SIDE/レッカ・クラフト・ツー・グランス
私が生まれたとき、母はすでに狂っていた。
正確には、それを把握したのは私が〈娘〉になってからだったけれど、乳母いわく、私が生まれた頃にはとっくに狂っていたらしい。
狂った母に付けこんでグランス公爵家を手に入れようと婿入りした子爵家出身の父は、結婚してから三か月で失踪した。公式には事故死したことになっているが、屋敷の池の裏手の木の下に父の死体が埋まっている、という噂は、公爵家に出入りする人間なら誰もが耳にしたことがあるはずだ。この噂が真実ではないことは七歳のときに掘り返して確かめているけれど、要するに誰もが母に殺されたと考えているという話である。
やがて祖父母も亡くなり、跡継ぎのスペアたちが育てられていた孤児院も焼け落ちた。『幸いにというべきか、みな深夜の火事に気付くことすらなく眠ったまま苦しまずに逝ったことだろう』という当時の調査記録が残されている。
だがこの記録は正しくない。
私だけは、こうして今も生きているのだから。
一方でこの記録は政治的には正しい。
私はもはや〝両親が交配して生まれた正統なグランス公爵家の後継者〟なのだから(だから本当は順序が逆で、孤児院が焼けたとき、私に死んだ祖父母はまだいなかった)。
かくして〝幸いにというべきか〟グランス家には母と私しかいなくなった。
幸いにというべきか、私以外のグランス家関係者を全員消し去った母の狂い方は冷静だった。
早馬を育て、交渉により各地に中継地点を確保し、王都や防衛都市との連絡にかかる日数を半分に減らした。
遊牧のサイクルでは決して払えないような税の徴収システムを作り、強引に遊牧民を定住化させることで、国境管理にかかるコストを大幅に減らした。
周辺国に間諜を入れるのは当然として、自領内に敢えて違法性のある賭博競技場を作り、自らがコミュニティの中心となることで、あらゆる地下組織の情報を手中に収めた。「悪い情報交換ならグランスで」というのは今では地下組織の常識となっている。
有能と狂気は紙一重というけれど、母の辣腕を全員が「狂気」と捉えているのには理由がある。「有能」というには、母はあまりにも人を殺しすぎていた。悪徳を通すために、〝正しさ〟を主張する者たちをあらゆる手段で排除していた。きっと領主にそういった血なまぐさい慣れ親しんだ臭いを嗅いでいるから、地下組織もここでは気を緩められるのだろう。
母の狂気は、叔母――母の姉の死から始まったようだった。
叔母の死亡事件は公式には存在せず、非公式には聖女に殺されたと語られている。だけど後年、私が発見した叔母の日記には、聖女と仲睦まじくやっている様子が記されていた。
もちろん、聖女との関係性が打算的な偽りのものであった可能性は低くない。しかし私の目からは、叔母が何者かに謀殺され、その罪を後から聖女が押し付けられたように見えた。
その後の聖女の記録はどこにもないから、おそらく秘密裡に消されたのだろうと推測する。一方で、聖女の顛末について公的(実際がどうであれ)に斬首されたという記録は残っていない。他の事件の資料を見る限り、このことは一貫性を欠いているように思われた。
つまり言いたいのは、母を狂気へと誘った叔母の死の責任の所在が実際にどこにあるかは不明であるという点である。同様に、母がどこに憎しみを向けているかも私には不明だった。
聖女、王宮、国王、諸貴族、王国、魔王、あるいは隣国かもしれない。
教えてもらえたのなら、私もそこに焦点を合わせてもっと効率的に動けるのに、と歯がゆく思いはするものの、母にとって私はあくまで〝必要だから盤上に置いている便利なコマ〟でしかない。母にとって私への情報の開示がリスクであることを理解するから、私もまた踏み込まない。雇われの給仕が店の料理に文句を付けないのと同じように。私が今ここにいるのは、一番そういうことを弁えていそうだったからだろう。だから〝幸いにというべきか〟私だけはあの火事の夜に、先生に連れられて星を見に遠出していた。
獣が跳躍前に必ずその膝を折り曲げるように、母は領地を整え、コネクションを作り、富を蓄え、復讐のための牙を研ぎ続けている。そしておそらく、一年前にアルスに新たな聖女が誕生した瞬間から次の局面が動き始めている。
できることなら、私はこの狂った母の力になりたい。
狂った母に選別され、狂った母の元で二十年近く生きてきた。私は狂った人間と、目標に向かって一生懸命にがんばる人間が好きだ。だからこの狂った母のことも実はとても好きだったりする。
よって私の抱える唯一にして最大の問題は、やはりどのような振る舞いが最も母に利することになるかが私にも不明だという点であろう。
「ねえ、レイはどう思う?」
「その質問は、正確にいうなら、レッカ様がどう思うとターラ様が思っていると思うか、ですね。それに対する私の回答はというと、んなこと知らねぇ~です」
「部下が忌憚のない意見を口にできる環境を構築できたことを誇りに思うよ」
「私も、我が主がご自身を誇りに思われていることを誇りに思います」
「まあいいわ。ここ十日間の聖女サマの動向報告を」
「っす。基本的には学院で楽しくリムの研究をされているようです。スレイの第三皇子と再会しました。エーデル家にも赴きました。あそこのユーリカ嬢と聖女は、前年の舞踏会でパートナーを組んでいますからね」
「拉致は可能?」
「不可能ではないですが、おそらく採算は取れないです。闇魔法のエルミナ嬢もそうですが、帯同しているメイドがおそらく相当ヤバいっすね。聖女の護衛してるやつです。何人か帰ってこなかった後に、騎士団長級に依頼してみましたが、十倍の違約金で戻ってきました。逆にいうと、そのレベルの実力者でないとそもそもヤバさに向き合えないというところが、かなりヤバいです」
「ハァ。あの家はいつもいつも一体どこからそんな人材を見つけてくるんだろうね」
「まあ、グルナート家すからね」
「あの家はそういうの上手なんだよ」
下級貴族のみなさんはご存じないようだけれど、貴族がどれだけ力を持てるかというのは、平民発掘の上手さに比例する。だって人口として平民の方が貴族の何千倍もいるのだから、これを使わないというのは、手元にナイフがあるのに素手でウサギを解体しようとするようなものだ。つまりは目的に対する手段が根本的に間違っている。私自身、社交界では率先して低身分弄りをやっている方だけど、これは下級貴族に「貴族は下の身分の人間を虐げるもの」という価値観を刷り込むために他ならない。そうして下級貴族からは見向きもされなくなった畑から、自分だけがゆうゆうと大きくて甘い果実を拾い上げるのである(そもそも私自身が公爵家に収穫された平民畑の果実だけれど)。
「貴族の中の貴族」というような顔をしている公爵家が最も自身の血統に興味がなく、最も平民の価値を理解しているという倒錯は少し面白い。
「でもグランス家だって負けてないんじゃないすか? なんといってもこの私を発掘したわけですから」
「あなたはそこら辺に勝手に落ちてただけでしょう」
「成功に一番必要なのは運ですよ。この領のマジの物価の高さが遠因で、レッカ様はそれを引き寄せた」
「はいはい、ありがとう。話を戻すけど、エルミナ様とそのメイドを引き離せば、聖女は獲れる?」
「だいぶ楽にはなりますが、どうやっても一筋縄ではいかないですよ。なにせ聖女様本人がトーレスの魔法大会であのカトレア卿に勝ってますから」
「あれはカトレアが手を抜いていたでしょう」
「手を抜いたカトレア卿に勝てる人間がどれだけいるかという話ですよ。それに決勝を見るに、あの試合は聖女の方も手を抜いてましたし」
「レイは勝てる?」
「当然、エルミナ嬢と聖女は問題ありません。メイドの方はやってみないと分かんないっすね」
「あら、あなたに勝てない相手がいるの?」
「公爵家のメイドたちは基本的には全員、騎士を制圧できるレベルですから。その筆頭ともなれば相当なものでしょうよ。もちろん互いに初見であれば私が勝ちます。だけどあのクラスは一度見たなら二度目は対応してきますから、そのときは流れっすね」
「あなたももう少し紅茶を淹れるのが上手ければメイド枠にするのだけれどねえ」
扉の前に控えていたメイドたちが、ものすごく嫌そうな顔をしていて楽しい。侍女とメイドの区別が曖昧なのもきっと公爵家の特徴だろう。
「その公爵令嬢御一行ですが、しばらくエーデルを離れるようです。聖女の方は許可なしでは半日で戻れる距離までしか街を離れてはならないはずですが」
「そこら辺はエルミナ様が上手く誤魔化すのでしょうね。誰か、あとでタイミングを見計らってエルミナ様と聖女が一緒に居るところに偶然遭遇しなさい。それで一つ貸しが作れます」
「「「かしこまりました」」」
「それでどこに向かう予定なの?」
「不明ですが、馬車の方角的には線上にグランス領も乗っています。リーメイの可能性もありますけど。あそこの破滅的な状態は、エルミナ嬢が興味を持ってもおかしくないかもしれないっすね」
「使えそうな人材は回収済みよね?」
「っす。リーメイにエルミナ嬢が欲しがる人材はもういません」
「ならリーメイに行く可能性は無視でいいわ。うちに来るとしたら何をしに来ると思う?」
「私のスカウト、ですかね?」
「はいはいそうね。あなたはこの地で最も価値があるよ」
「なーんか、愛がないなあ」
「こんなにもあなたたちを愛しているのに、伝わっていないなんて残念なことね」
「私が人生で受け取った愛の総量のうち九割はレッカ様からいただいたものですよ」
「なら残りの一割はソフィ・フィリア・ツー・ウォルツ?」
「いや、あの方とは真に雇用主と労働者の割り切った関係だったんで」
「一財産築いて帰ってきましたものね。なんならあなたって私よりもお金持ちでしょう?」
「いや、あの時の金はもうほとんど残ってないっす」
「なにに使ったの?」
「ここの地下闘技場で散々擦らせていただきましたよ。あれ本当にイカサマじゃないですよね?」
「胴元をやる最大の利点は、イカセマせずとも長期的には必ず儲かる点よ。そこのリスクはわざわざ負わない」
「なら普通に負けましたね」
「ウォルツ公爵家の財産をグランスに流してくれてどうもありがとう。でも私の側仕えなのだから、その程度の博打は勝ちなさい」
「必ず勝つ博打なんて、金策には良くても趣味にはなり得ませんよ」
「私のそばにいるのは趣味かしら」
「愛ですよ。私はレッカ様を勝たせたいと思っていますよ」
「問題は自分の勝利条件が不明瞭なところよねえ」
「お、会話が最初に戻った」
「そういう趣味なのよ」




