スラムとおすすめチャート譲渡会
デロンの食堂でお手伝いをしながら、二度目の契約周期が来てマヨネーズ等の使用料を得た後で、川向うのスラムにやってきた。
下層の貧しい平民(私たち)とスラムの人たちの差は、毎日寝泊りできる固定の屋根があるかどうかである。加えて危険度の差だ。これは単に人間的な治安の問題ではなく、スラムが魔の森に隣接していることにある。つまり魔物に襲われる可能性があるのだ。
でもこれはたぶん意図された都市デザインだ。川を挟んでいるおかげで、魔獣発生時には絶対にスラムの人が最初に襲われるから、それが対岸の人々にとってのアラートになるわけである。唯一かかる橋の近くに詰めている兵士たちが橋を封鎖したら、もう魔獣はこちらへはやってこれない。貴族(や平民)にとって、スラム街は炭鉱のカナリアなのだ。
この比喩をユナちゃんに教えてもらったとき、なんてひどい人間がいるのだろう、と思ったものである。私も婚約破棄破棄後にボロ雑巾のように使い倒された人生の遠征先で似たような役目を負わされたことがあるから、その嫌さというか、人間への憎悪は結構分かるつもりだ。
がんばれカナリア! なんとかしてスラムにも安全をもたらしたい気持ちはあるのだけど、今の私にはその力がない。やはり、聖女の聖パワーが必要だ。
どんどん強くなる刺激臭の中に、なにかを腐らせたような酸っぱい青臭さが混ざってくる。「トレ」と呼ばれる加工した薬草を火で炙ったときに出る臭いだ。この草には抑制作用と幻覚作用があり、王国法では使用と売買が禁止されている。
トレを売買するような人だからスラムに行きつくのか、スラムで他にやることがないからトレをやるのかは分からない。トレ自体は注意深く探せば貴族の中にだって隠れて売り買いしている人もいるけれど、スラムのトレの特徴は、極端な混ぜ物の多さだ。
つまり何十分の一くらいに油で薄められ、そのせいで本来の有益な薬草的効能がほとんど失われて、副作用と依存性だけが残っている。ぼーっとして、時間の感覚が希薄になり、物事の輪郭や現実感が喪われ、切れると震えと寒気がやってくる。それに空腹が合わさると、身動きができないほど身体が重く感じられてしまう(六回目の人生で毎日吸ってたから私は結構詳しい)。
だから、というと変な話だけど、「スラムに住む人々」はお貴族様のイメージの中にあるほど危険でも野蛮でもない。どちらかというとみんな元気がなくて、他人に無関心なのである。だけど「スラム」に危険が多いのも確かで、その原因は主にスラムの外から来ている売人とか人身売買の組織だったりする。
本日、ユナちゃんはお留守番で、私の単独行動なのはそういうわけだ。
といっても、デロンさんや魔石堂のように過去の知識から当てがあるわけではないから、闇雲に歩いてみるしかない。
今日の目的は人探し。
条件としては、
①うちの家事(内職)を引き受けてくれて
②盗み癖がなさそうで
③ユナちゃんとも対等でいてくれて
④悪性トレ依存になっていない子ども、だ。
①と③と④を満たす子はいそうだけど、②が難しい。すべての聖女時代で、私はここの子どもに物を盗まれたことがあるのだ。今は盗むものなんてないからいいのだけど、私が聖女になって学園に行ったあともできれば色々盗まずにユナちゃんを助けてくれる人だといいな、と思う。
「ねえ、そこの少年。ちょっといい? 魔の森の入り口に行きたいんだけど」
と見かけた子に適当に声をかけてみる。
「は? なんで俺がそんなことしないと行けないわけ?」
「銅貨一枚でどう?」
「前払いだ」
「はい、どうぞ。よろしくね。同行者を連れてくるから少しここで待っててくれる?」
と言って戻ってくるともういない。銅貨一枚を持ち逃げされたわけだ。四回繰り返して、銅貨四枚を失った。
「ねえ、あんた。魔の森に行きたいのか?」
振り返ると、男の子。
「そう。でも道が分からなくって」
「オレでよければ案内してあげるよ。ただし銅貨四枚。半分を前払い。今二枚、入り口についたらもう二枚だ」
「高くない?」
銅貨四枚だと、下層ではパンとスープ二食ぶんくらいだ。
「馬鹿みたいに逃げられるよりはいいと思うけどな」
「ん。はい、じゃあ二枚」
「まいど」
二度払い制になったせいで、今度は私が逃げられなくなってしまった。特に目的もないのに、少年に連れられて魔の森まで歩いていく。
「なあ、あんた。なにが目的なんだ? そんななりで誤魔化してるが、お貴族様なんだろ?」と少年が尋ねる。
「どうしてそう思うの?」
「歩き方。動き方、喋り方」
「そう、すごいわね」
「見れば分かるだろ。理由は?」
「一度、魔の森に行っておきたいなと思いましたの」
期待に応えなきゃと思うと急に語尾がブレてきましたわ。
「そうじゃない。自分よりも年下の子どもに試すような真似をしていた理由。賎民がめずらしいって?」
「そうじゃないけど……いや、あなたの言う通りです。人を試すような行動はよくなかった。下品でした。ごめんなさい。謝罪します」
確かに、嫌な貴族みたいで良くなかったな。
少年が足を止める。
「驚いた。お貴族様でも謝罪ができるんだな」
「謝罪ができる貴族もいるとは思うけど、私は貴族じゃないよ。まあ貴族的な教育は受けたことがあるけど」
「人を試すような真似もそこで習うわけか」
「いや。あれは単に私が考えなしの愚かだった。本当にごめん」
「いいよ。おかげで俺は銅貨を四枚もらえるしな。にしても、貴族じゃなくてもそんな風に習える機会があるんだな。妾の子ってやつ?」
「たぶん違うと思う。赤ん坊のころからあの家に住んでるしね。随分と昔から」
今の私は一度目の十六年の人生のあとに、十二歳までから十六歳までの概ね四年間を計五度生きていて、六回目の人生だけ十四歳で死んでいるから、トータルだと三十八年くらい生きていることになる。赤ん坊のころが遥か昔のようだ。
でも一晩で長い人生の夢を見たとして、「あなたは十年分の夢を見たから、今日から十歳プラスして年齢を数えてね」とはならないのと同じように、今の私の気持ちとしては十四歳くらいなんだよな。身体年齢よりは気持ちちょっと上かな、くらい。
もちろん、十四歳だからといって、他人を試していい道理は全くないけれど。
「スラムに来たのは、単に家が橋のすぐ近くだから」
「下層か」
「そうね。川沿いに教会があるの分かる? すごく近いから、鐘の音がすごくうるさいの」
うちの近くの教会は、スラムから魔物が出そうときにそれを貴族地区まで報せる役割も担っているから大きな鐘がついている。鳴ると本当にうるさいのだ。
斬首になった過去生で、眠りそうになるたびに水で起こされる拷問を受けたことがあるけれど、睡眠妨害力という点では我が家の方が強いかもしれない。私と妹を放って、両親が中層の小さな雑貨屋の店内で寝泊まりしているのもそれが理由である。
「ふーん」と少年が上の空で相槌を打つ。
彼の歩みが遅いので、案内されるはずの私が先導する形になってしまった。森の入り口まで行かないと、私はもう二枚の銅貨を払って契約を終えられないのだ。
「……なあ、オレもあんたみたいになれるのかな?」
彼が何度か言い澱んでから、立ち止まってそう口にする。
「私みたいって?」
「そういう振る舞い。他人に見下されない動作とか、自信みたいなもの」
「あら。私のことを見下していないの?」
「してない。初めは嫌な奴で、他のガキが騙される前にと思って声をかけたけど、あんたはちゃんと謝ったから、今はそう思ってない。あんたのことを何も知らないけど、オレが変わるきっかけがあるとしたら、今が唯一のチャンスなんじゃないかと思い始めてる」
「それは、どこらへんのことを根拠に?」
切実さが伝わってくる彼とは逆に、私の方が警戒心が強くなってきた。
私のこれまでの個人的な経験によると、納得できる理由もなく他人に懐かれた場合に起きる結末ランキング第一位は、斬首だ。
「あなたのようになれたらと今考えた。それが根拠だ」
「…………」
どうにも彼の本気度が高いようなので、きちんと応えてあげることにする。
「まず、下層の川沿いにベルさんっていうクリーニング屋がいる。そこは戸籍とか家とか関係なく働かせてくれるからそこでお金を貯めるといい。お金が貯まったら、お店の常連のローレさんっていう人と話すと、格安で読み書きを教えてくれるところを紹介してくれる。あ、ここの料金はローレさんへの気に入られ度で変化するからね。そこで上手いことベルさんのところの仕事と学習を両立できると、王都にいる間だけ最低限の人手を欲しているある男爵の従者から声をかけられると思う。そしたらもう貴族を見る機会があるから、あとは見て学ぶといいよ」
私が過去生で開拓した貧困脱出チャートの一つだけど、今回の人生で使うつもりはないから、あげてしまっても大丈夫だろう。あと、この少年を介して今生では縁がないであろう人たちと関係を結べたら嬉しいな、くらいの打算も大いに混じっている。
「志次第だと思うけれど、チャンスを逃さなければ、今のでかなりいいところまでいけると思う」
「……分かった。ありがとう。あなたを信じる」
「応援してる。はい、銅貨二枚。それじゃあ、どうもありがとう」
「うん……え、いや、待て待て待て、森に入るつもり?」
ぐいと手を引っ張って引き留められる。渡した銅貨が落ちた。
「そうだけど」
「そのつもりで案内させたのか!?」
「そのつもりで案内してくれたんじゃなかったの?」
「いやだよ。死にたいやつを案内したなんて。あんたから使える情報を巻き上げてオレが殺したみたいになるだろ!」
確かに……。
私は六回目の人生をこの森で過ごしていたから、魔の森の中でも真に危ないゾーンは避けられる自信がある。でも、普通は自ら森に入るなんて、単なる自死の選択にしか見えないのか。……いや、そうだよな。まさに六回目の私は死ぬためにこの森に入ったのだ。
「大丈夫。死ぬつもりはないから」
「じゃあ、なんのために」
「いや、流れだから私もあんまりちゃんと考えてなかったんだけど、せっかく来たなら修行でもしようかなと思って」
「しゅ、修行……? ここで? なんのために」
「強いて言うのなら、生きていくため……?」
「なら入るなよ、こんな危ないところ! 意味わからないだろ!」
「確かに。ほんとだ」と頷く。
「……馬鹿なのか?」
「ふふ」
「なんだよ」
「いや、いいやつなんだなと思って」
「バカ。単に寝覚めが悪くなるだけだよ」
「そうやって人のことを心配してくれることが、高貴で美しいと私は思うよ」
「……修行ってなにをするつもりだったんだ?」
「体力をつけたり、あとは剣術?」
「それは森に入らなくたってできるだろ」
「本当にね」
「なんなのあんた……。その修行、オレに付き合わせてくれないか?」
「銅貨四枚?」
「金はいらないから付き合わせてほしい。あんたから学べることがあるように感じる。あとそうしないと勝手に森に入っていきそうだし……」
「おそらくあなたが思っているほど、私はちゃんとしてないよ?」
「志次第なんだろ?」
「そうね。あなたにはなにか目標がある?」
「ジルだ。オレの名前」
「私はステラ。ジルには、なにか目標がある?」
「ここには歳の近いやつらがたくさんいる。上手く言えないけど、みんな諦めてるんだ。だからそいつらに、腐らずに頑張れば、こんなところに生まれてもきちんとやっていけるってことを示せたらいい、と思う」
こんな風に真っすぐに言われて拒めるとしたら、それは貴族くらいのものだろう。
「分かりました。ジル、これからよろしくね」
「はい、ステラ。よろしくお願いします」
ジルが跪くと、私の右手を取って甲に口づけをする。
「……それはちょっと違うと思う」
「えっ」
「おいおいね」
ジルの手を引っ張って立たせる。
「よろしく」
「よろしく、お願いします……」
というわけで修行仲間をゲットしてきた、という話をユナちゃんにしたら、
「修行の間に家のことを手伝ってくれる人を捜しに行ったのに、今の話だと、その人は一緒に修行をするんじゃない?」
と言われて、たしかに! と思った。
当初の目標をなに一つ達成できない私ステラちゃんは、後日再度人探しに向かいました。