魔の森に入る
ジルと魔の森にやってきた。
懸念された家事手伝いの不在問題だけど、ジルの仲間にお願いすることにした。
カリナ、キャル、クエルという三人の仲間が日替わりで回すらしい。日当は銅貨十枚。
ユナちゃんの地平みたいに最低賃金があるわけじゃないけれど、文字の読めない未経験者にしてはかなりいい待遇だと思う。加えてユナちゃんが読み書きを教えるらしい。せっかく覚えたのだから人に教えることで理解を深める、と言っていた。知らない世界にきてそういう風に振る舞えるのはすごいなと素直に尊敬する。
私も張り切ってジルに色々教えたい……ところだったのだけど、少なくともフィジカル面での私の弱さは中々のものだった。聖女認定以降は聖魔法で肉体を補佐できるからそれなりに動けていたけれど、魔法学園で魔力を整えてもらっていない今の身体の段階で魔力を使うのはかなり怖い。五回目の魔力暴走がトラウマになっているな、とは自分でも思うのだけど、少なくとも今負うべきリスクではなかった。私の今生の目標は、魔力なしで騎士団に入れるレベルまで身体を鍛えることだ。
というわけでしばらくは魔の森のスラム側外縁を走りまくった。ゴミ山から拾ってきた鈍ら剣を振り、腕力を鍛え、ユナちゃん発案のトレーニングで体幹を養った。
午後はジルの希望で彼に座学を行った。
元々学ぶ意志と姿勢がある人だったから、放り込んだ知識をぼんぼんと取り込んでくれて面白い。
事象Aと事象Bを導入すると、そこから推論して事象Cを答え、私が正解の事象Dを教えると、そこで修正を入れて正しい発展事象Eを導くことができた。
これまでの人生で名前を聞かなかったことが不思議なくらい才能があった。だけどその理由はきっと単純で、「スラムに住んでいるから」。だからジルに出会う前に銅貨を持ち逃げするかどうか試した子どもたちにもきっと人生があって、私はそのことを大いに反省するべきだと感じる。
「才能がある、できることがある、意欲がある、そういった人間が、住んでいる町や身分に関係なく生きられる世界になってほしい、とオレは思います。ステラは可能だと思う?」
「そうだねえ。私がいいなと思うのは、才能がない、できることがない、意欲もない、努力もしない。そういう人たちも幸せに生きられる世界かなぁ」
「……まるでおとぎ話の聖女様だな。可能だと本当に思ってる? なんだか本当に可能だと思ってそうなところがオレは怖いけど」
「確かに理想は持ってるけど、今の私は自分が生きることに精一杯だからね~。でも理想はあった方がいいと思う」
「でも本当にできると思ってる?」
「でもできなくはないと思うんだよね。だって貴族を考えてみてよ。あいつらのほとんどは才能がないし、できることもないし、意欲もないし努力もしてないのに、あんなに偉そうに堂々と生きてるでしょう?」
「オレは貴族を知らないので、なんともだけど」
「……自分が知らないものを偏見で決めつけないのは偉いねえ。合格よ」
「っぶねー、罠かよ」とジルがガッツポーズをする。
自分でも無意識だったけれど、私ってもしかして貴族が嫌いなのかもしれないな。よくよく考えると散々な目に合ってるからな。でも私に良くしてくれた貴族がいたこともまた事実だ。学園入学までの小目標に「貴族に差別意識を持たない」を付け加えよう。
しばらくして、ジルの友達のアルにも知識を教えるようになった。
アルは十数匹の犬を飼っていた。スラムは犬を連れている人間が多い。そして人間たちと同じく、目がとろんといつも横たわっている。人間がぬくもりを求めて、薬物を犬にも与えているのだ。アルは対岸の教会のボランティアと組んで、中毒にさせられた犬たちの保護活動を行っていた。
彼の周りには嗅覚の麻痺していそうな犬たちがたくさんいて、それでもよれよれと駆けまわっていた。そんな姿をいいなと思った。たぶん私は犬が好きなのだろう。少なくとも、犬に殺されたことは一度もないから。
*****
ある日、魔の森の方に入った犬を追ったアルの叫びが聞こえた。
ジルと顔を見合わせ、二人で森に入っていく。これまでは森の外側で活動していたから、実はちゃんと森に入るのは今生では初めて――六回目の人生以来だ。
犬の吠える声がする。
――――魔獣ッ!
倒れたアルを守るように吠える犬。
相対する魔獣。
犬の五倍くらいの大きさがある。
「ステラ!」
ジルが叫ぶ。
二年後ならともかく、今の私は魔獣への対抗手段を何一つ持たない。
「私が気を引く! アルと犬を連れてって!」
言いながら、そこら辺の石を投げつける。聖魔法の欠片もないただの子どもの石の投擲だ。意味があるはずもないけれど、注意だけは引けた。
その隙に、ジルがアルを抱えて走る。
よし、私も離だ――あー、死ぬな。
魔獣が思いのほか素早かった。
気づけば眼前。最短記録だこれ。
六回目の人生で検証は済んでいる。私の運命は「十六歳で死ぬこと」ではない。機会さえあれば、いつでも死ぬ可能性がある。
ごめん。ユナちゃん…………――――。
真っ黒い何かがぐおんと目の前を横切った。
今にも襲い掛かろうとしていた魔獣が、その黒い体当たりではじけ飛ぶ。黒い何かは倒れた魔獣を前脚で固定し、首を嚙みちぎる。嘘みたいにあっさり魔獣が消滅した。
それが顔をあげる。目が合う。弱肉強食の必定を思わせる、先ほどよりも数段大きい魔獣。
でも不思議と、死ぬとは思わなかった。
「ユナ……?」
そんなはずがない、と思いながらも確信があった。
もちろん妹のユナちゃんではない。
六回目の人生には妹がいなかったから、この森で出会った魔獣に「ユナ」と名付けたのだった。
ユナは魔獣なのに不思議と懐いてくれた。ひとつ前の人生で大勢を殺し、討伐された私の傷を癒してくれたのが魔獣のユナだった。ループしているのだから、今生の私の目の前にいる魔獣のユナが、あのときのユナのはずがない。はずがない、と思いながら、どこかで理解していた。私のユナが助けてくれたのだ!
ユナがやってきて、頭を垂れる。わしゃわしゃとその頭を撫でてやる。
「ありがとう。助けてくれたんだね」
心なしかあの頃よりも体が大きくなっている気がする。背中に乗って森中を駆けれそうだ。
「でもなんで……?」
六回目の生の最期を思い出す。私もユナも動けないくらい飢えていて、私は私自身をこの子に食べさせてあげたのだった。
「私の核? みたいなものがユナの体内に取り込まれたから……?」
正直、本当の理由は確かめようがないだろう。だけどとにかく、
「嬉しいよ」
ユナがグヲォンと低い声で頭を擦り付けた。