 エルミナに「人間が愚かなのであれば、なぜ貴族が愚かではないと言えるのか」というようなことを尋ねられた。四歳にして実に明晰に育っているものだ。


「それで宰相はなんと答えたのですか? わたくしだったら説明するのに十日はかかってしまいそうですけれど」

「ただ罰を与えました」

「あら。それはその、なんというか、教育が下手ではありませんこと?」

「逆ですよ。あの子は聡い。おそらく私の言うことにはすべて懐疑心を抱くでしょう。ですから私が負の存在であればあるほど、エルミナは正に向かって歩んでいく」

「つまり道化を演じると?」

「わっはっは、取り繕うなよ。そんな高尚なものではあるまい。こやつは単にエルミナとの接し方が分からぬのだ。己が恥ずべき愚かさの象徴であるならなあ」


 確かに、私はエルミナにその目を向けられるたびに、己が咎められているように感じてしまう。転じてあの子に対する憎悪もあると思う。だが、同じくらいには愛情を抱いている……と信じたい。


「ヨハンくんはどうですか?」

「そうねえ……」と王妃が私の断罪を中止してくれる。「婚約させたソフィちゃんがとてとて良いですね。わたくしはウォルツの評価を正しましたよ。仮に魔王様が失脚したとしても、あの子がいればわたくしの目標は安泰だと感じます。そのうち会ってみて。わたくしの言いたいことが伝わると思いますから」


*****


 時は流れ、レミリアはアルス魔法学園に入学した。

 七歳で行ったエルミナの鑑定式では、闇魔法がでた。

 時と共に記憶の奥底に沈めていた事実を掘り起こされたような気持ちになった。

 私の理解によれば、魔法の属性が親から子へと引き継がれることはない。

 純粋に独立した確率であることは、学園に通う親子の属性の統計を取ればすぐに分かることだ。

 にも関わらず、エルミナの闇魔法に私は魔王性を感じずにはいられなかった。

 私もよくやる手口だが、人間は精神的に衰弱してくると、統計や期待値とはなんの関係もない、いうなれば〝縁〟や〝物語性〟のようなものを重要視し始める傾向にある。逆にいえば、先にそういうものを人工的に配置しておいた後で人間を追い込むと、人間は容易にそちらに流れてくる。しかもそれを自らの選択だと信じるおまけ付きで。

 そういう人間の脆弱性を認識していながら、それでもなお、ランダムであるはずのエルミナの魔法属性に魔王との繋がりを見てしまう。そのことからも判断して、私の精神は弱っていた。


 迷い……のような感情が生じていた。

 結局のところ、私はアルス王国というこの国に、自分が思っていたよりもコミットしていたのだと思う。

 ほんとうに取り返しのつかなくなる一歩手前まできているこの国の衰退をみて、エルミナの魔王性を見て、自分は取り返しのつかないことをやってしまっているのではないかという焦燥がやってきた。

 焦燥は責務感すなわち、この王国の最大限の発展のために尽力しなければという貴族的精神を伴って発現した。


 もっとも、今更どの口がという自覚もある。

 しかし今まで王国に不利益を生じさせてきたことと、これから王国に利益を生じさせたいと考えることに、連続性は必要ない。昨日までの罪人が、今日も罪を働かなくてはならないなんて馬鹿げた法は王国法にだって書かれていない。


 損得の勘定ができなくなっていた。

 あるいは魔王が王宮に巣を作り、王妃とばかりつるむようになったことに対する嫉妬かもしれない。

 私には見せない表情を王妃には見せているのかと想像すると、魔王に対する憎しみが湧いてきた。

 責務感や正義感がその憎しみを後押ししてくれた。

 それはすなわち、魔王に対する反逆の試みだった。

 私は〈契約〉のために魔王の命を奪うことはできない。

 しかし私に魔王殺しのカードがあるとすれば、それはやはり〈契約〉でしかなかった。


*****


「それでおじさまは、ご自分の娘の殺害を頼みたいと。それをよりにもよってこの私に。うふふ、悪い人」


 ソフィ・フィリア・ツー・ウォルツが私の奥底の醜悪さを覗き込むように小首を傾げる。

 結論からいうと、私はレミリアの命と相殺して魔王の殺害を試みることにした。

 王妃は、万が一魔王が王国を滅ぼせなかった場合の二の矢としてソフィのポテンシャル性を挙げていた。であるならば、私の救国はソフィの排除も兼ねなければならない。

 レミリアが死んで魔王が消えてもよし、レミリアが生き残ってもソフィを排除できるのでよし。どう転んでもよしの合理性の高いアイデアのように感じられた。

 ……嘘だ。

 魔王を倒すには、レミリアかエルミナが成人する前に私がどちらかを殺せばよい。これは〈契約〉には違反しない。単に私に自分の娘を手にかける度胸がなかっただけの話である。

 あとは選択の問題である。


 私はレミリアを選んだ(あるいは選ばなかった)。

 合理を装った理由はいくつでも思いつくが、魔王に対する呵責が一番大きかったように感じる。

 すなわち、この十数年間、私は魔王のことを殺そうと憎しむくらいには愛していた。

 聡明で美しく、高い視座に立ち、万事に余裕があり、いつも人間を面白がって高らかに笑っていた。時おり見せる残虐性や嗜虐性が、より一層その魅力を引き立てていた。


 そんな魔王が、(王妃よりも序列が低いとはいえ)こんなにも愚かな私をそばに置いてくれている。

 それを裏切って殺害を企てるというのは、胸の内に棘の刺さるような気持ちだった。

 だからせめてもの罪滅ぼしにというわけではないけれど、魔王に近しい存在であるエルミナの方を残そうと思ったのだ。


「ご自覚あります? 感情と行動が滅裂ですよ」

「だからきみに頼んだのだ。どうか受けてはいただけないだろうか」

「構いませんわ。必要経費と報酬をいただけさえするのなら」

「なにが欲しい」

「経費の方は、グルナート家にある紫紺等級以上の魔石をあるだけ全部。登録されていないものも含めてすべて寄こしなさい。まさかウォルツの、それも自分の娘よりも年下の人間に、情けなく娘の殺害依頼をしておきながら、出し渋るなんてことはありませんわよね?」

「……無論だ」

「いい子ね」

「報酬の方はどうだろう」

「二つだけお願いを聞いていただければ。私はエルミナ様と遊べればそれでいいのです。よってエルミナ様の監視はすべて外して、今後私たちの間柄に一切の介入をなさらぬよう」

「……エルミナをどうしたいのかね?」

「まさか姉の殺害を依頼しておいて、妹には手を出すななんて愚かなことをおっしゃる人はいないでしょう」

「二つ目は?」

「私がエルミナ様にどうアプローチするかは私が決めることです。仮に私がエルミナ様と結婚したとしても、おじさまはただ祝福だけを私たちに与えなさい」

「……それはもちろん、エルミナが受け入れているのであれば、構わないが……。だがそれは、きみとエルミナが決めることだろう。もちろん、王子との婚約を破棄しやすいように手を貸せるが、そんなことはきみなら強引にやれるだろう。きみなら、エルミナに鎖を付けて牢に入れることも『結婚』と表現しそうだと思ったけれど」

「でしたら、エルフの里を捜しておかないといけませんわね」

「私の祝福など必要ないのでは?」

「あら、いい大人なのに本当になにも分かっていないのね。婚姻なんてものは単なる形式、社会規範でしょう? そこに社会がなくては、それこそ形骸化してしまいますわ。……それに、愛する人と結ばれるのに、誰からの祝福も得られないのは、なんだか寂しいでしょう?」


 そうしてソフィ・フィリア・ツー・ウォルツは、いとも容易く私の依頼を成し遂げてしまった。

 私はレミリアを喪った。

 そして信じられないことに、魔王は消滅しなかった。


「お主も愚かよなあ」


 レミリアの葬儀の後、追悼場のバルコニーで魔王に声を掛けられる。

 星も月も見えない夜だった。


「契約は、真ではないのか……?」

 もうなにも考えたくない。

 少なくとも、自分がなにか致命絵的な間違いを起こしたことだけは分かる。

 自身の愚かさと、もうこれ以上向き合いたくない。


「まさか。我と〈契約〉を結び朽ちていった人間をこの十年でどれだけ見てきた」

「であればあの遺体は偽物か? レミリアはどこかで生きている……?」

 それならまだ希望はある。私は尊厳以外、まだなにも失っていないことになる。

「それもお主が一番知っているであろう。あの娘を三歳から育てておったのだからな」

 そうだ。間違いなく、あの遺体は私が知るレミリアだった。


 ………………。


 …………………………。


 ……………………?


「……!? ま……待て! 三歳からと言ったな。なぜそのような言い方をする」

「わっはっは、答えはお主の中で出ているだろう」


 魔王だと知った二日目の夜の魔王の言葉。

『エルミナを殺したら消滅するか』という問いに、魔王はなんと答えた?

『あやつに誤算があったとすれば、父親が存外娘たちを愛していなかったことであるな』


 あの時点ですでに、私の手の中にあった赤子が、セレーネとの〈契約〉にある魔王の消滅条件であるところの「娘二人」ではなかったとしたなら……。

 私が魔王と初めて言葉を交わしたあの時点で、娘たちはすでに別人に()()()()()()()()

 だからこそのあの余裕だったのだ。


「………………」


 私が育ててきた二人の娘は、私の娘ですらなかった。


「我とあやつとの取り決めをした際にな、あやつはお主が娘に手をかけるという選択をする可能性をすでに予見しておった。だからこれは我の延命手段ではなく、あやつが真の己の娘たちを父親から護るための手段だったのだ。もっともぉ、お主が我の存在にすぐに気付いても、あるいは娘たちの変化に気付いても破綻する細い細い守護だったがな。我はあやつに問うたのだ。『そんなもの人間の愛とやらで看過されるのではないか?』と。あやつはこう答えた。『わたしも流石にそんなことないと思うけどさ、人間の愛と愚かさは舐めない方がいいよ。少なくとも誤算用のプランは設置しておくべき』。わーはっは、良かったなあ! お主の愚かさは人智を超えた誤算として計上されておったぞ!」


 もうなにもかんがえたくない


「…………。………………一つ教えてくれ。娘たちが第三者にすり替わっていたというのなら、きみだって自分の娘でない者を育てていたことになる。なぜあんなに面倒を見ていたのか」


 エルミナが私の子でなかったとしても、別の場所からやってきた魔王の子である可能性はあるのだ。そうじゃなければ、子守に対するあの献身性は理解できない。


「…………? 赤子のころから世話をしているのだぞ。自分の子でなくとも、普通にかわいかろう」

「……………………」


 もう、私の中にはなにも残っていなかった。


 ――娘だと信じていた存在に手をかけた。

 ――娘だと信じていた存在が娘ではなかった。

 ――妻に信じられていなかった。

 ――魔王の方がまだ深く愛を理解していた。


 私には、もうなにも残っていない。

 煤ですらない。

 最初から炎さえ灯っていなかった。


「まあそう落ち込むなよ。人間が愚かなのは仕方がなかろう? 四歳のエルミナだって知っておったことだぞ」

「…………………………」


 魔王が私の愚かさに同情まで示している。

 そのことがより一層惨めで、無気力で、融けてしまいそうで、眩暈がして、吐きそうだ。


「あー、それでな。これは契約ではなくあやつからのお願いだったのだがな、このプランに入った場合にお前がそうなることもまたあやつは予見しておった。化け物よな。まあ、だからこそ我も喚ばれたわけであるが……。そこでお主にそのしおしおに枯れた尊厳に水をやる機会をくれてやろうと思うわけだ。我とて、愚かな人間は好きだからな。一つ〈契約〉を提案してみよ。見どころがあれば結んでやるぞ」

「………………」


 ぼやけた頭に、ゆっくりと意味が流れてくる。

 これはきっと魔王を媒介とした、セレーネからの励ましのメッセージだ。

 もっとも、今の私にはセレーネの方が魔王よりも恐ろしい。

 あるいはセレーネなどという人格は初めからどこにもなく、私はただ学園で魔王に恋し、魔王に弄ばれ続けているのかもしれない。

 二人の娘だって彼女がどこかから孕んできた間男の子種で、単に私が托卵に使われているというだけの事実が、魔王という大仰な物語に隠蔽されているだけかもしれない。


 それでもなお、私は〈セレーネ〉を信じるしかなかった。

 なぜならそうだと信じなければ、この場に立っていることすら私にはもうできないから。

 私が、今日、この場で命を絶ってしまわないように、あるいは魔王が私というおもちゃを壊さないための、セレーネの慈悲としてとしてとらえる以外に道はない。


 ――契約。


 明日からも私が、最低限の自分自身への尊厳をもって立っていられるような欺瞞に満ちた契約――。


「…………私は今後もこれまで同様エルミナを実の娘として育てる。だからきみもこれまでと変わらず母親として振る舞って欲しい。そして今私の娘として存在しているエルミナと名前の付いた娘にも、セレーネの娘と同様の十六歳までの生命保証を与えてほしい」


 セレーネが望むであろうこと。

 私が今後も私でいられるための辛うじての矜持。

 おそるおそる魔王を仰ぎ見る。


「うむ、良かろう。〈契約〉である」


 頭の奥で針箱をぶちまけたような〈契約〉の感触が、まだここにいていいのだと私に思わせてくれた。


 それから日々は等速で流れ、ソフィ・フィリア・ツー・ウォルツはおそらくは誰からも祝福されないままに行方不明となった。



*****



 そして今、我が娘エルミナの発した闇魔法が、セレーネと名前の付いた〈魔王〉のその身体を大きく貫いて消滅に至らしめていた。

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