国外逃亡入門
近くで見ると、国境の壁は城壁のように高かった。しかもそれが見えないくらい先まで、まるで地平線のように続いている。この壁はアルス側のもので、砂地の緩衝地帯を挟んで反対側には、スレイ皇国の国境壁もあるらしい。壁沿いには一定間隔で櫓が立っており、兵士が常に見張りをしていた。目を盗んで壁を越えて緩衝地帯に降りられたとしても、そこで見つかりそうだ。
仮に兵士が来る前にスレイの方の壁を乗り越えられたとしても、アルス側から不法入国者の情報は櫓同士ですぐに伝わるから、捕まってアルス側に戻されてしまうらしい。ただスレイからの引き渡しは、アルス側(ここではエーデル領)が謝礼金を払う取り決めがあり、だから逆にスレイ側に行く前に不法越境者を捕らえられた場合は、アルスの警備チームに報奨金が与えられるのだという。つまるところ国境を守っている兵士たちのモチベーションはそれなりに高いのだ。
そのため、国外逃亡を志す身としては、たとえ夜であっても壁越えは中々難易度が高そうだと感じた。スレイ側の警備体制が分からないから、結局は運頼みの出たとこ勝負になってしまう。むしろ、偽の身分で正規の国境門を通った方がまだ成功率は高い気もする。
正規の越境手順としては、
①貴族や商人ギルドなどの越境が認められる身分証を提示する
②アルス側の門が開く
③緩衝地帯内にある詰所で部分でスレイ側のチェックを受ける(通行料を払う)
④スレイ側の門が開く
という仕組みらしい。入国を許可する側は、積み荷をチェックすることもあるらしく、隠れるのは得策ではないかもしれない……といった学びが得られた。この情報がなかったら、馬鹿みたいに酒樽の中に隠れて国境越えを目指して発見されていた可能性があった。やはりこういった情報は大切なので、今後も積極的に収集していこう。
エーデル家の屋敷に戻って、食事をいただいた。
帰ってきていたユーリカ様の父親も一緒だった。
エーデル伯はいかにも頭の切れそうな、抑制のきいた喋り方をするタイプという印象だったけれど、ユーリカ様との間には信頼関係がありそうに見えたし、私も好感を覚えた。
「ステラさん、娘と仲良くしてくれてありがとう。この言葉はエーデル領主としての言葉でもあり、ユーリカの父としての言葉でもある」
「いえ、私もあのときユーリカ様と出会ってなかったら、今とは違う人生を歩んでいたかも、と思います。私は今の人生がとても楽しいので、出会えたことに感謝しております」
後からだから言えることだけど、あのシチュー事件は私の人生をかなりいい方向に導いてくれたと感じる。
「ユーリカは頭の切れる子だが、以前は爪を隠しすぎるきらいがあってね、実をいうと跡取りとしてやっていけるか不安だったのだが、ステラさんと出会ったころから、瞳に色が付いてきたように感じるよ」
「もう。お父様だってそういう風にして、表に立たないようにして成功してきたのでしょう?」
「そうだね。だけどその成功が幸せだったかと問われると、返事に窮するだろう。やりたいことだけをやってここまで来たのではないのだから。馬鹿みたいに聞こえるかもしれんが、こうして娘と食事ができるのなら、あばら屋の下でパンとシチューを食せるだけでもいいのだ、と最近は思うようになったよ」
「そういった感傷の簒奪は、あまりお上品ではありませんわね」
といった親子のほほえましい会話を、本物の平民である私と、本物の公爵令嬢であるエルミナで楽しく聞いている。仲が良さそうでなによりだ。そういえばうちの両親はもう一年以上見ていない。死んでいたとしても気づかないかもしれない。
会食が終わり、四人で馬車に揺られて先ほどの丘に戻った。散歩がてら日が沈むのを眺める――というのはエーデル家に対する建前で、もちろん国境沿いの夜間の明るさを確認するためだ。
実際にいつかの私たちがこの国境を使ってスレイに逃亡することがあるかと問われると、可能性はかなり低い。しかしエルミナは四年以上ソフィ会長対策をやっていたし、なんなら十年以上前からこの国を解体するための芽を撒いている。私だって今生では十二歳に戻った瞬間から準備を始めて、今のところそれが上手くいっている。備えすぎておくことに、悪いことなんて一つもない。
「明るいですわね」とエルミナが呟く。
国境壁沿いには一定間隔で街灯が立っており、日没のタイミングで兵士たちが火の魔石を使った松明を灯していた。壁の手前も明るいが、内側(緩衝地帯側)の方が密に照らされているようだ。上から見ると、国境壁がまるで光の川のようだった。
「最近、少しずつリムに置換されてるってスオウさんが言ってた」とユナちゃん。
「昇降機のところにあったようなリム管を国境沿いに通していく、ということですわね」
「はい。だから今よりもっとムラなく明るくなると思います」
「自分たちの発明で逃げ道が塞がれるのは寓話的だね」
「でも街は明るい方が安全度は上がると思う」
「エルミナが悪いことをできなくなりますね」
「あら、わたくし悪いことなんてなーんにもやったことがありませんわ」と王都最大の地下組織の裏ボスが両手を広げた。「ところで、気付いていまして?」
「はい」と私が答えないのを見て、セイラが答えた。
「なにがです?」
「振り返らないでくださいな。背後の森に重武装した十二人」
「エーデル伯がつけてくれた護衛……にしては物騒か。エーデル伯の支配下の人たちだと思いますか?」
「あれだけもっと容易なタイミングがありましたのに?」
「ということは、エーデル伯爵邸の敷地に侵入し、公爵令嬢等を狙おうとする第三者ということですね。私たちを狙うにしてももっといいタイミングがたくさんあるんじゃないですか?」
「ここで姉さんたちが消息を絶てば、エーデル領主がスレイに聖女を亡命させたという見方が発生するはず。エーデル領主を失脚させたい、スレイとの緊張関係を高めたい、聖女を排斥したい、グルナート家を弱体化したい、のどれでもお得」
「方針は?」
「一人だけ生かしますわ」
「なら私は闇魔法は使わない方がいいですね」
「では前衛は私が。エルミナさん、援護をお願いします」とセイラが前に出た。
四人の立ち位置が変わり、私はユナちゃんを抱き寄せる。
そこで私たちが気づいていることに気づいたのか、木々の間に身を置いていた人々が、堂々と出ていた。
「ごきげんよう。ここが貴族の私有地であることをご存じかしら」
全員がフードや手ぬぐいで顔を隠している。
「わたくしはエルミナ・ファスタ・ツー。グルナート。あなたのお名前を伺ってもよろしくて?」
「貴族に語る名など……ない!」
全員が武器を抜く。いつの間にかセイラも刀を構えていた。セイラの最もすごい点の一つは、刀を抜く所作が味方からも認識できないことだ。というよりも、服の下から刀を出す瞬間さえ見えないことが多い。気づいたら刀を持っている。
名もなき十二人が杖と剣を持って迫ってくる。
「どれを生かしますか?」
「わたくしの問いに答えた者を」
「承知」
勝敗は問題にならなかった。エルミナの援護も不要だった。
舞うように、踊るように、散らすように、セイラが躍動する。全方位から迫る斬撃を捌きながら、甲冑の有無に関係なく容赦なく人体を切り分けていく。その剣速からか、真っ黒な刀身に光が集まっていくように見えた。光の斬撃――剣聖。輝く刃が残光の中で舞う。すぐに十一の死体が積み上がり、一人だけ残った生者を引きずって戻ってきた。
エルミナが跡形もなく死体を闇の内に削り取る。セイラは刀なんて持たないただのメイドのはずだから、この切れ方の死体を第三者に知られるべきではない。
「わたくしはエルミナ・ファスタ・ツー。グルナートを申します。お名前を伺ってもよろしいかしら?」
「我々は王国、貴族の横暴に抗う解放者である。いつかこのうねりは強大な波となって、貴様ら貴族を飲み込むであろう……ぐッ」
と言い残してその解放者は口から泡を吐いた。自害していた。
身元の分かるものがないかを探したけれど、女神信仰を表す十字のネックレスしか見当たらなかった。その他の部位はエルミナの闇が食べた。つまり今、この丘では〝何も起こらなかった〟。私たちは眺めの良い丘で日没を眺め、光の川を見た。ただそれだけである。
「教会系列の反貴族主義者といったところでしょうか」とセイラが言う。
「王都から離れるほど、教会の力が増すことを考えると、まあ妥当なところでしょうね。特に王国最大級の教会がある土地では」
「そうなんですか?」
「…………」
「え?」
「姉さん、私たちが今住んでる学院って教会の管轄だよ」
「誰も教えてくれなかった!」
本当に初耳なんだけど。
「エーデル伯の爵位が上がったのは、貴族と教会間を上手くとりなして、学院を独立的な地位に置いた功績が大きかったと聞きますわ」
「そんな仲良くやれるものなんですか?」
「現に貴族たちが家名を脇に置いて研究を行っているでしょう?」
「急に分かってきた!」
研究のために家名をマスキングする、ということは同時に貴族的であることをやめるという意味で、つまりこのシステム自体が教会的なのだ。
「でも貴族側にはどんなメリットがあるのですか?」
「研究者肌の貴族の三男三女以下にとって、家名なんて邪魔なものでしかありませんし、それを一時的に手放せて、しかし一方で同じような教養のある学生たちと会話を楽しめる。親世代からしてみれば、家督に影響を与えない子どもが、それなりにコネを作ってきて、あるいは最先端の魔法理論を学んで戻ってくる。まあ悪くはないのではなくて?」
「そういうものですか」
「そのような、貴族にとっても許容しうるメリットがある、というラインにまで持って行ったのが、エーデル伯の功績なのでしょうね」
「確かに、私たちも『教会』を感じずに楽しくやれてますもんね」
「今感じたね」とユナちゃん。
「たしかに!」




