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SIDE/ヨハン・ツェルン・ツー・アルス

 王となるために育てられた。

 振る舞い、教養、芸術、掌握術等々を私の内部に取り付けるために、幼少期のすべてが捧げられた。初めて歩いた日も、意味の伴う言語を発した日も、乳母に管理されたものだ。

 父と母とは、子どもの行動に対する全権を保有する男女に与えられる言葉だとすら考えていた。私に自由はなく、私も自由を望んでいなかった。当たり前だ。「自由」の概念を与えられなかったのだから。

 私は樹木が日光と水によってただ無意志にそこで大きくなるのと同じように、少年期を迎えた。


 初めて私に感情を与えたのは、ソフィ・フィリア・ツー・ウォルツだった。

 初めて会ったのは私が八歳のときで、彼女はまだ六歳だったはずだ。許嫁となったその日に、彼女は大人たちには聞こえないよう声を絞って、私の耳元で「つまらない人」と言った。特になにも感じなかった。他者の言葉に感想を抱く必要はないと教わっていたから。

 王宮から帰るとき、彼女は急に泣き出した。会ったこともない侍女を指さして、「酷いことを言われた」といくつかの侮蔑的な表現を具体的に付け加えた。

 侍女は連行された。

「自由とは、あらゆるものを壊したいときに壊せることですわ」と彼女は言った。「ね、面白いでしょう?」

 だから初めて自分の中で観測した感情はあとから名づけるのであれば、おそらく「嫌悪」だった。だけど、私にはそれがどういう感情なのかは分からなかった。だから私は、初めての感覚を私のために与えてくれたソフィに(彼女の行為に対してではなく、存在そのものに)、これまた正体不明のよく分からない、だけどもどちらかといえばポジティブな感情を抱くことになった。私は彼女と友だちになった(「友だち」は分からなかったけど、彼女が私と彼女のような人間の間柄にある関係性をそう定義した)。


 ソフィと定期的で義務的な逢瀬を持つ中で、私は他者の感情を理解するようになった。自分自身についてはまだ留保するが、他者にはおそらく「感情」と表現される肉体の活動が存在するようだ。そしてそれに対して正に働きかけることは、私を有利にしてくれる。父や母は重視していないようだったけれど、人間にはこんなに舵取りしやすい舵輪が付いているのだから、その特性を生かさないのは効率が悪いと思った。あるいは同時に自分自身にもそんな舵輪が付いているに違いないと思ったが、観測することは難しかった。

「ねえ、君には私のハンドルが見えている?」ソフィに尋ねる。

「ええ、もちろんですわ」と十歳の彼女が答える。「殿下のハンドルはくるくる回るものではなくて、ただ一本、地面に突き刺さっているのです。わたくしはそれをへし折る日が楽しみで楽しみで仕方がありませんわ」

「君が本当に楽しそうなのは分かるよ」

 物というものは、境界面に触れることで初めてその輪郭を認識できる。であるならば、ソフィの鉈が私の舵輪と接触するとき、私も私の輪郭を理解できるかもしれない。

「私もその日が楽しみだ」


 だけど、私に感情を目覚めさせてくれたのはソフィではなかった。

 十四歳。王立アルス魔法学園に入学した私は、レミリア・オルフェ・ツー・グルナートと出会った。

 不思議な人だった。かつて社交界で挨拶をしたときの猫かぶりの彼女とは全くの別人だった。

 高貴で気さくで、露悪的で慈悲深く、穏やかで苛烈だった。あらゆる対立的二値が最も好ましいバランスの中で同居していた。……好ましい、これは私の中の内発的な感覚だった。そのことを意識し始めてから、このステータスを「恋」だと定義づけるまでに時間はかからなかった。

「恋」とは感情ではない。情報にかかる一種のフィルターだ。ある個人の存在が価値観の最上位にくることで、万象あらゆる事物に対する感覚が変容している状態が恋ではないか、と私は考えた。なぜならレミリアのことを考えると、一日を頑張ろうとも思える。王宮内の諍いを見ても、レミリアならこうするだろうなと楽しい気持ちになれる。通路の花が日替わりで生けてあることに気が付くし、その花が今日は黄色だったことが思い出せる。

 そう、記憶に色が付いたみたいに、あらゆる物事が好ましく感じられる。あるいは、彼女が隣国の皇子と親しげに話しているのを見て胸が締め付けられる。辛く、ただ塞いでいたくなる。

 これは感情だ。そして感情とはなんとままならぬ、なんと厄介な代物か!

 だけどこれは鉄の折り目が消えないのと同じように、不可逆の変化だった。その良し悪しに関わらず、私は感情を獲得した。


 それからはめまぐるしい三年間だった。

 レミリアとの日々に一喜一憂し、王族特権の加害性を自覚し、自分に婚約者がいることを呪ったりもした。

 だけども仮に私にソフィがいなかったとしても、私の想いは叶わなかっただろう。レミリアの父はこの国の宰相だ。第一王子が宰相家の長女と結婚するのは、この国の均衡を大きく崩しかねない。

「ヨハンは優しいね」と卒業を控えたレミリアが言った。彼女が敬称なしで私を呼ぶのは二人きりのときだけだったので、ヨハンと呼ばれるとき、私はとても嬉しい気持ちになる。

「私がどっちつかずな態度をとって逃げてたのに、ヨハンはいつも私を慮ってくれてた」

「私が優しいのは君に対してだけだと思う。一般的な評価として私は、氷のようだと形容されているからね」

「私は一般的な評価の話をしていませーん、ふふ」

 私は恋によって入力情報を編纂されているので、そういって笑う彼女を美しいと感じる。

「私がこの国の貴族制を壊そうとしてたのを知っているよね?」

「うん。私は三年間ずっと君を見ていたからね」

「どうして傍観してくれていたの?」

「君に比べたら、この国の王国制などというものはとても些末なものだよ」

「初めてちゃんと口説いてくれたね」

 胸がぎゅっと締め付けられた。もしももっと昔に、立場や外聞を気にせずに彼女に思いを告げていたなら、今とは違った今があったのだろうか。

「とても酷いことを言うんだけど、私はユリウスと国境の向こうでこの国が変わるのを待つことにする。芋虫が蝶になるまでに蛹を挟むみたいに、変革中は周辺諸国から見たら恰好のエサとなるはず。だけどそれは私とユリウスで絶対に抑える。そのための準備を今のうちからする。だからもし、この国を変えようとしている子を見かけたなら、応援してあげてくれないかな。種は撒いているから」

「君はとても残酷なことをいう」

「私はね、悪女なの。知らなかった?」

「知っていたよ。もし諸々がすべて終わって、式典が開かれる時が来たら、私と一曲踊ってくださいますか?」

「もちろん。よろこんで」

「もっとも、そんな日には私は平民か、あるいは首無しになっているかもしれないけどね」

「頭と身体、どちらで踊りたい?」

「身体かな。君と出会ってからの私は、心の存在を信じているからね」

 それから私たちは、無人のホールで一曲踊ってから別れた。次なる再会に心を寄せて。

 だけどそんな日は来なかった。

 彼女の亡骸は、四肢をひどく損傷し、顔は膨張して変色していた。

 その肌は、どんな氷魔法よりも冷たく、私の心まで凍ってしまった。


 それからは政務に勤しんだ。凍った心に気づくまいとするかのように。

 政務以外ではほとんど人と話さなかった。学園に通うソフィがたまに顔を出すくらいだ。

 ソフィの壊したい対象はどうやら私ではなくなったらしい。それはそうだ。私はもう、ぽっきりと折れてしまったのだから。


 坦々と日々が過ぎ、数十年ぶりの聖女が見いだされた。どうでもよかったけれど、国としては聖女の権威を保持しなければならない。興味のない女性に甘い顔をしないといけないかと思うと、少し煩わしかった。

「聖女が入学してきたよね。話したかい?」

「ええ、先日少々。政治的な駆け引きをしましたのよ」

「それはなんというか、可哀想に。壊れなかったかい?」

「それがなんとわたくし、負けましたのよ」

「君が? 年下の相手に!? グルナート家のご令嬢ならともかく、なんというかそれは想像できないな」

「ええ、だからわたくしも無性に楽しくなってしまって。殿下もいずれお話されるとよいですわ」

「そうだね。うん、それは少し楽しみだ」


 なんて会話をしていた婚約者も死んでしまった。

 ソフィは歪んでいて、狂っていて、誰に殺されても文句のつけようがない人間だったけれど、同じように歪んでいて狂っていた私にとっては存外居心地のいい存在だった。

 だからだろう。弟の舞踏会に参加してまで聖女を見てみたくなったのは。

 平民だと聞いていたから、仮に礼儀作法が完璧だったとしても、それは急造の人工的なものであろうと想像していた。だけど違った。彼女の所作は地に足のついた洗練されたものだった。

 ついうっかり、一曲誘ってしまった。


「全身に君の思想が通っているように感じるよ」

 久々に自分からダンスを誘った高揚感と、ソフィに勝ったという舌戦を見てみたい気持ちで、思ってもいないことを口にする。

「殿下のお口には、女性を褒めるための意匠がなされているのですね」

「正確には、美しいものを美しいと表明するための発声機能だけれどね」

 くるりと回す。彼女はきれいに流体のように回される。微塵の緊張もせずに、自然体でダンスを楽しんでいるように感じられる。

「殿下にとって、美しさとはなんですか?」

「聡明さ、かな。思想的であることともいっていい。私は理念の通ったものに美しさを感じるよ」

 これは嘘ではない。私がこの世で最も愛したレミリアは、理念的で、信条的で、思想的な人間だった。

「殿下は美しいですか?」

 そんな思いもよらぬ問いが即座に打ち返されて、返答に窮してしまった。なるほど、ソフィが負けたのも頷ける。

「フフ、その問いに私は美しさを感じるな」

 間を埋めるためだけの間抜けな返事だ。

 彼女は勝者の慈しみから、「お上手ですね」と試合をクローズしてくれた。

「ありがとう」


 踊り場から戻りながら、先ほどの問いについて考える。今の私は美しいだろうか。

 否。レミリアのように理念的でも、思想的でもない。ただ何かから逃れるように、目の前の仕事に没頭しているだけの怠惰な日々だ。

 対してこのステラという聖女はどうだろう。

 レミリアとソフィを見ていたから知っている。この瞳は、なにかを為す人間の瞳だ。

 では何を為そうとしている?

 彼女は先ほど、エルミナ嬢を、レミリアの妹を待っていると言った。レミリアは最後に話したあの日「種を撒いている」と言った。種とは当然、彼女の意志、その因子だ。ならば彼女の因子を最も受け継いでいる可能性が高いのはエルミナではないか。エディングの婚約者として自分が知っているエルミナは、傲慢で貴族主義のイメージがある。だけどレミリアだってそうだった。宰相である父親に向けて装っているのだとしたら、その実態は正反対なのではないか。隣を歩く意志を持った少女の存在が、その考えを一歩ずつ強化していく。彼女たちこそが、きっとレミリアの後継者だ。

 では自分が彼女たちだとして、レミリアだとして、どんな手を打つだろうか。この国を壊すなら上からだ。そしてそこには、偶然婚約者のいなくなった第一王子がいる。王家としては「聖女」という権威は欲しい。そこの利害は一致する。でもこの貴族社会で第一王子が平民と結婚するなんてありえない。一度どこかの侯爵家か伯爵家に養子に入るはずだ。だけど彼女たちはそれを望まないと思う。私も望まない。平民が平民として聖女であるからこそ、貴族制を揺るがすことができるのだ。

 心は凍っていても、頭が高速で作動している。

 今日この日を逃せば、私は彼女たちとの接点をしばらく失う。接点を維持しつつ、聖女を取り込みたい貴族たちを牽制できる一手、かつそれは周りから見て意図や本気度が不明であればあるほどいい。私の立場、氷の王子というイメージ、ソフィの死から日が浅いということ。そこから導かれる最適な答えは……。


「聖女ステラ、私、ヨハン・ツェルン・ツー・アルスと婚約していただけないだろうか」


 会場が凍り付くのが分かる。

 そう、いい反応だ。ソフィの死からまだ日が浅い。どう考えても他の婚約者を捕まえる時期ではないから、この告白は本気としては扱われない。だけど私が彼女を気に入ったことは事実と受け取られる。他貴族は安易に手を出せなくなる。一方でエルミナはこのことで私に抗議する名分ができる。気づいてくれたなら、接点を維持できるはずだ。あとはステラ嬢の返答次第だが……。

「……まあ、お戯れを、殿下。わたくしでは殿下とご身分が違いすぎますもの」

「うん、そうだね。だからこれは戯れだ。すまない、あまりにも楽しいダンスだったものだから浮かれてしまってね」

 彼女の耳元に口を寄せて、

「私の好意を微塵も信じていない、そんな君が素敵だよ」

 とこれは小さく囁く。

「今宵は家同士の交流を促す宴。アルス王国第一王子であらせられる殿下と平民である私ほど大きな差異はこの会場のどこにもありません。存分に交友を深めればよいと、そうおっしゃりたかったのですね」

 あたかも私の耳打ちでそう言うように指示された、という顔でステラ嬢が主張をする。

 想像以上だ。張りつめた会場から空気が和んでいったように感じられた。

「その通り。君たちの繋がりこそが、ひいてはこの国を強くする。私はそれを期待しているよ」

 軽い足取りで座席に戻る。

 さあ、「種は撒い」た。

 レミリアが残したゲーム盤に私も登れるだろうか。

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