SIDE/エルミナ・ファスタ・ツー・グルナート
平民は愚かだと教えられた。その通りだと思った。人間は愚かだから。
だから貴族が導かねばならない、と教えられた。
よく分からなかった。貴族も人間なのだから、等しく愚かであるはずだ。
なら貴族は人間ではないのか、と尋ねたら父に頬を叩かれた。
それが原体験だったように思う。この世界の歪みを治さねば、と思うようになった。
幸いにして、私はそれが可能な立ち位置にいた。
父は宰相、会ったこともない婚約者は、この国の第二王子だという。
きっとこの国の歪みに気づいている人間は少なからずいる。だけど、それを実行できる力を持っている人間はそうはいない。でも私には与えられている。だから自分がやらなければならないと感じた。
知力、武力、権力、財力、影響力、あらゆる力が必要だと思った。
財力はある。権力もある。知力と武力は付ければいい。問題は影響力だ。この国を壊すということは、他者の権力や財力を奪うということである。だからそれらの利益で動く人間は、きっと土壇場で保守に入る。それらを私のために失ってもいいと思わせる魅力が必要だ、と考えたのが四歳のときだった。
小さいころからあらゆる場所に顔を出すことを心掛けた。
特に同年代の子どもとの接触は大切にした。自分の原体験がそうだったように、幼少期に聞いた何気ない一言が思想を形作ることがある、と私は思う。
侯爵家、伯爵家の子たちと、公爵家に憧れがあるものに対しては優雅にお茶を飲んでみせ、また反発心があるものに対しては爵位を気にかけない自由奔放なお転婆令嬢として、相手が最も心を許す形で振る舞いながら、言葉に乗らない程度の思想の毒を撒いていった。収穫予定は十数年後。先の長い耕作だった。
一つ目の転機は七歳のときだった。聖水晶で闇属性が出た。制御を習ってからは、自室にいながら使役した闇鴉を影から飛ばせるようになった。闇鴉の視覚は私に共有される。もちろんそのことは誰も知らない。貴族門の外の出来事を把握できるようになった。
そこで分かったのは社会の構造だ。
貴族が貴族的な暮らしを保っていられるのはただ一点、魔石を独占しているという部分に起因する。もちろん様々な修辞によって権威を維持しているけれど、ここさえ解体できればこの国は崩せると思った。
特に水と火の魔石が生活に欠かせない社会基盤になっている。ここから得られる利益を貴族の中から流出させないために、鑑定式がある。魔法適性のある若者を囲い込むためにアルス魔法学園が存在する。あの学園の機能的な本質は、平民校舎にこそあるのだ。
もう一つ分かったことがある。魔物の発生について。
世界に満ちている魔素を魔石を通して変換すると、目に見えない滓が排出される。紙を燃やしたときに出る煙のようなものだ。これがいくつかの条件下で生物の死骸に重なると、魔物が発生する。巧妙なのは、この滓も魔素と呼ばれていること。人々が疑問に思わないように、前後で同じ呼称が用いられているのだ。区別をつけるために、今後は魔阻と呼称する。
そしてスラムとは、この魔阻をあえて魔物に変えて発散させるために存在している。つまり人や獣が死んでも清掃が入らない場を予め用意しておくことで、街での魔物発生のリスクを最大限に抑えておく目的なのだ。平民を見下し、穢らわしいものを目に入れたくないと考える人間が多いはずの貴族が、あえて王都内にスラム民を許容しているというのがその証だ。
魔石がなければ街が回らないように仕組み、平民から金と敬意を巻き上げ、そのツケをスラムで清算できるようにこの王都を設計した人間がいる。人間で人間を洗っている。なんてグロテスクなのだろう、と思った。
同時に頭を抱えた。
最初の考えでは、魔石の利権を貴族が手放すだけでよかった。これはおそらく比較的容易で、王都にいる全貴族の富を一度グルナート公爵家に集中させてから、必要分の魔石を平民にバラまけばよいと考えていた。でもそれによって魔石の使用量が増えれば、それだけ魔物の発生率が上がり、私兵を持たない平民が結局一番の割を食うことになってしまう。ならば魔石の運用をやめる? 瞬く間に街は糞尿であふれ、衛生面での死者が増えるだろう。このシステムの設計者は悪魔的だ。現状の維持こそが最も効率が良くて、不幸ではない人間が最大化されるようにデザインされている。あらゆる改革が、悪手となるように盤面が設定されているのだ。
この絶望のあと、屋敷を抜け出してスラムに行ってみたことがある。上空からは何度も見ていたが、ひどい臭いや重く停滞するような淀んだ風は初めてだった。
絶望に立ちすくむ私を救ってくれたのは、犬に囲まれた少年だった。名をアルベルトといった。アルベルトは、私が彼にあげた食料を、自分では口にすることなくすべて犬たちに分け与えていた。彼は、
「オレが死んだらこいつらがきっと食べてくれるけど、こいつらが死んでもオレは食べないから」
と笑っていた。
自然と涙がこぼれた。高貴であることに、富の有無は関係がないのだ。
その日、私たちは契約を結んだ。犬たちの餌は私が今後定期的に届け続ける。だから、何年かしてもし私を信用してもいいと思ったのなら、私に仕えてほしいとお願いした。契約の魔石は使わない。だってこれは高貴な約束なのだから。
それから三年後、アルベルトは番犬のしつけ係との名目でグルナート家に雇われ、その後私の従者となった。
「どうして来る気になったの?」
「スラムにね、下町から面白い子が来ているんです。平民なのに仕草がお貴族さまみたいに美しくって、独特な思想をしています。慈愛に満ちていて、オレには彼女が聖女みたく見える時がある」
「理由になっていでいのではなくて?」
「オレの主はエルミナ様ですから」
「つまり絆されそうだったから、その前に避難してきたというわけね。律儀なものね」
「いえ、おそらく彼女も、エルミナ様も、この世界を変える最前線になります。だから俺はエルミナ様の側でそれを見たいと思いました」
「そう。ちなみにその子の名はなんていうの?」
「ステラです。平民なので、ただのステラ。エルミナ様と同じ歳のはずです」
「そう。覚えておくわ」
十三歳。
一つの喫緊の問題があった。
それは姉のレミリアの存在だった。先日、アルス魔法学園を卒業して、寮から屋敷に戻ってきた。
レミリアは聡かった。
金の流れや私の動向、集めている資料などから、おそらく私の考えをトレースされてしまった。
「エルはさ、この国をどうしたいの?」とレミリアが尋ねる。
レミリアの部屋。深夜のお茶会。あるいは詰問会。この場の意図を明確にするためか、侍従は全員下がらされている。正真正銘の二人きりだ。
「別にどう、とは思いませんけれど、わたくしは第二王子の婚約者ですから、民の心証は稼いでおいて損はないと考えています。それも幼いうちに行っておく方が、受け手はそれが打算だとは考えにくくなります。ゆえに未来の投資を行っているのですわ」
嘘はいわない。真実で煙に巻く。
「私はエルのことが好きだよ。ただ一人の妹だもの。やりたいことをやったらいいと思ってる」
「お姉さまは、よろしいのですか?」
「うん。私はもうこの国には興味が持てない。どうなったっていいと思っている。だけどエルはたぶん作り直そうとしているでしょう? すごいなーって思うよ」
「……お姉さまってそんな方だったんですのね。知りませんでしたわ」
「それはそう。あらゆる手段でこの国を破壊しようとしてた。まあ、エルと同じように、私も装っていたからね。私たち二人ともこんななのだから、きっと親の教育が悪いんだろうね」
「まあ!」
「この温度感でもっとエルとたくさんお話しをしたかったな」
「どこかに行ってしまわれますの?」
「ちょちょっと隣国に嫁いでくるよ。学園でね、お隣の皇子様にプロポーズされたんだ」
「させた、の間違いではなくて?」
「物事には数多の側面があるからね」
「そうですか、寂しくなりますわね」
「私はこの国を捨てるけどさ、エルは大事な妹だから、それは覚えておいて欲しいな。それに私の考えが正しければ、最終局面で私の国の軍事力が必要になることがあると思う。いつでも言ってね。そのときまでには、皇国を掌握しておくから」
「お手紙を書きますわね」
「楽しみにしてる。あと、エルもそのうち学園でしょう? 私の部屋にあるものなんでも好きに使ってね」
「それは楽しみですわ」
「一つだけ忠告。当たり前だけど、学園にソフィ・フィリアがいる。ウォルツ家のね。エルとも在学が被るはず。彼女がなにか企んでるのは間違いないよ。エルと同じ匂いがするから」
「ならお姉さまとも同じ匂いではなくて?」
「あはは、そうかもね。ともかく、彼女には気を付けて。たぶんエルの敵になる」
「ご忠告ありがとうございます。お姉さまがそこまでいうくらいなのだから、本気で注意しますわ」
「うん。それがいいよ。おやすみ」
「はい、おやすみなさいませ」
隣国に旅立ったレミリア姉さまは、移動中の〝不幸な事故〟で死亡した。
もちろん調査はしたけれど、真相は不明だった。私は泣かなかった。涙を流すほど親しくはなかったから。ただ、数日間、ぼんやりと空を眺めて過ごした。
私がそうであったのと同じように、本当に姉も牙を隠していたのだと遺品整理をしていて気づいた。明らかに私だけに向けられた資料があった。
教会の腐敗、孤児院の人身売買、横領が明らかな貴族のリスト。
レミリアは、本当にこの国を変えようとしていて、途中で嫌になったのだろうなと思った。
胸に誓う。お姉さまの意志は私が引き継ぐ。何年先になるか分からないけれど、あらゆる手段をもって、この国を破壊しよう。
ただそれだと、現在の第二王子の婚約者というのは立場として弱い。王国の政策に鉈を振るえる身分があるとするのなら、それは第一王子の婚約者だ。すなわち、ソフィ・フィリア。いけすかない、ソフィ・フィリア。
彼女の社交界での立ち回りは、私以上のものだった。幼少期に懐柔を狙ったこともあるから、彼女の思想は知っている。「すべてを自分の思いのままに」というのがソフィ・フィリアのポリシーだ。
「エルミナ様、私とあなたは将来、姉妹になるのですから、仲良くしていきたいものですわね」
「ソフィ様の足を引っ張らぬよう、精進してまいりますわ」
「ところでエルミナ様はこの国がお好き?」
「好きそうに見えますか?」
「見えますわ。擬態がお上手なのね」
「ソフィ様にはかないませんが」
「私はこの国を破壊しようと考えています」
「それはまた、どうしてでしょう?」
「自分の玩具を壊すのに、なにか理由が必要ですか?」
「あなたが子どもだったら不要かもしれませんが」
「そうね。きっと子どもなのよ。レミリア様が、あなたのお姉さまがどうして亡くなったかご存じ?」
「いいえ。お父様もなんとも」
「あはは、いい子なのね。エルミナ・ファスタ様は」
「まあ! 疑問の提示がお望みなのですね!」
「あの馬車を襲撃するように命じたのは、あなたのお父様よ」
「信じませんが、なぜ、と聞いて差し上げます」
「きっと恐ろしかったのでしょうね、自分の娘が。レミリア様くらいのお人でしたら、単身でもスレイ皇国を掌握しうる。その武力がアルス王国を滅ぼすものだと、宰相様は信じていたようです。道中での事故ならば、むしろ嫁ぎ先に対して被害者面できるわけですから、逆にそこで始末しないのはリスク管理がなっていないと言われても仕方がないことですわ」
「なぜそんな、傲慢にもお父様のことを分かった気になれるのですか?」
「あなたのお父様が、私に泣きついてきたからです」
「…………こちらは我が国に八つしかない白銀等級の契約魔石です。契約に背くと割れます。わたくしはあなたに契約を望みます。エルミナ・ファスタ・ツー・グルナートの質問に対し、ソフィ・フィリア・ツー・ウォルツは虚偽の言動を働かない、受けますか?」
「受けますわ」
「レミリアの死は、ウォルツ家がグルナート家にその始末を依頼された結果の必然である」
「いいえ」
ソフィ・フィリアの手に握られた国宝級の契約魔石が粉々に砕けた。
「あらら、勿体ない」
ソフィ・フィリアは噓をついていない。
「……ソフィ・フィリア、あなたはどうしてこの話を私に?」
「私の行いを横で見る権利があるとすれば、それはあなただと思うから」
「馬鹿にしています?」
「だってエルミナ様は私と同類でしょう? 積み上げて積み上げて崩す、そういったことが愉快なのでしょう?」
「わたくしが愉快になれることがあるとしたなら、それはきっとソフィ様の汚辱にまみれたお顔を高いところから拝見するときかもしれませんわね」
「残念。フラれてしまいましたわ。わたくし、エルミナ様のそのすましたお顔が好きでしたのよ」
「腕の良いガラス職人をご紹介しましょうか? これくらいの頭部が入る大きさの」
「それには及びませんわ。もう準備しておりますもの」
というような会話を、ソフィ・フィリアとしたことがある。
こんなどうでもいい話を彼女がわざわざしにきたのは私への攻撃ではない。「事実が暴露されたかもしれない」と父の疑心暗鬼を誘うための攻撃だった。本当に陰湿で嫌な女。
だけど、ある意味でそれは私にとって明るい材料でもあった。ソフィ・フィリアの性質があまりにも悪であるがために、私が彼女を打倒しさえすれば、ウォルツ家は勝手に失墜するだろう。そうなればグルナート公爵家一強の時代を築け得る。つまり私が成し遂げるべき国家の解体のための最短ルートがソフィ・フィリアの打倒に集約されるのだ。努力するべき方向が分かりやすい。
それからは徹底的にソフィ・フィリアを調べた。
グルナート家に潜んでいたウォルツ家の密偵たちを全員尋問してから闇魔法に沈めた。
ソフィ・フィリアは白銀等級の土属性魔術師を抱えているらしく、王都のいたるところに秘密のトンネルを巡らせていた。私の思い描いた最悪の想像は、王都全体が同時に土の下に沈められること。
だけど、非合理的な彼女がそうするとは考えにくかった。なぜなら目的のために手段を選ばない私とは違って、彼女には目的もないからだ。だからこんな一瞬で破壊するような方法はきっと取らない。長く楽しく、すべての人間が苦しむやり方を好むのだ。
対ソフィ・フィリアのことを考え続ける日々の中で、唯一の安らぎはアルベルトから聞く「聖女サマ」に関する話題だった。
人身売買組織を撲滅させている。教会と連帯してスラムに食事を配っている。子どもたちに読み書きや豊富な知識を教えている。いくつかの変な発明をしている。適正価格でスラムの人々を雇用させている。
きっとその聖女サマは下層からこの国を変えようとしているのだろう。その行いは、高潔で、潔癖で、清廉潔白だ。きっと羽虫ですら、その手で優しく包み込んで、窓の外に放してやるのだろう。私とは真逆の存在。国を変えたいのは同じだけど、きっと私は彼女とは相容れないだろう。例えば彼女がソフィ・フィリアのような悪と対峙するとき、彼女はソフィ・フィリアを罰しないのではないだろうか。赦し、改心を信じ、祈る。
でもそれでこの国は変えられない。もしソフィ・フィリアを排除できたなら、その次に私が敵対するのは、聖女サマかもしれない。もっとも、彼女が本当に〈聖女〉だったらの仮定の上の話だけれど。
忘れていた頃に、公的な鑑定式があった。
私は自分が闇属性だと知っているからそれ以上の興味はない。
だからこの日の注目はもちろん「聖女サマ」である。
様子を見に行かせていた者たちはみな一様に「聖女」と「夜」の報告してきた。
「夜」が意味不明だ。
私も手続き上の鑑定式を屋敷で行う。教会全体が闇に染ま――――。
漆黒にのまれた教会内に、雨が降っていた。雨が月明かりを受けて鈍く光を反している。「雨月」、あるいは「雨夜」。そんな光景だった。
な、なんですのこれは~!
あまりに取り乱してしまい、うっかり聖女を呼びつけてしまった。
彼女が聖水晶に手をかざす。
建物内が星々が降り注ぐ夜になった。
「うつくしい」と思わず声が漏れる。
だけどこれで理解した。聖女にはおそらく闇属性もある。光と闇の葛藤が星夜として表れている。
そして私もまた然り。光と闇は一対の存在。聖女が闇魔法を使えるのであれば、闇魔法の使い手である私も光魔法を使えるということなのだろう。私の場合は闇の方が強いから、星にはならずに雨のように表現されたに違いない。
…………。
…………自分が聖女と同じ属性魔法を持っているというのは、存外衝撃だった。闇魔法とは、人間を傷つけるための魔法だ。だけど私にも微弱ながら、魔物をはらったり、人の怪我を治したりする力が与えられている。これまで積み上げてきた自己認識が書き換えられた気持ちだ。だけどこの気持ちをどう扱えばいいのか分からない。だから、グルナート公爵家の力で、聖女を私と同じクラスにした。
私は聖女からなにかを学べるだろうか。あるいは幻滅するかもしれないけれど。
その後、魔法演習の授業で交互に闇魔法を撃ちあった。
すごくすごく楽しかった。闇魔法自体が楽しいわけではない。幼少期から何万発と練習してきたものだから。だけどそれでもこの演習が楽しかったのは、ステラがいるからだ。彼女が私の闇を受け止め、闇を返してくれる。初めて魔法を使うはずなのに、随分と詠唱がさまになっている。これは魔法を媒介にした対話だ。
それから、彼女がウォルツ家に内偵を入れていることに気が付いた。ただの優しくて、疑うことを知らない、椅子に座って後から慰みを与えるだけの聖女サマではない。それは彼女の闇魔法に人間を壊そうとする意思が乗っていたことからも分かる。人間の愚かさと醜さを知り、探り、不幸を最小限に留めるために行動を起こせる聖女。彼女であれば、この狂った世界をあるいは、本当に正しい方向へと導いてくれるかもしれない。
だが一つ、不幸な点があったとすれば、密偵の気配を察知したソフィ・フィリアが計画を早めたことだった。
魔人の量産と王都崩壊。
私の用意していたソフィ・フィリア殺害計画よりも前に、先手を打たれる形になってしまった。
下町に魔獣があふれている。ロス先生の時間を割いてまでステラを呼びに行くように頼んだのはなぜだろう。
魔人に苦戦しているところに彼女がやってきて、聖剣を作り、お茶を淹れるくらいの手際で魔人を倒して見せた。
地下トンネルを遡上しながら、色々なことを話した。
頭の回転が速く、思想的で、機知に富み、話していて楽しかった。
この国を変えるのならば、それを彼女と二人で成し遂げたいと思った。
やがて、ソフィ・フィリアと対峙する。
「魔人は任せろ」と彼女がいった。六体もいるのに。
だけどここで必要なのは心配ではないと感じた。私はソフィ・フィリアを追った。
「こうして顔を合わせるのはお久しぶりですわね」
「そうですか? 入学式のご挨拶で随分と熱心にこちらを見つめられていたように思いますけれど」
「エルミナ様の美しいお顔が手に入るのが楽しみでしたのよ」
彼女が着座を勧めるので、腰を下ろした。
テーブルの間には紅茶とクッキー。部屋に窓がないことを除けば、立派なお茶会だ。
「喰め」
轟音。
テーブルの下から湧いた闇が、ソフィ・フィリアを飲み込もうとして、雷にかき消される。
「あらあら、まあまあまあ! グルナート公爵家のご令嬢ともあろうお方がなんてお行儀の悪い!」
「お茶会の席にソフィ様の魔法は少々うるさくて下品ではありませんこと?」
紅茶に口をつける。仮に毒が入っていたとしても、自分一人分くらいなら光魔法で回復できる。
「よろしければ、こちらもお食べになって。トレンドのテリヤキマヨネーズをクッキーにしてみましたの」
皿を前に出すその手先から、魔法が放たれる。雷は眼前でぐいと進路を変えて、闇魔法で装飾した私の右手に収まった。
「いただきますわ。なんというか、不思議な味ですわね」
ソフィ・フィリアが姉の仇だと知ったあの日から、雷魔法の対策を進めてきた。
雷魔法の弱点は二つ。連発が難しいことと、出力したあとの進路を正確に定められないこと。
火魔法が風にあおられて目標からそれるのと同じように、雷だって出力した後はただの現象だ。
荒天の日に観察し続けて推測された雷の性質は二つ。直進しないことと、その先端が引き付けられやすい物が存在するということ。だから誘導先を作ってやればいい。右手の薬指に嵌めたこのリングは、金属を高純度の魔石と混ぜ合わせた白銀等級の特注品だ。
「あら、なんだか焦げ臭いかしら。ごめんなさい、クッキーが焦げていたのかもしれませんわね」
一つ、誤算があったとすれば闇魔法の防御の上からでも右手を焼かれたこと。右手が燃えるように熱く、痛い。光魔法で治療するが、おそらく治るよりも次発の方が早い。数発受ければ、この手は一生使い物にならなくなるだろう。
「いいえ、お気になさらず。香ばしくってとても美味しゅうございますわ」
「ねえ、エルミナ様。やはりわたくしと一緒にこの国を壊しませんか? この状況でそんなに悪いお顔をできる方って、きっと他の国を探してもいないと思います。惜しいわ」
「ソフィ様は結局なにをなさりたいの?」
「あなたと同じですわ、エルミナ様。調べているから分かります。あなたは貴族中のお金をグルナート家に吸い上げて、それを平民に流そうとされているでしょう? つまり富とは蓄えるものではなく使用するものだと考えていらっしゃる。わたくしも同じですわ。強大な力、権力、暴力――呼び方はなんでもよいのですが――それらは行使されてこそ初めて〝それ〟足り得る。死が隣接しているからこそ、人間は日々に祝福を見いだせる。だからわたくしとしても仕方がなく、エルミナ様に財力があるのと同じように、わたくしは力を持っているから、仕方なしに人々のため、それを行使しているのです」
「お言葉ですが、別にソフィ様の暴力がなくとも、平民には常に死が付きまとっています。加えてそこにソフィ様の暴力を加えるのは、ただのやりすぎです。いくら香辛料で肉の臭みが消えるからといって、香辛料をかければかけるだけよい、というわけではないのです」
「ええ、それはわたくしも分かっておりますわ。だからここは貴族門の内側なのです。エルミナ様のおっしゃった通り、最も〝生〟への希求が少ないのは、安寧な生活の中にいる貴族ですから」
「はぁ……。わたくしね、なにか少し、ほんの少しなにかが違えば、あなたとお友だちになれていたような気がしてきましたわ」
「ね! そうでしょう? ね! わたくしたちって存外思想が近いのですよ。ご理解いただけて嬉しいわ」
「ですが駄目ですね。あなたは私の姉を手にかけた」
「まあ! エルミナ様のような高潔な方が、ただの縁者というだけで、特定の個人を特別視なさるの? 解釈違いですわ」
「おそらくはその差がわたくしとソフィ様のほんのわずかな違いなのでしょうね。わたくしは人を愛するし、憎みます。友情を感じることもあれば、憧憬することもある。ソフィ様はそういうのがきっとないでしょう?」
「確かにわたくしに人間に対する感情や感傷はありませんが、エルミナ様、あなたのことは大好きですのよ」
「それはおそらく、わたくしが唯一あなたに死の隣接を与えられる存在だからでしてよ。あなたがわたくしに求めているのは祝福。つまりは香辛料の部分。だからわたくしに対して露悪的に振る舞うのでしょう?」
「……そうなのかしら」
「ステラという聖女候補の子がいるでしょう? きっとあなたは彼女にもわたくしに対するのと同じ気持ちを抱くと思いますわ。彼女もまた、あなたを死に追いやることができるはずですから」
「闇属性同士の連帯感ですか? 気持ちが悪い」
「いいえ、ただの信頼ですわ。わたくしはステラとこの国を変えていく。だからあなたは不要なのです、ソフィ様」
「その理屈ですと、あの女が死ねば私が必要になるのね?」
テーブルがひっくり返る。闇魔法の障壁でソフィ・フィリアの行く手を阻む。
「行かせるわけがないでしょう。わたくしの矜持にかけて」
「友情! 信頼! 矜持! カスみたいなもんばっかぶら下げてんなあ!」
空間が轟く。
「~~~~っ!」
二本の雷を闇障壁で防いで、一本が右手に流れた。激痛が走る。右手が吹き飛んだかと思った。
「ディクレーエン!」
鳥の形を成した二つの闇塊が、高速で飛翔する。
ソフィ・フィリアがそれを雷で弾く。
「エラプティオ!」
弾かれた闇たちが、自ら爆発する。
「アクス!」
四散した闇一つ一つが針状に成形され、ソフィ・フィリアの目掛けて集束する。
雷。
雷を抜けた何十本かの闇針が、ソフィ・フィリアの身体を刺し貫いた。
「隣接!」
ソフィ・フィリアが雷を放つ。
「ディナハト!」
ソフィ・フィリアの足元から生えた闇が左足をもぎ取った。
こちらも右手が焼け焦げて使い物にならなくなる。
右手の指輪を外して、口で左手に着けなおす。
こうなったら消耗戦だ。互いに攻撃を撃ち続けて、最後に生きていた方の勝ち。
「シンプルで分かりやすいじゃない!」
幾度かの攻防を経て、私はソフィ・フィリアの四肢をすべて削ぎ落した。
両目を潰し、喉も切り裂いた。
こちらも右腕が肩から動かないし、全身の皮膚が攣ったように硬直している。
左手だって揺れるだけで信じられないくらいの激痛が走る。
だけど今はそんなことを言っている場合ではない。
形勢不利になったソフィ・フィリアは、それでも魔人を呼び戻さなかった。あるいは呼び戻せなかった。それはおそらくステラが奮闘していたから。
だけどステラが助力に駆けつけることもなかった。おそらくは魔人が奮闘しているから。
つまりはステラが現状かなり際どい戦いを強いられている可能性が高い。
それはそうだろう。なんといっても魔人が六体。王都の歩兵をすべてを動員しても勝てるか怪しい相手なのだ。
地下とつながっていたホールに足を引きずって走る。
心を許せると知った姉が、次に会ったときには遺体になっていた。
同じ目標に邁進できると思った友が、その日に死んでしまうなんて、私はきっとどうにかなってしまう。
いや、それだけではない。この国を壊す計画にはたくさんの困難がある。姉が投げ出した気持ちもよく分かる。短期的に見れば、おそらく何もしないことこそが最も良策なのだ。恨まれることはあれ、きっと誰も喜ばない。そもそも、発端は幼少期の父への私怨なのだ。大層な志があるわけでもなかった。きっとステラに出会わなければ、ソフィ・フィリアを倒したことである程度満足し、あとは小手先の策謀でこの国の妃にでもなって、安泰に凪のような人生を送っていただろう。
だけど、あなたは違った。
持たざる者でありながら、弱きを助け、変革を志し、力を身に着け、燃えるように生きていた。だけど一方で、どこかユーモラスで、広い視野があって、力の抜き方を知っていて、人生を楽しんでいるようにも見えた。
ああ、そんな風に生きられたなら、どんなに愉快だろう。あなたと一緒に生きられたならば、何事も為せるし、その過程ですら楽しんでしまえそうな気がする。
たぶんきっと、あの美しい星空を見たそのときから。
……~~っ!
「ちょっとあなた! 勝手に死なないでくださるぅ!?」




